会見
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会見
歴史的会見は何事もなく終わった。
何事もなかったのはおそらく表面的ではあったが、それでも記録係が何か書き残すとすれば、極めて平和理に終わったとしか書きようはなかったろう。あえて付け加えるとすれば、ヤン・ウェンリーはローエングラム公の申し出を断り、退役すると宣言したことくらいで。
予定では帰りのシャトルがヒューベリオンに到着しているであろう頃、ヤンはまだブリュンヒンの中、士官に案内された部屋にいた。
「は? シャトルが出ない?」
「はい、誠に申し訳ないのですが、航行機関に異常が見つかったとのことで修理中なのです」
会見を終え、後は帰るだけだと思っていたヤンは面食らって聞き返した。
「だがこの艦にもシャトルはあるだろう? それで送ってはもらえないだろうか?」
ヤンとしてはどうしても乗ってきたシャトルで戻りたいわけでもなく、ヤンなりの案を申し出てみたのだが、自分はシャトルが遅れることを伝えに来ただけであるの一点張りである。
「万が一のことがあっては大変ですので、念には念を入れて、修理と点検をさせていただきます」
そう言われては仕方なかった。整備を行う者としては当然の義務と責任感を持ち合わせているだけである。帰還途中、宇宙空間でシャトルが動かなくなってもいい、とも言えないし、それではヤンも困る。
「それほど時間はかからないと思います。休憩用に部屋をご用意いたしておりますので、どうぞそちらでお待ち下さい」
そして案内されたのが今いる部屋だった。
戦艦の中に高級ホテル並のゲストルームが必要とは思えないが、どう見てもそうとしか見えない。同盟の戦艦も下士官と将校では扱いが違うし、私室ともなれば雲泥の差があるが、それでもたかが知れている。
「うーむ、さすがは銀河帝国、というのも妙だが……なんせ貴族の生活は庶民には伺い知れないところがあるし」
最初は落ち着きのない熊か何かのように室内をうろうろしていたヤンだが、コーヒーのセットと一緒にウィスキーやワインのミニボトルを発見するとうれしそうにそれらに手を伸ばした。
冷蔵庫から氷をグラスに入れ、ウィスキーと共にテーブルへと運ぶ。
「これ……飲んでいいんだよな」
ホテルには幾度となく泊まったことはあるが、そのような場合は建物や室内の案内が必ず用意してあったし、飲食物が有料の場合はその料金もきちんと掲示されていた。一応目につく場所を探したが、もちろんそのようなものはない。
「ダメなものなら置いてないだろうし、だいたいこの部屋そのものが待合室にしては豪華過ぎる」
ハイネセンでこのくらい立派な部屋に泊まったら幾ら取られるだろうか、ヤンは考えてもみたが、想像は想像の域を出るはずもない。
「私が指定したわけでなし……そうだよな。敗軍の将でとあるが一応は招かれて来ているわけだし、わざと設備でも壊せばともかく……それに帝国には少なからず金を払わされるだろうから」
ラインハルトとの会見で、ビュコックらの生命の保障を得た。口約束ではあるが、それを告げた時の彼の表情からそれを反故にするとは考えられない。
新たな銀河の覇者は安全な場所から安穏と宇宙を手に入れたのではなく、常に陣頭に立っていた。たとえ口約束であっても守らないことは自分の生き方を否定するようなものだ。
もしかしたら、若き覇王に自分に仕えないかと誘われるかも知れない、と他者に話したら笑われそうなことを想像してもみた。それは現実のものとなり、それに対する返答は心から彼を納得させられたとは思えない。それでも考えておいてよかった、とヤンは心から思った。
もし帝国に元帥として招かれることになった、と自分を待つ者達に告げたら皆はどんな顔をしただろうか。ついでに、私の部下も一緒に召し抱えてくれると言うから一緒に来ないか、と付け加えたらどうなっただろう。
仮定からの想像はヤンの好むところではないが、自分の返答次第では現実足り得た。
