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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第138話 蔡瑁

 
前書き
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 美羽の治める南陽郡の隣郡である南郡の治所・襄陽県。
 この地に蔡瑁は居を構えていた。彼女は荊州の名門・蔡一族の出身であり、荊州牧・劉表の義妹であった。
 劉表は蔡瑁の実兄と婚姻することで荊州に地盤を作る足がかりとした。彼女の手足となり働いた蔡瑁は彼女の権力確立のために時には手を汚し尽力したことで、彼女からの信頼は厚い。現在、彼女は絢爛豪華な贅を凝らした邸宅内の中庭で茶を楽しんでいた。日差しは暖かく手入れの行き届いた庭木の葉に降り注ぎ、葉の色をより引き立たせていた。

静陽(せいよう)叔母上、お客人です」

 家屋の一角から一人の女が蔡瑁に声をかけ近づいてきた。歳の頃は十八位。浅葱色の長い髪を頭の後ろで邪魔にならないように束ねていた。理知的な表情でしっかりした眉が特徴で彼女の知性を感じさせた。髪の色を引き立たせるような無地の黒い漢服に身を包んでいた。蔡瑁を声の主へ視線を向けると茶を飲むのを止め立ち上がった。蔡瑁は彼女に近づいてきた女と違い紫色の髪に金銀珊瑚をあしらった櫛を刺し、紫を基本にした精緻な模様の入った漢服に身を包んでいた。蔡瑁の歳の頃は三十後半位に見えた。

秋佳(しゅうか)、その地味な格好は何だ。お前の叔父上が泣くぞ」
「華美な服装は好まないです。それよりお客人だと言ったはずです」
「客?」

 蔡瑁は秋佳と呼んだ女を訝しむ。秋佳と呼ばれた女は張允。彼女の叔父は大尉・張温。蔡瑁の叔母が張温に嫁いでいたため、蔡瑁と張允は親戚であった。

「車騎将軍の使者を名乗っています。叔母上に目通りを求めています」

 張允は蔡瑁に見事な黒漆塗の文箱を渡してきた。文箱は金糸と朱糸で編んだ紐で封をされていた。

「車騎将軍というと。袁術の縁者か……」

 蔡瑁は文箱を見ながら渋い表情をした。

倫陽(りんよう)は失敗したようですね。無事であればいいのですが。だから反対したんです」

 張允は苦悩の表情で言った。
 倫陽は蔡瑁の妹・蔡勲である。二人の話の流れから袁術の襲撃者達の中に蔡瑁の縁者がいたことになる。袁術の襲撃者達にとって誤算だったのは袁術の側に正宗がいたことだろう。

「連絡がないと思っていましたが」

 張允は更に暗い表情になり視線を地面に下げた。蔡瑁は張允の言葉など頭に入らない様子だった。

「叔母上どうしますか? 使者の用向きだけでも聞いておかれてはどうでしょうか?」

 張允は蔡瑁の表情を伺うように尋ねた。

「広間に通しておけ。暫くして行く。すまないが心の整理をさせてくれ」

 蔡瑁は茶道具の置かれている台の上に文箱を置き、石の椅子に崩れ落ちるように座った。蔡瑁は文箱を開けることなく虚ろな目で文箱を凝視していた。張允は蔡瑁の様子を心配そうに見つめた。

「叔母上、よろしければ私が代理で面会しますが。それか日を改められてはどうです。使者には失礼ないよう手配しておきます」
「大丈夫だ。相手に弱みを見せる訳にはいかない。ここで動揺した行動をとっては、相手に私が袁術襲撃の黒幕と打ち明けるようになものだ」
「叔母上、考えすぎです。気付かれてはいないでしょう。土産を持参してきていますし」
「この時期にどうして私の元に使者を送ってくる。私は劉ヨウとは面識もないぞ。怪しすぎる。遠路冀州よりわざわざ義従妹の元を訪ねる男なのだぞ。袁術の心配で私に使者を送る心境ではあるまい。あまりに不自然すぎる。袁術の暗殺襲撃の黒幕が私であると疑ぐっているのではないか?」

