猫の憂鬱
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第2章
―4―
床に寝られるのも邪魔極まりないと、ガムテープで木島を椅子に固定した課長は秀一を見た。
「セグウェイは無いのか?今日。」
「先生に、此処で乗ったらあかん、て云われました。」
何故?と聞くと、貴方が憤死をする前に俺が死ぬから、と訳判らぬ理由を云った。
歌が下手な事位、自分自身が一番良く知っている。そして、怒らせて良い人間と悪い人間が居るのも判る。
課長と宗一は正に秀一の全人生の中で怒らせてはいけない、唯一傅く人物である。
宗一を怒らせたら精神病院に戻され、一生世間には出られない。課長を怒らせたら人生其のものが終了する。病院に帰る所か土に還る。
俺はサイコパスじゃない、善悪の判断位存在する。あの精神科医は信じて居ないみたいだけど…。
秀一はニッコリ笑うと課長を引き攣らせ、置かれた珈琲に口を付けた。
秀一を従わすのは、危機感でも恐怖感でも無い。
信頼……唯其の一言に尽きる。
宗一は自分を信じ、自分をあの場所から出してくれた。話を聞こうともしない人間の中で唯一耳を傾けてくれた人物。
課長も同じだった。秀一を見、たった一言、此れ又毛色の凄い猛獣を見付けたな、調教のしがいがありそうだ、そう云った。云って、真紅の液体を喉に流した。ライオンが血を飲むように。
猛獣を調教するのに必要なのは鞭じゃない。かと云って愛情でも無い。信頼関係、其れに尽きると課長は云った。
恐怖を与えれば不信感しか持たない、愛情を与えれば甘えしか出ない、絶対的な主従関係は信頼で出来る。何で狼がアルファに従うか、絶対な力があるからだ、即ち其の力とは、絶対に自分達を守ってくれるという信用がある、だから皆従う。
世の中はサバンナだ。強い者が生き残る。自分に力が無いと思うなら、強い奴に付け。そうして其の力を自分の物にしろ。次の王になるんだよ。誠の権力者に付くのは信頼だ、偽りの権力者にはイエスマンしか付かない。
ワインを流す其の姿は、美しい獅子に見えた。
其の言葉を聞いた秀一は、出された一ヶ月間大人しくしていた。今此処で変わらなければ、自分は敗者になる。此の世の中で生きるには、力が必要だと計算した。
一ヶ月我慢した記念と、秀一のセグウェイを買ったのは実は課長である。百万もする物をあっさり買い与えるなんて御前甘いんじゃないかと課長は宗一に云われたが、信頼を得る為には偶に甘やかさないと、と笑った。
何故セグウェイかと云うと、課長の愛車ZX-11を見た秀一が、漏らしそうな程格好良いと云った。欲しいならやるぞと云ったのだが生憎秀一はバイクの免許を持って居なかった、代わりに何が欲しいと聞いたら、小泉首相が乗ってた変なメカ、と云った。
何だ其れは。一国の首相が乗る変なメカとは一体なんだ、トランスフォームでもする気なのか。
宗一も課長も其れが一体何なのか判らなかったが、秀一が云った、歩くより早くて自転車より遅いウィーーンってヤツ、と其のメカ(?)のキャッチコピーを云ったのでセグウェイだと判明した。
あっさり買った課長に、あらリッチなのね、と宗一が嫌味云うと、年収五千万オーバーの外科医に云われたくない、もう違うもーん貧乏やもーん、と喧嘩を始めた。
因みに宗一、其の年収を捨て、年収一千万も無い科捜研に応募した秀一以上の変人である。
まさか受かるとは思わなかったのだ、宗一自身も。
貴方が医学界から居なくなる?冗談じゃない、死者を増やす気かと散々云われたが、受かってしまっては仕方がない。警視庁側も警視庁側で、なんかとんでもない神様って呼ばれる外科医が受かっちゃったんだけど、此れ医者側から、神様取ったとかで告訴されないよね?と混乱した。なので、せめせ、嗚呼せめてもの償い、此のような事で許されるか判らないが、科捜研のメンバーを貴方が選んで良いと提示した。
