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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
  ―7―


 7.

 新シュトラトの門は、カルプセスからの難民達を呑みこみ、閉じた。グロズナ兵達はその後も市門の外に居座り続けた。
 新シュトラトの下町は、次第にかつてのカルプセスと似た状況になっていった。海に面した新シュトラトには、本国からの物資が運びこまれるが、それが難民達に十分に行き渡ることはなく、ラプサーラの頭上には屋根がない。
 ラプサーラは下町の一角で、地べたに布を敷き、その上に座りこんで、占星符をめくっている。
 客を呼び占うでもなく、ただ一新に符を切り、並べ、めくるを繰り返しては、時折苦渋に満ちた悲鳴を振り絞り、髪を掻き毟りながら地に伏せる。
「見えない」
 と、彼女は喘ぐ。
「未来が見えない!」
 同じ死の行軍を続けてきたセルセト人の女が、見かねて彼女に声をかけようとし、しかしかける言葉が見つからず、敷布の前で逡巡する。
「そっとしておきなさい」
 老人が女に言った。
「あの子はもう狂っている」
 ラプサーラはそんな会話を知らない。カルプセスに残された市民達の皆殺しの報も知らない。あの戦いを生き延びたデルレイが、行軍の過程で多くのカルプセス市民を死なせた咎で軍法会議にかけられることを知らない。ラプサーラは何にも耳を傾けない。全ての神経を血走った目に集め、符を繰り続ける。
「みんな死ぬ……みんな死ぬ……」
 セルセトの星占の言葉は、誰の耳にも届かない。
 彼女は事実だけを呟く。
 彼女は結果だけを呟く。
「みんな死んで、星も消える……」