ラインハルトの自尊心がそれを許さなかっただけで、歴代皇帝ならばヤンや部下達の生命と引き換えに強引に招集したかも知れない。単純に自分の生命と引き換えにしてもいいほどの主義主張はヤンは持ち得ていないし、それによって回りの人間を巻き込みたいとも思っていない。
つまりはヤンが断ってもラインハルトがそれを認めなかったら、帝国の元帥府にヤンの姿があったかも知れなかったのだ。
「帝国元帥だと、この程度の酒は毎日飲めるのかな」
ミニボトルであるが、封を開けたばかりのものは香りが違う。
ヤンはうっとりした表情を浮かべ、小さなボトルの口に鼻を近づけその匂いを嗅いだ。それから氷を入れたグラスに注ぐ。
ボトルが小さい為か、新品独特のトクトクという心地よい音は聞けなかったものの、それでも氷を伝って琥珀色の液体がグラスに溜まっていく様は美しい。室内の照明に氷が反射して光っている。
少しの間、ヤンは目を細めて見ていたが、うれしそうにグラスに口をつけた。
「んんー……」
喉を滑り落ちていく液体は冷たいのだが、強いアルコールが熱を感じさせ、ヤンは唸り声をあげる。
四万の敵艦に囲まれて飲む紅茶は正直、茶葉の品質や、それを入れてくれたユリアンの技と比べると香り少なく味気無いものだった。
「敵艦の中で飲む酒の方が味は上かな?」
これは紅茶よりも酒が勝っているからではなく、今なら謀殺されるのは自分一人だという一種の気楽さのせいだろう。自分の馬鹿げた決断───実際、長い付き合いのあるアッテンボローはそう言い、ヤンも否定しなかったが───により、迷惑などという言葉で済むレベルではない迷惑をかけ、これからもかける自覚もある。
酒は美味いが、だからといって調子に乗って飲んでいては早く酔いが回ってしまう。迎えが来た時に酩酊状態では格好が悪い。
そう思ったヤンは何か酒の肴はないか、と冷蔵庫を物色しようと立ち上がった時
「失礼します」
という声と同時にドアが開いた。
「は、はいっ」
入ってきたのはヤンが見知っている数少ない人物の一人、ミュラーだった。
「お酒を召し上がっておいででしたか」
その言葉にはっとして振り返る。
テーブルの上にはグラスとミニボトルが置いてあり、それ以外の状況は考えられない。
「え、ええ……手持ち無沙汰だったものですから」
言いながらもう少し巧い言い方はないものか、とヤンは苦笑した。まったくの嘘ではないのだが、手持ち無沙汰だからといって酒を飲むとは無職のアル中患者じゃあるまいし、いや、もうすぐ無職にはなるのだが、と心中でヤンが唱えている間、ミュラーは別のことを考えいた。
もし逆の立場で、自分が敵艦に足止めされたら置いてある酒を何の疑いもなく飲めるだろうか。
不安を酒でごまかすことはあるかも知れないが、ヤンの飲酒はそれとは違う。グラスと氷を使っているのが、酔う為ではなく味わっていた証しだ。
「シャトルの修理にはもうしばらくかかるそうです」
「そうですか。それはわざわざどうも」
ヤンの方が恐縮して頭を下げると、ミュラーは一瞬苦笑いのような表情を浮かべ、すぐにそれを引き締めた。
「もしよろしければローエングラム公がもう少しお話をしたいと言われています」
それからもう一歩近寄って、ヤンに耳打ちした。
「非公式に、極めて個人的にお会いしたい、と」
つい先ほど歩いた廊下を、再びミュラーに誘導されて歩くのはいささか妙な気分だった。
大きく違うのは、途中までは人目に付かない通路を使い、他の帝国軍人の姿を目にしなかったことである。好奇に満ちた視線に晒されることは、同盟軍の一軍人であり続けようとしたヤンにはそう何度も経験したいものではなかった。
もちろんミュラーがそんなヤンの心理を察して選んだ通路ではなく、ごくごく単純な理由、秘密裏に事を運ぶ為だったのだが。
「どうも……」
再びラインハルトの私室に通されたヤンは、困惑している様子を隠す努力もせず、ベレーの下の髪の毛をくしゃりと掻き回した。
「またお会いできて光栄です」
