Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第3章 禁書目録
七月二十七日・夜:『剣理:殺人刀』
うっすらと、瞼に光を感じた。酷く疲れて眠った翌日のような、起きたくなくなる倦怠感の中で。
僅かに目を開いた涙子、その瞳に映る────
「くっ、『ナイハーゴの葬送歌』だと……魔導師の仲間が居るだなんて聞いてないぞ!」
「っ…………」
緑色の粉塵が舞い散る地下貯水施設の中で黒い棘のようなメスを手にしたまま狼狽する、見覚えのある青年。僅かに間を置いて、その男が自らを担当した医師だと気付いて。
「私の信徒が全て緑の崩壊を……『グラーキ教団』が……クソッ、また一から作り直しだ!」
「…………?」
周りでは妙な本を持つ数人が、その医師に何かを狂乱しながら『どうなっているんだ』とか『話が違う』だのと訴えているが……医師は、全く受け合わず。
神経質そうに喚くだけの、見覚えのある筈の医師を見て、涙子は不思議そうに頸を傾げる。
(……誰、この人)
その瞬間、医師が彼女を見遣る。色濃い狂気にどろついた、腐った魚のような瞳で。
逆手にメスを握り直した右手を振り上げて、後は降り下ろすのみの状態に構えた。
「先ずは、君からだ。雑な施術になってしまって私好みではないが……さぁ、グラーキの恩寵を授けよう!」
「あ……」
不浄の猛毒に塗れた鋭利な刃先が、少女の柔肌に迫り────掌ごと、弾け飛ぶ。よく見えなかったが、何か銃弾のようなものに。
今度こそ、他の本の持ち主達はその場を逃げ出す。口々に『付き合っていられるか』と吐き捨てながら。
「────動くな、糞ッタレ!」
何時の間に現れたのか。早朝に木々をすり抜けるさまを幻視する程に、爽やかな風と共に。
翻る襤褸の黄衣が、清廉な朝の陽射しのように。靡く翠銀色の髪が、優しく鮮やかな白い虹のような。教科書に載る前時代に描かれた宗教画の、『聖人の後光』のような。
「……天…………使……?」
その背中に二対四枚の、透明な昆虫の翅のようなモノを見て。そこから、神聖なまでの光を感じながら、涙子は霞んだ意識の中でポツリと口を開いた。
………………
…………
……
「兎に角、仕事なんだからヤるだけさ────行く」
この場所を突き止めた理由を説明された後、碌な説明も無く立っていたセラ。だが、涙子が危ういと見るや、嚆矢は目の前から黄衣の魔導師を見失う。
「はぁ? って、早ッ!?」
今はもう、解剖台の祭壇に。西之医師の右腕を『H&K USP Match』の一発『ハスターの爪』で吹き飛ばして、残る魔書の持ち主どもを狂乱の坩堝に叩き込んで。
風の速さの移動『風に乗りて歩む死』、今更ながら信じられない速さだった。
「何よ、コレ?! 話が違うじゃない!」
「ど、どうするんです、蔵人さん!」
蛇髪の女と触手足の男が、片膝を突き右の顔面を押さえて蹲る槍騎士に問い掛ける。
その装甲の内側からは今もまだ此方を見据える七つの紫色の、憤怒に満たされた炯々たる鋭い眼光。低く唸る毒虫のような、怨嗟の響き。殺意が形をなしたような、その邪悪。
「……死にたくなければ失せろ。黙示録を置いて逃げるなら、俺は追わない」
「ひっ、く……」
「ぐう……!」
