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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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王の荒野の王国――木相におけるセルセト―― 
  ―2―

 2.

 ニブレットは王宮に帰還した。
 拝謁室は全ての窓が開け放たれていた。そこに満ちる腐臭を外に逃がす為だ。床に雪が積もり、氷が張っていた。ニブレットはその床に片膝をついた。
「第二王女ニブレット、ただ今戻りました」
 ニブレット自身以外に、彼女の帰還を告げる者はいなかった。拝謁室は聖王自身の命によって、長く人払いされていた。全ては聖王ウオルカンが、そのなりを人目に晒したくないが為である。ニブレットは王座にある父の姿に、無遠慮な視線を注いだ。
 何と醜い姿であろうか。
 聖王はタイタス国の悪質な腐術により、生きながら腐り果てて久しかった。全身の筋肉が委縮して小柄になり、皮膚は黒く凍っている。眼球だけが水分と光を留めており、鼻は凍ってもげ落ち、口は閉まらず、黒い舌は棒のように硬直している。王冠を戴いた頭部からはほとんどの髪が抜け落ちて、王座の周囲に散っている。
 隣では正王妃ベリヤが死んでいる。こちらは青白い肌で、乾ききっておらず、飛び出しそうな目玉と開いた口は、彼女が最期に恐ろしいものを目にした事実を物語っていた。
「聖王が何たる様だ」
 ニブレットは薄笑いを浮かべ言った。窓から木巧魚が一体、拝謁室に入ってきて、
「レンダイルの死は存じておるな」
 と、ウオルカンの声で言った。
「知っている。併せて石相との境界が揺らいでいるとも聞いたが」
「ならば話は早い」
 ウオルカンに口を貸す木巧魚が、王の(こうべ)に寄り添い、王と共にニブレットを見下ろす格好でいるのが滑稽に見えた。
「ブネは白の間にてその境界を跨ぎ、石相の様子を幻視した。それによれば、王の荒野の彼方には、月の光を食べて生きる男が眠っているという。難局にあるセルセト国に不可欠となる人物だ。レレナの託宣により、ニブレットよ、お前はその者を都に連れて参れ」
「それは真にレレナの託宣か。あのブネに、レレナほどの高位神から託宣を引き出せるほど巫女の素質があるとは思えぬ」
「あれをあまり侮るでないぞ。陰陽と調和の神レレナが人の世に関わる託宣を巫女に授けたとあらば、我は事態を軽視するわけにゆかぬ。行け、ニブレット。ブネのその男への執着はただ事ではない。連れて来ぬ限り一切、他の何事も手につかぬほどだ」
「何故私が」
「まず、ブネは妹たるお前以外の何者も信用してはおらん。更に、王の荒野の最奥には聖王の血筋の者以外入れぬ。そして第三、第四の王妃が産んだ貴様の弟妹らは幼く、王の荒野の入り口にたどり着く事さえできまい」
「ブネが私を信用していると? たわけた事を」
 ニブレットは馬鹿馬鹿しくなって立ち上がった。
「私が行かずとも、あの無能を白の間から引きずり出して放りこむがよかろう」
「口が過ぎるぞ。この命を辞退するならば、お前がここにある意味は消え、己が神ヘブの地獄の星に永久に囚われる事となろう」
「我が神ヘブの名を気安く口にするのは賢明ではないぞ、愚王よ」
「我は慈悲深い。貴様が我とベリヤの間の子でなければ、今日までに百度は首を刎ねていた所だ」
 見えざる殺気が、父と娘の間を行き交った。ニブレットは肩を竦め、溜め息とともに、元通り片膝をついた。
「しかし、斯様な用件で揉めたところで仕方あるまい。王の荒野の彼方へ参りましょう。その男を石相との境界より見つけ出し、連れて参ります」
「物わかりの良い事だ」
 ウオルカンの横の木巧魚が、頷くように一度頭を下げた。
「ジェナヴァの軍港より、友軍が都に兵を進めている。タイタス軍もこれ以上包囲を続ける事はできまい。機を見て、保護の魔術を受け出立するがよい。魔術師サルディーヤと木巧魚の同行を許可する」
 かくしてニブレットは、機を待ち、保護の魔法によってタイタスの兵の目を欺きながら、未だ敵に知られていない北の隘路を通って王の荒野を目指した。旅にはサルディーヤと二体の木巧魚、三頭の馬が同行した。ニブレットとサルディーヤがそれぞれ一頭の馬に跨り、もう一頭には荷を積み、手綱をサルディーヤが握った。日のある間、二人は黙々と馬を歩かせた。ニブレットは、サルディーヤが日没まで水も食料も口に入れぬ事を不気味に思った。また、日没、馬を休ませるに至っても、彼は自ら火を起こそうとはしなかった。彼が寒さを感じていないように、ニブレットには見えた。
 火を囲って休む内、ニブレットはサルディーヤに関する記憶がほとんど抜け落ちている事に気付いた。ニブレットは目を閉じ、縁ある人々の事をゆっくりと思い出した。
 連隊長カチェン。王国の第二王女を部下に持つ事となった気苦労の絶えぬ男。この終わらない冬戦争によって少年時代に両親を亡くし、たった一人の妹も、王の寵臣イユンクスに斬り殺された。決して無能ではないが、あらゆる運から見放された男。
 魔術師ベーゼ。魔術の才以外の何も持たない太った男。小心。驕慢。敵の襲撃に遭えば部下を盾に、我先に逃げる恥知らずの将校。
 侍女オリアナ。利発で生真面目。愛らしい容姿を持ちながら、彼女にその自覚はない。琥珀の髪に、情熱的な瞳。透きとおるほど白い肌。その下を縦横に走る彼女の血管。生ぬるい肉。恥じらいを秘めた吐息。
 第一王女ブネ。無能な姉にして、レレナに奉仕する巫女。根暗で内向的。あれが先に生まれていなければ、さっさと眼前から追い払っていたものを。
 聖王ウオルカン。あれには戦の才がない。先代の王より莫大な富と玉座と終わらない冬戦争を引き継ぎ、富は消え、玉座の上の腐った体と戦争だけが残った。不幸な男だ。
 正王妃ベリヤ。我が母。強欲。傲慢。実妹が第二王妃として嫁ぐや、妹の優れた容姿と様々な才能を妬み、実子に王位を継がせる為ブネとニブレットの暗殺を謀ったと言いがかりをつけた。妹を処刑台に、甥を窓のない牢に追いやり、餓死させた女。
 剣士イユンクス。ナエーズ平定の英雄にして、ウオルカンの寵臣。彼が英雄と呼ばれる訳はひとえに残忍であるがゆえだ。彼はその残忍さを戦場のみならず、己の屋敷においても発揮し、酒色に耽っては、女子供を追い回しては殺す遊びを飽きずに続けていた。
 渉相術師レンダイル。偏屈な老人。癇癪持ち。その姿を一度だけ、遠目に見た事がある。胸まで伸びた顎髭と不潔な髪。埃をかぶった服と破れた靴。貧相な痩躯。あれは果たしてどこの物乞いかと思ったほどだ。彼に弟子入りを乞う若者は後を絶たなかった。そして、彼の魔術書館に足を踏み入れ、出てきた若者もいなかった。
 ニブレットはサルディーヤを凝視し続けた。その顔は隠されたままで、顎と口しか見えない。彼について思い出せる事は、やはり、名前のほかなかった。
「何だ」
 サルディーヤが問う。
「何がだ」
 ニブレットは喧嘩腰で言い返す。サルディーヤは挑発に乗らなかった。
 ニブレットは、この男より先には眠るまいと決めた。それはまた相手も同じであるらしく、彼はいつまでも、雪の上の敷物に座したまま動かない。
 二人は弓のように張り詰めた緊張の中、遠すぎる朝を待った。

