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Holly Night

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――零章――
  始動

ヘッドフォンを付けていても背後のドアーが開いたのは判った。肩に落としたヘッドフォンから激しい音が聞こえる。
「難聴なるぞ。」
音を止めた時一は椅子を回転させ、ドアーに立つ男を視界の中で緩ませた。
宗一(そういつ)じゃないか。」
「お久しー。」
デスクライトとパソコンの明るさ、どんなに音を大きくしても自分の息遣いしか聞こえない部屋に靴音が絡む、時一は男がソファに座るのを確認すると立ち上がった。
「痛…」
左側にあった段ボールに足がぶつかった。普段は無いのだが、夕方に配達され、机に乗せるのも邪魔だからと床に置いた。机の上しか照らさない明かりは、足元を不安にさせる。
「気ぃ付けろや。」
「珈琲ですか?お茶ですか?アルコールですか?」
「バイクだから珈琲。」
「え?京都からバイクで来たの?」
「ちゃうよ、誰がそんな苦労して迄来るか。普通に飛行機で来たよ、関空から。」
「新幹線って知ってる?」
「知らん。」
珈琲、といってもインスタント、ポットは有能な秘書のお陰で常に満タンだ。マグカップに粉末を入れ、ポットのお湯を入れた。此れで珈琲になるのだから不思議だなぁ、と時一は思う。
受け取った宗一は飲み乍らデスクに向かい、パソコンの画面を眺めた。
「何や此れ。」
「変な人見付けたから、観察日記付けてるの。」
「御前の周り、変な人しか居らんのと違うか。」
「嗚呼、宗一の事ね。知ってる。」
二人は無言で見合った。腰を曲げ読んで居た宗一はきちんと座り、読み進めるに連れ、うわぁ稀に見る変人、と嬉しそうに紫煙を燻らせた。
「なんや此奴、すーごい頭やな。」
「何の用?」
宗一の言葉を無視し会話を続ける時一に、何故皆俺に会った開口一番が“何しに来た”なんだ、と不貞腐れた。
「頼みがあんのよ。」
椅子を回転させ、組んだ膝の上で手を組み、宗一は時一を見た。
「今度の三月、試験受けて欲しいんや。」
「何の?」
宗一が我が物顔で椅子に座って居る為、時一は立った侭腰を曲げキーボードを叩いた。
「科捜研。」
其の言葉に腰を伸ばし、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「科捜研?あの、科捜研?」
「そ、あの科捜研。」
煙と一緒に珈琲を飲み、短くなった煙草を時一に渡した。親指と人差し指でフィルターを摘み、一口吸った時一は消した。
「何で?」
「メンバー入れ替えてええて云わはったから。」
「あんた外科医でしょうが。」
「科捜研の法医、受かったんよ。だから、御前を心理で受け入れたい。」
かちりとライターが鳴り、明かりの具合か、矢鱈濃厚な煙だった。
「受けてくれるか?菅原先生。」
口元をマグカップで隠し、強調された垂れ目に時一は溜息を一緒に顔を逸らした。
「入れ替えるって事は、残りの文書、物理、化学が要るけど。」
「物理はもう決まってる。受かったら。」
「手の早い男だな…」
呆れる時一の声を明るい笑い声で吹き飛ばした。
「違うのん、俺四月から東京行くからぁ云うたらな?そんなん俺認めませんからあ!てすーごいのん。ほんで、三月の試験受けるて聞かんのよ。ストーカーや、彼奴。手は出してない。」
「誑かしてんだから一緒じゃん。」
「なぁにを人聞きの悪い。まるで俺が、無節操なホモみたいな言い方しおって。」
「まさに貴方は無節操なホモでしょうよ。」
え?と宗一は耳の前に手を当て、しっかり耳を塞いだ。
「何て何て?誰が格好良いて?」
「いやもう良いや。」
貴方は生き様と信念が格好良いだけで、顔は決して格好良い方では無いから、と心で続けた。云われなくとも宗一自身が一番良く知って居るが。
「で?」
「で…?」
「あんたが其の話を僕に持って来たって事は。」
時一はカルテの並ぶ棚に向かい、鍵の掛かる引き出しの取手に触れた。カツカツと爪を引き出しに当て、宗一の言葉を待った。
時一を追うように椅子を回転させた宗一はニンマリ笑い、背凭れに全体を預けた。
「此奴は、出せない…」
「出したりな、可哀想やないか。」
「出せると思うのか、あんな危険人物!」
「全てを入れ替える、ゆうたやろ。」
立ち上がった反動で椅子は揺れ、取手を握る手を掴んだ。
「出せ。」
「無理だ…。無理だ、彼は出せない!」
「俺が、決めるんだ。」
宗一の目に時一は手を離し、されるが侭白衣のポケットから鍵を奪われた。
引き出しを開けた宗一は、引き出し一杯に詰まる男の情報を取り出し、ソファの前のテーブルに乗せた。ソファに座り、全ての情報を三十分程で頭に叩き込んだ。
「電気持ち歩いとるだけやないか。」
「其れで他人に危害を加えるんだよ。そして其の状態を見て喜ぶサディスト。水槽に鼠落として、電気流して感電死させるのが趣味。社会に離して放置したら、人間でするぞ。其の内。」
「電気取り上げたら。」
「猛獣と化するよ。一度取り上げたら病室メチャクチャにしたんだ。ベッドはひっくり返すし、シーツは切り裂くし、枕と布団は中身が出てたね。壁にも穴開けた。だから彼の病室は全て絶縁体、木にしたら電気で火災を発生させたから。ドアーノブに電気仕込んで感電させるから、ドアー迄来れないように足繋いでる。」
宗一は其れだけ聞くと立ち上がり、時一を置いて部屋を出た。
「一寸、一寸本気!?」
無言の宗一に時一は言葉を投げるが届かず、エレベーターに乗り込むとボタンを顎でしゃくった。
宗一の欲する男がどれ程危険か、時一が医者となり、初めて恐怖を覚えた人物。男が他人に与え、教えるのは恐怖と苦痛。時一とて何度も電気を流された。

