闇物語
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
コヨミフェイル
015
僕は廃墟にいる。元は叡考塾と呼ばれたそれなりに名のあった学習塾の抜け殻だ。駅前に進出してきた大手学習塾に押されて敢なく潰れたらしい。周りには立入禁止と書かれた柵が張り巡らされているが、柵の金網に所々穴が空いていて用を成していない。
中は酷いとしか言いようのない有様で、この建物は四階建てなのだが、どの階の教室も椅子や机が散乱していたり、蛍光灯が割れていたり、床のリノリウムもあちこち剥がれていたりと、荒れ放題だった。そんな廃墟の四階の一つの教室は忍野が寝床にしていた机を並べた簡易ベッドがある。
僕はその簡易ベッドの端に腰掛けていて、右に妖刀『心渡』を立て掛けている。左には忍が僕に引っ付くようにして腰掛けていた。手持ち無沙汰に穴の開いた天井の向こうに広がる星のない夜空を見上げながら足をプラプラと前後に揺らしている。
つまり、忍と二人きりである。先に行っていると言った斧乃木ちゃんの姿はない。先に行っていると言った斧乃木ちゃんがここに向かったと解釈したのだが、僕の勝手な思い込みだったのだろうか。それともここにいるが、忍も影の外にいるから姿を表さないだけなのか、まあ、どちらにせよ、見えるところに斧乃木ちゃんはおらず、この場には僕と忍しかいないことだけは明白である。
勿論この状況に胸を躍らせはしない。一人のときは、すなわち、影の中にいる忍と二人きりなのだから、ほとんどの時を忍と二人きりでいる僕は、そんなことで得に嬉しくはならない。いつものことである。
ただいつもと違っているのは忍の容姿だ。
着ているのはワンピースではなく、着物である。それも闇夜に紛れるような黒い着物である。まさにナイトウォーカーといった感じだ。
背丈も少し高くなっていて平らだった胸も心なしか膨らんでいる。
まあ、つまり、忍に血を吸わせて成長させたのだ。言わずもがなのことであるが、少し成長して雰囲気の違う忍を眺めて楽しむためではない。
これが作戦なのである。
忍は元最凶最悪の怪異、怪異の王、鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード――だった。今はほぼすべてのスキルをなくし、僕の影に繋がれている。
そして、それと同時に存在力を失っている。
ほぼ人間に成り下がった忍の怪異としての力、つまりは存在力は皆無に等しかった。
だが、そんな忍の力を復活させる方法がある。
実に簡単で、僕の血を与えれば、全盛期の姿に戻れる。
ただそうなれば、僕が掛け値無しの吸血鬼になる。
最強の吸血鬼の眷属になる。
だけど、そんなことはまっぴらごめんだし、今はそれを必要としていない。必要なのは月火のと同等の存在力。
つまりは今の忍の姿は月火の存在力と等しくなるように調節された結果なのである。二十数人にしか知られていないだけあって、調節に要した血の量はそれほど多くなく、二、三歳程度成長するに留まったのである。
それでも、全盛期の忍を見てわかるように、忍は長身なので、月火とそれほど背丈が変わらない。さらに着ている着物が月火を思わせる。
きっと僕のイメージが反映されてしまっているのだろう。
ここまでくれば、作戦の内容はほとんど明かしたようなものだが、敢えて言わせてもらえば、存在力は全くの同一、容姿はごく一部のみ同一である忍は今回月火の囮になってもらっている。
そして、囮に引っ掛かってのこのこ現れた黄泉蛙に憑かれた火憐を『心渡』で黄泉蛙だけを切る。障り猫のときには失敗した作戦だが、今回は黄泉蛙という低級の中の低級の怪異なので、火憐を危険に晒すことなく『心渡』で一太刀のもとに切り伏せられるとのことだ。
と、まあ、荒っぽいが、こういう作戦なのである。
「こうしてお前様と二人になるのはいつ以来かのう」
唐突に忍が言った。
「何を言ってるんだ。誰もいないときに二人きりだろ。そういう意味では、僕の彼女である戦場ヶ原でさえ比較にならないほど二人でいる時間は長いだろ。ていうか、僕と戦場ヶ原が二人きりだった時間はないという意味じゃないか!!」
芋づる式に驚愕の事実が露見した。
少し考えればわかるようなことであるが、今まで気にしなかったのだ。
「だけど、まあ、それを一心同体というのだろうな」
戦場ヶ原とは学校と放課後に勉強を教えてもらう間ぐらいしか会っていないのを考えると、一緒にいる時間も比べものにならないのである。
このことを戦場ヶ原がどう思うだろうか。
いや、戦場ヶ原のことだからこのことについては既に気付いていて何かしらの結論を下して割り切っているのだろう。勝手な憶測だけど。
「じゃが、儂は夜型じゃから、お前様と二人きりでおる時間は実質的には少ないし、」
それに一緒にいる時間の長さなぞ関係ないじゃろう?
