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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
  ―5―


 5.

 草の海を夕暮れが統べる頃、新シュトラトに向かう特務治安部隊本隊は、後続集団の救出に出向いていた別働隊と合流した。
「ただいま! ドミネだよ!」
 子供と見紛うほど小柄な赤毛の女が手を振った。そばには、それとは対照的な背の高い男がいる。兵士たちの間に興奮したざわめきが生まれ、二人の魔術師を歓迎する。(くさむら)に座りこんでいたベリルが立ち上がった。
「お前ら! 心配したんだぞ!」
「時間ぎりぎりまではぐれた人達を探してたからな。それよりベリル、大活躍だったじゃないか!」
 三人は互いに歩み寄ると、両腕を広げ、それぞれの肩を抱いた。ラプサーラは妙な悔しさに満たされて、泣きそうになり、俯いた。
「大丈夫ですか?」
 兵士が来て座った。平原を渡る時、前を歩いていた兵士だった。
「……大丈夫なわけないっすよね。申し訳ないっす」
 ラプサーラは無言で首を振る。
「何か話しましょうか。黙ってると、気が滅入って堪らなくなりますよ。あ、自分、アーヴって言います」
「ラプサーラ」
 会話が途切れた。
 ラプサーラとアーヴは焦燥感に駆られ、会話の糸口を探す。
「……兵士になって長いの?」
「十四の時に志願して、今四年目です。でもここまでしんどかったの、今日が初めてっすよ」
「四年間カルプセスに?」
「いえ。カルプセスには半年前に着任したんすよ。それまで山奥の方にいました。グロズナ寄りの……」
「グロズナって、ひどい連中ね」
 それが差別や偏見に過ぎない事は、ラプサーラにもわかっていた。特定の民族が残虐なのではない、戦争が残虐なのだという事は。それでも憎まずにはいられなかった。憎む方が楽だった。
「自分、もともと本国の生まれなんすよ。ナエーズに配属になって、初めて戦争を目の当たりにして――」
 アーヴは夕刻の風に草がなびく様子を見つめている。
「自分がいた所、グロズナとペニェフが川隔てていがみあってるような所で、ペニェフがグロズナの男たちが狩りに出払ってる間に村を襲ったり、グロズナがペニェフの大人たちが収穫に出てる間に村を襲ったりしてて、そんな時、駆り出されて仲裁に入ってました。グロズナとペニェフの間の事を、自分らセルセト人が誰が悪い、これが悪いって判断して、それがやっぱ当事者たちには不満で、全然、そういう応報が止まらなくて……」
 アーヴは生えている草をむしり、手放した。草は風に煽られて、少し離れた場所に落ちた。
「そんな時、自分の上官だった人が、グロズナとペニェフの間で交換処刑をしろって言ったんです。三人ずつ相手の村に差し出して、殺せって。それで満足して、少なくとも一年はもうこういう事するなって」
「実行したの?」
「はい。自分、ペニェフの村で、殴られてボコボコにされたグロズナが三人、絞首台に吊るされてるの見ました。ペニェフの子供たちがその死体の横で、横木にぶら下がって遊んでるんすよ。自分、それ見て、何かもう……何かもう、耐えられなくって……」
 ラプサーラは奥歯を噛みしめた。
「何だろう……。自分、語彙貧弱なんでこういうの、うまく言えないけど……なんかな、死は死なんだなって。どんな死でも、それが惨いとか残酷とか、そういうのは全然なくって、ただの死でしかないんだって。だから、これで束の間でも平和が手に入るとか、協定が守られるとか、そういうのも別になくて、あの六人の死には結局意味なんかなくって……人間らしさとか文化とか、ここはそういうの以前の場所なんだって……」
 ざわめきが起きた。
 道に民間人が群がり、何かを凝視している。
 藁と縄で簀巻きにされた人物が、藁束から頭を出した状態で運ばれてきた。兵士たちがそれを三人の魔術師と、やって来たデルレイの足許に投げ出した。
「交渉材料が来たな」
 アーヴは話をやめた。ラプサーラは膝立ちになり、何が起きるのか見る。
 デルレイが藁越しに、簀巻きにされた中年男の腹の辺りを軍靴で蹴った。男は激しく咳きこみ始めた。不自由な姿勢のまま腹筋で身を起こし、のたうち、血を吐いた。血と一緒に長い髪を吐いた。喉に絡まっているようで、苦しげに咳きこみながら髪を吐きだすのをやめない。
 ベリルは男の前に立ち、冷酷な目で、呪詛をかけた相手を見た。彼が吐き出すベリルの白い髪は、血で真っ赤に染まっている。ベリルはしゃがみ、顔を近付けた。
「リデルの鏃の筆頭、カルムだな?」
 男は充血した目でベリルを睨みつけた。その顔に唾を吐く。