御前、右目に電気流してやろうか。

嗄れた声に重なる金属が擦れ合うような不愉快な笑い声。

そしたら全盲だ、傑作だ。

左顔を隠す為に垂らす前髪を掴んだ男は、何も映さない時一の左目をじっと見詰め、ニヤニヤ笑っていた。

熱いぞ、眼球に電気が来たら。

眉尻に走った痛みと熱さに時一は腕を振り、突き飛ばされた男は愉快、満足、欲を満たした事に大笑いした。
男が呼吸する度時一の息は詰まった。がりがりと息苦しさに首筋を掻き、男は自分を睨み付ける時一に余裕で小首傾げ見せた。

御前も入院したら?悪くないよ、隔離される生活も。

高らかと笑った男は電気を自分自身に流し、不自然に黒目を動かした。

――あんたさ、無能なんじゃないの、薬ちっとも効かないじゃん。
――吐き出してるから効果が無いんだろう!
――おかしいなぁ、さっき点滴打ったのになぁ。昨日も打ったのになぁ。ねえ、何で?此の二年で薬漬けにされたけど、俺の世界は何一つ変わってない。

俺が変わろうと思わない限り、俺の世界は変わらない――男の言葉を思い出した時一は、パソコン画面を思い出した。

拓也の世界を壊す事は、誰であろうと許さん。

自分を睨み付ける三白眼が、頭に浮かんだ。
皆、皆、自分の世界で眠っている。
「早よ押せや。」
急かす言葉に時一はパネルの鍵を開け、中にあるボタンを押すとエレベーターから出た。
「降りる時は連絡して、僕しか動かせないから。」
男の居る病室は完全に外界と遮断され、男に会うにはボタンを隠すパネルを外し、直中で行くしかない。其のエレベーターの前にはアクリル板のドアーがあり、其処に付くボタンでエレベーターをロックする。そして其処から長い廊下を歩いて、漸く男に会える。
透明な分厚いアクリル板のドアー、監視カメラが三台、其処から流される映像を時一は凝視した。
分厚いドアーが大きな音を出し、其れに宗一は、元気やなぁ、と笑い、廊下に座った。
「誰だ御前。」
神経質な声がスピーカーから聞こえた。足を繋ぐ紐ギリギリ迄男は近付き、威嚇の為に投げ付けた本を拾い上げた。
寝癖でうねる前髪の向こうに見える其の蛇のような冷たい眼光、ストレスで唇を噛んでいるのか、薄い男の舌は舐め取った血で赤く濡れていた。
「菅原宗一、外科医だよ。」
「彼奴の兄貴か。」
「ま、そんなトコ。」
「外科医が何用だ、此処は精神科だけど。」
読んでいた場所を一発で開いた男はベッドに座り、水を一口飲んだ。
「一ヶ月。」
「ん?」
「御前を出そうと思う。」
廊下に付けられるスピーカーから時一の声が響き、男が其れに威嚇した。
「黙ってろ、あんたとは話してない。失礼、続けろ。」
本を腹に乗せ、ベッドに足を伸ばした男は宗一の考えを聞き入れる態勢を取った。
「三月下旬に、とある試験がある。御前に其れを受けて貰いたい。」
「其れで?」
「だけど御前は、一生其処からは出られない。其処で、一ヶ月、外で過ごして貰いたい。一ヶ月、何の問題も起こさなかったら、おめでとう、退院だ。」
黙って聞いていた男は鼻で笑い、枕から背中を離すと前屈みになり笑い出した。紐の繋がれる足首を触り、足の裏を撫でた。
「問題って?息してるだけで大問題、とか云うなよ。」
「電気は取り上げる、首にGPSを埋め込む、俺と生活する、二十四時間居場所を把握される。だけど、自由に出歩いて良い。一日一回、必ず俺の居るマンションに帰って来るなら旅行もして良い。俺と一緒なら遠くに行っても良い。」
「ふうん。」
「マンションに帰って来なかった場合、埋め込んだGPS発信機から電気が流される。微弱だから安心しろ。御前は生憎サイコパスじゃない、脳波に波がある。其れが時一に送られ、御前が興奮を覚えた時、気絶する迄の電気を流す。其れが起きたら。」
