青い春を生きる君たちへ
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第14話 下らない昔話
「おい、小倉〜。ちょいと勉強教えてくれや〜」
「ああ?自分でやれよそんなの」
先輩のユニフォームを洗う為、明らかに数が足らない洗濯機の前のベンチに腰かけ先客の終了待ちをしていた小倉は、同室の町田に声をかけられた。隣にドカッと腰を下ろした町田は、その手に数学の教科書を持っていた。町田の勉学の程度を知っている小倉は億劫そうに顔をしかめるが、しかしその目は町田が開いた教科書のページをしっかり見ていた。
「ここや、ここが分からんねん」
「……お前なあ、これ中学で習う範囲だぞ?何で分からんのか、そっちが分からん」
「しゃーないやろが!俺アホなんやから!」
「何を開き直ってんだよバカが」
悪態をつきながら、小倉は町田の持ってきたペンを手に取り、書き込みをいくつか加えながら説明した。町田は、大きな身体を縮めながら、神妙な顔でウンウンと頷いていた。簡単なはずの授業の中身をここまで一生懸命に聞く姿は、まさに大きな子どもで、小倉もいつしか微笑ましい気持ちになっていた。
「おぉー。よう分かったわ!さすがは小倉やな!」
「これくらい先生も言ってるから。お前がちゃんと授業聞いてないだけだろ」
「いや!お前のが教えるん上手いで。さすが野球部一の秀才や。つーか、お前一般生に交じっても賢い方やんか。何で甲洋なんぞに、それもわざわざ関東から来たんか、ホンマに分からんわ」
「……そりゃ、甲洋で甲子園、が夢だからだよ」
洗濯機がピー、と音を立てる。ベンチから立ち上がった小倉は、先客の洗濯物を洗濯カゴに掻き出して、自分の分の洗濯物を放り込んだ。黒土にまみれたユニフォームの汚れは、手で擦らない限りはとれない。マメだらけの両手に冷水を染ませながらのもみ洗いが終わった後の洗濯機はまさに仕上げの段階で、ここまで来たら後は楽である。要領が悪い頃はこれをやるだけで日付が変わっていた。翌朝のグランド整備を寝ぼけ眼でするのが当たり前だった。苛酷な日々に嫌気が差す事は数限りなくあったが、しかし、それでも叶えたい夢があった。
「……肩壊したくらいで、辞められるかよ。外野だろうと、左投げ右打ちだろうと、絶対に試合出てやるからな」
「おう、その意気や!その意気で、こいつもついでに頼むわ!」
「なっ!馬鹿か、こんなに詰めたら洗濯機ぶっ壊れるだろうが!大人しく次空くのを待て!」
「ええやん、ええやん」
「よくねえよ!」
夜の寮に、小倉と町田のじゃれ合う声が響いていた。どんな状況にあっても、高校生は高校生、そんな印象を抱かせる一瞬だった。
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「……あ、ああ……練習はもう終わったのか?」
《おお!終わったで!今は飯も食うて自主練中や。ま、俺は電話中やけどな》
「良い身分だな。寮監にバレたりしねぇの?」
《寮監?ああ、上田か。あんなん1人しかおらんのやさけ見つかる方がアホやわ。今はもう、先輩もおらんさけ、自由きままに電話もできるで》
上田。そういう名前だったか、あのウルサイ寮監。小倉は懐かしくなった。ほんの数ヶ月前まで自分が居た場所なのに、不思議と、自分がそこに居た頃がずっと昔の事に思われた。そうか、もう先輩も居ないんだよな。コソコソ使ってたケータイも、今は堂々と使えるって訳だ。
「……今はもう、秋の大会終わっただろ?どうだ、ベンチ入れたか?」
何故か。本題とは全く違う事を尋ねてしまった。小倉は、自分の口から出た言葉に焦る。町田がベンチ入れたかどうかなんて、今の自分には関係のない事なのに。いつも一緒に練習していた仲間が、現状どんな立ち位置かなんて……
《おお、お陰さまでなぁ。ちょっとは公式戦にも出してもろたよ。チームも近畿の準決まで行ったさけ、普通にやっとりゃ来年の春は甲子園やで》
「そうか……そりゃ、良かった。おめでとう」
小倉は、ホッとしたような、嬉しいような、何とも言えない感慨に包まれた。そうか。町田が遂にメンバー入ったか。あいつ、足は遅いけど、グラブ捌きは上手くて長打もあるから、代打や守備固めでは重宝されるだろうな。甲子園か。すげえな。毎日500素振りしてた甲斐、あったってもんだな……そんな感慨は、町田の次の言葉、小倉が最も聞きたくなかった言葉によって打ち消された。
《俺ごときがベンチ入れたんやからなぁ……お前もおったら、絶対番号はもろてたやろに。もしかしたら、レギュラーやったかもしれんかったわ》