上段に長谷部を構えたまま、告げる。精一杯の虚勢を張りながら、余裕じみた態度で出口を顎でしゃくって。
形勢が傾いたと見るや、敵は瞬く間に意気消沈した。そんなものだろう、自分の研鑽ではなく、他者から与えられたモノで粋がる小者など。
ちら、と己の魔導書を一瞥した。一瞬、天秤に掛けたのだ。自らの命と、『魔導書を置いて逃げる事』を考えたのだろう。
──そして無論、『見逃す』などは方便だ。背中を見せれば、殺す。殺さなければいけない。この作戦の報酬は『グラーキ黙示録全巻』、そして魔導書とは自ら持ち主を選ぶモノ。現状、生き残っている全員が、その持ち主。
故に、鏖殺せねば禍根が残る。
一瞬、苦味に苦笑する。『柳生新影流を遣って人を殺す』、己の因果に。思い出したのは、紫煙と灼けた金属の匂いを染み付かせた義父の背中。
『何、“魔剣”を教えろ? 阿呆か、お前は……最低でも十年は早ェ』
当たり前のように、金槌染みた拳骨が返る。冗談ではなく、本当に目から火花が出るように硬い拳だった。
今にして思えばソレは、コレを予期してのようにも。
『お前は先ず、刀を扱えるようになれ。そうだな……新影流が良いだろう。あ? 何でか、だと? 決まってんだろうが、あの流派の真髄はな────』
二度目の拳骨は、何で殴られたのかは分からなかった。今度は、喋っている途中だったので舌を噛んだ。凄く痛かった、それを今も思い出す。
《“活人刀”気取りか、新影流の小僧。殺人機風情が、誰かの命を救おうなどと! 浅はかにも程があるわ!》
「ッ…………!」
──結局、“殺人刀”にしか留まらなかった俺を叱っているのではなかろうか、と。
地の底から響くような槍騎士の声に、刹那、認識を取り戻す。呆けている場合ではない。未だ、窮地なのは此方の方。
《貴様らは向こうに行け。この餓鬼は、私が殺す》
「は、はい!」
「お気をつけて」
迷いを覚えた配下の二人を祭壇に向かわせ、立ち上がる巨躯の騎士に、再度注意を。あの二人は見逃すしかない。無理に斬りかかれば、先にあの槍が此方を貫く。その槍も、見切りさえしくじらねば活路はある。無論、斬りかかりながらなどは不可能な話。
三度、上段構えで迎え撃つ。相も変わらぬ“合撃”打ちの構え。
「簡単に言ってくれるな、舐められたもんだ。じゃあ此方はテメェの残りの目ン玉七つ、後、涙子ちゃんに向けた暴言分の金玉二つ。合計十個、粉砕してから殺してやるぜ」
《出来るものならやってみろ、莫迦の一つ覚えの“合撃”で出来るならな……ならば、此方はこうしよう》
槍騎士が十文字槍を左手に、石打を地面に突き立てた。基本の“四股”ではない、見た事の無い構え。腐っても免許皆伝か、引き出しの多さに言葉にしないまま反吐を吐く。
右足が浮いた。まるで、ポールダンスの踊り子じみた格好。戦には不釣り合いな、その構え。一体、何を狙っているのか……全く解らない。
解るのは────一挙手一投足でも見逃す訳にはいかないと言う事のみであり。
《宝蔵院流────“巴”!》
「なッ!?」
そんな当たり前の行動しか取れないからこそ、故に敵の術中に嵌まる。鍛えられた武人であればある程に。未だ、至らぬ若輩であればある程に。
グルリと還った石打に巻き上げられたコンクリートの欠片が、堆く積もる緑色の粉末が、顔面にぶつけられた。
(目潰し、か!)