 蔡瑁は厳しい表情で文箱を凝視していた。

「その箱の文を読んでみてはいかがです?」

 張允は蔡瑁に文箱の中を確認するように促した。

「仮にばれていたとしても土産を持ってきているくらいですから大丈夫でしょう」

 張允は楽観的な態度で蔡瑁に言った。

「土産を持ってきたと言ったな」
「はい」

 蔡瑁は張允の言葉に反応し、張允の方を向き訝しむ。自分の義従妹を暗殺しようとした人間に土産など持ってくるはずがない。だが蔡瑁は引っかかっているようだった。正宗の使者の到着時期からして、袁術の暗殺襲撃時期から少ししてである。混乱が収まらない状態で面識もない面会の予約もしていない相手を訪ねるだろうかと蔡瑁は考えていた。あるとすれば正宗が蔡瑁を袁術暗殺の黒幕と睨んでいる場合の可能性が高い。しかし、黒幕と疑う相手に土産を持参するだろうか。それはないと蔡瑁は確信していた。
 蔡瑁は何かあると思った。そして、彼女は悪い予感がしていた。未だ戻らない実妹。蔡瑁は台の上に置いた文箱に視線を向けると乱暴に封を開け、中にある文を開封して読み出した。彼女が読み終えると文を握る手は震えていた。

「どうされたのです?」

 蔡瑁は何も言わず文を張允に渡した。張允は蔡瑁から渡された文を読み動きを止めた。文には



———

 蔡徳珪殿

 はじめまして。
 私自ら出向くことができず申し訳ない。
 荊州の名門である蔡一族の蔡徳珪殿には以前からお会いしたいと思っていた。
 しかし、それも叶わなくなった。
 先日、義従妹である袁南陽郡太守が凶賊に襲撃される事件が起こった。
 幸いなことに襲撃当日に凶賊は全員討ち取ることができたが凶賊の黒幕がようとしれない。
 凶賊は末端まで凶賊とは思えぬ練度であった。
 到底看過できることではない。
 凶賊の件もありしばらく南陽郡に出向けそうにないため挨拶として使者のみを送らせてもらう。
 使者に預けた土産の品だが気にっていただければ幸いだ。
 機会があれば是非に蔡徳珪殿とお会いしたい。

 車騎将軍兼冀州牧 清河王 劉正礼

———



 と書かれていた。

倫陽(りんよう)は」
「言うな!」

 蔡瑁は厳しい表情で張允を睨みつけた。その剣幕に張允は押し黙った。

「しばし一人にしてくれ。二刻後に出向く」

 蔡瑁は張允と目を合わせず顔を沈めたまま言った。張允からは蔡瑁の表情を伺いしることはできなかった。張允は蔡瑁を置いて使者の元に出向いて言った。張允が去ると同時に蔡瑁の膝のあたりの服に雫が一つ二つと染みを作っていった。