何故か得意顔で忍は言った。
「……そうだけどな」
戦場ヶ原は気にしていないかもしれないけど、浮気しているようであまり気が晴れない。勿論そんなつもりは毛頭ない。だけど、今朝浮気を否定したことに後ろ暗い気分にさせられないでもないのだ。
「軽い気持ちで話題にするべきじゃなかったのう。まあ、気にするでない。今はそれより気になることがあるのじゃ」
「ん?」
「お前様の後輩が言ったことについてじゃが」
「ああ、火憐が石のように硬くなることか」
作戦の内容を皆に伝え終えた後に神原から聞き出したことである。
『攻撃を加えようとすると、途端に硬くなる。まるで貝が殻を閉じて身を守るように』
だそうだ。
黄泉蛙に憑かれた火憐と拳を交えていたときに気付いたらしい。
火憐が放った拳打を弾いて軌道を逸らしたときなどに触れた感覚では、鍛えている分、身が引き締まっているとは言え、石のような硬さは感じなかった。だが、一度火憐が防御に転じると、体が石のように硬くなるのだと言う。
そのために幸か不幸か火憐の体にはダメージと言えるようなダメージはなかったらしい。
だが、その所為で、神原が苦戦を強いられて、深手を追ったと思うと、やはり不幸なのかもしれない。
それはさておき、ここで気にするべきことは火憐の硬化である。
黄泉蛙のスキルであることは確定だろう。だが、黄泉蛙は蛙なのだ。由来がどうであれ、蛙なのである。それは明白な事実で、無視できないことである。
そして蛙が硬化するようなことはないこともまた明白な事実であり、無視できないことである。
「確か、北白蛇神社の道の途中で思い出そうとしていたことがあっただろ?そのことじゃないのか?」
「そうなのじゃ。お前様の後輩の言ったことを耳にしてピンとくるものがあったのじゃが、それがはっきりとせん」
忍は眉間にシワを寄せて俯いた。
そして、何かを思い出したのか、はっとしたように忍が顔を上げたそのときだった。
窓側の壁一面が爆散した。
それで発生した音、というよりかは衝撃波が身体に浸透して、内臓を押し潰されている感覚を覚えた。まるで、空爆を受けたようだったが、これが砂ぼこりの中に佇む人間兵器の仕業であるならこの表現は間違っていないだろう。
言うまでもなくその人間兵器は火憐である。
そして、此度その人間兵器は怪異を搭載されている。
壁を吹き飛ばしてできた砂ぼこりが収まると、その姿が月光に照らされて浮かび上がる。黄と黒のジャージはいつも通りだったが、顔に張り付いた何の感情も窺い知ることのできない無表情だけが異質だった、異常だった。
目は虚空を見詰めていて生気をまるで感じさせなかった。
その目がおもむろに忍を見据える――月火と同等の存在力の忍を。
だが、月火の存在力を辿って、辿り着いた場所にいたのが予想と全く違った怪異であることにまるで驚きを見せなかった。完全無欠の無表情だった。
その無表情の顔にはちきれんばかりの笑顔を浮かべた火憐の顔がちらついて、嫌悪感が沸き上がった。
「火憐ちゃんに憑いたことを後悔させてやる!!」
嫌悪感とともに沸き上がる怒りに任せて『心渡』を掴んで黄泉蛙に向かって疾走した。忍に血を与えて身体能力が向上していることもあって、思った以上のスピードが出た。
「待つのじゃ!お前様よ!!」
後ろを走る忍の声が遠くに聞こえて、入ってこない。
走りながら『心渡』を大上段に構えて火憐が間合に入った瞬間に振り下ろした。その間火憐はまるで微動だにしなかった。それどころか視線を忍に合わせたままだった。
しかし、火憐が腕を引いたと思ったときには振り下ろした『心渡』が痺れるほどの衝撃を手に残して消えた。いや、弾かれていた――弾かれた『心渡』が壁に当たって、甲高い音を立てながら地面に落ちて、初めて弾かれたことに気付いた。
『心渡』の軌道上に火憐の掌底があった。
太刀を横から掌底で弾いたのだ。手が握れないほどに痺れていることが、どれほどの力で『心渡』を弾いたのかを物語っていた。
まるで今朝の再現のようであるが、弾いた物が僕の腕ではなく、一つ間違えればただでは済まない妖刀であることは大いに違っている。
他に言えば、場所と火憐の表情ぐらいか。
「くそっ」
さらに踏み込んでやけくそで痺れる手で拳を放った。
そんな拳が届くはずもなく、簡単に手首を掴まれた。
そして、火憐は掴んだまま僕を巻き込むように右足を軸に、上から見て反時計周りに体を回転させた。その力が尋常ではなく、思わず無防備にも前のめりになった。その前のめりになってあらわになった僕のうなじに僕の腕を掴んでいる手と逆の腕の肘が回転運動による遠心力とともに打ち込まれた。
というか、タイ式ボクシング、ムエタイの技だった。
お前の通ってる道場はどうなってんだ、と思う間もなく、それ単体で凶器たり得る肘に回転によって加えられた遠心力で頸骨はいとも簡単に砕かれ、意識を断絶された。
「かはっ」
意識を取り戻した瞬間、意識を失っていた間に取り込めなかった酸素を取り戻すように限界まで空気を吸い込んだ。
「なんだ?」
息が整ったところで、自分が何故床に仰向けになって倒れているのかわからないことに気付いた。
「立つのじゃ、お前様よ」
手をついて四つん這いの恰好で見上げると、数歩前に立ちはだかるように立つ忍の背中が見えた。手には『心渡』が握られていて、背丈も随分と高かった。見回してここが叡考塾の一室であることは容易にわかった。
だが、状況が把握できない。何かただ事ではない事態であったことは覚えている。しかし、それはあまりにも漠然としていて判然としなかった。頭からすっぽりと記憶が抜け落ちたような感じだった。
「何をボーッとしておる。早く立たぬか。これだから馬鹿は好かん」
忍に言われて訳もわからないまま立ち上がると、忍で見えなかった忍と対峙していた者が見えた。
「か、火憐…………?」
何故火憐が忍と向かい合っている?
いや、まず何故こんなところにいるんだ?
それに何故忍が成長している?
疑問なんてあげればきりがなかったが、全て火憐の顔を見れば解消された。
火憐が何故無表情であるかということから火憐が黄泉蛙に憑かれていることを思い出し、さらにそのことからここにいる理由も神原が深手を負ったことも火憐の正義が汚されたことも芋づる式に思い出した。
そして、そのこと全てに底知れない怒りを抱いていたことも。
「くそっ……」
立ち上がって駆け出そうとする僕を忍は片手で制した。
「同じことを繰り返すつもりか。馬鹿もここまで来れば一種の天才じゃな。言っておくが、お前は首を折られたのじゃぞ。そんな激痛を味わされる身になってからするんじゃな。いや、それとも今この場で味わされるか?」
妙に口調が刺々しくなっていないか?