もし、お前が居れば。その一言は、小倉に思い出させるのに十分だった。甲洋の甲子園出場は、他人事などではないという事を。自分も本来なら、その一員として夢を叶えていたであろう、という事を。あれさえなければ、あの事さえなければ……
「……ッ……ーー」
一瞬にして、蘇ってくる。夢が終わった、あの二日間の出来事が。
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小倉はその日、初めてベンチの黒板にそれを書いた。「7時雨天」。いつから始まったかは定かではないが、甲洋野球部に伝わる、下級生にヤキを入れる恒例行事。それは、この名前で呼ばれていた。言葉を考えるに、雨天練習場が出来てから始まったのだろうから、実はそれほど長い伝統ではないはずだが、名前は違えど、これに類似した出来事はそれ以前にも山ほどあったのだろう。とにかく、下級生達の恐怖の象徴としてそれはあった。
屋内雨天練習場に、一年生達は整列していた。小倉はその列の正面に仁王立ちしていた。一年生の顔は引きつっている。教育係の小倉に呼び出された時に、ロクな事があった試しがないという事を、一年生達も体で学んできていたのだ。その列の周りには、ニヤニヤしながらバットやボールなどの"得物"を持って、今か今かと待ち構えている上級生……それまで小倉に"お預け"されてきた、2年生の姿が目立つ。
小倉は、自分が、それをやる立場になった事に、イマイチ実感が湧かなかった。別に、一年生達に同情して、今までこれを避けてきた訳ではない。むしろ、一年がノロノロしてると腹が立つし、たるんでると制裁は加えたくなる。ただ……この儀式の、やり方が気に食わなかった。卑怯だったから。
「……目ェつむれ」
小倉が言うと、一年生は目を閉じて、リズムスクワットをするべく個々の距離をとる。それと同時に、得物を持った上級生が、一年への包囲網をグッと縮めた。これだ。小倉は体が粟立った。誰がやったか分からないように、一年生には目をつむらせ、ガードできないようにリズムスクワットを延々とやらせる。殴ってでも分からせる。それは別に良い。そういう考えもあるだろう。しかし、それが正しいと思ってるなら、何故こんな、報復を恐れるようなコソコソした真似をする?自分の正義を行うのに、なぜ堂々とできない?脳裏によぎった疑問符は小倉の腹の底を沸き立たせ、その熱は遂に小倉に「目え開けろ!」という怒鳴り声を発させた。一年生相手に包囲を縮めていた上級生が一斉に怪訝な顔を小倉に向けるが、小倉はそんな視線に遠慮する気は全くなかった。
「おら、さっさと跳べ」
「は……」
「リズムスクワットだよ、さっさとやれよ!」
小倉の怒鳴り声に、一年生は慌てて両手を頭の後ろに組み、リズムスクワットを始めた。いつもの"7時雨天"とは違い、その目は開いている。一年生をどれだけいたぶってやろうか、楽しみにしていたはずの上級生は、ただ、自分を見返す視線があるというだけで固まってしまっていた。始める前までの勢いを削がれてしまっていた。ただ一人、小倉を除いては。
「西村ァ!てめぇはいつもいつもユニフォームの洗い方が雑なんだよ!自分のはいつも綺麗な癖になぁ、おい!」
「げふっ!」
「庄司!お前がマウンド整備するようになってから明らかに傾斜が無くなったぞ!できた穴だけ塞ぎゃあ良いって整備してるからだ!お前のマウンドじゃねえんだ、責任持ってやれ!」
「ぎゃあ!」
小倉は悪態をつきながら、次々と一年生に蹴りや拳を見舞っていく。その一撃一撃が、情け容赦のない渾身の一撃だった。一年生はどんどんその場に倒れ、スクワットしながらその様子を見ている他の一年生の表情が恐怖に凍りついていく。一年生の恐怖一色に染まった視線を受け止めながら、小倉は血祭りにあげていった。
「赤井ィ……」
「…………」
小倉は一人の少年の前で立ち止まる。赤井淳二。赤井監督の息子だった。実力は大した事ないが、監督はこの一人息子をあからさまに優遇して即一軍入りさせ、そうやって守られてる自覚があるからか、赤井自身もやたらと鼻っ柱の強い奴だった。上級生が抱く一年生への不満、その多くの部分を、この赤井一人で占めていた。この時も、小倉を目の前にしても怯えた素振りなど一切見せず、むしろ睨みつけるような顔で小倉を見返していた。
「……てめえは、本当に分かってんのか!?てめぇ一人余計にメンバー入ったおかげで、先輩が一人球拾いに回った事をよォ!!」
バキッ!
