歪んだ愛
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第2章
―7―
夏樹の勤務する法律事務所の近くの喫茶店で和臣達は待っていた。高いビルが立ち並ぶ此処では、幾ら事務所のある窓にデカデカと法律事務所であると明記しても、上を見ない限り判らない。上を向いて歩く等、余程暇な奴しか居ない。
そんな法律事務所の窓を眺め乍ら珈琲を飲んでいると、濃紺のスーツ姿の夏樹が、少し息を乱し現れた。
「お待たせしてしまって、いや、弁護士失格ですね、約束の時間に遅れるとは…」
苦笑い乍ら夏樹はメニューも見ずに珈琲と頼み、置かれた水を一口飲んだ。
「此方こそお時間頂きまして。」
加納の上品な口元にカップが添えられ、感情の無い言葉を繋ぐ。
白々しい動作が此処迄似合うのも珍しい、伊達に能面晒してないなと思う。
「忙しいか?先生。」
「ぼろ儲けですよ。あはは。寝る暇無い程です。」
商業ビルが立ち並ぶ飲食店は、稼働率が命だ。味よりも如何に早く客に商品を提供し、稼働させるかが重点になる。
個人経営の喫茶店でも変わりは無く、個人経営特有のゆったりした時間を提供し様ものなら、店は立ち所に潰れる。
だから珈琲も、客が頼む毎に豆を曳き、ドリップし…という事をして居たら、一時間も無い昼食時間を持つ商社マンやOLには受けが悪く、彼処は珈琲一つ出すにも十分掛かる、と潰れる。
空気が入り過ぎた珈琲、酸化。詰まり、五人分位を纏めてドリップし、保温し、食後の珈琲で纏めて出す。昼時となったら五人分等あっと言う間に消費されるだろうが、商社ビル相手に安さを競う飲食店が乱雑する場所で、ピラフとスパゲッティ八百円、サンドウィッチ七百円は、OL位にしか受けないだろう。
証拠に、新人OLらしき女客しか居ない。
新人OLと云うのは、あの飲食店の混雑に慄き、又、大学時代の意識が抜けない。熟年OLになれば、男達と混ざり、ワンコインの定食屋やラーメン屋にでも、寧ろ「此処が一番」と自ら新人サラリーマンを引率して入る。そうでないOLは、休憩室で弁当やコンビニで買った物を広げて居る。
こういう、個人経営でも、軽食は冷凍を使い、珈琲は作り置きしておく様な店は、勝手が判らない新人OL相手で回って居る。
加納が紅茶を頼んだ時も一瞬嫌な顔をし、和臣や夏樹が頼んだ珈琲は一分もせず出たのを見ると、そうとしか考えられない。
珈琲には余り関心の無い和臣、我が人生(一日)珈琲で始まり珈琲で終わる、と断言する程珈琲に煩い課長が此れを飲んだら……血の雨が降るかも知れない。
余談だが課長、珈琲を楽しむ為だけに朝一時間設けて居る。人より一時間起床が早いのだ。
唯、其れだけ愛情を注いでいるのだから、コンビニ等で売っているドリップパックを淹れさせても味が違う。同じ物なのか!?と、衝撃を受ける。余りの違いに、課長専用珈琲を飲んだのかと思った程。夜勤で課長専用の珈琲を飲んだ時は、余りの違いに目が覚めた程。
ワインを嗜む男は、矢張り舌が肥えている。
ワインも珈琲も、空気が大敵である。
一方で加納の愛飲する紅茶は、如何に空気を含ますか、発酵させるかが重点になる。ミルクティーしか飲まない加納に紅茶を淹れてやろうと、ダージリンをミルクティーにした所、汚物を見る目で見られた。
ダージリンとは其の芳香、色、渋みを楽しむもので、ミルクを混ぜる物では決して無いと、ミルクティーに最適なのは、甘い舌触りを持つアッサムだと云われた。
珈琲も紅茶も、此の手の玄人に掛かると和臣は苛々してしまう。何でも一緒ではないかと。ドリップパックを電気ポット其の侭じゃこーと湯を入れても課長から「珈琲は処女の様に扱え」と嫌味云われ、ティーパック其の侭“マグカップ”に湯に付けても加納から「冷たいカップに入れるとは…温度が緩くなる」と嫌味云われる。
紅茶は高温で葉を広がせ芳香と渋みを出す物、珈琲は高温だと灰汁しか出ない代物……緑茶は六十度の低温、紅茶は百度の高温、珈琲は、中間の八十度……要らん知識ばかり増えて行く。