 その後も、新シュトラトには度々難民達が押し寄せた。統率するのはペニェフやセルセトの敗残兵であり、あるいはそれすらない、ただの無力な一団であった。
 彼らは新シュトラトを前にして、為すすべなく叩き潰され、打ち捨てられ、草原で腐っていった。ペニェフの義勇軍は次第に消耗し、力を失っていく。
 セルセト軍は動かない。
 業を煮やしたペニェフ達は、群れをなして町を練り歩き、セルセト軍の出動を求め抗議した。または市庁に石を投げたり、堀に飛びこんで泳いで入りこもうとした。あるいは暴動に紛れて略奪を働く者もいた。セルセト軍は、暴動を制圧する時にだけ動いた。その事が更にペニェフ達を怒らせた。
 行方不明となった難民達は、廃墟の旧シュトラトに連れこまれている様子だった。新シュトラトを囲む壁からは、旧シュトラトを赤々と照らす数え切れぬ火が見える。時折投石器が運ばれては、新シュトラトの市内に向けて生首が投げこまれた。
 生首が投げこまれる度、ラプサーラは動いた。
「お兄ちゃん?」
 彼女は覚束ない足取りで、ひしゃげて街路にのめりこむ生首のもとにたどり着く。いつも、必ずたどり着く。
「お兄ちゃん」
 両手を生首の髪に差し入れて、拾い上げ、顔を見る。跪く彼女はいつもと同じ落胆と憐れみを胸に、生首を抱きしめる。
「お兄ちゃんじゃない……」
 靴底と石畳の間で砂を軋ませながら、誰かが背後に立つ。
「お前の兄はカルプセスで死んだ。こんな所に生首が投げこまれるはずがない」
 ラプサーラは生首を抱く腕の力を緩めた。彼女は狂ってはいなかった。その恰好が狂気に見えても、狂ってはいない、まだ。
「ラプサーラ。何故、お前は占星符を捲る? 何を探している? 何の答えを求めている?」
「未来が見えないから」
 手短に答えてから、背後に立つ中年の魔術師に続ける。
「かつて、世界は無数の相に分かたれた。その全てを俯瞰する神々に、世界は取りまとめられていた。……その神が消えた」
「消えただと」
「はい。占星符が示す神の不在は、世界の、少なくとも、無数の相に分かたれた現在の有り様の終焉を意味します。それより、教えて」
 ラプサーラは抱きしめていた生首を地面に置き、振り向いた。
「本当の事を教えて、ミューモット。あなたは何者なの? 何をしに来たの?」
「お前を殺しに来た」
 さも何でもないように、ミューモットは告げた。ラプサーラはただ反応に困り、跪いたまま、ミューモットの顔を見上げている。
「今から俺が言う事を、お前が信じる必要はない。狂人の戯言だとでも思って聞け」
 呼吸一つ分の間を置く。
「俺はお前を殺した、リディウ。リディウと呼ばれていた頃のお前を」
「リディウ? 何の事?」
(さき)の世、お前は生まれた意味を果たす事がなかった。そうする事を俺が阻んだからだ、占星符の巫女。人の世から隠れし滅びの歌劇の役者。俺はそうして生きてきた。神が選びし役者を殺し、世界の余生を引き延ばす為に」
「歌劇――」
「『我らあてどなく死者の国を』。第一幕の上演によって水相を没落せしめ、未だ神々が第二幕の上演を心待ちにしている歌劇。知らぬはずはあるまい」
 ラプサーラは青白い、どんよりした表情のままかぶりを振る。
「信じられない……」
「言ったはずだ、信じる必要はない」
 ミューモットはラプサーラから視線を逸らし、腕組みし、解いた。
「……いずれ来る全ての相の収縮が世界のさだめであるなら、それに抗い役者たちを殺して回る自分の存在は、本来許されるべきではなかった。神々が、人間が信じるほど絶対的で、杓子定規な存在なら。だが、俺は生きた。生きる事ができた。どういう事かわかるか。俺が、人が、生きて何をしようとも、所詮は神の手の上で遊んでいるに過ぎないという事だ」
 ラプサーラは何も考えずに頷く。
「それで、私を殺すの?」
「いいや」
「何故」
「何をして生きても同じなら、背負わされた運命を捨てる。もはや俺を見張る、遠い相、遠い時代のセルセト国の王族と魔術師達の目もない。俺はあまりにも遠くに来た。相を越え、時を越えて、実際に、自分が何年の時を生きたか分からなくなるほど」
「どうするの、私を殺さないなら」
「運命を捨て、それでもまだ生きる事が許されるなら、また会おう」
 ミューモットは背を向けた。
「セルセト軍がジェナヴァの軍港に集結している。いよいよこのナエーズに来る」
 広い背中である。黒いダガーを隠した背中である。
「戦ってみせよう。セルセト国の為ではない。ラプサーラ、もはやお前を守ってみる為でもない。ただ単に自分の身を守る為だ。自分が誰かを知る為に」
 去って行く。歩いて行く。背中が遠ざかる。
 二度と彼に会う事はない。予感だけが確かだった。
 ラプサーラは深々と溜め息をついた。足許の生首に目を落とす。
 通りに人が戻って来た。ペニェフの聖職者たちが、生首を拾い上げ、白布に包み、持ち去って行く。

 ※

 月と星の滝が、夏を滑り落ちた。実りなき収穫の秋。血に塗れた恵みの秋。太陽は和らぎ、淡く霞む光が人々の頬を撫でた。
 いよいよセルセト軍の噂が、海の向こうの黒雲のように押し寄せてきて、新シュトラトに投げ込まれる哀れなペニェフの生首はにわかに数を減じた。
 ラプサーラは占星符を繰る。
「グロズナの奴ら、セルセトと対等に交渉するつもりでいるらしいぜ。ペニェフ優位の政治をやめろってな」
 彼女の前を人々の足と噂話が通り過ぎる。
「交渉だって? とんでもない。グロズナの奴らはセルセト国をも敵と見做して最後の一人まで戦うつもりだとよ。あいつらは血に飢えた狂犬なんだ」
 ラプサーラは占星符を繰る。
「薄汚ねぇグロズナ連中なんざ、皆殺しにしてしまえ!」
 ある時には声だけが通っていく。
 何だと、と別の声が応じる。
 殺してやる、と最初の声が答える。
 すると二人目の声は叫ぶのだ、おお、やってみやがれ。こっちこそ殺してやる。
 やがて、言い争いの通りに一つの死体が転がった。
 死の噂を聞く度に、ラプサーラは彷徨い歩く。
「お兄ちゃん?」
 失望の味は違う。百回目。百一回目。百二回目。全てが。
「お兄ちゃんじゃない」
 彼女は死体の前で占星符を広げる。死者の幻影を探す。死者の声を探す。全ての死者の魂が行き着くいずれかの神の懐に続く道を、あらゆる生命が来た道を、逆に辿ろうと試みる。
 もしも希望があるのなら、狂気の果てまで追いかけていこう。黒い海を、死の岸へと押し流されていく、全ての命のように。

