歪んだ愛
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第1章
―3―
獣の唸り声が聞こえる。此処は何時から妖怪を飼育する様になったのか、猫は飼育する筈なのだが、と発生源に菅原宗一は足を向けた。
パソコンが三台並ぶ机に突っ伏し、半開きの口から涎垂らし寝る男の椅子を菅原は蹴飛ばした。びくりと飛び起き、ずれた黒縁眼鏡を整えた男は忍び寄る怒りのオーラに顔を向けた。
「…此れは此れは、主任…」
「妖怪を解剖した事無いんだ、して良いか?」
「起きます…」
大きく背伸びをした男は其の侭グラグラと揺れ、薄目でにまにま笑うとガクンと後ろに倒れた。
「寝るなー!」
此の椅子じゃなきゃ嫌だと男の注文でリクライニング式の物にしたが、レバー式で無いので背凭れに力を掛けると身体を伸ばす事が出来る。
身体にフィットした椅子の心地良さに男の眠気は深く迄落ちた。
「もーう、あかん。絶対起きひん…」
男を起こす事を完全に諦めた菅原は自分のデスクに戻り、遺体写真を眺め昼食の再開をした。
聞こえる呻き声、両腕を宙に浮かせ何かを求める様に動かす男の口からは、そうじゃない、此の薬物で此の反応は絶対にあり得ないんだ、良いか此の茸はな触れただけで皮膚反応が出る劇物なんだぞ、何故って俺は天才だから…、馬鹿其れは澱粉だろうが…、俺は茄子を持って来いって云ったんだ……。
丁度麻婆茄子を食べて居た菅原は、半開きの口に茄子を押し込み、口を動かした男は、此れズッキーニじゃん、と口を閉じた。
*****
フロアーに井上の咆哮が轟いた。
「俺がそっちが良かった、俺がそっちが良かった、俺がそっちが良かった!」
東条まどかの自宅報告を聞いて居た井上は、報告する和臣の声を遮り、肩甲骨迄伸びる髪を鷲掴み、机に頭を打ち付け乍ら喚いた。
「東条まどかに瓜二つの清楚女!?俺もそっちが良かった、良かった!」
「煩い!」
「そらあんたは良いさ!可愛い女と話せたんだから!俺なんかドドリアだぜ!?」
机から頭を離した井上は落ち着かせ様と背中を撫でる本郷に抱き着き、此れって贔屓だよな、と喚いた。
「贔屓か如何かは判らんが、アレは強烈だった…」
東条まどかの勤務先に出向いた本郷達を待ち構えて居たのは、ザ・お局様と云わんばかりのハイミスだった。四十手前らしいが未だ独身で、此の歳迄来たら妥協したくないのよね、と売れ残り女の常套句を平然と並べ、一体御前の何処にそんな値打ちがあるんだ、見た目ドドリアのハイミスの癖に、と普段女に全くと云って良い程関心抱かない本郷に殺意を抱かせた。東条まどかの美貌と若さに嫉妬し、出る情報は悪意ばかり、自分の話ばかりで此方が聞いて漸く嫉妬だらけの情報を出す。
――東条まどかの勤務態度は如何でした?
――嗚呼、云われた事しかしないで、自分の仕事終わったら男と話してたわ。其れでキャリア組の人達ってのは。
――其れは、無駄話をして居た、という事でしょうか。
――此処はこうするんですか?とか、此の計算で合ってますか?とか、私判んないんですぅ、ってアレよ。ねぇねぇ、所轄刑事でも試験で本庁に移動したりするんでしょ?私、ミステリー大好きだから刑事がどんなに大変か判ってるの。キャリア組の人達の給料って。
――詰まり勤務態度は真面目なんですね。女子社員との関係は如何です?
――学生のノリよ、何時迄大学生気取りなのかしら、だから仕事も満足に出来ないのよ。ねぇ刑事さん達はどんな女がタイプなの?
――友人は多かった、と。宮崎あおいと吉永小百合です。
――黒木メイサとミーガン・フォックス。
――ふぅん。
遠回しに御前みたいな勘違いハイミスドドリアでは無いと云ったのが効いたのか、仕事があるから、と巨体揺らし去って行った。
アレで良い女気取りなのだから救えない。アレは一種の罪ではなかろうか、そう思う。他人を不愉快にしただけで逮捕出来る法律が出来ないものか、そしたら真っ先に貴様を逮捕してやるのに。
「もうさ、俺達が勝手に、勘違いハイミスを検挙して、不愉快罪とかで刑務所に入れ様ぜ…」
謙虚に生きれば此方も優しくするもの、ルックス平均以下の売れ残りに限ってでかいツラをする。其の性格の結果独り身なんだろう、何故結婚出来ないのか、鏡とカウンセラーに聞いてみたら良い。
「…俺、見てみたい。今度から御前達が自宅に行け。」
「おい龍太、此処に仏が居るぜ。」
「有難う御座います、有難う御座います!矢張り持つべきは先輩、木島さんですね!」
何時もは嫌いな先輩だが、一気に好きになった。帰る頃には又嫌いになるだろうが。
加納は一人押し黙り、黙々と書類を纏める。
彼は学生時代から誰かと馴れ合い、会話をする事が無い。話題を振られたら返事はするが、自ら話し掛けたりはしない。必要最低限の関係だけを求め、浅く狭く、を信条とした。縦列関係を基本とする警視庁では良かっただろうが、此処の様に先輩後輩余り関係無く一つの輪として動く場所には異様に映る。
加納は根からの官僚気質なのだ。
「加納も見たいよな、ドドリア。」
「ふふ。」
「よしよし、明日行こうな。御前、フリーザ様っぽいけど。」
頭に知った暖かさ。和臣の大きな手にキーボードを叩く手が止まった。
「此奴オタクなんだよ。」
「違います。」
「マジで、何オタよ。」
椅子の背凭れを抱え、井上は煙を吐いた。其れを見た和臣と本郷も煙草を咥え、加納は木島にだけ火を点けた。
「超合金ロボ、だろう?」
薄い唇の間から細い煙を出す和臣はニヤニヤと口角上げ、楽しそうに窄まる目を加納は上目で睨んだ。
*****
「遺体発見場所からルミノール反応が出なかったって、如何思う。」
東条まどかの遺体発見場所からルミノール反応が無いと結果を出した鑑識は、此れを科学捜査研究所の法医・菅原に鑑定依頼を回した。
「別の場所、しかないだろ。其れは僕達の仕事じゃない。」
心理担当の男は生欠伸咬まし、一番に反応しそうな男を見た。
相変わらず寝ている。
「そうなんやろけど、変なんよな。」
「変、とは。」
物理担当の男が、女の様なか細い声で菅原を見上げた。
「此の日に襲われとるんは確かなんよ。傷口が綺麗に洗い流されとる。東条まどかが殺された日は豪雨で、其れは納得行くんやけど、違うのな。」
菅原が注目したのは足の裏の裂傷跡、襲われた日に付いたのも確認出来たが、古い裂傷跡もあったのだ。
「裸足で歩くのが好きなんじゃないの。」
「なんやの、其のハイジ的な何か。」
心理担当の男の言葉に、そんな戦後なら未だしも平成も二十年以上過ぎた現代でハイセンス過ぎるだろうと菅原は呆れた。
「服にルミノール反応は。」
「あった、ばっちしや。」
「靴に土て、付いてた?」
菅原と似るイントネーションで聞いたのは文書担当の男。
「着眼点はええ、けど、一緒やて。」
「はーん。」
菅原の返答に、特徴的な丸眼鏡を撫で、机の上に座る猫の頭を撫でた。
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