夏樹は、珈琲に拘り持たない和臣が“不味い”と思える珈琲を平然と飲む。ドリップパックは疎か、インスタント或いは缶珈琲でも問題無い様な味覚で飲む。…課長に、史上最低の缶珈琲を飲ませた時の機嫌の悪さを思い出し、少し憂鬱になった。
最近ではコンビニも、一回一回豆を曳く電動ドリップ型式を導入する店舗が増え、課長の機嫌を一番とする和臣、課には有難い風潮がある。
和臣が課長を相棒にして居た新任の頃は、夜間の張り込みの時往生した。缶珈琲でも与え様なら殴られ、張り込み現場から離れた喫茶店或いは署迄珈琲を淹れに行った。課長の事を良く知る喫茶店マスターは、和臣が夜中現れる度何も云わず大量の珈琲をタンブラーに入れ、昼間でも「By my boss」の一言で全てが繋がった。
俺の主人の命令だと云えば、課長好みの珈琲が手に出来る。ちょろっと失敬した事あるが、良い匂いだった。
「夏樹さんの専門ってなんだ?」
「内の事務所は離婚です。人の不幸で笑ろてます。そんな、殺人案件を扱う事務所で儲かってたら不安でしょう?其れこそ眠れないですよ。木島さんも、其の時が来たら如何ぞ僕の電話を鳴らして下さい。勉強させて貰いますよ。」
「あはは、先ず結婚して来るよ。そして二年位経ったら、先生に連絡しよう。相手探してくれ。」
「あ、独身なんですか。」
「一人が何かと便利でね。」
「判ります、僕も独身派です。…ほら、見てるじゃないですか、現実を。あれをねぇ見たら、結婚は考えられないなぁ。」
「昔は、結婚してた方が出世に有利だったけど、最近の三四十代のエリート共は独身が多いから、下に結婚を勧めないんだよ。自分達が結婚しないで出世出来てるから。俺も出世する積もりもないしなぁ。そら、此の年で阿保やらかしたら…判らんけど。」
「子供居ての離婚は、僕の専門中の専門です。五年後お待ちしてます。僕が旦那側に付いた場合、八割の確率で親権を父親に渡しますよ。ネットで噂になってるんですよ、僕に頼めば高確率で親権が貰えるって。親権再審議の場合は尚有利ですね。子煩悩の父親は、親権を得る為なら、幾らでも金を出すんですよ。」
「随分と生臭いな。」
「生臭いですよ、弁護士なんて。金と足元…汚い場所しか見ないんですから。」
澄んだ目元に影が落ち、薄く笑うと珈琲を飲んだ。
ちらりと、袖から覗いた時計に夏樹は視線を投げ、其の時計も、子を愛する父親の気持ちで嵌っていると思うと、和臣は何だか遣り切れない気持ちになった。
「如何して、そんなに父親に親権を渡そうとするんだ?日本じゃ、親権イコール母親の概念が強いのに。」
「だからですよ。如何考えたって、経済的に有利なのは父親、結婚してる男は大概が安定した給料を持ってますから。一部…は判らないですけど、僕の所に来る方で名刺を持たない父親、ってのは先ず居ませんね、弁護料が高いので。抑、安易に離婚する様な蓮っ葉な気の持ちで子供が育てられると思わない。」
昼食を終えたOL達が弾かれた様に店から出る。昼休み開始時刻も同じであれば、店に入る時間も一緒、食事も同じく流れる様に出るのだから、出る時間が重なっても不思議では無い。
二十代前半であろう若いOL達の顔はつやつやと、未来に向かい輝いているみたいだった。飛ぶ様に歩き、顰めっ面、仏頂面で安定した歩幅で歩くサラリーマン達と違い、一人でも、ニコニコと笑い歩いてるOL迄居る。
若いって良いなぁ。
此の、未だ未だ少女っぽさを残すOL達も、何時かは母親になるのだろうか。そして、夏樹やらの世話になるのだろうか。
「昔の母親は、どんなに旦那が嫌いでも、どんな仕打ちを受けても、子供の為に、命削って耐えてました。熟年離婚が此れです。其の場合は僕、奥さん側に付きます。」
雑踏から目を離した夏樹は、睫毛の影を目元に写し、漆黒の水面に映る何か…過去を見ていた。
「人生初の依頼人、其れは母でした。」
いきなり何の話をし出すかと思ったが、夏樹の事を知るには良いだろう、其れで無くとも時一から「早く夏樹冬馬の情報寄越せ」と煩いのに。
三人だけの店内、静か過ぎる程なのに、夏樹の声は注意しないと聞き取れない程だった。