背丈も僕の胸までしかなかったのが僕を少し越すぐらいまでになってるし、服装も僕の通っている直江津高校のセーラーブラウスにスカートだ。腰に届いている髪は垂らしてあるだけで、いじられていない。そして、前髪は直線だ。
ていうか、戦場ヶ原だった。
何故戦場ヶ原のイメージが反映されたんだ?確かに戦場ヶ原は僕の大切な人であるけれど、もちろん他にも大切な人はいる。千石や八九寺は背丈の問題で反映されないにしても羽川とか神原とか影縫さんとかでもよかっただろう。
「いや、ただあのツンデレ娘がどんな気持ちでお前様をいたぶっていたのか気になってのう。成り切ってみたのじゃ」
「へぇー…………じゃねえよ。何故今それが気になる。空気を読めよ!」
曲がりなりにもシリアスパートじゃないのかよ。
「言ったじゃろう。儂が唯一読めぬのは空気じゃと」
「お前が言ったんじゃねえよ」
戦場ヶ原だろ。
行間紙背を読み、空気を読まず、凍らせる。人呼んで戦場ヶ原ひたぎである。
「それはさておきじゃ」
と、忍は本題に移った。
「黄泉蛙の名は、存在が希薄であるが故に身を要めることとか、駄洒落とかから由来すると言ったが、それだけではないのじゃ。黄泉蛙という名には別の意味があったのじゃ」
思い出したというのに儂の言うことなんか聞く耳も持たずに不様に一撃で撃沈されおったからに、このシスコンが、と忍。
…………最後の言葉が霞んで聞こえなかったなあ。何て言ったのかな?
……まあ、いいっか。それよりも、
「それは何なんだ?」
「黄泉蛙は『よみかえる』とも呼ばれておったのじゃよ」
「ん?」
「じゃからー、黄泉蛙は『読み替える』なのじゃ。初めは『黄泉蛙』と呼ばれおったが、口伝えに広がるうちに変質してしまったのじゃろうな。じゃから地域によって名が違ったりするのじゃ」
「ああ」
確かにそう読めなくはない。
「だけど、何をどう『読み替える』んだ?」
「『蝦』と『蛤』はどう読むのかのう?」
待ってましたとばからに得意顔で忍が言った。
ていうか、その知識は忍野からの輸入品だし、今までそれを忘れていたのは忍であるのだ。得意顔になるのは間違ってるのではないか。
「えびとはまぐりだろ」
と、得意げになるわけでもなく、普通に答えた。鮮魚売場で時折見掛ける漢字である。
「馬鹿かお前は」
「急に辛辣だな!!」
様も取れてるし。
ていうか、言葉がストレートな分戦場ヶ原より辛辣だ。
「このシチュエーションで答えがそんな簡単であるはずがなかろうが。お前様の脳は何のためにあるんじゃ?いや、なかったか!すまん、すまん。忘れておったわ」
「きっと戦場ヶ原の真似をしているのだろうけれど、全然似てなくて無性に腹が立つな!」
言ってることも心なしか低レベルだし!
ガキか!見た目は高校生なのにな!
戦場ヶ原なら同じ趣旨のこと言うにしても、色んな言い回しや的確な言葉で僕をよりなぶることができよう。戦場ヶ原にすれば僕を言葉で詰ることなんて息をするようにやっているのだから、その分野に長けていて何等不思議ではないけれど、この忍は痛くも痒くもないどころかうざい。
「もうその腹立つ物真似はいいから、何なんだ?その漢字はどう読むんだ?」
「蛙じゃよ」
僕の言葉に不満そうな表情をしたが、すぐに引っ込めて――忍はドヤ顔でそう言った。
「蛙?何でそう読めるんだ?」
「………………………」
由来についての情報は輸入できていならしい。
「まあ、とにかく、黄泉蛙は『黄泉蝦』とか『黄泉蛤』なのじゃよ。そして、『黄泉蛙』を『読み替える』と、『よみえび』とか『よみはまぐり』といった具合になるのかの。吐き気がするほど語呂が悪いが、まあ黄泉蛙は蛙だけじゃなくて蝦や蛤の怪異じゃったというわけじゃ。じゃから存在が不安定で、身を要めざるを得ないのじゃろう。つくづく哀れな怪異よのう。駄洒落から生み出された所為で怪異としてその名を認知されにくく、存在が元より薄いにも拘わらず、名前を変質させられてアイデンティティまでもが中途半端にされたのじゃからな」
「…………そうかもな」
怪異もどきの身ではあるが、それでも怪異の不幸な境遇に同情できるほど親近感が沸くわけでも思い入れができたわけではなかった。
正真正銘の怪異になっていたときもあったが、あのときはいいことは何もなかったしな。いっそ無かったことにしたいくらいだ――忍との出会いを除いて。
「で、それがどうしたんだよ」
と、言った瞬間、忍がわざとらしく大きな身振りで呆れたようにため息をついた。
「問題大ありじゃろうが。防御に転じる、いや少しでも防御を意識すれば、蝦か蛤に変化してしまうのじゃからな。蝦や蛤が人間大の大きさになったと思えば、その殻の厚さもわかるじゃろう?『心渡』の刃は届かぬし、儂の牙も通さんときておる」
「ん?なんでだよ。忍の牙が牙の長さより厚さのある殻を通らないのはわかるとして、どんなに殻が厚くて硬くても『心渡』には関係ないじゃないのか?」
幼稚な表現になるが、すぱっとなんでも切れそうな感じなんだけど、『心渡』。
それこそこんにゃく以外何でも切れる大泥棒の子孫が持っている刀みたいに。
「お前様はもう忘れたのか?いや、まだ忘れておるのか?お前様は呆気なく弾かれおったではないか。まるでお前様が自ら弾かれにいったかのように」
「なわけねえだろ」
僕は攻撃をわざと弾かせて攻撃の隙を与えるほどドMではない、どこぞの後輩ほどドMではない。
けれど、そう思われてもしかたがないほどに鮮やかに弾かれたのだろう。僕にはそれを視認すらできなかったのだから。
「ていうか、こいつ、強過ぎないか?」
半端にしか吸血鬼化していないが、そんな僕よりも戦闘力のない神原、左腕に身を任せれば僕を戦闘力で優に凌駕するのだろうが、それを万が一にも選択しないだろう神原、が深手とは言っても、致命傷には至らない怪我で済んでいるのはおかしいだろう。
「それは多分相手がお前様だからじゃろう」
「あん?」
「お前様の妹御は憑かれているとは言えども、意識はうっすらとはあるのじゃ――つまりはトランス状態じゃ」
トランス状態――この言葉を聞くのは少し久しい。とは言っても夏休み前だが。
「要するに、うっすらと残っている意識が神原を相手しているときは力を押さえていたのが、僕のときは加減をしていない、もしくは逆に増長させているかもしれないということか?」
僕は忍と向き合って微動だにしない火憐に目を向けた。
微動だにしないのは、忍が睨みを利かせて牽制しているからなんだろう。
「じゃろうな。攻撃を止めることはできんでも黄泉蛙にあらがって加減することはできるじゃろう。しかし、大方、お前様から受けた度重なる肉体的、性的苦痛に対する怒りが加減させないじゃろうな。しかも、日常的にお前様に暴力を振るっておるからあまり抵抗がないのじゃろう」
「前回の物語で解消されていたのじゃないのかよ!」
あれだけ僕をボコボコにしたというのに、まだ足りないというのか!あれで綺麗さっぱり後腐れなしじゃなかったのか!しかも、事あるごとに僕に暴力を振るっておいて、足りないのか!今ではそっちの方が暴力的じゃねえか!