 どちらが先に眠り、どちらが先に起きたか、定かではなかった。ニブレットが出立の準備を始めると、起きている時と同じく座した姿勢のサルディーヤが、物音を聞いて立ち上がった。二人は会話も交わさず馬を進めた。
 二人が小高い丘に立つと、押し寄せる破滅の炎のような朝焼けの下に、王の荒野が広がっているのが見えた。王の荒野は思いもよらぬ変貌を遂げていた。二人は馬に跨ったまま、しばし荒野をただ眺めた。
 荒野は瑠璃の色彩に覆われていた。草も土くれも、瑠璃色の硬い石に変じていた。夜空のような瑠璃色には、星々に似た金の斑点が多分に混ざっていた。そして、雲を思わせる方解石の白色(はくしょく)も、各所に見て取れた。
 その石の名を、ニブレットは呟いた。
「ラピスラズリ」
 その響きは、甘い歓喜をたちどころにもたらした。古の貴石の荒野は、はるか果ての古き王たちの墳墓まで続いているかに思われた。
 サルディーヤが背後に立ち、彼が曳く馬の蹄の音で、甘美な感覚は破られた。鮮やかな真実に、胸が引き裂かれるのを感じた。ニブレットは目を瞠った。
 ニブレットは死んだ。背後からの魔術攻撃によって、五体を切り刻まれた。
 あの時背後にいたのは、敵ではない。その筈はない。背後にいたのは――。
「サルディーヤ。貴様、私を殺したな」
 ニブレットは弓を負ったまま、肩越しに振り返った。サルディーヤの口に笑みが浮いた。その笑みが秒ごとに広がり、彼は歯を見せた。
「記憶が蘇ったか。結構な事だ」
 ニブレットは漆黒の剣に手をかける。
「あいかわらず短慮な王女だ。私が、君が私を殺そうとする事を予期しなかったとでも思うか」
「私に死をもたらす際、苦痛を与えなかった慈悲については感謝しよう。して、貴様はどのような返礼を望む。灼熱の星か。極寒の星か。答えよ」
「やめておけ。今、君の命の手綱を握っているのは私だ。君は腐術の施術者たる私について、全てを知っているわけではない」
「……サルディーヤ、その名は偽名か」
「どうとでも思うが良い。思い出す事だ、私が君を殺さなければならなかった理由を」
 ニブレットは、この不愉快な同行者が一刻も早くくたばる事を願った。できるだけ惨たらしく。
 サルディーヤは笑みを浮かべたまま、ニブレットの隣に並んだ。ラピスラズリの中にきらめく黄鉄鉱の星々が、朝焼けの光を映し、輝きを増し始めた。


 
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