 ラプサーラは軍靴の音を聞く。だがそれは神の声ではない。ラプサーラは秋の光を集め滴る槍の穂先を見る。だがそれは神の啓示ではない。
 三角の帆が白く、海原の向こうから来た。
「ベリル?」
 その時、ラプサーラは占星符を繰るのをやめた。堤防に立ち、かつて己の顔にベリルが血文字を描いたあたりをなぞった。彼女は呟く。
「ベリル、見える?」
 帰りたかったろう、セルセトに。生きていたかったろう。ベリル。アーヴ。ダンビュラ、兄ロロノイ。降り注ぐ矢や石に、悪辣な魔術の罠に、剣に、飛び散っていった人たち。ラプサーラは堤防に腰をかける。名も知らぬ、眼前で、眼下で、幻視の中で、死んでいった人々の顔を思い出す。一つ一つ。カルプセスに取り残され、とうに殺されてしまった隣人達の顔を思い出す。一つ一つ。そして数える。
 三角の帆が迫り、一つの湾へとみながみな吸いこまれていく。全ての帆が移ろう空の茜に染まる頃にも、ラプサーラはまだ数えている。畳まれた帆から茜が失せ、紫に、そして藍に変じても、まだ数え終わらない。
 町の声はいつになく賑やかで、途切れる事がない。血祭りにあげられるグロズナの少女の悲鳴が夜を裂く。
 ラプサーラは仰向けの姿勢で堤防に横たわり、まだ数えていた。星のない夜空に揺らめく水紋を幻視しながら。その水紋が己の顔と体に投射されている様を想像しつつ、目を閉じる。
 セルセトは遅すぎた。
 グロズナの少女の悲鳴は止んでいた。ああ、もう、遅すぎた。彼女は語る。帰りたかったでしょう、生きていたかったでしょう? 瞼の闇、その底深くからこちらを見上げる顔、顔、顔。
 不意にそれらの顔が、確かに在るものとして、ラプサーラには感じられた。
 思いを馳せる全ての顔が、ただの思いではなくなっていた。ラプサーラは、目を閉じたまま目を見開く……内なる目を。
 額がひどく疼く。
 ラプサーラは見た。
 闇の底深くを埋め尽くす人々を。
 それが皆、見覚えがあったりなかったり、いずれにしろ、死んでいった者達であった。
 そこは闇の世界だった。ラプサーラこそが光だった。彼女が観察者であるという理由で以て、彼女が生ある者であるという理由で以て。
 死者達は目を開け、口を開けた。距離というまやかしを越えて、ラプサーラの耳を悲鳴と、叫びと、ざわめきと、悔悟の呟きで聾した。
 紙切れみたいにがさがさした手がラプサーラの足首を掴んだ。続けて同じ手触りの、しかし初めに感じたものより幾分力強い手が、反対の足首を掴んだ。ラプサーラは急激に闇の底に沈められていくのを感じた。光を求める者によって、光が、己の命が、消えていくのを実感した。
 引きこまれる、死者の中へと。ラプサーラは両手でもがき、叫び声をあげようとした。水の中で叫ぶのと同じで、いずれも無意味だった。死者達の力強さに引きずられ、落ちてゆく、落ちてゆく……。
 清らかな鈴の音が、死者の声を破り響いた。
 両足が自由になる。
 ラプサーラは宙に浮いたようになった。静けさで耳が痛くなる。
 もう一度鈴の音を聞く時、近付いてくる光を見た。水色の光だ。どこともしれぬ空間で、胎児のように体を丸めて、ラプサーラは光を観察した。それは鈴の音が響く度に、輝きを増した。
 やがて光が誰かの手の中にあることが分かってくる。光がその人物を照らした。セルセト国の魔術師の身分を示す緑のマント。白い髪。彼は右手に鈴を下げていた。左手には守護石アクアマリンの光を。
 ラプサーラは口から全ての感情が抜け出ていくのを感じた。
 彼は死者達を一瞥した。優しい目でも、かといって冷たい目でもなく、ただ見た。彼はラプサーラを見なかった。ただ鈴を響かせた。ただ光と共に歩いていった。長い髪を結った背中をラプサーラに見せて。
 死者達の狂騒は去った。死者達は一人、また一人と、光を追って歩いていく。もはや一言も話さず、もはや狂乱に陥ることなく。
 ラプサーラはその人の名を叫ぼうとした。丸めていた体をまっすぐにし、手を伸ばし、叫ぼうとした途端、大きな流れをその身に受けた。抗い難い潮流のように、それは声をなくしたラプサーラの自我を、此岸へと押し返した。
 そうして彼女は目覚めた。堤防の上、空に描かれる水紋などはない。
 顔が熱かった。ラプサーラは口を噤んだまま、堤防から海に身を投げた。黒い水に少し沈み、再び浮き上がった時、顔の熱は少しだけましになっていた。
 彼女はようやく、望む名を声に出した。
「ベリル!」
 その声は、町にあっては戦支度の兵士達の声に消され、海にあっては黒い夜の海鳴りに消された。だが確かにラプサーラは叫んだ。かつて顔に描かれていた血文字の熱さと共に叫んだ。
 ラプサーラは激しく顔を洗い、それでも消えない熱を確かめた。消えない守護と約束の熱だった。身を覆う汗と垢より深く刻まれた熱であった。
 海にあり、海より塩辛い涙が頬を伝い落ちる。
 ラプサーラは何度でも、ベリルの名を叫んだ。