それでも怨みの念が晴れない程に怒りを植え付けた僕が悪いのか?
ねえ、教えて、狂っていたのはどっち?
火憐?
それとも、僕?
誰に対してとなく零した独白は、虚空にこだまし吸い込まれていく。
「何自分の信じていた世界が誰かの作り物で、自分はその作り物の世界の中の観察対象で、家族も友達も恋人も観察者じゃったと知って、気が狂れて、全員殺めるたが、実は殺めた全員は主人公を初めこそ観察対象と思っていたものの、やがてそうではなく、本当の家族、友人、恋人だと思い、逆に真実を知らない主人公に心を痛めていたと知り、悲嘆に暮れた揚句に、最後に自分を殺める哀れな主人公を描く悲嘆小説のモノローグを語っておるんじゃ」
「いや、現実逃避したくて」
「どういう現実逃避の仕方じゃ」
「まあ、それはさておき」
閑話休題。
「僕はやられたときよりもさらに強くなってるんだぜ?」
忍が僕の不死性を上げるために吸血しているのだ。
それに忍が高校生ぐらいにまで吸血鬼化したのは忍が忍となって以来初めてである。最高でも影縫さんと大立ち回りをしたときに中学生ぐらいにまで吸血鬼化させたぐらいだ…………ん?ていうか、中学生まで吸血鬼化させるのが限界じゃなかったっけ?
ぎりぎりのところまで吸血鬼化するために互いに何度も吸血して微調整に微調整を重ねたんじゃなかったっけ?
と、なると………。
確認のために口の中に指を入れる。
うん、八重歯が長くなってる。後、今気がついたけど、夜なのにやけにはっきり見える。
つまり、今の僕の状態は、
「吸血鬼化しすぎだろ!!」
ということだった。
「お前様がたわいもなく首を粉砕されおったから、あ、慌ててのう。吸い過ぎたのじゃ」
「………………」
罰が悪そうに顔を背けながら言う忍を許せてしまう自分が情けないやら恨めしいやら。
「その所為でお前様と儂の上下関係、いや主従関係があやふやになっておる。儂がお前様の影に繋げられておったのが、その影がなくなってしまったのじゃからな」
「ああ」
足元を見る。影があるはずのそこには影があったが、今は夜だ。部屋の中は明かり一つなく、当然だが床はどこを見ても黒に塗り潰されていて、自分の影など見えない。その所為で気が付かなかったのだ。
「これ、元に戻れるんだろうな?」
戻れないと、無害認定が取り消されて影縫さんに退治され兼ねない、いや絶対されてしまう。
仕組まれたのではないかと思うほどにちょうどいいことに影縫さんがこの街にいる。
絶体絶命だ。
「当たり前じゃ。あのときのように儂の血を奪えばいいだけじゃからのう」
あのときとは春休みのことを指しているのだろう。
あのことに関しては和解が成立しているから話題に上げることに引け目も何も感じる必要はないのだろうけれど、やはりまだ抵抗を感じる。
忍はそれを感じていないようで、僕の戸惑いに不思議そうにしている。
まあ、それはそれとして、
「……よかった」
いや、本当によかった。
もし、戻れなかったら羽川よりも一足先に海外に高飛びしていただろうことは想像に難くなかったのだ。
「とは言っても、この現場に影縫さんが現れれば、それでアウトである。さっさと片付けて元の身体に戻さなければ――とでも考えてるんだよね、鬼のお兄ちゃん?――と、僕はキメ顔でそう言った」
いつともなく背後にいた斧乃木ちゃんが呟いた。
「…………」
「僕はあくまでお姉ちゃんの式神だから無害認定を取り消せるほどの権限はないけど、鬼いちゃんが吸血鬼化したことをお姉ちゃんに報告をする義務があるにはあるんだけどね。お姉ちゃんなら喜び勇んで来てくれると思うよ」
もし無表情でなければ、満面の笑みを浮かべて言っているであろう台詞を棒読みで、携帯を片手に、無表情で、言う斧乃木ちゃん。
「な、何が言いたいのかな~、斧乃木ちゃん?」
「僕は今一年分のハーゲンダッツが食べたい気分なんだけど」
「そんな気分があってたまるか!!」
高校生に借金をさせるつもりか!!
「何を言っておる、我が主様よ。あの軽薄の小僧に借金をしていたではないか」
「何故斧乃木側に付く!あれは忍野の計らいでちゃらになっただろ!」
「儂も今一年分のミスタードーナツを食べたい気分じゃからな」
「嘘をつけ!!」
こんなときだけ結束しやがって、現金な奴等め!