「誰も納得しちゃいねぇんだよ!二軍戦でも二割がせいぜいのお前の昇格には!」
ボコッ!
「その癖お前は何だ!?まるで自分が偉くなったような面しやがって!今日も3年の橋本さんに後逸した球拾いに行かせただろうが!七光りがそんなに嬉しいか!?」
ドスッ!
「メンバーに入ってお前がすべき事はなァ!偉そうにする事じゃねえ!一刻も早くメンバー入りに相応しい選手になるよう努力する事だ!気持ちばかり大きくなるな!!」
バキッ!!
何度も何度も小倉は拳を見舞った。一年生はもちろん、その迫力に慄いたし、上級生でさえ、小倉の言葉とその仕打ちの激しさに、何も言えないし、何もできなくなっていた。周囲の視線を一身に集めながら小倉は、正しくない"教育"を、自分の正しさに則ってやり切った。それは、卑怯を嫌った小倉の、卑怯を好む"民意"への、ささやかな抵抗だった。どうせ、正しくない事をやらねばならないのなら。だったら、相手の恨みの視線も全て受け止めなければなるまい。毒食らわば皿まで。殴っておきながら、恨まれたくないなんてのはナンセンスだ。そういう信念のもと、小倉は自分自身の存在を相手に見せつけながら殴り続けた。
そして、そんな潔癖が、小倉の命取りになった。
翌日、小倉は監督室に一人で呼ばれた。
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「……ふーん。で、お前は殴って一年を教育したっちゅうんやな」
「はい」
監督室の地べたに小倉は正座させられていた。いつもとぼけたような態度の、狸という喩えがピッタリの小太りな監督は、しかしこの時に限ってはニヤけた顔も一切せず、ずっと深刻な真顔だった。殆ど見た事がないこの表情は、つまりは多大な怒りというものを表していた。
「そーかぁ……教育の為の暴力のォ……例えば、こんな風にか!!」
バキッ!!
監督は椅子からおもむろに立ち上がり、正座した小倉を思い切り蹴飛ばした。小倉は吹っ飛ばされ、監督室の壁に叩きつけられた。体勢の崩れた小倉に、監督は容赦なく何度も蹴りを見舞う。うちの一発が鼻っ柱を掠め、鼻血が垂れ流された。
「わしはのォ、上級生のシゴきなんぞ認めた覚えはあらへんぞ!」
バキッ!
「何が、"自分もされてきた事"や!わしゃ、そんな事は知らんぞ!わしが知らんいう事はやな、そんな事はなかったんじゃい!」
ドカッ!
「よくもそんな嘘をついて、わしの淳二を……」
ボコッ!
