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最後のストライク

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3部分:第三章


第三章

「この戦争、激しいですね」
「君もじきに行くんだろう?」
「ええ」
 彼は軍人らしい動きで頷いた。
「時が来れば」
 特攻隊にいるということはあえて伏せた。マネージャーもそれはわかっていたがあえて口には出さなかった。
「そうか、後ろのことは気にしないでくれ」
「はい」
「私もすぐに行くかも知れん。皆な」
「それも運命ですね」
 彼は強い声で言った。
「靖国で会うのも」
「そうだな、皆待ってる」
「そこでまた。野球ができれば」
「そこでも野球なんだな、君は」
 マネージャーはそれを聞いてまた顔を綻ばせた。
「大したものだよ。君にはどれだけ助けられたか」
「俺、野球が好きでしたから」
 石丸の声は優しいものになっていた。
「ずっとマウンドで。投げていたいです」
「そうか、ずっとか」
「ずっと。本当に投げていたいですね」
「それで私に出来ることはないかい?」
「マネージャーにですか?」
「そうだ。君がずっと投げていられる為には。私には何ができるかな」
 石丸を見上げて言った。野球選手である石丸と比べるとかなり小柄で貧弱な身体をしていた。だから彼を見上げる形となっていたのだ。
「今出来ることがあれば言ってくれ」
「じゃあボールを一個下さい」
「ボールをか」
「はい、新しいボールがあったら一個。なかったらどんなのでもいいです」
「何故ボールが欲しいんだい?」
 マネージャーは彼に尋ねた。
「俺、やっぱり野球しかありませんから」
 それが彼の返事であった。
「ボールは守り神みたいなもんです。だから最後の最後まで一緒にいたいんです」
「そうか、わかった」
 マネージャーはその言葉を聞いて頷いた。そして自分の机の中から一個のボールを取り出した。見れば新しい、綺麗な白球であった。
「これでいいかな」
「はい」
 石丸はその白いボールを受け取って頷いた。
「これがあれば他には何も要らないです」
「それだけでいいんだね?」
「野球は、まずこれからですから」
 石丸はその白球を握り締めて言った。
「これがあれば投げられます。俺は投げられたらそれで幸せなんです」
「わかった。じゃあサ安心して行ってくれ」
「はい」
 こうして彼は事務所を後にした。その手に白球を抱いて。この年沢村栄治が戦死した。伝説の剛速球投手も靖国に旅立ってしまった。彼の他にも多くの野球選手が戦場で命を落としていっていた。
 彼はその中で黙々と訓練を続けていた。来たるべき日の為に。昭和二十年三月十日には東京大空襲があった。これで帝都は完全に焼け野原となった。
「あんだけ賑やかだった東京がな」
 石丸は目の前の焼け野原を見て思わず呟いた。あちこちから煙があがり、道行く人々は皆汚れ、疲れきった顔をしていた。川には死体が埋め尽くさんばかりに浮かんでおり、道の端や家の焼け跡には人々の焦げて炭の様になった屍があった。東京は焦土となっていた。
「アメリカが本土に来たらこうなるんだろうな」
 隣にいた同僚がその焼け野原を見て言った。
「日本全土が」
「そうじゃろな」
 石丸はその言葉に頷いた。
「そうなったら何もかも終いじゃ」
「ああ」
「それは何とかせんとな。えらいことになる」
「御前、何処に行くんじゃ?」
「多分鹿屋じゃ」
 彼は答えた。
「そこで。死んで来るわ」
「そうか、靖国で会おうな」
「ああ」
 本当は別の場所に行きたかった。だが今は言えなかった。彼は死んでも別の場所に行きたかった。靖国に魂はあってもそこに行きたかったのだ。
 その一月半後で彼は鹿屋に行くことになった。目的は決まっていた。沖縄に攻めて来ているアメリカ軍に対して特攻を敢行する為であったのだ。
「多くは言わない」
 鹿屋にいる第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将は石丸達特攻隊の将兵に対して多くを語ろうとはしなかった。
「ただ。靖国で会おう」
 それだけだった。彼もその内面に苦渋を噛んでそこにいたのだ。平静なのを必死に装っていたのだ。
 皆死ぬのを待っていた。誰も多くは語ろうとはしない。それは石丸も同じだった。ただ、外の店で食べた卵丼が忘れられなかったのは覚えている。
「美味いな」
 彼もその卵丼を食べた。そしてこう言った。
「東京にもこんな美味いものなかった」
「美味しいですか?」
 それを聞いたその店をやっている老婆が石丸に声をかけてきた。
「兵隊さん達のお口に合えばいいですけど」
「いえ、そんなこと」
 この時代卵どころか米さえ満足には手に入らない。そんな中で作ってくれたものである。どうして美味くない筈があろうか。
 老婆が作ってくれた卵丼には心が入っていた。死地に向かう特攻隊員達を思う心が。だから彼はそれを食べて美味いと感じたのだ。この上なく美味いものだった。
「こんな美味いもの、東京でもなかったです」
「東京から来られたんですか」
「実家は佐賀ですが」
「ああ、佐賀」
「佐賀に美味いものはないですから。余計に」
 石丸は自嘲めかして言った。佐賀に美味いものなしとよく言われる。それは彼もよく言われていた。九州の間でもそれで馬鹿にされてきたものだ。その場であえてこう言ってみせたのだ。
 
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