白い神兵
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第一章
第一章
白い神兵
日露戦争。この戦争は日本にとって開闢以来の国難であった。
恐ろしい大国ロシアが朝鮮半島から迫りそれに立ち向かわなければならなかった。若し戦わなければ、敗れればそれで日本という国は終わってしまう。誰もがそれをよくわかっていた戦争であった。
しかし。ロシアに勝てるとは誰も思っていなかった。
「勝てる筈がない」
これは一人の意見ではなかった。皆が思っていたことであった。
伊藤博文もそうであった。その為彼はロシアと同盟を結び融和策に走ろうとした。何としてもロシアの牙から逃れたかったのである。
何かと強硬派で知られる陸軍の法皇山県有朋ですらそれは同じであった。彼は最後の最後まで開戦すべきかどうか迷っていた。この当時から、そして今に至るまで評判の悪い男であるが少なくとも水準以上の政治力と判断力はありそれはよく見極めていたのである。
彼等だけでなく明治天皇でさえもそうであられた。帝は開戦には消極的であられたがそれでも戦わなくてはならなかった。戦えばまず敗れる、しかし戦わなければならない、そんな状況だったのだ。
そんな戦争であったが誰もが奮闘した。将軍から末端の兵士に至るまで己を捧げ戦いに向かった。乃木希典は出征の際妻にこう言い残した。
「骨が一つ届いたからといって葬式はするな。三つ届いてからにしろ」
彼には二人の息子がいた。自分と二人の息子をこの国難に捧げるつもりだったのだ。事実彼の二人の息子は旅順の戦いで壮絶な戦死を遂げた。これで乃木の家は途絶えてしまうのだが彼はそれよりも国難に殉ずることを選んだのである。これは紛れもない事実だ。
誰もが意を決し誰もが己の全てを捧げた戦争であった。またこの戦争については多くの興味深くかつ神秘的な話も残っている。
皇后陛下の枕元に坂本竜馬が現われたという。そして日本海海戦の勝利を予言したと。これはあくまで創作の話だと言われているがそれでも日本海海戦は日本の勝利に終わった。事実から出て来た話だともされているが少なくとも日本海で日本が勝ったのは事実だ。
そしてこんな話もある。陸軍もまた数多くの死闘を経ていた。多くの将兵が倒れたがそれでも日本軍は果敢に戦った。軍規は厳正でしかも精強であった。
この戦場においてもそれは同じだった。日本軍は多くの砲撃や銃撃を潜り抜け敵陣に向かっていた。しかし敵の護りは堅固で戦死者ばかりが増えていた。
「敵陣にはまだ辿り着けないか」
「はい・・・・・・」
熊谷三郎大佐の言葉に参謀である伊吹正友少佐が苦渋に満ちた顔で頷く。二人のピンとワックスで張らせた口髭がそれで動く。
「まだ。残念ですが」
「機関銃か」
「まずはそれです」
この戦争で日本軍はロシア軍の機関銃に終始悩まされた。とりわけ旅順ではそうであった。
「それのせいで思うように進めず」
「損害も増えていくか」
「ですが道はあそこしかありませぬ」
伊吹少佐はまた苦渋に満ちた顔を見せた。
「ですが。そこには」
「敵もわかっておるのだ」
言うまでもなくロシア軍のことだ。
「全てな。だからこそあそこに機関銃を集中的に配備しておるのだ」
「大砲を呼びますか」
「残念だがそれは無理だ」
熊谷大佐がすぐに苦い言葉で応えてきた。
「忌々しいがな」
「別の戦線にですか」
「そうだ。戦場はここだけではない」
理由はそれであった。戦いは一つの戦場でだけ行われるものではないのだ。当然彼等が戦っているこの場所以外でも戦闘は行われているのだ。
「そちらに回されておる。だから」
「こちらには無理というわけですね」
「そうだ。だからだ」
忌々しげに敵陣を見る。土塁や障害物を前に置きその陰から機関銃を放っている。その機関銃が火を噴く度に日本軍の将兵達が倒れていく。二人はそれを実に忌々しげに見ているのであった。
「これ以上損害を出すわけにはいかん」
「はい」
「戦闘継続不可能になってしまう。しかしだ」
「あの敵陣を突破しなければなりません」
パラドックスであった。突破出来ない敵陣を何としても突破しなければならない。このパラドックスは戦争においてはよくあることだが今の彼等がまさにそうであったのだ。
「何としても」
「せめて援軍でもいればな」
大佐は溜息をつきかけた。危うく。
「言っても無駄だがな」
「援軍ですか」
「それもやはり別の戦線だ」
「左様ですか」
「兵がない」
これは日本軍全体がそうだった。日本軍は動員できるだけの兵力、調達できるだけの武器や弾薬を使って戦っていたのだ。しかし大国ロシアを相手にしてはやはり劣っている。その劣勢を士気と戦術、将兵それぞれの戦闘力と気迫でカバーしていた。だがそれでも限界があるのであった。
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