椅子に掛けたままにこりともしないラインハルトにそう付け加える。
「卿も掛けたらどうだ」
「はい、では失礼します」
向かい合う形でソファに腰掛けたものの、どうにも格好がつかない。これは先ほどもそうだったのだが、ラインハルトはゆったりと背もたれに体重を預けてくつろいだ態勢なのと比べ、ヤンは校長室に呼び出された生徒のように浅く腰掛け、油断をすると背筋が丸くなってしまうのでしょっちゅう意識して背中を伸ばしていた。
旗艦でも自席に座らず、コンソールの上に胡座をかいていたのだから、急に行儀よくもなれない。
ソファという種類の椅子は鷹揚な座り方をするのが正しいのだろうと今さらながら発見したヤンだった。それを実践することができたのは、多少なりともアルコールの効果があったのかも知れない。
「ミュラーに聞いたのだが酒を飲んでいたそうだな」
「はい、手持ち無沙汰でしたから」
飲酒していたことは報告されているのだろう。嘘をついても仕方ないし、必要もない。
ひょっとして顔に出ているのだろうか、と頬にふれてみたが、熱いかどうかはわからなかった。尤も掌と頬が同じくらい熱を帯びていれば熱くは感じないだろう。
「閣下はお酒は召し上がらないのですか?」
「飲まないことはない。毎回の食事にワインを付けたりはせぬが」
「はあ……ワインですか」
「卿はワインは飲まないのか?」
「いえ、私は酒なら何でも好きです」
タイミングを見計らったように扉が叩かれる。
「ワインをお持ちしまいました」
先ほどは幼年学校の生徒らしい少年がコーヒーを運んできたが、ワインとグラスを乗せたトレイを運んできたのはミュラーだった。
「私にはワインのことはわからないので適当に選んでもらった」
テーブルにおかれたワインのボトルをヤンに見せる。もちろんヤンにもそのラベルに書かれている文字は幾つかの単語が辛うじて読めるだけだし、意味となるとチンプンカンプンだった。
ミュラーがやや危なっかしい手つきでワインを開けると静かにグラスに注ぐ。
「四七〇年ものだそうです」
ヤンは感嘆のため息をついたが、ラインハルトは至極当然のような顔をしてワイングラスの足を持った。
「乾杯」
ラインハルトの涼やかな声に唱和して、ヤンは軽くグラスの縁を当てる。
最初は緊張のあまり味がわからないかも、と心配したが、その前に飲んでいたウィスキーの効果か、美味しい酒は状況を選ばないのか、鼻孔をくすぐりながら喉を落ちていくワインの味にヤンは相好を崩した。
「卿は本当に酒が好きらしいな」
ヤンのグラスがすぐに空いたことを指しているらしい。
「美味しいので、つい……閣下はあまりあがられてないようですが」
ラインハルトのグラスは最初に口をつけた後、あまり減っているように見えない。
「酒は嗜む程度でよい」
そう言ってから気づいたようにボトルに手を伸ばすと、ヤンのグラスにワインを注ごうとした。
「だがそれはあくまで私個人の主義であるのだから卿が気にする必要はない。開けてしまったからには飲まないと勿体ないだろう」
注ぎ易いようにグラスを持とうとしたが、ワインを注がれる時はグラスを持たないのがマナーだと思い出す。注がれるワインを見ながら、このワインもいいものだが、銀河帝国皇帝に給仕される値打ちには金額のつけようがない。
ラインハルトとしては一応自分がヤンを招待し、もてなす側だと自覚しているから特別なことをしているとは思っていないのだが。
「卿は酒は常に飲むのか?」
ヤンには遠慮なく飲むようにと言いはしたが、自分がまったく口をつけなければ飲めないだろうと察したラインハルトもグラスを傾ける。
「そうですね。よく飲む、と言われます。自分では普通だと思っているのですが」
「卿は確か、まだ独身だったな」
「はい、まだ独身です」
ヤンは苦笑いと共に答えた。
フレデリカ・グリーンヒルにプロポーズを行い、承諾の返事は貰っているものの、正式に婚約したと公言してもいいものだろうか。どちらの両親もすでに亡くなっているし、成人しているのだから、婚姻は双方の同意によって成立する。