「まあ、それはそれとしてじゃ」
と、言って話を戻す忍。
「お前様がそう言うのなら、試してみるがよい。不死身性が上がっておるから、ちょっとやそっとじゃあ死なんじゃろう」
「そうだよ。自分がどれほど無力か思い知るいい機会だね。吸血鬼なんかと同意見であることは甚だ遺憾だけど」
忍が火憐を牽制するために動けないことをいいことに僕の後ろで僕を罵倒しながら、忍の悪口を言う。
僕を盾にする抜かりなさである。
それに対して忍は高校生ぐらいにまで成長しただけあって大人の対応っといった風に無視して受け流している。
「なんだよ、それ。初めから半殺しにされるみたいな言い方……」
「うん?そう聞こえんかったか?ならお前様の脳もいささか使い物にならんのう。処分したらどうじゃ?」
「嫌々だけど、手伝ってあげるよ、鬼いちゃん」
「くっ……言わせておけば、貴様等!見ておけ!すぐに片付けてやるからな!」
ここまで言われて黙っているほど僕はチキンじゃないぜ!それを思い知らせてやる!伊達に死線をくぐり抜けてきたわけじゃない!
「そうだね。鬼いちゃんの言う通り、急いだ方が良さそうだね」
「うん?」
まさに足を踏み出そうとしたところで斧乃木ちゃんが意味深な言葉を漏らした。その斧乃木ちゃんを何故か忍が、咎めるように眼光鋭く睨みつけていた。
「忍お姉ちゃんは気付いていて、黙っているのか、もしくはごまかしているのかは知らないけれど、スズメバチのお姉ちゃん、略してスズ姉はとても危ない状態にいる」
斧乃木ちゃんはそんな忍を無視するどころか責めるような言葉を放った。
忍は一瞬目が怒りに燃え盛ったが、図星なのか、後ろめたいことがあるのか、すぐに気まずそうに俯いた。
きっと、両方だろう。
それを責める気持ちにはならなかった。きっと僕のことを思ってのことなのだから。
それよりも忍が僕に伝えることを躊躇うようなことの内容を知りたかった。
「どういうことなんだ?」
「どうせ、忍お姉ちゃんはスズ姉がトランス状態だからとかそんなことを言ったのだろうけれど、それは有り得ない」
「?」
「わかるだろう?猿のお姉ちゃんとか猫のお姉ちゃんはトランス状態のときどうだったか思えば、もしくは思い出せば」
「トランス状態のとき意識は残っていても身体の自由はなかった――だろう、鬼いちゃん?」
「ああ、そうだったな。じゃあ、火憐ちゃんはトランス状態じゃないということか?」
「違うよ。トランス状態では――ある。意識はほとんどないだろうし、身体の支配権は完全に黄泉蛙にある。ただスズ姉は――」
「お前様よ、やはりこれは、お前様が聞くべきことじゃない。そんなことを知るよりも儂がこの件をさっさと片付けた方が得策じゃ」
忍が少し語調を強くして斧乃木ちゃんの発言を遮った。
「忍お姉ちゃん、それもこれも忍お姉ちゃんの決めることじゃない。忍お姉ちゃんの主が決めることだよ」
「じゃが」
斧乃木ちゃんに正論で説き伏せられたものの、忍は弱々しく食い下がった。
「気遣ってくれてありがとう、忍。だが、それは無用だ。僕は何を言われても受け止められる自信がある」
「お前様よ……」
「お前が心配する必要はない。精精いつか行くミスタードーナツで食べるメニューでも考えてろ」
「…………わかった」
本当に考えるわけではないないようで、心配が晴れないのか渋々と言ったふうに忍は引き下がった。
「忍お姉ちゃんの承諾が出たところで、先を言おうか」
と、無表情に斧乃木ちゃんは言った。
「スズ姉は、誰かに、改造されている――つまり、身体を弄られている」
そして、なんでもないように続けた。
「………………どういうことだよ」
だが、勿論、それは僕にとって耳を疑うような内容である。
弄るってなんだよ?
腹裂いて解剖でもすんのかよ?
怒りなど沸かなかった。
それどころではなかった。
真っ白になった頭の中で不毛な自問自答をしていた。
「そのままの意味だよ、鬼いちゃん。スズ姉は取り憑かれているとは言っても、身体は人間。鍛えているからと言って、吸血鬼化している鬼いちゃんの攻撃を防げるはずがない」
絶対にない、と斧乃木ちゃんは断言した。
「猿のお姉ちゃんとか、猫のお姉ちゃんがあんな人間離れした技を繰り出せるのは、実際に身体が人間離れしているから。憑かれているのではなく、住み着かれているからだよ」
そう、住み着かれている。神原は左腕に、羽川は――住み着いているというよりかは、融合していると言った方が的を得ているような気がする。
だから、塀や壁をまるで積木のようにいとも簡単に破壊したり、瞬間移動したり、僕の腕を引きちぎったり、内蔵を引き摺り出したりできたのだ。
「なら、火憐ちゃんがどうして僕の動きに対応して反撃までできるんだ?」
真っ白な頭に浮かんだ疑問をそのまま機械的に口に出した。
「その答えが、つまりは改造ということだよ、鬼いちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
改造――物を作り替えること。
言い換えると、『身体』を作り替えるということ。
こんなこと想像もしたくない。
「…………何をしたんだ?」
「リミッターを解除した、もしくはリミッターの制限を緩めたんだよ。リミッターは身体に掛かる負荷が超過しないための自立的な制限装置。それを改造して、スズ姉は人間では出せない力を発揮している――人間離れした力を発揮している。勿論、それは身体に対する多大な負荷というつけを払うことも意味する。ただ、救いなのは、身体を物理的に弄られてはいないことだね。リミッターは意識的、精神的なものだからね」
つまりは火憐は僕が想像したようなグロテスクなことはされていないということか。
だが、そんなことは関係なのだ。
改造されたのは、紛れも無い事実なのだから。
「ということは、火憐ちゃんの身体は既にぼろぼろということか?」
「まだボロボロじゃないが、タイムリミットはすぐだろうね」
『すぐ』とは曖昧な表現だったが、多分自分が思っている『すぐ』よりもすぐなのだろう。
「……わかった。それで、もし、タイムリミットを過ぎればどうなるんだ?」
「負荷に耐え切れなくなった肉体は瓦解するだろうね。体中の腱は断裂して、骨は折れて、脱臼も起こす――程度で収まったら幸運だね」
で、幸運じゃなかったら、もう歩けるような身体には戻らない。
平然と斧乃木ちゃんは言った。
それに怒りを覚えたわけではない。
これが斧乃木ちゃんなのだし、言ってしまえば、斧乃木ちゃんにとっては、これは他人事なのだから。
「なら、さっさと助けないとな」