 ※

 白い服。白い靴。占星符をしまっておく、白い手提げ鞄。ラプサーラはぼんやりした遠い目で、鏡の中の自分を見る。
 少し前まで、自分の顔は(まだら)だった。汗が流れ、垢となり、醜い斑になっていた。今も斑のままだ。ただ、垢を洗い落とす前とは濃淡が逆転している。垢の薄かったところは陽に焼かれ、垢の濃かったところはあまり焼かれなかったからだ。
 控室の戸が開き、セルセトの軍人が入ってきた。
「まだ臭いな」
 と、中年の下士官は言った。
「だが、多少マシになったな。こ綺麗になったものだ」
 ラプサーラはゆっくり鏡から離れた。無言のままのラプサーラに、下士官は言葉を重ねる。
「一応、もう一度だけ聞いておく……セルセトに帰らなくていいのだな?」
「ナエーズに残ります」
「よりによって、星占としてか。これまでデルレイの助けとなってきたように」
 下士官は彼女の意志を探るように、斑の顔を凝視する。
「軍に留まるとなるとだな、誰に殺されても文句は言えんのだぞ」
「今までもそうでした。これからもそうだというだけでしょう?」
「理解できんな。あんた、まだまだ楽しい事がたくさんある歳だろうよ。残って何になる?」
「帰って何になるというのです」
 人生の楽しみ。とりわけ若い娘としての楽しみ。そのようなものを得るには、ラプサーラは疲れすぎていた。そして老いていた。他の十代の娘達に比べて、誰より。
「意味などございません。どちらを選んでも」
「意味がないなら尚更だ。何でまたナエーズに残る?」
「あなたはどうなんです、軍人さん。この戦争に意味があるとでも?」
「意味もなく戦えるような奴は狂人だ」
 下士官は少し迷った。
「俺達はナエーズの安定のため――」
「そういう事ではございません。そんな事を聞いているんじゃない。もっと根源の――もっと本質的な――」
 ラプサーラは、自分の言おうとしている事が、あまりにも要領を得ていない事に気付き、口を閉ざした。下士官は肩を竦めた。
 二人は共に廊下に出た。
「あんたがナエーズに残る理由は師団長も聞くだろう」
 下士官はある大きな扉の前で立ち止まり、囁いた。
「はっきりした答えを言うように。師団長は恐ろしい人だ」
 扉が開かれた。ラプサーラの顔に、白い光が差した。


 
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