「倫陽、済まぬ」

 蔡瑁は嗚咽し、声を震えていた。彼女の哀しみに満ちた心中とは裏腹に庭の植えられた木々は陽光を浴び青々としていた。

「愚姉を許しておくれ。私の力になりたいのであれば他にもいくらでも方法はあった。汚れ仕事はこの私に任せておけば良かったのだ。この私の手は十分に汚れているのだから」

 蔡瑁は亡き妹に懺悔するように独白していた。しかし、彼女の懺悔を聞く者は誰一人とていない。それを聞くのは手入れの行き届いた庭の木々だけだった。

「袁術配下の武官は驚異できないと高をくくっていた。警備の薄い時を狙えば、袁術を亡き者にするなど容易いと考えていた。こんなことになるとは」

 蔡瑁は嗚咽を漏らしながら顔を両手で覆った。



 蔡瑁は張允に告げた通り二刻後広間に現れてきた。蔡瑁は張允と会話していた時と違い華美さを抑えた上品な紫色の上絹で設えたチャイナドレスに身を包んでいた。この部屋には邸宅の主人・蔡瑁、張允。そして正宗の使者である泉の三人だけがいた。部屋に入ってきた蔡瑁は笑顔で泉に対し歓迎の言葉を述べた。その様子に張允は一瞬驚いた表情をするも直ぐに平静さを取り戻した。張允は歓迎を示すでもなく事務的に泉と接した。蔡瑁と張允の態度は対照的であった。

「満白寧殿、劉車騎将軍も荊州にこられて直ぐに災難でございましたな。袁南陽郡太守はご無事で何よりにございました。謹んでお見舞いの言葉を述べさせていただきます」

 蔡瑁は心配そうな憂いを帯びた表情で泉に対して正宗と美羽の不幸を労わる言葉を述べた。泉は拱手して感謝の意を示した。

「して。満白寧殿、襄陽にはどの程度逗留されますかな。よろしければ当家にて歓迎の宴を用意したいと思っております」
「蔡徳珪殿、お気持ち感謝したします。袁太守様の件がございますれば用向きが終わり次第戻ろうと思っておりました。ですが、折角の蔡徳珪殿のお誘い。喜んで参加させていただきたく存じます」
「それは重畳」

 蔡瑁は泉の返事に笑みを浮かべた。泉は何か思い出したような表情をして蔡瑁に対して拱手をした。

「蔡徳珪殿に喜んでいただけるか心配でございますが主より土産を預かっております。お納めください」
「土産ですかな? わざわざお気遣いいただきありがとうございます」

 泉は手を叩くと部屋の扉が開き泉の配下の兵が漆塗りの箱十八箱を部屋の中に運びこんできた。箱は蔡瑁の前に綺麗に陳列された。箱は見事な漆塗りで蔡瑁は目を見張った。彼女はある一つの箱で目が止まった。一つの箱だけ朱漆の箱で、残りは黒漆の箱だったからだ。朱漆の箱を凝視する蔡瑁を見て泉は口を開いた。

「その箱の中身は正宗様が賞賛した人物の一部でございます」
「賞賛した人物の一部?」

 蔡瑁は泉の言葉に容量を得ない表情を返した。

「はい。その箱の中の人物は忠義と勇気を兼ね備えた人物でした。正宗様はその人物の才を惜しみ、降伏を条件に助命を考えましたが頑なに拒否しました。私も敵ながら天晴れの態度と思いました」

 泉は真剣な面持ちで蔡瑁を見据えた。泉の言葉に蔡瑁は箱を凝視して顔を青くさせていた。

「満白寧殿、誠に申し訳ないが叔母上は体調がすぐれない。本日の面会はこれにて終いにしていただきたい。長旅の疲れを当屋敷してとっていただきたい。面会の続きは日を改め設けさせてもらいます」

 張允は泉の言葉と蔡瑁の表情の変化を見て、二人の間に割り込んできた。だが蔡瑁は手で張允を静止した。蔡瑁は小刻みに震える手で朱漆の箱の蓋を開けた。その箱の中身を見た蔡瑁は両膝をつき態勢を崩し、箱の蓋を落とした。その様子を見て張允も咄嗟に蔡瑁に駆け寄り箱の中を見て凍りついていた。

 朱漆の箱には正宗に降伏することを拒否した女の首が安置されていた。その首の顔は死化粧を施され、髪は綺麗に整えられていた。そして、女の表情は少しも乱れておらず安らかものだった。蔡瑁は首を見て完全に動揺した表情を浮かべていた。