「やめとけよ」
 ベリルは小瓶を取り出し、男の唾を採取した。
「唾だって呪いの道具に使えるんだぜ。血や髪ほど強くないけどな」
 一際大きな何かを喉に詰まらせ、男が目を見開く。顔が紫色に変色していき、えづき、ついにその何かを吐き出した。
 血で染まった髪の束。その中に、一糸纏わぬ姿の小人達がいる。小人達はわらわらと、男の口から吐き出され続け、彼を取り囲むと、きぃきぃ喚き始めた。
「おお、出てきた出てきた。てめぇがこれまで殺してきたペニェフ達だぜ」
 その数は、二十、三十……ラプサーラは吐き気がしてきて、数えるのをやめる。ようやく吐くのをやめた男が言葉を発した。
「何をするつもりだ」
「二、三質問させてもらうだけだ。痛い目見たくなかったら正直に答えるこったな」
「俺を拷問するつもりか!? 貴様、緑の界の魔術師なんだってな。緑の界を統べる神マールは慈悲の神だと聞くけどな!」
「だからって俺が慈悲深くある必要はないんだぜ?」
 デルレイの合図を受け、二人の兵士が簀巻きの男を持ち上げ、奥の天幕へ運んで行く。
「ここからは見ない方がいいっす」
 アーヴに言われ、ラプサーラは場を離れた。闇が濃く煮詰まってくると、身の毛もよだつ悲鳴が天幕から聞こえてきた。
 魔術師に善人はいないと思えと、兄に言われた事がある。奴らはあまりに幼い内から特殊な環境に隔離され、偏った教育を受けるからと。つまらない偏見だと思った。実際、兄に魔術師の友人を紹介された時には、肩透かしをくらった気分になった。だが、ベリルの思いもよらぬ残忍な表情を目にし、案外兄は正しかったのだと思い直した。
 口に詰め物をされたのか、悲鳴はくぐもった声になった。聞かされるのは不快であった。星が天蓋を覆い、声は止んだ。叢で呆然と胡坐を組んでいたラプサーラは、自分の前に誰かが立ち、カンテラに照らされる顔は、デルレイとミューモットだった。
 ついて来いと、デルレイが手で合図をした。
「星占をしてくれ」
 人々から離れたところでデルレイが囁く。ラプサーラは星図を出し、半透明の世界図を重ねる。占星符を切った。
「何を見ればよいでしょう」
「ナエーズ全域の星の支配状況を。そして星占に付随する幻視の内容を教えてくれ」
 ラプサーラは世界図上に並べた占星符を捲り、星図が示す神々の力の均衡に乱れがない事を確認する。
 東座に位置するは根と伏流の神ルフマン。ラプサーラはルフマンに伺いを立てた。豊かに実る秋の麦の穂が、額の内に幻視された。水は富み土は豊か。農作に励むのならば、今年の豊作は間違いない。励むのならば。それだけだった。ルフマンはそれ以上を教えない。何故ならペニェフとグロズナの戦争に関与しないから。
 西座に位置するは狩人の神リデル。ラプサーラはリデルに伺いを立てた。恵みに満ちた森、肥え太る動物たちの姿が幻視された。欲望から森を破壊したり、獲物を独占したり、狩りすぎる事さえなければ、恵みは確実に得られるとの事だった。リデルはそれ以上を教えない。何故ならペニェフとグロズナの戦争に関与しないから。
 南座におわすは車輪の神アネー。ラプサーラは幻視する。ある者は古き階層から、ある者は別の相から、様々に姿を変えて己が因果をぐるぐる廻り、今生この相に来る。鹿、石、土くれ、草、穀物、麻、イノシシ、多くの魂がこの相にあっては人間の姿となり――町を追われ、死の山を彷徨い――そして、もういない。実に多くの魂が、既に収相から失われた。
「あの峠の手前ではぐれた人達はもう生きておりません。グロズナ側から人質交換を持ちかけられても、それは偽りです。応じる必要はございません」
 震える声で告げた。
 北座を占めるは猫神ミドアフ。もたらされる幻視の中で、ラプサーラは都市を俯瞰する。燃える都市。大きな大きな猫が、都市を見下ろしている。人々は身を焼かれ、黒い塵になり、空に舞い上がる。人々は巨大な猫に祈っている。助けてください。助けてください。けれど猫は何もしない。猫は興味深く見るだけ。
「消えていきます」
「何が?」
「何もかも全てが」
 呼吸が早く浅くなっていく。
「人が、世界が、消えていく――」
 確信を得る。
「滅びはすぐ」
 確信の根拠を探る。
「この収相へと――相が迫ってくる――」
 集中力が切れた。全身の力が抜け、ミューモットに寄り掛かる。
「それだけじゃないだろう。他に何が見えた?」
 ミューモットが支えながら聞いた。
「見えない」
 瞼の闇の中で、ラプサーラは答える。
「未来が見えない」
 ラプサーラは自分が座っているのか、寝かされているのか、喋っているのか、喋っていないのか、一切の感覚が曖昧模糊となり、もう全くわからない。
「私には見えない――」
 気を失った。