「そうか、なら卿にも身の回りの世話をする者がいるのか?」
その言葉にヤンは先ほどコーヒーを運んできた幼年学校の生徒を思い浮かべた。
「特にそのような者はおりません」
コーヒーも紅茶も飲みたい者、手の空いた者が入れればよいし、艦内の食堂には調理や配膳専門の人間が配置されているが、ヤンの専属ではない。
「ではいったい誰が卿の酒の量を知っているのだ。まさか毎日の飲酒量の報告が義務づけられているわけではあるまい」
これが冗談ではないのがラインハルトである。またヤンもそれに几帳面に答えた。
「それは私の被保護者が……ああ、トラバース法というものがあって、我が家には少年が同居していて、彼が私の酒の量が多いと表まで作って忠告をしてくるのです」
「トラバース法……知らない法だが、どのようなものなのか?」
そうラインハルトに言われ、ヤンは簡単に説明した。キャゼルヌに何となく言いくるめられて、気がついた時にはドアの外にトランクを持ったユリアンが立っていたことは省いて。
「なるほど。戦争が長引けば孤児は増えるばかりだ。それは我が帝国でも同じ事。孤児の為の施設を増やすよりも即効性はある。人員確保も大切だろう。だが保護者となるのが立派な人間ばかりだとは限らないのではないか?」
「ええ、私のような反面教師がいたり───」
慌ててヤンは言葉を切った。ラインハルトが至極真剣な表情をしていたからだ。
「いえ……その、保護者はしかるべき機関が厳選しますから」
「なるほど、そのしかるべき機関とやらは絶対だと卿は思っているのか」
「絶対とは思いませんが、まずは信頼しなければ医者にもかかることができません」
ヤン宅におけるユリアンを知らぬ者がみれば、虐待とまでは言わないにしても、青少年の育成に問題がある、被保護者は家政婦ではない、と忠告するに違いない。
だがヤンが指示したわけでもないのにユリアンは今の状況に自らを置き、それを楽しんでいる風でもあった。軍人になることも、ヤンは強制したわけではない。ユリアンから相談された時には、そう焦ることはないと止めた。
自分がタダで歴史を学ぶ為に士官学校に入学し、食うために軍人になっただけに、ユリアンにはそんな思いをさせたくはなくて、保護者を引き受けた時から養育費は返すつもりでいたくらいだ。
「……私の被保護者は、たぶん、満足してくれていると思いますし」
その言葉にラインハルトは唇の両端を僅かにあげて笑みの形を作る。それの意味はヤンも察することができた。
「その失礼ですが、閣下はご結婚はまだ考えてはおられないのですか?」
ヤンの問いにラインハルトは低く笑った。
「卿も皆と同じことを言うのか。意外だったな」
それ以上ワインを飲む気はないのか、指先はグラスの縁をなぞり続けている。
「一生独身で過ごす、とは言わぬ。だがようやく銀河を統一したばかりの私に次々と難題を持ち込むことはなかろう」
銀河の覇者になるのと、結婚はラインハルトにとっては同レベルらしい。
いや、今すぐ結婚するか、もう一度銀河を手中に納めるべく兵を進めるか、どちらかの選択を迫られたら、迷う事なく彼は出陣を選ぶだろう。次こそは譲られた勝利ではなく、自分の手で勝利をもぎ取る為にも。
「しかし閣下には後継者が必要かと思います。いえ、私ごときが申し上げることではありませんが」
「後継者、か……」
「ええ、君主政治では不可欠なことかと」
「私が必ずしも自分の子供を皇帝の座につけようとは思っていない、と言ったら卿はどうする?」
ラインハルトの答えは銀河帝国皇帝とは思えないもので、ヤンも驚きが隠せない。
「それは、その……閣下がご結婚を考えておられない、という意味とは」
「それは違う。現在具体的な予定はないが、結婚する意志はある、一応はな」
その声の響きは楽しげだった。ヤンが予想に違わず驚いていることにも満足しているらしい。
「私の子供が皇帝の器でなければ無理に皇帝にさせなくてもよい」
「閣下……」
ラインハルトが冗談や思いつきを言っているのではないことは、その顔付きと声色が現していた。