「倫陽……」

 蔡瑁は震える手で箱に触れ、その中身を凝視していた。その瞳は驚愕で見開かれ焦点が合っていなかった。

「おや蔡徳珪殿のお知り合いでございましたか?」

 泉は動揺する蔡瑁に言った。しばし、蔡瑁を凝視した後、徐に口を開いた。

「戦況不利になろうと臆さずに果敢に挑んでくる様を主は褒めておいででした。己の命惜しさに主君を裏切ることなく死を選んだ行為、百の臣下に勝る。違う出会い方をしていれば家臣として迎えたかったと」

 泉の言葉を蔡瑁は黙って聞いいていたが、彼女の両手は震えていた。張允は泉を険しい表情で睨んだ。しかし、泉は張允の睨みに動ずることはなかった。

「この者は誰が討ちとったのですか?」
「叔母上!?」

 張允は蔡瑁の言葉に驚く。

「主御自らです」

 泉は短く言った。蔡瑁は顔を上げることなく朱漆の箱の中に安置された蔡勲の顔を凝視し続けていた。

「使者殿、劉車騎将軍の此度の用向きは挨拶のみでございますか?」
「はい、主人は蔡瑁殿に一度挨拶をしておきたいと仰っておりました」

 泉は蔡瑁の質問に淡々と答えた。その間も蔡瑁は顔を上げることなく朱漆の箱を凝視していた。蔡瑁は一拍置いた後に口を開く。

「劉車騎将軍へお礼を申し上げます。明日、心ばかりの品を用意させていただきます。今宵は当家にてお寛ぎください。私は急に体調が優れなくなったので今宵の宴には参加できそうにありません。秋佳、あなたが満白寧殿を接待するのです。よいですね」

 蔡瑁は顔を上げることなく張允に言った。

「叔母上、かしこまりました」

 張允は蔡瑁に拱手して返事した。張允は蔡瑁の狼狽振りを一瞬だけ心配そうに見つめたが直ぐに泉の方に向き直った。

「満白寧殿、叔母よりあなたの接待役を仰せつかりました」

 張允は手を叩き部屋の外から人を呼ぶと下女が部屋に入ってきた。その下女は泉に深々と頭を下げた。

「張允殿、お手数をおかけします」
「この者が部屋へ案内いたします」

 泉は蔡瑁と張允に対して拱手して部屋を退出しようとした。

「使者殿。一つ聞いてもよろしいか?」

 蔡瑁は部屋を退出する泉に声をかけた。それに泉は立ち止まり振り向く。

「劉車騎将軍はどのような御人ですか?」
「主は寛大な御方です」

 蔡瑁は泉の返事に黙っていた。それを会話の終わりと判断した泉は再度拱手して部屋より退出した。張允は戸口に近づいていき耳を潜め泉が部屋から離れるのを確認した後、蔡瑁に駆け寄ってきた。

「叔母上、大丈夫ですか?」

「劉ヨウ、許さんぞ。お前だけは。お前だけは絶対に許さん!」

 蔡瑁は視線を床に向け両手の拳を強く握りしめると怨嗟の言葉を吐いた。その表情は夜叉の如き凶相だった。

「叔母上、軽挙は控えられよ」

 張允は蔡瑁に言った。その言葉に蔡瑁は顔を上げると張允を睨みつけた。

「倫陽を殺されて黙っていろというのか」
「我らに向うを非難できる道理はありません」
「道理など知ったことではない! 荊州では我ら蔡一族こそ法ぞ」
「感情的になされますな。劉ヨウの狙いは荊州ですぞ」
「どういうことだ?」
「叔母上、劉ヨウは劉叔母上でなく、我らに直接首を送りつけてきたのです。明らかな我らへの脅しです。もし、叔母上が劉ヨウに仕掛ければ奴は大手を振って荊州を蹂躙し我らに襲いかかってくるはずです。奴の望みは間違いなく我らとの戦いです。それに奴は華北に十五万の兵を養っております。これが袁術に合力すればどうなるか分かっていましょうな? 今回、劉ヨウが南陽にいたのはたまたまではないのかもしれませんぞ」