そう言って、再び足を踏み出そうとしたが、
「その意気込みに水を差すようだけど、忍お姉ちゃんの言う通りにこれは忍お姉ちゃんに任せた方がいい」
再びその一歩を遮られた。
「…………なんでだ?」
今度は何だとばかりに斧乃木ちゃんに向き直って言った。
「この件があまりにも不自然だからだよ。まず、お姉ちゃんが獲物を逃がしたこと。お姉ちゃんは鬼いちゃんの妹のときみたいに見逃したことがあっても、逃がしたことはない――というか、見逃すことすらあの一度だけだよ」
逃がしたことはない、か。
まあ、あの人が怪異を逃がすことなど想像できないし、本当のことだろう。
そうすると、確かに不思議だし、どう黄泉蛙が逃げおおせたのか気になるところではあるが、わざわざその失敗談を聞き出すのも野暮だろうと判断して斧乃木ちゃんの続きを無言で聞いた。
「そして、その逃がした獲物がこの街に逃げ込んで、スズ姉の彼氏の家族を襲って、更にはスズ姉自身に憑いて、それを鬼いちゃんが退治しようとしている――このすべてがたまたまで説明できることではない。まるで、全員が鬼いちゃんのお膳立てのためにキャスティングされたみたいだ。第三者、いや黒幕の影を意識せざるを得ない。いるのなら、きっとスズ姉の改造をしたのはその黒幕だろうね」
黒幕――と言われてふと脳裏を過ぎる人物があったが、何の根拠もないし、雰囲気から連想されたものだと結論づけて否定した。
「僕がこの件に終止符を打つことが、黒幕の仕組んだことだからその通りにするのは危険だ、ということか?」
「そうだね。回避できるというのにも拘わらず、わざわざ黒幕の思い通りに動いてやることはない」
「だろうな………………だろうけれど、やはりこれは僕が片を付けるべきなんだ。それで僕が危殆に瀕しても、それは僕が受けるべき罰なんだ」
「それは思い違いにも程がある、思い上がりも甚だしいというものだよ、鬼いちゃん。鬼いちゃんが予防策を誤ったことが原因かもしれない――けれど、少なくともこの件において鬼いちゃんの対応には誤りはない。だから、鬼いちゃんにはこの件を片付ける義務はあれど、受ける罰はない。それに、もしこの一連の事件が鬼いちゃんの責任ならば、自分の危険を顧みずに片を付けることが償いだと思っているなら、それは思い上がりだよ――それで、償えると思うなよ――僕はキメ顔でそう言った」
「……思ってないよ、斧乃木ちゃん。贖罪のつもりなんてない。僕はただ罰を受けたいんだよ。だから、僕に片を付けさせてくれ」
罰を受けさせてくれ。
自傷願望?
なのかもしれないがどうでもいい。
「それが、本音だね、鬼いちゃん。自分では気付いていないだろうけれど、鬼いちゃんからただならぬ気配を感じるよ――おどろおどろしい気配を感じるよ」
そうだろうか、僕は至って平気である。
怒りに燃えているわけでもない、殺意に衝き動かされているわけでもない。
ただ、何故か罰を受けたいだけなのである。
頭は真っ白で、心は水を打ったように静かである。
平たく静かだった――平静だった。
…………いや、これがおかしいのか。
妹が何者かによって弄ばれているというのに何も感じないのは不感症とかのレベルじゃない。
おかしい。
こんな状態が、というよりかは、僕自信がおかしいのか。
「…………確かに、変な感じだ。全然怒りが沸いてこない。もしかしたら怒りが頂点を突破して、臨界点を突き破って、メルトダウンして心を穿ち、いずこかに消えたのかもな。不思議と心が穏やかだよ」
「そうなると、更に君を止めなければならない理由が増えたのだけど、きっと鬼いちゃんのことだから、無意味だろうね。今の君だったら殺しても、止まらないだろうね」
いや、止められだろう。
ただ、何度でも起き上がるだろうということだけのことである。
「なら、どうするんだ?」
「鬼いちゃんにはご希望通り、この件の終止符を打ってもらう。その代わりにその時に生じた危険は鬼いちゃんの消滅を代償にしても排除させてもらうよ」
殺害じゃなく――消滅、存在の滅却。
不死の死。
「わかった、取引成立だ」
だが、関係ない。
死んだって構わない。
それが僕に科せられた罰ならば。
火憐が無事ならば。
…………僕ってやはりシスコン?
まあ、どっちでもいいさ。
「頑張ってね、鬼いちゃん」
「お前様よ…………」
さばさばした斧乃木ちゃんとは打って変わって、僕の心の内なぞ手に取るようにわかるパートナーは悲壮な顔付きだった。
ここに来るときはさっさと片付くと思っていたんだが、完全に宛てが外れたな、と人事のように思いながら、忍から目を離した。
「じゃあ、行ってくるぜ」
と、言って僕はゆっくりと忍の前に踏み出た。
僕の闘気を察知したのか、忍を睨んでいた火憐がその無色の双眸を僕に向けた。
そのまま歩調を変えず、僕は歩を進めた。
足を踏み出すごとにさらに心が澄み渡って、頭が虚無に呑まれていくのがわかった。
僕をじっと見詰めたまま仁王立ちで待ち構えていた火憐と僕との距離が五メートル………………………四メートル………………………三メートル………………………二メートル…………一メートル半、になったその時だった。
火憐は身体を伏せるようにして、地面に張り付くようにして、しゃがむと、伸ばした長い足で刈り取るように足払いを繰り出してきた。
その技の切れは目を見張るものだった。
足払いというよりかは、足切りだ。足首から下を切断できそうな感じ。
だが、僕には、伏せた瞬間は見失ったが、それ以降の一部始終がはっきりと見えていた。だからこそ、目を見張れるのだし、解説ができるのだ。
僕は前転するように小さく跳ぶと、そのまま伏せている火憐の脳天に踵を振り下ろした――勿論かなり手加減して。
だが、結果的にそれは当たらなかった。
足払いをかわされたと知覚した瞬間から既に回避行動に移っていたらしく、踵は髪を掠めるものの、空を切った。
火憐は、間一髪のところで横に跳ぶようにして、体勢を立て直すためか、二メートルも離れたところに退避した――ことを目で捉えていた僕は、地面に着地するが早いか、火憐ちゃんに片方の手の平を突き出していた。
それを火憐は、よけることで精一杯だったのか、見ていなかった。というか、僕すら視界に収めていなかった。
だから、これから起きることに驚いて、防御の意思を抱くことなく、僕に捕らえられてしまうのは仕方がないことだろう。
僕の突き出した手の平と火憐との隔たりは一瞬で詰められものではないし、詰めれば、それに気付いて反撃、もしくは回避するだろう――身体に絶大なる負荷を掛けて。
なら、どうするかって?
