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猫の憂鬱

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第2章
  ―2―

利き手を聞くだけであるから電話口でも構わないかなと一度は思ったが、妻の性格や交友関係も把握しておこうと、約束を取り付けた。自宅は未だ立ち入りを許可されて居ない為、自宅の近くにある喫茶店を指定された。然し、四日後の金曜で、と云う事だった。
「本当、妻が死んで迄も仕事仕事で、我乍ら呆れますが、妻は警察に居りますし、私の方も納期がありますので。」
妻の遺体は、宗一が見たいからと未だ警察の遺体保管室にある。
夫の雪村が云うには、月曜から木曜迄出張先の現場に居り、金曜の夕方に帰宅し日曜迄過ごす、そして月曜から又現場に行く。依って妻が発見されたのは、金曜の夕方である。
監察医と宗一の意見は同じで死後三日、月曜の夜から火曜の朝方に死んで居る。宗一は今、正確な時刻を割り出す作業をして居る。
妻の性格や交友関係は金曜に聞く事にして、今は八雲の望んだ事を聞いた。
「家内ですか?家内は、右利きですよ。」
其の言い回しに引っ掛かった龍太郎は、因みに貴方は、と聞いた。
考えた通り左利きであった。
「有難う御座いました、此方に戻られたらお知らせ下さい。」
「判りました。」
電話を切った龍太郎はふっと木島に向いた。
「木島さん。」
「何だ。」
「一寸付いて来て貰えませんか。」
「何処に。」
「雪村の自宅です。」
龍太郎の言葉に全員が訝しんだ。
龍太郎の相方は井上であり、龍太郎本人も木島とコンビネーションを組むのを酷く嫌っている。
「俺は?」
相棒差し置いてなんでよりによって木島を指定したのか、井上の不満は当然である。
「拓也が良いんだが、御前じゃ無理なんだ。」
「如何云う意味よ。」
「あの家、猫が居たろ。」
「あー、うん。」
「発見した日から雪村、自宅に帰ってない。放置されてる可能性が高い。」
動物を苦手とする井上と雪村邸に行き、若し居た場合、井上では役に立たないと判断した。だからと云って、加納は扱いが判らない。消去法で木島しか残らなかった。
二年、嫌々乍ら、胃潰瘍と戦い乍ら相方をしていた訳では無い。
木島の扱いが一番上手いのは課長であるのは当然だが、次に誰が上手いかと云えば其れは龍太郎である。
「俺は高いぞ。」
「何がお望みです。」
「明日一日、俺の奴隷になって貰おうかな。」
「そんな事で良いなら。」
明日一日木島の奴隷だからなんだ、二年も奴隷であった、今更一日奴隷であろうが何とも思わない。何なら今からでも構わない。
猫目を細くした木島は頭の後ろで組んでいた腕を解き、椅子に掛かるジャケットを取った。
「よし、行くぞ奴隷。」
「はい…」
結局今からであった。
龍太郎のタイを引っ張った木島は其の侭部屋を出、其の様は嫌がる大型犬を無理矢理散歩に連れて行っている感じであった。
「待って、胃薬…」
「聞かん。」