 張允は強張った表情で蔡瑁に言った。蔡瑁の表情から血の気が一気に引いていくのが側からもわかった。

「十五万だと?」

 蔡瑁は狼狽した表情で張允に言った。張允は蔡瑁にゆっくり頷いた。

「あの男は危険過ぎます。荊州に戦火をもたらせるおつもりですか。叔母上、劉ヨウと対峙するということはあなただけの問題ではないのです。この荊州の民の行く末にも関わる大事」

 張允は蔡瑁を厳しい眼で見つめた。蔡瑁は張允をしばらく凝視し立ち上がると部屋の入り口へと進んでいった。戸口につくと張允に背を向けたまま歩を止めた。

「秋佳、お前の考えよくわかった」

 蔡瑁の姿を追っていた張允は蔡瑁の言葉に安堵の表情を浮かべた。

「叔母上」
「秋佳。劉ヨウがかくも危険な男であるなら荊州に滞在する間に殺さねばならないな」

 蔡瑁は張允の言葉を制止し、背中越しに冷徹な低い声音で張允に語りかけた。張允は蔡瑁の意思表明に顔を引きつらせた。

「叔母上、何を言っているのです。劉ヨウの妻達は汝南袁家、蘆江周家、河内司馬家の出身ですぞ。劉ヨウを暗殺できても奴の妻達が弔い合戦を仕掛けてくるかもしれませんぞ」

 張允は狼狽えながら蔡瑁に近づきながら悲鳴じみた声で言った。

「黙れっ!」

 張允は蔡瑁の一喝に動きを止め、それ以上彼女は蔡瑁に近づかなかった。

「秋佳。お前はただ劉義姉上の庇護を受け惰眠を貪りたいだけであろう。お前が着ている服も。毎日食べる料理も誰のお陰だ? 皆私のお陰だ! お前のような小娘が私に意見するなど百年早い」

 蔡瑁は矢継ぎ早に張允に怒鳴り終えると張允を睨みつけた。蔡瑁の剣幕に張允は気圧され黙った。

「劉義姉上が何故今の地位に座っていられると思う?」

 唐突に蔡瑁は 凍りつくような視線を張允に向け質問した。張允は何も答えない。いや、蔡瑁のあまりの豹変振りに困惑している様に見えた。張允にとって普段の蔡瑁は理知的な姿しか見ていないのだろう。今も年の離れた妹が死んで錯乱しているだけと考えているのかもしれない。

「この私が歯向かう豪族どもをあの手この手で謀殺してきたからだ」

 蔡瑁は張允が返事する前に話しはじめた。張允は表情を変えず蔡瑁の話を聞いていた。その表情から張允は蔡瑁が後ろ暗いことをしていることを承知していることがわかる。袁術の暗殺計画を知りえる立場である張允なら蔡瑁がしていることも大まかに理解していてもおかしくはない。

「劉義姉上は荊州に下向した時、我が蔡一族の力を頼った。あの時、我が一族が劉義姉上を下支えせねばどうなったであろうか。未だに州牧としての務めをこなせていたか疑わしい。そうなればお前が洛陽から都落ちもできなかったであろうな。劉義姉上の足場を固めたのはこの私だ。私が進んで手を血で汚し敵対勢力を排除してきたからに他ならない。劉義姉上は私を切れぬ。劉義姉上は聡い方だ。私を切ればどうなるか分かっている。その証拠に劉義姉上は襄陽に州都を移そうとお考えだ。わざわざ蔡一族の本拠地である襄陽に州都を移すのは我ら一族の力が政の運営上不可欠だからだ」

