狐、嫁入り、涙雨
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狐、嫁入り、涙雨
――悠久にも永遠にも似た限りある人生、でも思い出してほしい。それを見守る温かな存在があることを。だから、感謝の気持ちを忘れないで――
こんな毎日がいつまでも続けばいい。そう願うのは、あまりに女々しいだろうか。このことは俺―三条光騎(さんじょうこうき)―の目下の悩みだ。俺には彼女がいる。彼女の名は狐宮(こみや)一花(いちか)といって、俺には勿体ない程の美少女だ。小柄で華奢な体躯、ゆるく巻かれたセミロングの髪、瑞々しい唇、どれをとっても、護りたくなる……一花はそんな女の子だ。
そんな俺たちが付き合って一年が経とうとしている。狐宮と三条、話すきっかけは単純に出席番号順の席が近かったから、というものだった。先に話しかけたのは俺、内容は忘れてしまう程に薄いものだったが、それから俺と一花はよく話すようになった。
初めて会ってから一ヶ月、最初にデートに誘ってきたのは一花だった。行き先は映画館で、会話に挙がったことのあるドラマの劇場版を見に行った。それ以来、まだきちんとお付き合いしているわけでもないのに、俺たちはデートをしていた。端から見れば、とっくに付き合っているように映っただろう。それでも、まだ友達という考えでいた……と思う。
夏が過ぎてからは、少しずつ気持ちが揺れていた。どうして一花のような美少女が、俺なんかに親しくしてくれるのか。これといって特徴も長所もない平凡な俺にとって、一花は高嶺の花だ。付き合ってから初めてのクリスマスに、一度だけ訊いたことがある。その時の答えは、
「理由なんてないよ。それが本当の恋だし愛だと思うの。ただ純粋に傍にいたいんだよ」
というものだった。その実直さと恋する乙女の瞳に、俺は一花により一層惹かれたものだ。
おっと、追憶が長引きすぎた。今日は俺と一花が付き合って一年の記念で、運良く休日に重なったため、二人で出掛けることにした。秋めいた風が頬を撫ぜる。髪を整えながらポールの上のアナログ時計を見上げる。そろそろ時間だな。
「お待たせ、光騎くん」
「待ってないよ。さぁ、行こうか」
待ち合わせより15分早い……それでも、10分くらい待っていたけどな。まぁ、口に出すことじゃないし。それに、今日も一花の服装は可愛い。初秋を思わせる温かみのあるドレスシャツと黒のリボンタイ、スカートはチェック柄のフレアで、本当によく似合っている。俺は無意識に一花に可愛いと言っていた。
「ふふ、ありがとう。それと、光騎くんはいつも早いよね。いつも私が待たせちゃう」
「そんなことないさ。着いてスマホを出そうとしたら一花が来るからな」
「私、知ってるんだよ。君が私を待っていてくれるのを」
え……そうなのか。まぁ、いつも待ち合わせ場所は駅前だから、知り合いに見られているかもしれないよな。うん。その可能性は否めない。
「ふふ、光騎くんって、恋人らしい振舞いにこだわるよね。でも……そこがいいよね。あと、私の格好をいつも褒めてくれるのも」
頬を染めての上目遣い、抱き締めたくなる気持ちを抑えて、そっと指を絡ませた。ほのかに香る花の香りに心も安らぐ。
「彼氏として当然だ」
女々しくても気にしない、俺はこの日常が続くことを願う。
でも……この大切な日常が、足下から崩れ落ちる……。そんな日が来てしまう気がして、不安なんだ。
「けほっ、けほっ‥」
「お前、この時期になると体調崩すよな。去年もそうだった。季節の移り目ってやつか」
10月になり、学校の行事も楽しいものになってくる。だが、そんな時期に一花は体調を崩す。今日も風邪気味なので、俺が背負って帰宅中。というか、季節の移り目と言っても、春先や寒くなり始めは平気なのが不思議だ。一度降ろして体温を測る。
「ほら、顔も赤いし熱っぽい。今日は俺の家で休め。近いし薬もあるし。な?」
「うぅ……。顔が赤いのも体温が高いのも、君がおでこで体温を測ろうとするからだよぉ……」
「可愛いこと言わなくていいから。お互い独り暮らしなんだ。助け合いだろ?」
一過性の反抗期のせいで、俺は両親と疎遠になっていた。お互いに堪え性がないらしく、親父は海外転勤を機に、母を連れて出ていった。一軒家に独り暮らし……。せめて兄弟でもいればなぁ……。まあ、一花が妹みたいな感じもするけど。
「……だから、もっと恥ずかしいのに……」
再び一花をおんぶするときに呟かれた言葉は俺には届かなかった。
「入るぞ」