火憐に詰めてもらうのさ。
どうってことはない。
僕が、突き出した手の平、いや腕を変形させるだけでいいのだ。
僕は突き出した腕を植物に変形させて、火憐に伸ばして、全身に絡ませた――と同時に有らん限りの力で引き寄せた。
全く予想していなかった攻撃に火憐は簡単に、それこそ投網にかかった魚のように無抵抗に僕の方に引き寄せられた。
そして、そんな無防備な火憐の肩を変形していない方の手で掴んで、引き寄せた首筋に刹那の間を置くことなく牙を立てた。
それだけだった。
今の僕にとって造作のない、たわいもないことである。
変身能力もエナジードレインも今の僕、忍の吸血鬼化した主、もしくはキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの眷属である今の僕にとっては御茶の子さいさいだった。
ただ、この変身能力もエナジードレインも使うことになるとは思わなかった――況んや、妹に使うなどとは微塵も思っていなかった。
突き立てた牙を通して、意思に関係なく、何か、きっと黄泉蛙の霊的エネルギーだろう、が身体に流れ込んでいるのがわかった。それは牙の中を冷たい水が流れて、身体中にいきわたるような吸血とは異なる未知なる感覚だった。
その流れは牙を突き立てた瞬間は激しかったものの、その勢いはすぐに衰えを見せた。黄泉蛙の霊的エネルギーとともに存在力が底を尽きかけているようだ。
そこでやっと肩に入っていた力が抜けた。
長かった一日が終わった。これで皆を巻き込んだはちゃめちゃにめちゃくちゃだった事件は終わった、そう思った――だが、黒幕はまだ終わらせてはくれはしなかったようだった。
牙を伝う霊的エネルギーが途切れ途切れとなって、終わりが見えてきたと思ったときだった。
それは飛び込むようにして、入り込むようにして、僕の牙を通り、僕の身体に侵入した。身体の中で胎動のように腹部でしばらく動き回ると、溶け込むようにして消滅した――と入れ代わりに一度大きく脈が身体を打った。
胸が締め付けられるように苦しくなり、それに呼応して呼吸も気道を押し潰されたように苦しくなり、身体も燃え上がるように熱くなった。
が、一瞬で苦しさも熱さの煩わしさもすぐに消えた――わけではなく飢餓感に代わっていた。
その飢餓感は今までに感じたことはないほど、底知れないほどのものだった。
それを潤すためなら何の足しにもならない海水でも、ゴミ処理場の生ゴミでも――実の妹の血でも飲み干し、たいらげてしまいそうだった。
そんな余りと言えば余りの身体の変調の目まぐるしさに意識が朦朧としてくるようだった。
既に黄泉蛙の霊的エネルギーは底を尽きかけている。
尽きれば、それ以上はエナジードレインじゃない――吸血だ。
吸血すれば、その程度に関係なく、否応なく、その者は吸血鬼となり、眷属となる。
牙を離そうと思っても飢餓感に衝き動かされた吸血鬼の本能が僕の命令を疎外する。
どうすればいい?!このままでは、火憐ちゃんが!
と、飢餓感に侵されて本能に理性を溶かされながら朦朧とする意識の中で思った瞬間だった。
「ゆわんこっちゃないなぁ、鬼のお兄やん。まあ、ゆったんはうちとちゃうけどな」
影縫さんの声が降ってきた。
やっとのことで、目だけを動かして、上を見た――いや、頭上を見た。
影縫さんが頭上にいたからだ。
僕の脳天の上で僕の顔を覗き込むように平然としゃがみ込んでいた。
乗っているというにも拘わらず、その重さが感じられなかった。そこにあるはずの重さが感じられなかった。
が、それに思考を省いているときでもなかった。
「か、かへういはん!」
略すと、「影縫さん!」である。
「え?何ゆうてんかわからへん」
「はふへへくははい!」
略すと、「助けてください」である。
「えぇっ?やから、何ゆうてんかわからへんゆうてるやろ」
「意地悪しないで、助けてあげてよ、お姉ちゃん。忍お姉さんが今にも僕に襲い掛かりそうな形相で僕を睨んでるんだよ」
とことこと僕のそばにやってきた斧乃木ちゃんが言った。
「そりゃ、大変やな。ガンバやで、それとも応援したろうか?」
……コントでもしているのか?
危機的状態だというのにこの二人はなぜ平然としている?
これが、強者の余裕というやつなのだろうか?