 ※

 ラプサーラは気妙な気配で目を覚ました。何かが顔を撫でている。目を開けると、カンテラの火に照らされるベリルの真剣な顔が間近にあった。
「動くなよ」
 ベリルは囁く。彼はラプサーラの顔から指を離した。指先からは血が出ていた。その血で模様を描くように、ラプサーラの顔をなぞる。しばらくその作業を続けてから、一息つき、指先を舐めた。
「あんたに目印を付けたんだ」
 ラプサーラは無言のままベリルを見つめた。
「洗い落としても消えない。これであんたに何かあった場合、俺にはわかる」
「どうしてそんな事を?」
「遠くに行くことになったんだ」
「どこに?」
 ベリルは微笑み、ゆっくり首を横に振る。カンテラを手に立ち上がった。彼は最後に言い残した。
「ロロノイの事はすまなかった。あんたは無事でいろよ」
 これは夢かしら。
 ラプサーラは、自分の中から現実感というものが失われてしまった事に気付く。
 行かないで、と言いたかった。言うべきだと思った。けれど、あまりの疲労と眠気で、もう唇さえ動かない。
 ベリルの足音が聞こえなくなると、たちまち深い眠りの闇に沈んでいった。

 夜の中で、殺戮の熱狂が人間の姿となってカルプセス市街に押し寄せてきた。木兵たちがそれを押しとどめる脆弱な防波堤となり、ペニェフの市民とセルセト兵たちは、堀を越えて市庁舎に立てこもった。
「橋をあげろ!」
 セルセト兵の叫びが木霊し、木兵たちが堀にかかる跳ね橋の鎖を巻く。橋は中央で割れ、上がり、そり立つ壁となる。爆薬つきの矢が放たれ、対岸の跳ね橋が破壊された。グロズナの工兵らが即席の橋を架けようとし、セルセト兵がそれを油壺と火矢で破壊した。攻防は果てしなく続いた。木兵達は互いの足を切り落とし、それを更に斧で切って、矢を作った。その前を油の壷が行き交って、布が浸され、矢に巻かれた。
 ロロノイは火打ち石を鳴らし、戦友の矢に火をつけながら、頭の中に木霊するペシュミンの声と戦っていた。
 ミハルはどこに行ったの!
 ロロノイは答える。仕方がなかったんだ。子供だって殺さなきゃならないんだ。むしろ子供だから、殺さなきゃならなかった。子供を見逃すと将来の禍根となる。純粋であればあるほど大きな未来の脅威に。大人はもっと直接的な脅威だ。人質のグロズナ達を生かしておけば、グロズナ軍によって解放された後、剣をとりそれをペニェフに向ける。そうしないと、同胞の兵士に殺されるから。
 彼らはグロズナだから死ななければならなかった。
 俺たちも同じだよ、チビちゃん。あんたがペニェフだから、俺がセルセト人だから、殺されようとしていると同じなんだ。殺したいから殺すんじゃねえ、殺さないと殺されるんだ。誰だってそうなんだよ。
 ペシュミンは市庁舎の奥で、ナザエに抱かれて目を開けている。目の奥で、たった一つの事だけ考えている。
 花を探さないと。
 自分と、母と、ミハルと、ミハルの伯父のために。