顔を振って回避を試みるが、この散弾を前にしては無意味が過ぎる。臍を噛むも、余りに遅い。意趣返しだ、この技は。
上げられた足は陽動、全ては槍から意識を逸らす為の。
緑色の粉、先程まで屍であった粉とコンクリート片の混じり合ったものが視界を奪う。乾燥した粉末が眼球に張り付いて水分を奪い、更にコンクリ片が鋭敏な眼球の痛覚を抉る。目を擦ろうとする本能を、辛うじて理性で留めて。
しかし止めようのない人体の反射が、異物を洗おうと涙を流してしまう。よって視界は、更なる混迷に。
《仕舞いとしようか────見る事は出来まい、故にその身でとくと味わえ。“宝蔵院の槍、槍の宝蔵院”……その真髄を!》
構える気配がする。或いは、殺気をそう感じたか。何にせよ、文字通りに身を持って受けるしかない。
その結果は、火を見るより明らかだ。では、どうやって乗り切るか。対馬嚆矢は、何に頼るべきか。
《死ねェェェェェェェいッッッ!》
裂帛の気合いと共に、その死が。猛毒の槍が、真っ直ぐに突き出された───────
………………
…………
……
気絶しているセーラー服の女学生を背後に、自らが巻き起こした風が巻き上げた緑色の灰を払う。異星生物の死骸の燃え滓だ、穢らわしくて堪らない。
しかし、それでも。目の前に邪悪が有るのであれば────討つ。それが、彼女の……『邪悪を討つ力としてに転写された』“セラエノ断章”の存在する理由なのだから。
「……成る程、そうか。君が、『彼女』が言っていた『米国協同協会』か……」
右腕を喪った医師が、黒い血をボト、ボトと落としながら。ニタニタと、癇に障る笑顔のままで。
何でもないとばかりに、左手に新たな棘を構えて。
狂信だけでは土台、説明がつかない。では、それは。
「そうか。あんたも、もう化け物か」
「クッククク……確かに。確かに、化け物さ」
答えた刹那──繰り出された、竜巻を纏うセラの後ろ回し蹴りにより、ポロリと首が落ちた。
ニタニタと、癇に障る笑顔のままで。そう、コレもまた、怪物と化したモノ。
「おい、助けに……が、おい、なんだコレ……グラーキ黙示録が、アガ!?」
「くそ、くそっ! なん、コレ……グァァァァッ!!」
更に、二体。逃げなかった二体、蛇髪の女と触手足の男が合流する。同じく化け物、これで三体。何と面倒な話か。
そんな化け物二人が、一斉に苦しみ出す。頭の蛇が、足の触手が、まだまともな人間だった部分を浸蝕していく。
「莫迦どもが……魔導書を裏切ろうとするからだ」
そう、魔導書とは自ら持ち主を選ぶ。だから、同様に見限る事もある。一度でも裏切ろうとしたのなら……最早、後は。
『グ、ルァァァァ……』
『オォォおォォォ……』
全身を蛇に、触手に変えて。既に人格など残っていないだろう。瘴気そのもの、邪悪に染まって。
ならば、応える他に在るまい。空いた左手で、フードを目深に被って。
「風をもたらせ────」
ゆるりと、前に突き出した右手。そこに集う風、孕む紙片が形を為す。一冊の、黄色い表紙の魔導書を。
それを開く。開いた頁を顔に宛てて、その呪文を起動する。
《────“黄衣の王”!》
青白い、狂笑を象った仮面。三つの瞳のそれを纏い、燃えるような白金の瞳が────煌めいて。
………………
…………
……
屍毒にまみれた十文字槍が、獲物を貫く────前に、虚空に浮かぶ玉虫色の祭具『賢人バルザイの偃月刀』よりの防呪印に阻まれた。
しかし、ただ阻まれた訳ではない。第一防呪印『竜頭の印』から第二防呪印『キシュの印』、最強の防御力を誇る第三防呪印『ヴーアの印』までを貫かれて漸く止まった程の突きだった。
『てけり・り! てけり・り!』
(分かってる。必ず、“迷宮蜘蛛”を喰わしてやるさ)
ショゴスからの念話に応えながら偃月刀を掴んで構え直せば、念話の応用でショゴスの視界が手に入る。これで、視力の問題はクリアした。
体勢の崩れた槍騎士に向け、左の偃月刀は前方に水平で、右の長谷部は後方に低く地を擦るような下段八相に構える二刀流。
「裏柳生新影流兵法─────“水月刀”」
《ヌゥッ……!》
槍騎士が構える。どうやら、もうどのような技かはバレているようだ。有名流派の弊害である。
そして、それは敵の流派にも言える。今恐るべき宝蔵院の槍は、只一つ。
(“悪心影”)
《……なんじゃ?》
先程の決裂から、一度も口を開いていなかった“悪心影”に思念を送る。それに返った、不貞腐れたような思念。別段、気にする事もなく。
(『物理的な剛性に加えて魔術的な耐性、治癒能力』……コレを破りゃあ、野郎も斬れるンだな?)