自宅の客間に敷いた布団で、一花は横になっている。去年の看病を教訓に、一花の着替えやパジャマが何着か置いてある。通い妻みたいと一花は言っていたが、いっそ同居したいというのが願望なのか? さすがに……それはないか。そういえば、一人暮らしなのは知ってるけど、一花の家がどこか知らないな……。両親のことも……。まぁ、詮索と束縛は彼氏として、してはいけないことだから、しないけどさ。
「ゆっくり寝ていろよ。今、お粥作り始めるから」
そう言って俺が一花から離れようとすると、ぎゅっと袖を掴まれた。
「行かないで」
「でも、なんか食べて薬を……」
「君の側にいられれば……それが一番」
風邪のせいか頬は赤くて瞳は潤んでいる。庇護欲をそそる可愛らしさに、俺はこの場に留まる選択をした。
「添い寝……してくれる?」
「勿論だ」
一花の髪を梳きながら寝顔を見守る。あどけなくて無垢な寝顔を見ていると、俺まで睡魔に襲われる。睡魔には無理に抗わず自室から枕を取ってくる。そうして俺は一花の隣で眠りに着いた。
これは夢だと分かる夢がある。例えば、目の前に自分がいるとか。今、俺の目の前に五年前の自分と当時の俺が助けた幼い狐がいる。これは確か亡くなった爺さんの山か。自分の身体は自分の意志で動ける。ならば、幼い狐に着いて行こう。崖上から落ちた幼い狐、脚に怪我をしていた狐を看てあげた。怪我が完治してから、山へ帰した時の光景が目の前に広がっている。俺と別れた幼狐は森の奥へと進んでいく。親に会いに行くのだろうか。そんな俺の予想は異なった。紅葉に染まる山の奥に進み、そして大きな朱塗りの社に着いた。
『宇迦様! いらっしゃいますか?』
『どうした? 幼き狐よ』
幼い狐と人ならざる存在の会話。不思議なことに理解できた。
『私を……人間にしてください! 人間になって感謝を伝えたい方がいるんです!!』
『ならば我が力の届く限り、汝に人としての生を与えよう。今より汝の名は――――』
「起きた?」
あ、知らぬ間に外が真っ暗だ。まぁ、この寒い時期となると夕方でもかなり暗くなっているが。
「私……夢を見ていたの。君と、初めて逢った日の夢を」
「まさか……俺の見ていた夢は……」
漠然と感じたことが、一つの事実として認識される。だが、そうあってほしくない願望が俺から言葉を奪う。
「私ね、本当は……狐なの」
そんな俺の戸惑いとは裏腹に、唐突に告げられた一花の言葉。驚く俺を置いて、一花は話し続ける。
「私は君に助けてもらった狐なの。どうしても傍にいたかった。だから、狐の神様にお願いして、この姿になれるようにした。でもね、神無月になって神様がこの土地を離れていると……力が足りなくなっちゃうの。去年は頑張れたけど……。今年はダメみたい……。ごめんね。それに、今までありがとう。すごく幸せだよ、私」
今年はダメって……。深く考える前に、どういうことだと一花に尋ねていた。
「死んじゃうわけじゃないよ。でも……この姿にはもうなれないし、光騎くんには見えなくなっちゃう……」
もう会えない……のか。手を繋いだり、一緒に出掛けたり……できないのか。一花がいない世界を……生きるのか。……俺は。知らず知らずのうちに、外には雨が降っていた。……天気雨が。
「狐の嫁入り……だね。あーあ、光騎くんのお嫁さんになりたかったのに……。あのね、最後に……して欲しいの」
「最後だなんて言わなくていい。何だってするから」
「じゃあ、キス……して」
「あぁ……大好きだ、一花」
優しい口付けが光に溶け、二人を包む。永遠のような僅かな時を、心に刻むために。
あれから、何年が経っただろうか。俺の隣で桜を楽しむ女性。"三条"一花その人だ。長い黒髪を一つに結い、優しげな笑顔を浮かべる。銀の指輪が光る左手は、新たな生命を抱く自身の腹部を撫でる。
初めてキスをした直後、出雲から忘れ物を取りに戻ったという宇迦之(うかの)御魂(みたま)神(かみ)様――一花が頼み込んだ狐の神様――が、我が家に立ち寄ったのだ。驚くことに神様自ら、一花を人間として呼び戻して下さったのだ。何度お礼を言ったことか。それからは、いつも通りの生活に戻った。いや、いつも以上の日々だった。もう10月に体調を崩すこともなくなり、健康そのものだった。高校を卒業すると、同じ大学へ進学し、同居を始めた。
結婚をする際に、俺は両親と仲直りをした。親父には、結婚式の費用まで出してもらった。感謝してもし尽くせない。しっかり働いて返していこうと思う。一花には両親がいないので、伏見の稲荷大社に挨拶に行った。あちこちの社に訪れる宇迦様がいる可能性が一番高い神社だ。とはいえ、姿が見えるわけでも声が聞こえるわけでもない。それでも、祝福してもらえた気がする。
そうして今日も、温かくて平穏な毎日を送っている。優しい優しい神様が見守ってくれるから。
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