 夜明け、リデルの鏃の残党のもとに出向いていた使者が戻ってきた。ミューモットに起こされて、ラプサーラは行軍に加わる。最前列の、いつもラプサーラの前にいたベリルの姿が今日は見当たらなかった。
「ベリルは?」
 馬上のミューモットに尋ねる。
「お前の読みが当たったんだ。リデルの鏃の連中は人質交換を持ちかけてきた。交渉に応じると見せかけた囮部隊を時間稼ぎのために残している。奴はそこにいる」
 ラプサーラはうなだれる。
 もうどうだってよかった。不安にもならなければ、涙も出なかった。流れる汗が顔に残されたベリルの血と混ざりあい、首筋に伝い落ちて服を染める。
 泣いたら駄目だと昨日言ってくれた兵士の姿も見えなかった。彼もベリルと共に残ったのだろう。
 アーヴ。
 名前など知らずにいればよかったと、少し思った。

 ペニェフの男達が町を出てから、奇跡のような六日目の朝がカルプセスに訪れた。
 消え残る夜の中で、兵士達は髭を剃り、互いの髪を切りあう。垢で汚れ、汗で臭い、互いの顔を見合っては自分も同じ状態であると悟り、恥じるように笑いあう。
 木兵達は切り落とした足で矢を作っている。立てなくなった木兵は、右目から蜂の頭を覗かせて、しきりに首を傾げさせ、また目の奥に戻った。一体の木兵が腕で這い、仲間の前に身を投げた。仲間達は斧でその木兵を叩き割り、また矢を作る。住処を失った蜂が、さまようように仲間達の上を飛んだ。蜂は窓から出ていった。グロズナの攻撃はやんでいた。
 薄明の光の中、なんて静かなのだろう。なんて静かなのだろう。
 陥落が時間の問題である事に変わりはなかった。
 朝は事態を変えはしない。
 誰も救わない。
 死の旅に向けて身繕いする兵士達も、隅の方で目を開けている市民達も、張りつめた静けさと希望を共有していた。
 静けさは希望だった。
 それがじき破られるとしても、それが何も変えないとしても、今この時、この場所で、確かに希望だった。
 太陽が角度を変え、夜を焼き尽くした。
 市民達は動いた。食糧を探した。隠し通路があるはずだという、出所のない話を共有し、それを探した。全員が地下で、厨房で、暖炉で、昔、時の権力者が市民を見捨てて逃げるのに使ったという、今でもあるかわからない、隠し通路を探した。
 なんとしても生き延びるんだ。
 静けさは破られ、希望は消えた。

 カルプセスを出て六日目の昼、新シュトラトへ向かう特務治安部隊は、森の中で武装勢力による襲撃を受けた。あのおぞましい罠の平原を抜ければグロズナの手は及ばぬというデルレイの見立てにすがりついていたラプサーラは、すっかり嫌になってしまい、生きる気力を失った。民間人達は後方に移された。武装集団は正規のグロズナ軍ではない、弱小の民兵団の、とりわけ若い一団だった。血にはやり分別を失ったのだろう。あっと言う間に撃破され、倒れたグロズナの若者達の間を、ラプサーラは歩いた。
 死体が怖いとも、臭いとも、不快だとさえ思わない。後続の人が隊旗を見て、リセラを包囲していた攻撃部隊の物だと言った。
 リセラは陥落したのだろう。ならば、リセラより南のカルプセスにはもはや希望はない。仮に持ちこたえているとしても、完全に退路を失った。
 あるいはリセラを攻め落としたグロズナ達は、この行軍を追うかもしれない。
 だとしたら何だ?
 連中がカルプセスに行くにしろこちらに来るにしろ、どんな害が自分に及ぶ? 何を失うものがある?
 死が少し、怖い。それだけだ。
 隣の男が喋っている。喋っているのはわかるのに、何を言っているかわからない。ラプサーラは男を見た。男はラプサーラに話しかけていたのだが、目が合うと硬直し、見てはいけないものを見たとばかりに、慌てて目をそらす。
 私がどんな目をしているというの。
 鈍磨した心で、ラプサーラは惰性で歩く。
 ベリルはどうなるだろう。ふと思い、しかしそっと思いに蓋をする。心配などしたくなかった。気にかけたりなどしたら、彼が失われた時、とてもじゃないが耐えられない。
 知った事ではない。誰が死のうと私には関係ない。知らない。知りたくない。
 そう思い、そう振る舞うしかなかった。
 この森を抜ければ、新シュトラトはすぐだ。

