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歪んだ愛

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第1章
  ―5―

高級車が犇めく警視庁の駐車場を見た和臣は、高級車展示会か、とシボレーから降りた。半分は外車、半分は国産の上級クラス、三百万あれば買えるであろう乗用車を見た時は和んだ。
「御前のベンツ、幾らだった。」
「総計で二千万程です。木島さんのバンブルビーは?」
「五百万だった。」
「ふ…」
「笑うな。」
赤い車体を撫で乍ら、可愛いだろうが、と和臣は云う。
離れる時車体を撫でるのは、和臣の癖である。
「昔。」
入り口に向かう加納の口は滑らかに動く。普段全くと云って良い程自分の話をしない加納、黙って耳を傾けた。
「一千五百万で買った新車を、一年以上車検が残る状態で売った事があります。」
「何で又。」
「リーマンショックで持ち株全てが大暴落したのです。ワタクシは外資株ばかり扱っていたので、文字通り発狂致しましたよ。」
「損失額幾らだった…?」
株に詳しくはないが、あの大規模な金融恐慌に興味はある。日本には直接影響無かったが、加納の様に外資株を買う一般人には、其れこそ自殺ものの出来事だった。
「二千万です。一瞬で消えました。」
さらりと云われたが、鼻から変な息が漏れた。
二千万…、和臣の年収五年分に値する。
「其れで車を泣く泣く売ったのですが、買取価格、幾らだと思います?」
細い切れ長の目が、怒りで赤味を増す。
「さあ…」
「七百万…、たった七百万ですよ…?信じられますか…?新車を、車検一年以上残した状態で、七百万…。ディーラーを殴ってやろうかと思いました。」
盛大に笑った和臣に、加納を足を止めて迄睨んだ。
「ワタクシの失意が判りますか!?たった半年しか乗ってない車が、千五百万から七百万に暴落したのですよ!?たった半年で!店に行けば全く同じ型、グレードの車が千五百万で売ってるのに。」
「災難だったな。」
「なのでワタクシ、もう国内株しか信じません。ワタクシ今ウキウキで御座います。好景気で御座います。配当有難う御座います。」
リーマンショックがあったのは五年程前、其れで二千万のベンツを買い直せてるのだから景気は良いのだろう。一般人からしてみれば判らないのだが、株を持つ人間にはしっかり判るらしかった。
「まあ、ワタクシが車一台売っただけで平気だったのは中国株ですがね。リーマンショックが起きたのは九月、オリンピックが行われたのが八月、其の間、一ヶ月も無いのですよ。オリンピックが閉会した翌日に株を売ったので、運が良かったのでしょうね、被害は御座いませんでした。万博、オリンピック開会…其れで中国株が全体的に三倍膨れました。」
「三倍…」
「正直笑いが止まりませんでしたよ。半月後泣きましたが。其の利益と車を売った金で、何とかなりましたがね。あの年は本当に最悪でしたよ。」
「今は何処が買いだ?」
資金も興味も無いが、一応聞いてみた。
「勿論、六年後に行われる東京オリンピック…、其の不動産です。三年後、急速に化けます。ワタクシの計算に、狂いは御座いません。」
ブリッジを押し上げ、加納は不適に笑う。
格好良く云っては居るが、計算が狂った結果、御前は一千五百万を七百万に暴落させたんじゃないのか?と、思ったが和臣は云わなかった。リーマンショックを引き起こしたのは加納では無いのだから。ワタクシが暴落させました、と云われても困るし、怖い。
「加納は、何で刑事なったんだ?」
加納程頭が切れ、素早い計算を得意とするなら、何も態々刑事等選ばなくても良い。確かに頭を使う仕事ではあるが、現場刑事は体力勝負と云って良い。元がキャリア組で、本庁でこそ加納の知能は発揮される。
「さあ、何故でしょう。」
青空に向かい加納は目を閉じた。

――御前、大丈夫か?

青空に重なる濃紺の帽子、靡く髪、加納を窺う吊り上がった目が、強い日差しの中から浮かび上がった。

――大丈夫です。
――御前、学生だろう。学校行けよ。もう直ぐ夏休みだ、気張れ。

公園のベンチで鞄を枕に寝て居た加納は、巡回中であろう警察官に声を掛けられた。
夏の、暑い日だった。
蝉の声が煩くて、然し、学校で聞く生徒達の無駄な雑談よりは静かに聞こえた。

――あのさ、サボるのは良いんだけど、不審だよ、御前。
――でしょうね、知ってます。

云って加納は身体を上げ、きちんとベンチに座ると鞄からシャボン玉を取り出し、暢気に吹いた。

――煙草、持ってたら出せ。
――失礼巡査、学校をサボる生徒皆が皆煙草を持ってると思わないで頂きたいのですが。
――真面目な不良だな。
――不良では御座いません。
――学校サボる奴が優等生とは思えない。