「夜中です、もう一時過ぎ。受話器の向こうで母は、お母ちゃん、もうええかな…、お母ちゃん、もうお母ちゃん業…廃業したいねん…、…そう云いました。其の後ろで、相変わらず父が暴れてました。…世の中には、居ない方が良い親が存在するのも確かです。僕の父は、絵に描いた様な屑で、こんな屑そう居ないんじゃないかって位。クズリンピックとかあれば、もう金メダル総舐めって感じの。日本代表は貴方ですよぉ、みたいな。余りにも屑だったから高校時代、母に云うたんです、お母ちゃん、僕と一緒逃げ様や、って。けれど母は泣きそうな顔で、こう云いよったんですわ。お母ちゃんが今逃げたら、一体誰が冬馬の弁護士なるぅゆう夢叶えんねん、お母ちゃん一人で、あんたの未来は、よぅ背負えんわな、見てんか、お母ちゃん背中、ちっこいやろぉ、あんた無駄にでかいねん、昔みたく背負えんわなぁ……」
深く、珈琲よりも濃い過去を映す水面を揺らす程夏樹は肩で息をし、冷淡な視線を横に流した。
心が、痛い。
夏樹の母親の愛情が和臣には痛かった。自分の母親を思い出した。
人は、余程の聖人か、変な宗教に嵌って居ない限り、一生消えない 蟠り(傷)と愛情を持ち、一生を生きる。
結婚して居ても、心の奥底か何処かに忘れられない相手が居るのは確かだ。
和臣は思う、此の先何時か結婚し子供が出来、孫や或いは曽孫が出来、墓に入る迄膨大な時間があろうと、決して初恋の人を忘れる事は無いと。
雑踏を睨む夏樹の目は、其の何方も抱えて居た、和臣が、“無差別”に強姦魔を敵視し、一生分の愛情を心に残す様に。
掠れた声、和臣に、夏樹を直視出来る度胸は無かった。直視するには、余りにも純粋で、穢れが無かった。憎悪、殺意、嫌悪…そして有り余る愛情が混ざる色を…赤く膨れ上がる夏樹の目元を加納は凝視した。
「何度も、殺してたろ思た…。実際、頭ん中で、何回も殺したわ。或る時は毒殺で、或る時は絞殺、滅多刺しにもしたわ。耳も鼻も唇も削ぎ落として、眼球くり抜いて、内臓引き摺り出して、町内回ったりもしたわ。詰まらん妄想で口角が上がったわ。此の屑が居てへん世界、薔薇色やろなて。けど違った。」
屑は何処迄も屑だった。
屑は所詮、屑で生まれ、屑として生き、屑になる。灰も残らない程の、屑でしか無い。
何が肉親だ、世界一厄介な代物は血の繋がりで、特に日本に於ける“血縁者”の、クソとしか言い様の無い“民族意識”“純血至上”の強さ。混血が色眼鏡を以ってして見られるのが其れだ。
最近は徐々に法も判事も意識変わりつつあるが、本の一昔前の日本は、御前達何世紀昔に生きてるんだ?と聞きたい程、“血”の繋がりを一番に濃く尊重する意識があった。此の島国、致し方無い事ではあるが、随分と“レトロ”過ぎる。古い、“如何にも”な民族意識を持つ輩に多い。
親が、特に母親が子に絶対な愛情を持つ等、時代錯も甚だしい。我が子に愛情持たぬ母親或いは父親が居ても当然なのに、世間は絶対に認めない。言ったら最後「だったら何故産んだの」そう言われて終わる。
本の少し前迄は、養子縁組をした相互間にしか戸籍除籍を認め無かったが、虐待や余り良いとは思えない親子関係(最近の言葉で云うなら所謂“毒親”)に対し、“実子の血縁者”でもあるに関わらず、裁判所が認定すれば親子関係を真っ新に出来る世界になって居る。
一昔前では考えられなかった。
親子は、例え養子に出しても親子だったのだから。
「慰謝料無しの離婚が成立し、旧姓に戻った一ヶ月後、母は自殺しました。池上の名前で絶対に死にたくなかった、死んでからもあんな男と一緒おりたない、…母は、池上家の墓に入りたくないが為だけに離婚したんです。そして、母の命…僕を守る為に捧げた二十六年の時間の値段は、一億でした。母の人生殆どを、一億で清算されたんです。」
誰も彼もが他人に興味を持たない、都会特有の雑踏、滲んで見えるのが当然だと、夏樹は思った。
五年前も、騒然とする景色が歪んで見え、笑って居た様思う。
――御前が、御前が殺したんやないか!帰れや!今更何しに来てん!