「ルドルフは確かに稀に見る才能の持ち主で、実力で銀河を手中に収めた。だが、その子孫が同じだけの才を持つわけではない」
ヤンの震える指がグラスを倒したが、中身がすでに空だった為、非音楽的な音を奏でただけで、大理石のテーブルを汚すことはなかった。
「私の子孫とて同じことだ」
「ですが、しかし……」
「今でもそうだ。私よりも力あるものがいれば、皇帝になればよい」
そう言うとラインハルトはテーブル越しにヤンの方に身を乗り出して来た。
「どうだ。今ここで私を倒せば、銀河は卿のものになるぞ」
「な、何ということを」
「二人きりだ。武器は……」
ちらりと執務机に視線をやる。
「あそこにあるが、つまり今私は丸腰だ」
「か、閣下、私も丸腰です」
「武器の所在は今教えた。引きだしに鍵はかかっていない」
自分の胸を撃て、というように手を当てラインハルトは続ける。
「いいチャンスだとは思わぬか?」
「ですが、私は射撃が下手で……士官学校時代の成績は酷いものでした」
「この距離だぞ」
つまらない言い訳だと自分でも思ったヤンは絶句した。
「そこまで自信がないのなら、私の胸に銃口をつけてから引き金を引けば外れることもない」
ラインハルトの声はさらに大きく高くなっていく。普段のラインハルトの様子などヤンに知る由もないが、ここまで声高になることがあるだろうか。
「卿達は私の旗艦を狙ってきたであろう? 絶好の機会ではないか。銀河は卿のものだ」
「ですが閣下、私は銀河を欲しているわけではないのです」
ようやく発した静かな一言が、室内を満たしていた狂気にも似た熱を冷ました。
ヤンと額を突き合わせんばかりの距離にいたラインハルトが身体を引き、まだその瞳は熱病患者のような光を帯びてはいたが、ソファに腰を下ろす。
「確かに閣下を倒そうとしてきたのは事実ですが、それは閣下のお命そのものを欲していたわけではありません」
「ほお、卿は面白いことを言う。ではあの時、ハイネセンから停戦命令が下されなければどうしていた? 旗艦ごと私の命を奪ったのではないか?」
「はい」
ヤンは正面を向いたまま答えた。
「その通りです。あの時閣下の死を願いました。それが唯一の勝利の道でしたから。どれほど不利な状況に陥ろうとも、閣下さえ」
そこで言葉を止め、右手の指先を銃口に見立ててラインハルトに向ける。
「ただしあの時限りです」
静かに言いながらヤンは、それに左手を被せてゆっくりと降ろした。
「私が閣下だけでなく、このブリュンヒルトの乗員を一緒に宇宙の塵にしてしまっても罪になることもないですし、失礼ながら言わせていただければ、閣下という希有な存在を抹殺してしまうことを遺憾に思い、また恐れる気持ちもありましたが、戦時下であればやむを得ません。あの時、もしもハイネセンからの停戦命令がなければ、私は間違いなく攻撃命令を下していました。こうして閣下とお目にかかることもなかったはずです」
今気づいたかのように倒したままだったグラスを起こす。
「もちろん一緒にワインを飲むことも」
今度はラインハルトが黙り込む番だった。
「敵味方含めて私は多くの人命を奪ったのに、それを罪に問われることもなく、逆に昇進を繰り返して参りました。勝っている間は英雄だのと煽てられて。私はたまに恐ろしくなります。自分が殺めた人間のことを考えると……夜中にふと目を覚ました時など、それを思うと眠れなくなることもあります。もしも今、私が閣下を手に掛けたら、それは単なる殺人になるでしょう。一人殺せば殺人者だが、一万人殺せば英雄───という言葉があったそうです。遥か宇宙暦以前だそうですが。平常時であれば殺人行為になることも、状況次第ではそうではなく、それは今日でも同様だと私は考えております」
「人を殺して許されるのには時と場合がある、と言うのか。卿もそう言うのか」
ラインハルトの端整な顔が苦しげなものへと変わる。右手が胸元を弄っていることにヤンは気づいた。そこに何があるのか、ヤンの位置からはわからない。