「逆戻り。」
「正解。流石やな。」
「俺を誰だと思ってるんだ。」
長谷川(はせがわ)秀一(しゅういつ)、IQ165の超天才博士。」
男…秀一は口角を上げ、ベッドから下りると宗一に近付いた。
「俺の頭を何に使う気だ。」
「科捜研。」
「警視庁の?」
「其の、化学。化学担当に、御前を置きたい。其の試験が三月だ。」
「興味無い、って云ったら如何する。」
「ほんなら一生其処に居らはったら。悪いけどあの弟、御前出す気無いで。」
「唯一出せるのがあんた、って事か。」
宗一はニンマリ笑い、腰を上げると監視カメラを見上げた。
「大きに、帰るわ。」
「一つ聞いて良いか。」
歩こうとした宗一に秀一は声を掛け、何で俺なんだ、と聞いた。
秀一の言う通り、化学に詳しい奴なら五万と居る。けれど、危険を犯して迄も、秀一が良かった。其の、知能が欲しかった。
「御前は正常や、何処もおかしない。クレイジーと違くて、エキセントリックなんやなぁ。」
宗一は笑い、靴音を廊下に響かせた。
目眩が起きた。
「嗚呼、クソ…」
額を押さえ、目眩に抗う秀一の視界は段々と霞み始め、ベッドに倒れ込んだ。お休みなさい、と時一の声を、秀一は聞いたのだろうか。
エレベーターで降りた宗一を待ち構えていた時一はギャンギャン批難し、絶対に認めない、そんな権限貴方には無い、としつこく続けた。部屋に戻り、パソコンを見た宗一は黙ってコンセントを抜き、時一の悲鳴が上がった。
「何て事するんだ、保存して無いのに!」
「御前は独り善がりだ。」
「何?」
画面にしがみ付く時一は宗一の言葉が理解出来ず、消えた文面を唯々悔やんだ。
「此の井上拓也て男、確かにおもろいよ。でもな、勝手に見て良い世界やないわ。此の人は、判るやろ、ほんまに繊細や。繊細で、死ぬ程深い愛情持ってる、自己犠牲愛の塊や。そんな人間の世界、壊したら、あかん。死ぬで、此の人。」
何故皆、同じ事を云うのだろう。本郷という刑事も、全く同じ事を云った。
「分析してるんだよ。」
「分析?違うわ。御前は自分の世界が詰まらんから、おもろい世界に生きとる人間の世界を見とるだけや、本を読むんと同じにな。御前は秀でてなんか無い、中身の無い、詰まらん人間でしかない。」
勘違いするなよ、御前を心理で受け入れたいのは御前の心理分析能力が欲しいからじゃない、あの男の、頭が欲しいだけだ。
「俺ともう一度一緒に仕事がしたいなら、其の詰まらん人間性を、叩き直す事だな。」
閉ざされたドアー、デスクスタンドの明かりがやけに眩しく感じた。屈辱に唇を噛み締めた時一はソファに座り、何も映し出さない義眼に触れた。
完全に外界と遮断される場所だからか、電話が電波を拾わなかった。駐車場に出て漸く電話が繋がり、バイクに跨ると電話を繋げた。
相手の性格は知っている、留守番電話サービス等絶対に使わない。携帯電話何て物が普及する前は、此れでかなり往生した。
今でも変わらず、携帯電話が普及してからはずっと鳴らし続ければ何時か出る、という事を学習した。
今日は早かった、十コール以内に出たのは若しかすると初めてかも知れない。
「はい…?」
怪訝な声色、向こうが番号を知らないから取ったのかと理解し、宗一は声を出した。
詰まり今迄は、無視されて居た事になる。或いは着信拒否か。
「此の番号、登録しといて。」
凄まじい反論が間髪入れず来ると思っていた宗一は、黙った侭の相手に、一度電話を耳から離した。
繋がっている、なのに言葉が聞こえない。
「え?御前、大丈夫か?」