《……是非もあるまい。それを破れば、邪神だろうが聖人だろうが魔人だろうが────この世のモノである限り、滅せぬものの在るべきか》
(そうか。ならば、良し)
嗤う。嚆矢は、悪辣に嗤う。漸く、槍騎士を討ち倒しうる光明を得て睨み合う。偃月刀の刀身に浮き上がっては沈んでいく、血涙を流す無数のショゴスの瞳と……槍騎士の七つの紫瞳が。
《………………》
「………………」
呼吸すら最低限に。互いに────迎撃姿勢。即ち、膠着状態。
この時点で、嚆矢の目論見は外された。相手の刺突を左で受け、右の擦り上げで敵を断つ“水月刀”は不発に終わる。
じり、と歩を進める槍騎士。突きではなく、薙ぎ払いの距離まで。単発ではなく、そもそも連続攻撃である“惣追風”を受ければ……最早、勝機はない。
《ふはっ、所詮は小童か……ここまで手を煩わせた事は、驚嘆に値するが。未熟、未熟未熟!》
覗穴の奥の七つの紫瞳が、憤怒から軽侮に。勝利を確信し、槍騎士は────
《武など、所詮はこの程度。奇跡など起こしはしない────そして、命を殺す事こそが武の本懐! 愚かなるかな、始祖胤栄! 柳生一門!》
「テメェ……」
対敵の流派のみならず、あろう事か自らの流派の始祖を嘲弄した。武人にあり得てはならない、敬愛すべき先達への冒涜を。
それに、嚆矢は見えもしない目を開く。鋭く睨み付けるように、槍騎士の居る方へと。
《奇蹟とは、こう言う事だ……さぁ、我が命、我が魂を捧げよう。喰らえ、喰らえ────“迷宮蜘蛛”!》
「ッ!?」
誓言と共に、槍騎士の生命力が昇華する。可視化する程に高純度な魔力が、空間を軋ませるかのよう。
刹那、視界が歪む。正確には、認識が捻れた。ショゴスの視界に、蜃気楼の如き『揺らぎ』が生まれ────槍騎士の姿が、十体に増えた。
《ハッハッハッハッハァ! どうだ、これが“迷宮蜘蛛”の能力! 人体に置ける迷宮、脳髄の認識を操る能力……即ち、『思考の迷宮を造り出す権能』だ!》
「ッ……巫山戯やがって!」
正に、切り札だ。どれが本物かまるで解らない。そもそも、見えているモノが誠か否かすら怪しい。
何にせよ、この槍襖の中の本物を避ける事は叶わないし……また、二本の刀で全てを受ける事も不可能である。
《無駄無駄無駄ァ! この権能は、相手の認識を現実として貴様に反映する! お前が思い描く事は、全てお前に対してのみ事実となるのだ! この十の槍襖は貴様に十の傷を負わすが、私には私を斬った場合しか傷は与えられない!》
「チッ────糞チートが!!」
つまり、守りを崩されたのだ。
では、どうするか。どうすれば、この危地を乗り切れるか。思考を────回転させる。敵の権能に冒された、役立たずの自分自身を。
《さぁ、そろそろ時間だな……愚かな貴様の! 惨めな死の、時間だ!》
虚空から、嘲笑が聞こえる。六次元の彼方より、此方を嘲笑う刃金の螻蛄が。
背後の影は、ただ此方を見詰めている。期待するでもなく、侮蔑するでもなく。ただただ、三つの燃えるような視線を背中に感じるだけ。
《これぞ、宝蔵院流奥義────“十箇”!》
そして、射程に踏み込まれた。撃ち出される槍は、さながら弾雨。否、砲雨だ。挽肉すら残らなそうな程の。
本来は『十連続に見せ掛けた初手必殺』の筈のその技は、これにより『十点射に見せ掛けた初手必殺』へ。避けようはない、詰みである。
では、どうするか。必死に回転させた脳味噌で、得た『答え』は────
「柳生新影流兵法────」
何だ───────
………………
…………
……
颶風が駆け抜ける。緑色の灰を撒き散らしながら、“黄衣の王”が虚空を疾駆する。足元から迫り来る無数の触手と、天井から降り落ちてくる無数の蛇を躱しながら。
しかし、それもここまで。網目のように絡み合う触手と蛇が、行く手と退路を塞ぐ。舌打ちを一つ、その背に負うセーラー服の女学生を確かめて。そして両腕に、弐挺拳銃を構える。