――誰に口聞いてんねん!だぁれの御蔭で!其の洒落たべべの襟に金ぴかのバッチ付けられとると思てんのじゃ!弁護士先生になれたんじゃ!
――おかんの御蔭じゃ!間違っても御前ちゃうわ!抑此れは喪服じゃ!バッチ付いてないわ!見てみぃ!酒の飲み過ぎで見えんか!?あ?大体、御前がする事言うたら、酒飲んで博打売って女買うて…おかん殴る事だっきゃないか!拵えられんのは借金とクソと頭悪そうなガキだけやないか!…帰って呉れ、ほんま…、何がしたいねん、なあ。香典か?香典が欲しんか…?んならなんぼでもやるわ…、全部持ってき晒せや!ほんで帰って呉れ!二度とわしの前に現れんなや!御前が 去ったら良かったんや…御前が、御前が…、何で御前が生きてんねん!相手が違うやないか!何でおかんが死ぬねん!
――冬馬、冬馬落ち着けや。済まん、御義兄さん、帰って呉れんかな。正直わし等も、御宅の顔、見たないねん…、姉貴の苦痛、思い出すんや…
――御前が死んだらええねん!早よ死ね、帰りに轢かれて死ね!今日やないなら明日死ね!
――香典差し上げますよって、此れで、此れで全部です!全部で二百三十万あります!此れで、もう、姉やんに関わらんで下さい、お願いします、お願いします…、帰って下さい…、帰って…下さい…お願いします…
――早よ帰れや…、一寸でもおかんに愛情あるんやったら、さっさっと帰って呉れ……
珈琲に映る忌まわしい記憶、五年前の悪夢を、未だ見ている気分だった。
手帳にペンを走らせていた加納は首を傾げ、あの、と聞いた。
「池上、とは。」
「嗚呼、僕の夏樹と言う姓は母のですよ。あの父親の名前だと何かと面倒で。と云うか、嫌ですし。離婚成立して書類出す時、僕も一緒に新しい戸籍作ったんですよ、成人でしたので。」
其処で夏樹は、父親の話をする時とは別人の顔付きで綻んだ。
見逃さなかった和臣は聞いた。
「如何した、なんか楽しい思い出でも思い出したか?」
「いや、まじまじと母の名前を見た時に、気付いたんですよね。晴香、って名前なんです、母。で、あれ?お母ちゃん、秋が足らん、て言うたったんですよ。したら母、初めて自分の名前に四季が入ってる事に気付いて、夏に春やて、あはは、祖母阿保ちゃうかー、あたし秋生まれよぉ、あはあは、て笑い出しましてな。いやいやおかん、其れ言うたらわしとかまんま冬やんけ、…嗚呼そうなぁ、まさか夏樹に戻れるなんて思わんかったものぉ、夏に冬、あんたややこしいなぁ…そんな名前に誰がしたん?、…誰が付けたか!お母ちゃんちゃうんか!てね。」
顔面をくしゃくしゃにし笑う夏樹に釣られ、和臣も笑った。本当に母親を愛していたのが目で判る。あのOL達の様にキラキラとしている。
「やぁっと、守れる立場になったと思ったのに。なぁんも出来んかった。母の人生って、一体何だったんでしょうね。」
遠い思い出を羨望する夏樹の目、戻れるものなら戻りたい。
母親が夏樹に残した保険金一億円、母親の地獄とも云える二十六年の人生の対価にしては安過ぎた。けれど、一億円…いいや、此の先一生分の給料で時間が戻せるなら、喜んで払う。母親以上の苦痛と地獄を背負う事になっても、あの晩、あの朝、母親が死ぬ前に戻れるなら厭わない。
母親が自殺する前の晩、“最後の晩餐”の内容は、幼少時代夏樹が好きだった物が並んでいた。父親の所為で金回りは余り良くなかったが、母親親族と会食した時、出て来たお子様プレートに夏樹ははしゃぎ、母親は家でも其れを作った。
デミグラスソースのオムライスにハンバーグ、塩胡椒で味付けしたスパゲッティを絨毯に並ぶ海老フライ。
窶れ切った母親は、其れ等を食べる夏樹を笑顔で見ていた。
幼少時代からずっと。
味も愛情も、何一つ変化は無い。
其の晩もそうで、わしもう子供ちゃうねん、と夏樹は云ったが、子供の様に食べた。其れを見る母親は、笑顔で、湾曲する目から今にも涙が溢れ落ちそうだった。
――なんで泣くねん…
――んー?大きなったなぁて、しみじみとね、思てる訳ですよ。
――泣くか笑うか、どっちかにしなさいよ…
――男ん子産んでて良かったぁ、こぉんな頼りなるんやもん。あの人に似たら如何しよーとか思てたけど。
――エグい事言うな…
――長男さんですね、云われた時、うわぁあかーん、あの人になってまうがなーて思たんやけどなぁ。わての教育が良かったんですね、うんうん。
――お母ちゃんが不幸なったんは、偏に貴女が世間知らずのお嬢さんだったからやないですか。
――世間て怖いなぁ。
――もう一寸、男見る目養って結婚した方が良かったかもな。
――お?言うたな?…いやほんま冬馬、避妊だけはちゃんとしなさいよ…?