「卿までもが私の罪は一生許されぬと言うのか」
自分を撃てと言った時のラインハルトには鬼気迫るものがあった。並外れて美貌の主である故、それはより際立ってもいた。
それと比べると今の表情は苦悶が強く浮き出て、十歳も歳を取ったようにも見える。
ラインハルトの右手は強く銀のペンダントを握り締めていた。それが彼自身の痛む心であるかのように、陶器を思わせる白く形のいい指は細かく震えた。
リップシュタット戦役の際、二〇〇万の住民の命が無碍に奪われることを知りながら、ラインハルトはそれを止めもせず、その残酷な絵図を撮影させた。あの映像がなくともラインハルトは勝利しただろう。
ブラウンシュヴァイク公爵が自分の領地の民衆を惨殺しようとした、その事実を公にすればよかったのだ。二〇〇万もの人民の命を奪う必要性はなかった。もうしばらく勝利に時間がかかろうとも、失われた大地と生命とは比べようもない。
あの時、オーベルシュタインの言うことなど無視すれば、側にいたのがキルヒアイスだったら───
ヴェスターラントの住民を見殺しにすることがなければ、今も傍らには彼がいたはずだった。ヤン・ウェンリーなどではなく。
惨劇を防がなかった後も機会がないわけではなかった。一言、キルヒアイスに詫びればよかったのはわかっていたが、それができなかった。
そしてその機会は永久に失われた。かけがえのない己の半身と共に。
そのことだけでも十二分に自分は罰せられている。にもかかわらず、どうしてこんな男に今更言われなければならないのだ。
次第に怒りにも似た、ヤンにとっては理不尽な感情が剥き出しにされる。
「卿に私の気持ちがわかると言うのか」
ヤンにはリップシュタット戦役の時の内情などわかるはずもない。ラインハルトを責めているつもりもなかった。子供のような彼の心の動きがどうして理解できよう。
室内を満たすラインハルトの感情が沸点に達する寸前、ついと手が伸び、何かスイッチのようなものを押した。二秒と立たないうちに、失礼します、とミュラーが入ってくる。いつでも呼べるように隣室に待たせていたことは明白だった。
「酒宴は終わった。ヤン提督をお送りしろ」
「はい、かしこまりました」
短いやり取りには、ヤンに一言も言わせぬものがあった。
「御馳走様でした、閣下」
深くお辞儀をしてソファから立ち上がり、きちんとベレーをかぶり直して敬礼をする。それに対してラインハルトは極めて儀礼的に、立つのも嫌そうな素振りで敬礼を返しただけだった。
(ローエングラム公は勝利に満足していないのだろう。だが、それだけではなく……)
またしてもミュラーに先導される形で廊下を歩きながらヤンはふとそう思った。
ヤンが知り得るラインハルトの人となりからでも、彼が今回のような勝ち方を良しとしないことは理解できる。だが戦争は戦場だけのものではない。戦術の前に戦略がある。
ヤン自身は自分が参戦して、それが戦略的勝利であろうと、戦術的勝利であろうと勝利には違いないし、できれば戦略の時点で勝ちたいと思う。血は流さずにすめばそれに越したことはない。
ラインハルトが実質上の銀河帝国の支配者となった時、自分を倒せる者がいればいつでもかかってくればよい、とロイエンタールに漏らしたことも、それがそうやって権力を得た彼の本心であることも、ヤンは知らない。
本当にシャトルに故障箇所があったのか、それとも自分を返さないつもりだったのか、いろいろ考えても埒のないことだった。
こんな自分でも待っていてくれる人達がいる。
念願の年金生活の前にまだ片付けない仕事があることを思い出すとため息が出たが、その次には欠伸になり、シャトルの中でヤンは居眠りを始めた。
後書き
原作を確認したところ、2人の会話は一度限り、しかも時間短っっっ いや、でも詳しい描写がこの程度しかない、ということは、ちょこっとならねじ込めるぞ、と。
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