喜怒哀LOVE
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1.台風一過の如く《汐留 憂》
前書き
汐留 憂…
一学年上の高三の男の子。
毎回リアクションが薄く、会話が続かない。
図書室で宿題をやっていると、近くの席にがたんと大きな音をたてて、誰かが座った。
「うっわ……熱心~……」
柔らかな、それでいてハスキーな声。
私に言ってるの?
声のする方を見ると、栗色のくせ毛の頭が視界に入った。
彼は、机に顎(あご)を乗せ、その下に腕を敷いて座っていた。
「あれっ? 憂さん?」
憂さんとは、汐留(しおどめ) 桜(おう)くんのお兄さんで、私の一つ先輩だ。
彼は頭を少し動かし、私を見た。
「……うん」
以上。
もとから口数が少ないのは知ってたけど。
この人と会話らしい会話をした覚えはない。
(弟さん、桜くんって言うんですね~。)
(うん。)
(可愛らしい名前ですけど、彼自身も可愛いですよね~。)
(ああ……。)
(やっぱり、喧嘩とかするんですか?)
(…ふぅん?)
ふぅん?じゃなくて!
初めて話したときの、あの衝撃は忘れられない。
キャッチボールが出来ていたのは、最初の一、二分。
それ以降は、大抵「ああ」とか「ふぅん?」とか、曖昧な返事でやりくりされてしまうのだ。
初対面のとき、その甘い声と顔に惹かれ、話しかけてはいたけど。
途中で挫折したのを、今でもはっきりと記憶している。
彼と話すくらいだったら、少々難ありだけど、桜くんと話した方が気まずくならない、とすら思った。
「今、何やってんの」
「えっ!?」
突然の問いかけに、声が裏返った。
「だから、今、何の課題やってんの」
腕を敷いた上から、私を見つめる。
その眼が、子犬みたいで…つい、ときめきそうになる。
「えっと…物理、です」
答えると、憂さんは低くうなった。
腕の中に、完全に顔をうずめる。
「やだな…物理」
いや、あなたにやれと言っているわけでは。
……でも。
もしかして、私、会話らしい会話をしてる?
「苦手なんですか? 物理」
思わず含み笑いできくと、顔をうずめたせいでこもった声で応じる。
「うん……苦手っていうか…嫌い」
短いけど、「ふぅん?」じゃない。
クララが立った!
それくらいの感動だった。
「なんだっけ、名前」
ちょっと待って、こんなに質問できる人だったの?
驚きで、何をきかれたか忘れてしまった。
沈黙のなか、時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
「君、名前は?」
じれったそうな声が、私に呼び掛ける。
慌てて名乗った私は、再びの含み笑いだった。
「沙弥香……山本、沙弥香です」
「ねぇ…なんで俺、さっきから沙弥香ちゃんに笑われてんの」
憂さんが、少し体を起こした。
これが桜くんなら、真っ先に説教されているところだが、憂さんは大きめの瞳を見開き、不思議そうに私を見ている。
性格は似ていないのかも。
「えっ! あ、いや…スイマセン、憂さんがそんなにしゃべってるの、見たことなかったんで……思わず」
頬杖をつき、彼は窓の外を見つめている。
校庭は、サッカー部の男子が砂ぼこりをあげながら戦っていた。
時折、チームメイトの名前を呼ぶ声がこちらまで響いてくる。
「……そっか。あのさ、俺のことどう思う?」
……はい?
何の流れでそうなったんだ。
とりあえず、答えを見つけて応じる。
「えっと…あまり話したことないんでよくわからないですけど、……ちょっと可愛い、と思いました」
「……消えてほしいんだ」
私に?
話の文脈が、あまりにもなさすぎる。
戸惑う、というか、いきなりの台詞に若干傷ついた。
憂さんは、また腕に顔をうずめた。
何だか、すごくブルーになっているように見える。
「大嫌い………こんなの」
こんなの?
「あの、どういう…」
「この名前、憂って…憂いって書くじゃん。
悩みって意味なんだよね……名前の通りに生きてる。
こんなの、こんな奴、消えて…消えて…………」
「ちょっと、大丈夫ですか!? 憂さん!」
様子がおかしい。
そう思った私は、憂さんの肩を叩いた。
どこか調子が悪いんじゃ…。
肩を叩いたものの、返事がない。
「憂さん!? 大丈夫ですか!? 具合でもーーー」
必死に声をかけていると、図書室に誰かが入ってきた。
軽やかな足音。
それが、すぐそばで止まった。
「沙弥香さん、気にしないでください」
その声は、桜くんのものだ。
桜くんは、憂さんの髪をぐいっと引っ張った。
「おい、なに他の人に迷惑かけてんの」
「待って、桜くん! 憂さん、具合が良くないみたいーーー」
「黙って! 沙弥香さんは騙されてるんだ!」
……は?
固まる私の前で、桜くんはお兄さんの体を椅子に寄りかからせ、その頬をはたいた。
少し苦しげだった表情が、さらにつらそうになる。
「……ぅぅ………」
「おい、起きろ!」
これはDVとかではないのだろうか…。
と、憂さんが目を開いた。
モカブラウンの瞳が、桜くんを認める。
「……兄さん、帰るよ」
桜くんのぶっきら棒な言葉に、憂さんが投げやりに反応した。
「…はいはい」
あれ…。
先ほどとは打って変わって、憂さんの態度が…。
「沙弥香さん、ほんとに済みませんでした……この構ってちゃんが…。
この馬鹿兄にはすぐに帰らせますので」
そして、台風のように去って行ったのだった。
何が何だかわからないまま、私は図書室にひとり残された。
(…とりあえず、宿題終わらせなきゃ)
首を振り、ノートに向かう。
校庭から、わずかにホイッスルの甲高い音が聞こえた。
end
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