*****


初めて雪村邸を見た木島は、建築家ってそんなに儲かるのか、と紫煙を流した。発見から三日経った事もあり、警察の姿は無い。代わりに立ち入り禁止のテープが門に貼られている。
潜った二人はドアーを開き、饐えた臭いを鼻に感じた。
「臭いが染み付いてるな。」
「死後三日ですからね。」
「如何せ死ぬなら、旦那が帰宅する当日か前日にすれば良いのに。娘に何を見せてるんだよ。」
木島の何気無い一言に、今更乍ら木島の着眼点の違いに関心した。
死後三日、猫はずっと、妻の死体を眺め、過ごしていた。一人で鳴き乍ら、雪村が帰って来るのを待っていた。
そんな猫を放置し仕事に行くとは思えないが、あの日、雪村が猫を抱いて家を出た記憶が無い。調べ終わる迄自宅には入れないと云ったのは龍太郎本人で、だったら暫くホテルに居ますと出張用の鞄を持った。
唯、其れだけだった。
猫の事等眼中に無いように雪村は家を出た、そして一時間程署で話を聞き、ホテル迄送った。
其の時一言も、猫について触れなかった。
愛情はあるのだろうが、余所余所しいと云おうか、変に淡白であった。
ネェ…。
聞こえた其の声に龍太郎は視線を向け、矢張り居た。
縫いぐるみみたいな体躯でじっと龍太郎を見上げ、リビングに繋がる廊下端に猫は居た。
「本当に居る。」
云って木島はしゃがみ、猫に手を伸ばした。人懐っこい性格なのか、龍太郎に会った時と同じように指先を嗅ぎ、そして身体を擦り付けた。猫は其の侭太い尾を木島の顔に擦ると又、ネェ…、と木島の後ろに立つ龍太郎に話し掛けた。
「なんだ?」
龍太郎が少し身を屈めると木島の時には鳴らさなかった喉を鳴らし、足の間を何度も往復した。
乾いた空気、饐えた臭い、家の呼吸も人間の呼吸も無い場所で猫は呼吸をする。其の緑色の目で、じっと乾いた空気を眺める。
科捜研側が今朝か或いは昨日来たのか、トイレは綺麗に掃除されていた。カウンター式のキッチンを覗くと、其処が猫の食事スペースなのか、黄色いトレイの上に黄色の汚れた食器が置かれていた。
ガササ、と音がし、何事かと視線を向けると、自動で食事を補充する機械の補充音であった。猫は其れに近付くとカリカリと小さな音を立て食事を始めた。
金曜迄未だ日がある、其の間にもう一度来るからなと食事をする猫に云うと、ネェ…、と愛らしく鳴いた。


*****


「右利きやて、先生ぇ。」
午後七時、何時迄経っても来ない八雲に業を煮やした龍太郎は宗一に電話を掛け、夕方に来るんじゃなかったのか?と散々文句を云った後に、利き手を教え電話を切った。
完全に忘れていた。そう云えば夕方行くとか云っていた、自分で決めて起き乍ら無責任だが。
然し、八雲の辞書に責任と云う言葉は無い。本郷さんから電話、と宗一から電話を受け取って思い出したのだ。
「右利き…」
宗一の声に、やっぱ?と八雲は聞いた。
「不自然やな。」
「よなぁ。」
「右利きだとしたら、ネクタイの結び目が逆だ。」
パソコン画面にタイの写真を写し、拡大して凝視した。八雲は便箋を眺め、跳ね方が違う、と云った。
「本人が見ても自分の字やと思う程精巧や。けぇど。」
俺の目は誤魔化せない。
頬を盛り上がらせ八雲は笑い、便箋を鼻に付けるとゆっくりと引き上げた。
便箋が抜けた後に見えた虎の目、狩りを始める前とでも云おうか、興奮と楽しみが混ざった色をしていた。
「先生。」
興味の無い事にはとことん無頓着なのは何も八雲だけでは無い、秀一も又同じ性格で、蛇の其の目は鋭く、黒目を萎縮する程興奮していた。
「胃の消化物。とんでもない物が出ましたよ。」
一枚の植物の画像、見た宗一はヨモギ?と聞いた。
蛇の口角が吊り上がる。
ヨモギに姿形が酷似した猛毒。
「そ、トリカブトです。トリカブトのデータが分析に出ました。」
分析結果を見た宗一は、何故こんなにも死亡推定時刻に開きがあるのかパソコンを動かし、監察医の結果を何度も見た。
「やっぱり、そうや…。」
導き出た答えに宗一はキーボードの上で手を握り、此の犯人の残酷さを直視した。 
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