――……海老フライ詰まったがな…
――阿保やらかしたー、ほんま、阿保やらかした…
――其の産物の目の前でよぅ云えますね、貴女。然もわし今食事中…、止めてくれ…
――え?…女知らんとか…そんなん言わんよな…?
――…何此れ、言わなあかん流れか?
――まさか!御主童貞か。憐れな…
――すんまへん、十七ん時にもう済んでます。なんで食事中にそんな話すんねん!然も息子と!
――なあ冬馬。
――何やねん…
――今日、一緒寝よか。
――なんで…?話繋がってませんけど。
――お母ちゃんの話が繋がらんのは何時もんコトやないか。
――自覚あるんかい。
――て言うか冬馬、あの人に似てないな。…あら、ほんまあの人の子やったんかしら…、あら、しくった。向こうやったか!
――うん、お母ちゃん、取り敢えずわしに食事さしてくれ。弁解は後でたっぷり聞いたるから。
成人して母親と一緒に寝る事になるとは思わなかった。サイドボードの灯りで書類を読む夏樹の横顔を、顔半分布団で隠した母親は見た。じっと見詰め、気が散る、と云うと一旦頭迄すっぽり布団を掛けるのだが、一分もすると、又、ちら、っと見た。
真夜中に鳴った電話、其れは依頼人からで、暗い静かな部屋では母親にも内容が筒抜けた。
依頼人の錯乱する声、内容は調停中の妻に子供を誘拐された。元から危ない相手だな、と思っていたが、誘拐するとは思わなかった。依頼人に警察に通報する事を伝え、続けて妻側の弁護士に連絡を入れた。聞いた先方弁護士は、あっちゃー、やってくれたなぁ、と負けを認めてしまった。
電話を切った夏樹を、母親は楽しそうに眺める。
――あんた、ええ男に育ったな。
――何…?気持ち悪い…
もうお母ちゃん、要らんな。安心した。
少ない珈琲に、波紋が広がった。和臣達が驚きの顔で見る理由が判らず、瞬きする度顎から何かが落ちる感覚がした。
「大丈夫か…?」
「え?」
「いや、御前、泣いてるぞ…?」
「え?」
下瞼を触ると、濡れた。
「あは、カッコ悪…」
カウンター内に座るマスターが、店員が、黙って夏樹を見ていた。其れに気付いた加納が、冷たい目と声色で「見世物では御座いませんが」と散らした。
「そんな母を見て育った僕は、簡単に離婚する女が嫌いだ。そんな女に、親権は渡さない、絶対に…」
テーブル端を睨み付ける夏樹の目は憎悪に燃え滾り、加納に叱責受けた店員が、詫びだと云わんばかりに夏樹と和臣のカップに珈琲を継ぎ足した。
「なあ先生。」
「はい?」
「先生って、派手な女が好きなのか?」
「え?」
詰まった鼻の通りを少しでも良くしようとカップに鼻を寄せる夏樹は、突拍子も無い和臣の質問に首を傾げた。
「派手、とは。」
「全身ブランドだったり、化粧が濃かったり。」
「嗚呼、確かに云われてみたら、化粧の濃い女、好きですね。綺麗じゃないですか。…そうです済みません、僕、本当にマザコンなんです…」
夏樹の母親は、当然だが夜働きに出ていた。詰まり、派手な衣装と派手な化粧。
当然、周りの父兄からは、父親は無職同然の博打狂で、何時も飲み屋の女を脇に抱え、母親自身もホステスなので、相当に蔑視されて居た。授業参観の度、息子乍ら肩身狭い思いする母に胸が痛んだ。
でも夏樹は、そんな母を嫌いにはなれなかった。
クラスメイトの母親達は、確かに金にも地位にも脅かされる事は無かっただろうが、夏樹は断言出来る。
御前等のおかんより、わいのおかんの方が何十倍も綺麗で愛情ある世界一のおかんや、と。