そうだとしても、弱者の僕には余裕が一切ないのである。
「かへういはん!!」
「ああ、もう、わかったわかったぁって。せっかちやのう。ゆうとくけどな、おどれを今助けたって、まだスズメバチの妹に怪異が残っておるやろ?綺麗さっぱり吸い尽くしたと同時に――殺して――助けたるわ、とゆうてる間に吸い付くしたみたいやな」
「ほえ?――がぁっ!」
影縫さんの耳を疑う言葉に「ほえ」何て男子高校生が言っても全然蕩れないほうけた声を漏らした瞬間だった。
後頭部に強烈な衝撃を知覚した、いや、する間もなく意識を潰された。
「う……あ……」
そして、次に目にしたものは薄汚れて、穴が目立つ天井だった。
視界ははっきりしていたが、パソコンを強制終了してから立ち上げなおした時のように、後遺症として僕の意識は朦朧としていた。
「大丈夫か、お前様よ」
そんな視界に忍の顔が入ってきた。
「ああ」
心配そうな表情だったが、一瞬それが誰なのかわからなかった。
「おお、もう再生したか!不公平な程の再生力やな、鬼のお兄やん」
腕を支えにして、起き上がって、意識が回復するのを待っていると、その強制終了をした張本人の声が耳に入った。
「か、影縫さん」
「ん?なんや、ゆうことでもあんのけ?」
「ありがとうございました」
「はっ?」
なぜか嬉しそうにしていた影縫さんの表情が打って変わって疑問の色が浮かんでいた。
「助けて頂いてありがとうございました。影縫さんのおかげで僕は妹を化け物にせずに済みました――僕と同じ化け物にせずに済みました」
僕は、僕の腹を枕にしてすやすや寝ている火憐を一瞥して言った。
意識が混濁していて気付いていなかったが、意識が回復してくると、腹部に重さを感じ、見付けたのだった。
その気の抜けた姿が僕に安堵の胸を撫で下ろさせた。
「まあ、不死身の怪異が生まれるのを未然に防いだっちゅうだけなんやけどな。それよりも、問答無用に脳髄を潰されたことに何か言いたいことはあるんとちゃうんか?」
「いえ、まるでありません。斧乃木ちゃんはちゃんと事前に通告していましたから」
事前通告があったにも拘わらず、相手を責めるほど僕も馬鹿でも非常識人でも、人間の屑でもない。
それに消滅とさえ言われていたのだから、一度殺されただけで済んだことに文句などないのだ――何度も死ぬような目似合っている僕だからこそであるが。
「そやけど、いきなり、ぐちゃ、やで?」
「それでもです。文句なんてありません。逆に感謝しきれないほどに感謝してるんです」
「…………この件はうちの落ち度やから、糾弾はされど、感謝される覚えはないんやけどなあ。まあ、されて嬉しないことはないからその気持ちも受け取ったるけど」
と、本当に珍しく困り顔で言う影縫さん。
「まあ、代わりに、これだけゆうといたるわ――おどれは化けもんなんかやない、ちゅうことや」
「…………」
「おどれは確かに自分の妹に手――やないな、牙を掛けたけどな、仕方のないことやし、その方法は間違いやない、ただの失敗や。旧ハートアンダーブレードに代行させても結果はおんなじやし、その大層な刀も刃が届かへんかったんやから」
「慰めてくれてるんですか?」
「う、うちに限って慰めるゆうようなことするとおもっとおんのけ?」
心なしか僅かに頬を紅潮させているようにも見えるが気のせいだろう――吸血鬼化している今の僕の目に『気のせい』があるのか知らないが。
「ははっ、ですよね」
「キャラちゃうわ。それよりも、勘違いすんなや――おどれは化けもんやない」
二度も言うところなんて慰めているようにしか思えないが、勘違いだろう――そう、勘違い。
「…………今回の件は僕の勘違い、いや無意識のうちに自分は人間であるという勘違いしていた僕を『正す』回だったと思うんです」
そう、僕は口では自分を吸血鬼もどきだとか、人間もどきだとか言っているが、心のどこかで自分は人間であると思っていた。僕に身内を襲わせる――牙を掛けることで、僕と家族、いや人間に溝を作ることで、その勘違いを『正す』、『曲がった』ものを『正そ』うとしたのだろう。
ですから、と僕は続ける。
「対抗して、勘違いしたままいこうと思います」
目茶苦茶だけれど、勘違いし続けよう。
黒幕が誰だかわからないけれど、その目的もわからないけれど、知ったことではない。
精精もがかせてもらう。
気付いたけど、『勘違い』を読み替えると『間違|《かんちが》い』であるが、それも関係ないことだ。
僕は人間の吸血鬼もどきだ。
「まあ、精精頑張ることやな。この件については上に伝えといたるは、きな臭いしな。それとおどれの無害認定は健在やし、おどれを退治したりせえへんよ。あれは、余接の悪戯心やと思って、堪忍してやってな。ちゅうわけで、一件落着――いや、一見落着かな?まあ、どっちでもええか。余接のハーゲンダッツの件、あんじょうやっとくれやす」
そう言って影縫さんは斧乃木ちゃんが立てた指に乗った。
僕は、影縫さんがいつ斧乃木ちゃんからハーゲンダッツの件を聞いたのか疑問に思ったところで、僕は疑問とさえ思っていなかったが、何故影縫さんがここに駆け付けてこられたのか、気付いた。
そして、叡考塾に着いたときに、何故斧乃木ちゃんがいなかったのかもわかった。
それに『ゆわんこっちないわ』というのは斧乃木ちゃんの警告を指すのだから、あの時点から近くにいたと簡単にわかったはずだった。
そして、『鬼いちゃんにはご希望通り、この件の終止符を打ってもらう。その代わりにその時に生じた危険は鬼いちゃんの消滅を代償にしても排除させてもらうよ』というのは、斧乃木ちゃんがといわけではなく、影縫さんがということだったのだ。
統合すれば、つまり、斧乃木ちゃんが影縫さんに知らせてくれたのだ。そして、その知らせを受けて、影縫さんが来てくれたということだったのだ。
だから、
「…………はい、六つ買って上げますよ」
僕は、お礼に倍マシにした。勿論お財布のことは考えていない。
僕の言葉に斧乃木ちゃんがぴくり反応したのがわかった。
「ほな、さいなら」
それに、影縫さんが笑みを浮かべて答えた。
「じゃあね、鬼のお兄ちゃん、もといお兄ちゃん」
そう言って影縫さんを指に載せた斧乃木ちゃんは部屋を出ていった。
ページ上へ戻る