《喰らえ、喰らえ────“疫病風神”、“疾病風神”!》
その弐挺が、立て続けに火を吹く。二体の風の邪神の名を冠した拳銃から放たれた銃弾は、過たず────暴風と化して包囲を突き破る。
『ギャァアァァァァ!』
『ギィイイイイイィ!』
そして、天地より絶叫が木霊する。地べたから触手を伸ばす“触手海神”と、天井に張り付きながら蛇の髪を伸ばす“毒蛇髪神”が。
その銃弾に仕込まれた呪詛に、風の刃に触手と蛇を寸断されつつ。本来ならば、損傷した端から再生する筈のその二つだが────疫病疾病を媒介する“邪悪なる双子”はそれを許さない。
何より、その銃弾は繰り返し二体を狙う。風の導引に従いながら、何度でも。
《飢える、飢える、“風の皇子”。飢える、飢える、牡牛座第四番惑星……》
その翻弄する隙に、黄衣の王は魔導書と『コンテンダー=アンコール』を構える。装填されたのは、長銃用の強装弾。その一発に、呪を籠める。
《────喰らえ、喰らえ、“風王の爪牙”!》
放たれた徹甲弾が、大気の戒めを破る。星を渡る風である“風の皇太子”の加護を受けて、音速の壁を貫き目にも留まらない。
『ア──────ギ!??』
一閃を躱す事も、反応する事すら出来ずに“触手海神”が撃ち抜かれて────余りの速さに伴う衝撃波によって、細切れに粉砕された。無論、再生する暇もなく死滅した。
更に、徹甲弾が鋭角に曲がる。二度、三度と繰り返し。その向かう先は……勿論、逃げようと背を向けた“毒蛇髪神”。
《無駄だよ。“風王の爪牙”は、狙った獲物は逃さない────黄衣の印に狙われた者には、平等な滅びがあるのみ》
過たず、背から撃ち抜かれた“毒蛇髪神”は“触手海神”と同じ末路を。地面の緑色の灰の中へと、微塵となって消えた。
後、残るは────
《お前だけだ、“悪逆涜神”》
『クク……』
右腕を再生させて頸無しのままに蠢く医師の、醜悪な姿を睨み付けた。
………………
…………
……
刹那、槍騎士の足が鈍る。それもその筈、それは仕方ない。どんなに訓練したとしても、突き付けられた剣先への恐れが消える筈もなく。ましてやつい先程、目を潰されたばかりならば。
「────“浮舟”」
揺らす長谷部の剣先、まさに波間に浮かぶ船のように。その一瞬の隙に、偃月刀を────長谷部と融合させる。
ショゴスの同化能力をもって、黒燿石の刀身に玉虫色の輝きを灯した長谷部を。
《ヌゥアァァァァァァァァァァァァ───────!!!!》
それと、槍騎士が意気を取り戻したのは全くの同時。二人の武士は、全く同時に各々の得物を。
十の槍襖とたった一つの刃、勝負にすらなる筈もない。待つのは、一方的な蹂躙であり。
「────……」
《────……》
刃を地に突き立てて左手で鍔元を握り、右手で柄頭を持ち、その上に頭を置いた嚆矢。まるで、諦めたかのように。それに、槍騎士が目を見開く。衝撃と焦燥をもって。
武芸者の戦いの真骨頂は、技を出した後ではなく技を出す前。勝負は、技を出した時には決まっているのだ。
「柳生新影流兵法────」
しかし敵十体に対して、嚆矢はただ一撃。嚆矢は本物を見極めつつ槍を躱しながら、射たねばならぬ。
無理、無謀が過ぎる。そんなもの、十分の一の確率など─────
「“老剣”────が、崩し!」
《な、に!?》
槍襖が、透り抜ける。涙子を連れて屍から逃げる際に使用した、己の能力『確率使い』による『トンネル効果』で。
一度限りのトリック、二度は通じまい。敵も然る者、もう同時に槍を繰り出す事はないだろう。何より、もう一度など……次は脳への負荷が耐えきれない。
故に、コレで止めとする。故に、出し惜しみなど欠片もなく。真っ直ぐに、『敵』を睨み付けて。
「─────“晁陽月”!」
《───────…………》