 蔡瑁は嫌らしい笑みを浮かべ張允を凝視した。張允は蔡瑁の告白に剣呑な様子だった。

「秋佳、劉ヨウの使者は丁重に持てなし、明日豪勢な土産を持たせて帰っていただけ」

 張允は蔡瑁の言葉に肩を固まらせた。

「それは」
「言葉の通りの意味だ。お前はただ使者をもてなせばいい。お前に倫陽のような真似などできんだろ。劉ヨウの影に怯えるお前にはな」

 蔡瑁は張允を眉間にしわを寄せなじるように言った。

「叔母上、劉叔母上には?」

 張允は蔡瑁のなじりは無視して言った。

「言わなくてもいい。面倒臭いことになるだけだ。劉義姉上はここぞと言う時に二の足を踏む方だ。相談するまでもない。問題は劉ヨウと袁術だ。奴は今回の件を利用し、この私を脅してくるやもしれない。私なら間違いなく利用する」

 蔡瑁は渋面で虚空を睨みつけた。

「では劉ヨウに恭順する振りを見せれば」
「秋佳、お前は馬鹿か?」

 蔡瑁は険しい表情で張允を睨みつけた。

「お前の言う通りにしたらどこまでも利用され使い潰されるだけだ」
「ではどうするというのです?」

 蔡瑁は張允の言葉に口角を上げ邪悪な笑みを浮かべた。

「劉ヨウを先に殺す。冀州へ帰られてはもう二度と手がだせん。奴が荊州にいる間にけりをつける」
「叔母上、正気ですか!? まだ劉ヨウを殺そうとお考えとは正気とは思えません。劉ヨウは車騎将軍である前に王の爵位にあるものです。ことが露見すれば朝廷も黙っていないはず。劉叔母上とてただではすみません。最悪、九族誅殺の憂き目にあいますぞ」

 張允は蔡瑁に狼狽しながら不安げに言った。それを蔡瑁は蔑みに満ちた表情で一瞥した。

「殺さねば、いずれ我らが殺されることになる。お前は分かっているのか! ことが済めば劉ヨウは賊に殺されたことにでもすればいいのだ」

 蔡瑁は張允を叱りつけた。

「ですが、あまりに軽挙すぎます」
「黙れ! いかに劉ヨウが武芸に秀でいようと所詮は人。殺しようはいかようにでもある。人など条件が揃えば容易く死ぬのだ。袁術の件は誤算があっただけのこと。秋佳、お前は劉ヨウの使者から奴がいつまで荊州に滞在するか聞き出せ」

 蔡瑁は落ち着いた声音であったが、その表情は怒りと緊張がない混ぜになっていた。張允は叔母である蔡瑁の様子に不安を覚えていた。しかし、蔡瑁の張允への態度から彼女に拒否権はないだろう。

「叔母上、劉ヨウを殺すのは倫陽の復讐でしょうか?」

 張允は蔡瑁に真剣な表情で質問した。張允は蔡瑁が復讐に燃え感情的に正宗を殺そうとしようとしているのでないかと考えていた。もし、張允の読み通りなら蔡瑁は冷静さを失い何をするか分からない。その果てにあるのは張允自らの破滅と考えているのだろう。

「違う。蔡一族のためだ」

 蔡瑁は一瞬沈黙するも短く答えた。

「劉叔母上のためでなくですか?」

 張允は質問を変えて蔡瑁の腹を探るような質問をした。

「そうだ。今までもこれからもそうだ。劉義姉上もご承知だ。劉義姉上と私は違いに利害が一致しているのだ。切っても切れないほどにな」

 張允は蔡瑁の言葉に驚愕している様子だった。だが、それ以上張允は蔡瑁に何も言わなかった。



 張允は正宗の使者である泉を贅を凝らした宴でもてなした。この宴の席で張允は泉より正宗が滞在期間をおおまかに知り、蔡瑁から受けた命令を果たした。翌日、泉には劉正宗への返礼の品と上絹二百匹が預けられた。泉が帰路の途上にある中、蔡瑁は正宗と袁術を暗殺する段取りを計画するのだった。 
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