会いたい……

掠れた声に宗一の背中は粟立ち、足から血の気が引いた。
あかん。
あかん。
そう思うのに、マンションとは違う場所にバイクを走らせたのは何故だろう。
「何しに、来たんだよ…」
「呼んだやろ、今度ばっかは…、呼んでないとか嘘吐くなよ…」
シーツと一緒に髪を撫でたのは、愛情なのだろうか。
宗一には其れさえ判らなかった。
俺は此奴を愛してるんだろうか、手放した癖に。今更欲しいと云えるのか?
何て傲慢なのだろう、俺は。
此奴を傷付けるだけなのに、何故欲してしまうのだろう。此れこそ時一に面白可笑しく読んで貰えば良いのに。何で彼奴は、俺の世界だけは読まないのだろう。
思う事は邪推か、男の目に宗一は考えるのを止めた。
良いや、如何でも。今度は俺が傷付こう。
男の人生全てを受け入れる愛情…左手で光る表現にそう思う事にした。


*****


「井上拓也、御前の部下。」
タブの浸かる男の髪を宗一は優しく撫で、軟水で一層柔らかさを増した感触を楽しんだ。子猫の毛みたいである。
「ん?御免、聞いてなかった、何?」
肩に触れた宗一の唇を求めるように男は振り向き、キスする代わりに肉厚な唇を指で捲った。
「井上拓也。」
「嗚呼、井上か。変人だよ。」
「そら御前の部下やからな。」
変人なのは先程時一のパソコンでしっかり判った。
「働かんでもええのに、刑事になるとか、変人や。」
「なー。俺が井上なら絶対働かんけど。」
「御前、ほんま働くの嫌いやもんな。」
「働きたくない!」
なのに刑事という仕事を選んだ、矢張り此の男も変人だ。
「俺とあん時結婚してたら働かんで良かったのに。」
「だったら働いた方がマシだな。馬車馬のように働くぞ。過労死で良い。」
「どんだけ俺の事嫌いなんよ。」
井上の財産程かな。
其れは又多いな、と宗一は笑った。
「井上は、父親が大嫌いらしいんだ。」
「自分は使いたくないからばら撒く…、ま、ええ金の使い方と違う?」
「井上が気になるか?」
「まーあな。気になるっちゅうか、時一が調べよんのん。」
「嗚呼、彼奴鬱陶しいな。」
「だーいじょうぶ、さっきガツンと言うたよ。しゅぅんとなったわな。」
「頼もしい限りだな、兄上。」
「おほ、久し振りに聞いたぞぉ?兄上なんて。」
「兄上って云わんくなったか。」
「そうよぉ?偉そうに宗一とか呼びよんの。」
「へえ、一丁前じゃないか、生意気に。」
「なぁー?昔は、兄上兄上て、俺等の後ろ付いて来よったのに。」
「あの頃から鬱陶しかったが、今も鬱陶しいな。鬱陶しさに磨きが掛かった。けど良い男に育ったな。」
男の灰色の目に宗一は顔を逸らし、眉を上げた。
「そぉなぁ、御前、昔っから、時一好っきゃもんな。」
「子供だったからな。子供は例え不細工でも可愛いんだ。」
「なんや其れ、まるで時一が不細工とでも?」
「そうは云ってないだろう…」
ふーん、と宗一は男の言葉を無視し、不貞腐れた。例え半分しか血が繋がって無いとは云え、あれでも可愛い弟、兄としては良い気分では無い。
宗一と時一は腹違いの兄弟で、宗一の実母が死んだ後再婚した相手との間に時一は生まれた。干支が同じ、丁度きっかり一回り違う。
井上も父親が嫌いだと云うが、宗一も同じに父親が大嫌いだった。大好きだった母親、其の死因は自殺で、父親が殺したも同じだった。なのに一年もしない内に再婚し、あっという間に時一が生まれた。母親が自殺した理由が、継母の腹の中に時一が居るから離婚したい、そう云われたから。
此の継母が優しい人だったから良かったもの、酷い女だったら悲惨だった。元から父親に可愛がられた記憶は無いが、時一が生まれてからは一層其れを強く感じた。