天に駈け昇る朝陽の如き一刀、地に沈む朝月の如き二刀。一太刀目で“柳雪”を試みた十文字槍を断ち斬り、二太刀目で────真正面の槍騎士を、装甲ごと深々と。背骨に届くまで、袈裟懸けに叩き斬った。
《……どうやって見切った、どうやってこの装甲を破った?》
「テメェが目潰しに使った灰に残る、足跡から。そして、ショゴスの物理無効に長谷部の摂理無効。合わせりゃ、斬れない物は無いと踏んだ」
《道理と……当てずっぽうかい。いやはや》
頭上から降るような声に、返す。せめて、恥知らずの殺人機には過ぎないが……殺したのならば、末期の礼儀は尽くそうと。
吹き出した反り血が、全身を紅に染める。また一つ、命の灯火を潰した。また一つ、“殺人刀”の事実を背負う。
《く、ふふ……しかし、後世とは恐るべきものよ。まさか、貴様如き小僧めに……我が槍、潰えるとは》
「全くだ……俺程度に負ける程度の腕前が、免許とは」
《ほう……そう言えば、坊主。お前は》
「師、曰わく───」
問いに先んじて答える前に、長谷部を鞘に納めて。懐から、煙草を取り出す。銜え、火を灯し……肺腑で玩んだ紫煙を地下の饐えた大気に吐き捨てる。
思い出したくない事実を、ほろ苦い現実を思い出し、管を巻くかのように。
「『五年鍛えてみたが……お前、才能ねェわ。破門な』」
《────ふはっ!!? ハッハッハッハッハ! そうか、そうか! いや、やはり良い師に学んだようだのう……》
とびきりのジョークを聞いたかのように、快哉を唱えた槍騎士の装甲がひび割れ、砕け散る。
その残骸は、全て……ショゴスに貪られている。誓約の通りに。
「“少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉已に秋声”」
どさりと、膝を突いた……見るも無惨に老いさらばえた老人と、地に落ちた“グラーキ黙示録”。嗄れた声で呟かれたのは、朱子の『偶成』の一節。
「長き道を来たが……お主のような若武者に負けたのならば、悔いはない……では、の」
「………………」
そのまま、灯火が消える。呆気なく、命が消えた。確かに悪人であり狂人ではあったが……命だった事に変わりはない。
何か、重荷を手放したように穏やかな死に顔の鷹尾 蔵人に対し……何か、重荷を背負い込んだような苦い顔で。
「後は、あのクソッタレだけか」
嚆矢は、未だ微睡む“屍毒の神”を見据えて。その偉容、瘴気。自らの全存在が、『逃げろ』と喚き散らすモノへと向かう。
《嚆矢よ》
(……何だ)
脳内に響いた声、“悪心影”の。それに苛立ち半分、返事を。
《貴様が、生きる目的は何だ》
問いは、彼にとっては心底、どうでも良い内容。今更、そんな事は……どうでも良い。
だが、その声。それは、昔────
『あ? 死ぬのに鍛える意味があるのか、だァ? 阿呆か、死ぬからこそ限界まで辿り着けるんだろうが』
何処かの誰かが、拳骨を落とされながらも屈強な背中に問い掛けた言葉と同じ、意味であり。
「識りたいんだよ、全て。俺が識れる全て、識れない全てを……この世の全てを、識りたいから。俺は、生きる。誰を、どれだけ殺そうと」
《………………》
唯一、抱く願いを。多分、生まれて初めて他人に口にして。黙りこくる“悪心影”を尻目に、次なる敵に向けて歩き出す。
《呵呵……呵呵呵呵呵呵呵呵! そうか……分かるぞ、その好奇心。儂もまた、同じであったからのう》
背後に、再び感じる気配。混沌の渦が巻き起こるのが分かる。しかし、違うものがある。背後にいるのは同じ、だがしかし。
《さぁ──────残るは、“屍毒の神”のみじゃ、さっさと討ち滅ぼして、『かれー』とやらを頂きに参ろうぞ》
「あぁ……そうか、家賃も払わなきゃだった」
そんな、やたらと即物的な事を考えながら。曲がりなりにも、神を殺す戦いへとその足を進める─────
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