病院を歩けば、先生先生と医者と患者が群がり、大学を歩けば、教壇に立てば、神様見たと生徒が失神し、患者も患者で、先生に執刀して頂けるとはもう死んで良いと本末転倒な事を云う。
其処迄凄い医者なのである、菅原宗一と云う外科医は。そして、変人である。
そんな男を顎で使うのが課長。
そんな課長に誰が反抗出来るか、秀一ですら無理なのだ。セグウェイも買って貰った事だし。
「まあ、此処通路狭いし邪魔ではあるな。」
「和臣轢けるのにね、課長さん。」
「轢くな!」
「残念だな。」
覚醒した木島に気付いた課長は、木島の身体からガムテープを外し、木島を轢くのは又今度にしよう、と課長は其の儘ホワイトボードを引き寄せた。
何も秀一、無意味に此処に居る訳では無い。妻の胃の中から出て来た結果を報告する為、宗一と一緒に来た。
妻の遺体を確認し終わった宗一がパソコン片手に現れ、其の目付きの鋭さに皆唖然とした。
宗一の目はゴールデンレトリーバーを彷彿させる優しい垂れ目で、此処迄鋭いものでは無い。此の儘メスを振り回し、辺り一面血の海にしても違和感無い、龍太郎そっくりの目付きであった。
「此処て、煙草吸ってええの?」
「おい垂れ目、あの貼り紙が見えんか?老眼が進行したか。」
室内禁煙、と書かれた張り紙を指す課長だが、目の前の木島も井上も、龍太郎も煙草を持って居た。
「本郷、此処って禁煙らしいよ。」
「知らなかった…、拓也、知ってたか?」
「コンタクト付けてる筈なのに何も見えねぇな。うわ、目の前に家鴨口でボブカットの邪悪な男が居る。やだ、怖い龍太。」
「恐ろしい。屹度修羅だ。見るんじゃない。」
「おやまあ嫌だ、此方を見ないで頂きたい、木島さん。ワタクシのスーツを汚すだけでは無く、心迄も汚すおつもりですか。なんと、野蛮な。全く全く。」
先刻木島に珈琲吹き掛けられ汚れたジャケットを触り、忌々しい目で加納は木島を見た。
「課長、部下からの苛めを苦に自殺してしまいそうです。」
「…へえ!赤飯炊くか。」
課長、面白い事が起こると、裏返った声で、…へえ!と関心する。
「和臣って、何処行っても苛められるな。」
「待って待って、其れじゃまるで俺が、ずっと苛められてるみたいじゃないか。」
秀一の言葉に木島は反論したが、課長が、此の中で木島苛めた事無い奴挙手、と云ったら一本も上がらず、逆に木島から苛められた奴、又其れに対し自殺したいと思った奴、と聞いたら、全員が万歳をした。国を上げての万歳三唱である。龍太郎に至っては二本では足りない、其れこそ修羅でも召喚したい所だ。
「一寸待って、皆酷くないか!?何で加納迄上げてるんだ、下げろよ!」
「ベンツが悪趣味だと、批難受けました。ワタクシの心はボロ雑巾で御座います。修繕不可能です。涙で枕が乾きません、何時も生乾きで若干臭いです。」
「悪趣味だろうが、如何考えたって!そんなの知らんわ、御前は臭い。何でか知らんが臭い。フレンチポテトの臭いがする。食欲が増すんだよ、馬鹿野郎。お陰で御前が来た六月から二キロ太ったわ。」
「ほら又、ワタクシの心を、其の汚い靴で踏み躙る。ワタクシの心は粉々です。中年太りをワタクシの所為にしないで頂きたい。」
「眼鏡粉々にするぞ、能面。誰が中年だ。未だお兄さんで通るわ。」
「三十代は立派な中年ですよ、お馬鹿さん。お兄さんはワタクシで御座います。」
なんせ未だ二十五ですから、と加納はせせら嗤った。
どさくさに紛れ煙草を吸っていた宗一は加納の年齢に驚き、秀一迄も驚いた。
「え?能面二十五なの?」
「能面二十五って…」
「怪人二十面相みたく云うなよ…」
「江戸川乱歩な。流石、猫目の坊や。すぱっと出て来る所が凄い、俺も同じ事思った。」
「ナイス。」
木島と宗一は二人で何故か盛り上がり、秀一は加納に近付きまじまじと見た。
「能面、如何した。」
「何がです…?」
秀一の視線の先、目の前で見る龍太郎は、若しや、と思った。
「如何したんだ、本当。」
「ですから、何が…」
「何でそんな禿げてんの?」