父親とは何度も衝突した、其の度継母が必死になって止めてくれた。お母ちゃん殺した癖に偉そうな事云うな、と云った時には本気で殴られた。殴られる理由が判らず、又恨んだ。
母を死に追いやり、俺から母親と云う存在を奪っておいて、居場所迄取ろうとするのか?
だったら、出て行ってやる。居場所が無いなら、自分で見付ける。
お前より、ずっとずっと高い位置で、御前を見下してやる…。
そう心に決めた。
決めた時から父親を利用する事だけを考え、口を利かなくなった。
父親も又医者だった。有名な精神科医だった。難易度二番手の医学部に合格した時は、笑いが止まらなかった。此の時点で父親に勝った。父親は此の大学に落ちている。合格した宗一は、父親の虚栄心を充分に満たし、後はもう、其の虚栄心を打ち砕く所迄登るだけだった。
菅原先生、と云う言葉を、父親から自分に変える為に歩き出した。
そして、父親を潰す事を考え始めた十五歳から二十年後、宗一の目的は達成された。二十年間、其の為だけに歩いて来た。後はもう、名前を大きくするだけ。父親の影を薙ぎ払う事に専念した。
正直、時一が医者に、其れも父親と同じ精神科医になると云い、なった時には恐怖した。又父親の影が付き纏うのかと、学生時代の苦労を思い出した。
何処に行っても父親の影が付き纏う、先生の息子さんですもの、と云われ続けた。
違う、違う、俺は父親と同じなんかじゃない……!
けれど其の言葉は起爆材で、益々宗一は野心を燃やした。
時一の時は、杞憂に終わった。
嗚呼、あの菅原先生の“弟さん”……。
其の言葉がどれ程嬉しかったか、そして其の言葉がどれ程時一を傷付けたか……、世代変わって、同じ事を繰り返した。
「此処のホテル、外出出来るんだが、何処か行くか?」
タブから上がり、バスローブを纏う男の背中を宗一は見た。顔と背中を同時に見る宗一は栓を抜き、鏡に映る自分を見る事無く冷蔵庫から酒を取り出した。リクライニングチェアに座り、テレビを付けた行動に男は頷き、自分の頭に巻いていたタオルで宗一の頭を拭いた。
「俺は寝るから、好きにしろ。映画見るなら静かにしろよ。帰るなら勝手に帰れ。起こすなよ。」
電話を弄る男は一切宗一を見ず、良く冷えたシャンパンを熱い身体に教えた。
「グラスに移して飲みなさいよ、行儀の悪い。」
映画を選んでいた宗一は、瓶ごと飲んだ男を横目で窘めたが、男はとっくにベッドに入っていた。
カチカチとクリック音が響き、男は電話の電源を切るとベッドに投げ捨てた。
「そっちの電話、充電しとけよ。」
「御前、ほんま勝手やな。」
「お休み。」
男の言葉に宗一は再生ボタンを押した。瞬間、作成会社の社名と共に爆音が流れ、煩い!と電話を投げ付けられた。
男が完全に寝た事を確認した宗一は着替え、白み始める空にバイクを走らせた。


*****


如何なっても知らないから。
時一は其れだけ残し、ペンを白衣に差すとエレベーターのボタンを押した。
七階迄の階数表示、ガクンとエレベーターは八階で停まった。
白い廊下、白い壁、黒い監視カメラ。アクリル板で出来た分厚い透明なドアーの向こう、きちんと靴を履き、寝癖を一切見せない青く見える髪、血の滲まない形良い唇、丁度タイを締め終えた所だった。
「ふぅ、カッコいいー。」
白衣のポケットに両手を突っ込んだ秀一は口角を此れでもかと吊り上げ、赤い舌を覗かせた。
抜かれた手に持たれた眼鏡を、蛇を彷彿させる目元に掛けた。
「さあ、行こう。授業だ。」
タタン、と秀一は廊下でタップダンスのステップを踏み、水を得た魚の様に白衣を翻した。 
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