 六日目の夜には本格的な戦闘が始まる。痩せてしまった男達の叫びが、肉厚な闇の壁に刺さる。兵士達に守られて膝を抱えるラプサーラは、自殺用のナイフが欲しいと願っている。セルセト兵達はそれを持っているのに、民間人に配ってくれないなんて、冷たい人達だ。
 皆が皆、深い闇に抱かれ黙っている。敵に見つかりたくないからではない。死にたくないからではない。見つかっても殺されても、受け入れるしかないからだ。
 それでも夜は明けて、兵士達が活気づく。
 驚いた事に食糧が配られた。
「お肉だよ! お肉だよ!」
 少女のような魔術師のドミネが、歌うように兵士に話しかけている。
「グロズナの連中から奪ったんだ。武器もあるよ!」
 肉の薫製はラプサーラのもとにも回ってきた。武器は回ってこなかった。残念な事に。ラプサーラはのろのろと手を動かして、油紙に包まれた肉を受け取りはしたものの、包み紙をむいて口に運ぶ力は沸いてこなかった。
 呆然と座りこんでいると、誰かが肩を揺すった。
「食え」
 ミューモットだった。
「食え!」
 ラプサーラは顔を背けたが、ミューモットは顎に手をかけて、強引に顔を上げさせた。
「いらない」
 辛うじて答えた。
「行くなら、みんなで先に行って」
 口を開けさせられた。ミューモットが腰袋から出した油紙を開き、擂り潰した木の実をラプサーラの舌に乗せる。それを葡萄酒で強引に飲みこませた。ラプサーラはされるがままだ。
「星占で何を見た」
 辺りを憚り、ミューモットは低い声で話す。
「相が迫ってくると言ったな、全て消えていくと。それはどういう事だ。何が起きる」
「知らないわ」
 みんな死ぬのだ。早いか遅いか、それだけ。
「星占のさなかの言葉は神の言葉よ。私が頭で考えた言葉じゃない。だから意味は知らない」
 ミューモットは溜め息をついた。
「どうして私に構うの?」
 二の腕を強い力で掴まれ、立ち上がらされた。ミューモットはラプサーラを自分の馬の所に連れて行き、ラプサーラを鞍にあげた。彼は手綱を引いて歩く。
「どうして?」
 行軍が再開する。伝令が二人の横を走って行く。
 ミューモットが下りるよう命じた。彼は馬の鞍に乗り、何も言わずに走らせる。すぐに姿が見えなくなった。
 貝の笛が鳴らされた。民間人を集合させる合図だ。ラプサーラは路傍に蹲り、膝を抱えた。セルセト兵達は体力を失った民間人に構う余裕を失ったか、本当にラプサーラの姿が見えていないか、誰も声をかけようとしない。
「――でも、見ろよ。セルセト人だぞ」
 誰かの声が聞こえた。兵士らが話し合っている。一人が歩み寄って来て、ラプサーラを肩に担ぎあげた。そういう事だ。セルセト人だから助けられる。
 鬨の声が聞こえた。その響きで、もうすぐ森が終わるのだとわかった。
「グロズナの奴ら、こんな所にまで」
 窪地に集められた民間人たちの中に、ラプサーラは連れて行かれ、下ろされた。誰かが言葉を続けた。
「これじゃ、新シュトラトはもう……」
 その時、消えたと思っていた涙が、どうしてだか蘇り、頬を伝った。感じる事が出来ないだけで、恐怖も、心も、まだ重い体のどこかにあるらしかった。
 剣の音は森の中にまで聞こえてきた。


 
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