矢張りそうか、と龍太郎は慌てて口を塞ぎ、マグマのように噴き出しそうな声を必死に抑えた。
「はい…?」
「はい…?じゃなくて、二十五で其れって、本格的になったら如何なるんだ?」
如何なるもこうなるも、加納にも判らない。
目の前の龍太郎はもう無理だと顔面を押さえ、加納を見ないようにした。
見たら最後、其の頭に笑いが止まらなくなる。
井上はぽかんと二人を見上げ、木島は馬鹿がと唖然とした。流石の木島とて、其処には触れないで居たのに。
「あは…っ」
甘い喘ぎ声、本当に色っぽく、なんだ此のセクシー女優みたいな声、と全員声のする方に向いた。腹を抱え、俯き、課長が必死に笑いを堪えていた。
「んふ…っ」
「よしよし、おもろいな。」
「駄目だ…、其れは突っ込んじゃ、駄目…だ…」
「酷いなぁ、御前。能面に加え禿げって、激しいなぁ。身体張ったギャグ、御見事だ。久し振りに笑った。」
拍手をする秀一に課長も龍太郎も限界を越え、木島は其の笑い声を聞き乍らゆったり煙草を蒸し、加納の表情に井上は外方向いた。
青白い血管が青白い額に浮かび上がり、じっと秀一を睨んだ。
「どうもこうも、しておりませんよ。」
「さっき和臣がフレンチポテトの臭いがするって云ったよな。其れ、頭だよ。油分が多いから頭皮が呼吸出来なくて、御前は禿げてるんだ。枕が臭いのも其の所為だ。」
そんな臭いがするのは事実だが、云ってしまった事を木島は後悔した。馨しゐニホヒだね、名の通りに、とでも云ってやれば良かった。
然し誰が思う、秀一がこんな事を云うと。
加納が異動で来てから五ヶ月、誰一人として、例え裏でも、其の事には触れなかったのに。
逸そ清々しい、特に頭が、と云わんばかりの加納の表情に、龍太郎は漸く笑いが収まり、然し課長は未だ宗一から宥められている。
そら貴方には関係の無い事でしょうね、枝毛を気にする程なのですから、と龍太郎は無心で課長を見た。
「長谷川 博士。」
「化学の力で何とかしてやろうか。」
え?と全員思い、如何するのだろうと秀一を追っていたら、白衣のポケットからコンビニのお握りを取り出し、ビニールを取ると辺りを見渡した。
「課長、糊、無いですか?」
「もう止めてんかぁ!課長が死んでしまう!」
「何だろうなぁ…、嗚呼、もう色々何かが見えて来た…、此れが、窮地か…、此れが、真理か…!素晴らしいな、化学って!」
「そうでしょう?幸福の科学よ。」
「いや課長、此れ化学関係無いですよ、落ち着いて下さい!」
「然も其れ宗教だぜ、博士!」
「おい誰か橘さんと時一先生呼んで来い、秀一がしようとするのは物理的宗教だ。」
海苔を糊で付けると云う、最早物理ですら無い。宗教も一切関係無い。
糊は生憎出して貰えなかったが、剥き出しのお握りを頬張る秀一は、其の儘ぺしんと加納の額に持っていた海苔を押さえ付けた。
「暫くしたら脂でくっ付くよ、フレンチポテト。」
「長谷川博士、あのですね。」
「可哀想に、毛髪と引き換えにIQを授かったか。毛根の死滅より頭脳を選んだか、素晴らしいよ。なのに俺より馬鹿で可哀想。俺はふさふさなのに。」
「ですからね、博士。」
「全部差し出せば俺を超えるんじゃないのか?」
「ワタクシは禿げでは御座いません。」
「河童みたいな髪型して何云ってるんだ。あ、御前妖怪か。能面河童。くっ付いたかな。」
「ワタクシは、若干、人より、二十五にしては、毛が少ないだけです。ボリュームが乏しいだけです。断じて禿げでは御座いません。」
「だから世間では其れを禿げって云うんだろう。オブラートに包んだ所で、海苔が関の山だな。おし、くっ付いたぞ。なんか、座敷童見たくなったけどまあ良いか、最近妖怪流行ってるし。」
子供に人気出るぞぉ、と秀一はお握りを食べ終わり、其の手を加納のジャケットで拭いた。
「御返しだ、フレンチポテト。」
此の間電気を流した其れのな、と赤い舌と矢鱈尖った犬歯を見せた。
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