御世辞にもクラスメイトの母親は美人とは云えない。此れは夏樹の母親が十七で夏樹を産んだのにも関係する。
現在三十一歳の夏樹が小学生の頃の平均初産年齢は二十五歳前後。下手すれば三十かも知れない。
そんな中で、例えば夏樹が十歳だとすると、夏樹の母親は二十七で、クラスメイトの母親達は三十五、四十前後の母親も居たかも知れない。未だ未だ二十代の夏樹の母親は、どんな母親よりも若く、美しく、肉体の老化等見せる筈が無かった。女子は、老い、贅肉だらけの身体を恥とも思わず生きる己の母親を見ている為、素直に“同性としての羨望”で夏樹の母親を羨み、男子は普通に“本能”として夏樹の母親を羨んだ。
池上の母ちゃん綺麗よなぁ、……夏樹の荒んだ自尊心を慰めて呉れる唯一の言葉で救いだった。
御前等の家はバブル時に買うた庭付きの一戸建てで親父は毎月きちんと決まった額を家に入れてるかも知らん、御前の他に兄弟養う余裕あるかも判らん、俺の家は大家からも同情される二畳二間のぼっろいアパートで親父は無職の屑かも知らん、俺以外無理やて堕したかも知らん、其の親父は他所でガキ拵えとるのにな…。けどな、俺は御前等より劣ってるなんて一個も思わへん、御前等を羨望したりなんかせん。御前等の家行って、一度でも御前の母親が俺に笑い掛けて呉れた事あるか?
御前等がするのは、俺等を侮蔑し、嘲笑し、同情するだけ…下に見るだけ。そんな人間より、クズの父親に対しても悪口一つ云わない母親の方が良い。
人を悪く云うな…其れは必ず自分に戻って来るし、酷い言葉は自分の心を同時に醜くする…顔は心の鏡、結果、表情が醜くなる。そんな人間は、誰からも愛されない。だから決して、人を貶すなと教えられた。
「あはは、判る判る。……此処だけの話な、俺もマザコンなんだよ。」
横で聞いていた加納は、軽蔑の目で和臣を見、其の目は和臣が結婚“出来ない”理由を射抜いていた。
「ですよね、男って皆マザコンですよね。」
「そうそう。良いんだよマザコンで。」
「僕なんか救えないですよ…」
「先生の母親は、聖母だもんなぁ。そう居ないだろう。」
自己犠牲が病的に強い女は…。
和臣の言葉に、夏樹は挑発的な視線を向けた。
軽やかな音色、ジャケットの内側に視線を流した夏樹は電話を見、ディスプレイに表示される名前に舌打ちし、拒否ボタンを押すと又ジャケットに収めた。
又響く。
「…失礼。」
引き攣った笑顔で通話ボタンを押した夏樹の声色は固く、無表情だった。
「何やねん、掛けて来るな言うてるやろ。御前、裁判所から再三接触禁止の通知着てるやろが。守れや。日本語読めんのか、或いは高尚過ぎて判らんか?元の作りが悪いんか、薬のやり過ぎで悪いんか、嗚呼済まん、どっちもやったな。此れ、全部記録残っとるからな。は?………ふうん。で?だから何やねん、知らんがな。いや、知らんて。御前の親父ちゃうんか。わしの親父ちゃうわ。」
巻き舌で淡々と言葉を繰り返す夏樹は、一方的に喚かれる電話を切り、其の侭電源を落とした。
「トラブルか?」
「漸くですよ。」
「ん?」
「親父が死んだ。」
夏樹の口角は化け物の様に釣り上がって居た。
「今のは?」
加納の問いに、屑の破片、と言い退けた。
「今日何食べよかなー。こんなめでたい日無いで。」
「宴会と通夜には寿司って相場が決まってる。」
「お、良いですね。久し振りに酒飲もかな。」
「付き合ってやろうか。」
「是非。」
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