警察官は笑い、ベンチの横にある自販機から飲み物を買い、其れを加納に渡した。
冷たいペットボトル、一分もするとペットボトル迄も汗を掻いた。スポーツ飲料のラベルをじっと見詰める加納の頭に、じっとりとした熱さが重なる。

――熱中症、なる前に学校行けよ。

加納の頭を左右に動かした警察官は其の侭手を離し、離れた場所で遊ぶ子供の頭も同じ様に撫でた。
其の笑顔が、網膜に張り付いた。
持っていたシャボン玉を子供に渡し、公園を出た加納は其の侭素直に学校に行った。其の途中の交番で、あの警察官が、アイス食べ乍ら仕事をして居た。横にあるコンビニ、アイスを五本買った。

――はい。アクエリアスの御礼です。

差し出されたコンビニの袋に警察官は書類から顔を上げ、ゆったりと笑顔を見せた。
「加納?」
和臣の声にゆっくりと青空を視界に入れた。
「おい加納、見ろ、ジープだ。格好良い。」
「頭悪いですね、ジープ等。」


*****


氷菓と云われる、アイスクリームでもシャーベットでも、ジェラートでも無い棒付きの其れを食べる男は、東条まどかの写真を眺めた。
「うわぁ、ブスだなぁ。」
「別嬪の屍体なんて見た事無い。」
まったりとしたピスタチオのジェラートを食べる菅原は、屍体は総じてブス、と云う男の脛を蹴った。
「科学捜査研究所って、此処で良いのか?」
入り口から聞こえた声。振り向いた菅原とは反し、男は食べ終わった棒をゴミ箱に投げ入れた。
「そ。」
垂れた目を窄め、菅原は答えた。
「世谷署の木島だ。」
「加納です。」
「おお、待ってたわ。」
警察手帳を見せるが菅原に興味は無く、あるのは加納の持つ東条まどかの資料だけである。
がさり。
小さな冷凍庫から新たに氷菓を取り出した男は、耳に入った名前にゆっくりと入り口に顔を向けた。
「木島…?」
吊り上がる細い眉、切れ長の目、高い鼻梁、薄い顔付きに釣り合わない厚い唇、バランスが取れるのは顎がしっかりとするから。
黒縁眼鏡の奥で驚きに揺れる目に和臣は首を捻った。
「ん?」
「木島和臣、だよな…?」
「そうだけど。」
御前は?
そう繋げ様とした時、はっきりと男の口角が釣り上がり、尖る犬歯を見せた。歯をなぞる赤い舌に和臣の背中は凍り付いた。
「は…は…」
さっと唇から血の気が引き、薄い唇が一層縮んだ。
長谷川(はせがわ)…」
名前を云うが早いか、がっしりと首を固定され、長谷川の身体に染み付く薬品の匂いに和臣の奥歯は無意識に鳴った。
「覚えてたか、嬉しいよ、和臣…」
忘れろという方が間違って居る。和臣の人生で長谷川程強烈な印象…其れも恐怖を植え付けた相手は居ない。
白衣のポケットから銀色のペンを取り出した長谷川は、其の侭先を恐怖で固まる和臣の耳の下に当てた。
強烈な痺れと痛みが来た和臣はガクンと膝を付き、此の電気オタク…、と弱々しく長谷川を睨み付けた。
「エレキテルー!エレ・キ・テル氏最強なり!」
「エレ・キ・テル氏諸共公務執行妨害で逮捕するぞ!此の奇天烈大百科野郎!」
両腕突き上げ、エレキテル、等と喚く長谷川を、珍獣を見る怯えた目で加納は見詰めた。
他人に電流を流し笑う等、精神構造を疑う。
「しょ…、傷害罪に当たりますよ、其れは!抑…、凶器ですよ!渡しな……」
「……黙れ。」
ペン本体を真ん中から回した長谷川は、電圧を上げたペン先を加納の顎下に突き刺した。脳天に向かい電流が貫き、目の奥が熱くなった。
和臣以上の電流を受けた加納は長谷川を見た侭膝を付き、声無く床に倒れた。
半目で涎垂らす加納を足先で突き、威力を増した長谷川の精神構造に和臣は恐怖した。
「…進化し過ぎだろう…、エレ・キ・テル氏…」
「科学は日々進化するのだよ、木島君。」
高らかに笑う声、菅原は暢気に鞄を開いた。
「わいのジープ、格好悪い言うたん、どっち?」
インカムを付けた長身痩躯の男が一旦木綿の様にゆらりと現れ、和臣に聞いた。すかさず和臣は加納を指し、頷いた男は長谷川からペンを取ると加納の頭に突き刺した。
「御前の狐面の方が悪趣味ちゃうか。」
床の上で加納の身体が一旦跳ねた。 
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