監督にしこたま蹴られて、身体中に痛みが広がっていくのを感じながら、小倉は滑稽だな、という感想を抱いていた。認めた覚えはない?確かに、監督は"教育"を認めちゃいなかった。ずっと黙認はしてきたが。そんな事は知らない?そりゃそうさ、先輩のシゴきの罪は、だいたい俺たち下級生が身代わりになって被ってきたんだからな。でも、監督にだって現役時代同じような経験はあるだろうし(昔からあった風習でなきゃ、今も不文律になんかなってない)、ハッキリと耳にしてこなかっただけで、実情がどんなもんかが分かってなかったはずがない。それが今になって、何故こんな風に、これまで黙認してきた事に対して全力で目くじら立ててくるのかと言うと、やはり最後の一言が本音なのだろう。自分の息子が被害に遭ったからだ。他人の息子が多少ボコボコになった所で、この狸は「それもまあ教育のうち」と寛大に流す事ができる。だが、自分の息子となれば話は別。ただそれだけの話なのだ。二軍の9番打者である息子を、「雰囲気がいい」「元気がいい」「何かを持ってる」などなど、意味不明な理由づけで無理矢理一軍に昇格させた親バカの考えとしては、むしろ自然なようにも思われる。
腐ってるな。小倉は内心で呟いた。
蹴り疲れた監督は、息を切らしながら小倉を見下ろしていた。自分が蹂躙される立場であるにも関わらず、小倉はその姿を、非常に醜いと感じた。
「なぁ、わしが何の証拠もなくこんな事言うてると思うか?ちゃんと聞いたんやで、3年、2年にもな。ほいたら、そんな事は知らん言いよったわ」
小倉にとっては、同級生や先輩が、自分をトカゲの尻尾として切り落としてくるのは予想できていた。正直にみんな後輩をボコってました、と言った所で、自分のように制裁を受ける人間が増えるだけ。だったら、全体の被害を最小限に食い止めた方が良いというのが、"チームの論理"である。自分は、"最小限の被害"として、全体から切り捨てられたのだ。その覚悟はできていた。元より、一年に対して生ぬるいのなんのと、特に同級生からの不満を溜め込んできた自分が、皆に庇ってもらえるなどと期待してもいなかった。
「一年もなぁ、お前以外にそんな事された事ないって言いよったぞ!」
「…………」
しかし、さすがの小倉も、この一言に対しては視界がぐにゃり、と歪んだ心地がした。自分を快く思ってない先輩や同級生が、自分を切り捨てるというのは分かる。だが、一年までもが自分だけを切り捨てにかかるというのは、これは予想外だった。一年にとって憎い先輩というのは、けして自分だけではないはずだ。むしろ自分は、つい最近まで、7時雨天から一年を守っていた。それが先輩や同級生との溝を生んだというのに……
理不尽な思いになって、身体から力が抜けていく心地がしたが、一方で小倉は悟り、そして諦めた。そもそも、一年を庇ってやっている自分、というイメージが、自分の作り出した妄想だったのだ。確かに、7時雨天はやってこなかったが、それを温情と考えているのは自分や上級生だけで、当の一年にとっては、7時雨天の代わりにグランドを走らされるだけで、自分を「ウザい先輩」と定義づけるには十分だったのだ。なおかつ、"殴りはしない"という部分にも、昨日の大立ち回りでケチがつき、いよいよ、一年に自分を庇う動機などなくなった。目を瞑らせるのは卑怯だからと、目を開けさせた小倉の美学なぞ、殴られる側からすればどうでもよく、ただハッキリ小倉への憎悪をかき立てる結果にしかならなかった。先輩や同級生と溝を作り、そしてその分一年に慕われた訳でもなく、教育係相当の嫌われ方をした自分。たった1人、自分の、自分だけの正しさに従って、そして一人ぼっちになってしまった自分。滑稽だ。何て滑稽なんだろう。自分は一体、何と闘ってきたのか……
何が青い春なんだ。何が青春だ。キラキラ輝く人生最良の時間、世間でそんな風に言われてるから期待してみりゃ、その結果がこれか。まったくもってゴキゲンだ。これが人生最良の時間なんだってんなら、俺は人生に未練なんかねえよ。もう全く、下らねえ。
逆光で表情の見えない“狸”の顔を見上げ、じん、と痛む鼻筋から無様に血を垂らし、床にポタポタとシミを作りながら。
小倉は内心呟いていた。
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《上田もちょっとは惜しがってたんやで?何せ二軍でのお前のホームラン16本もあったやん。左投げの弱肩やなかったら、旧チームからでもスタメンあったやろになって》
「やめろよ……」
《もう少し、頑固やなかったら、あげな事にもなってなかったのになぁ。勿体無いわぁ》
「やめろっつってんだろ!頼むからそんな話すんな……」
思わず怒鳴った小倉の呼吸は、ただ電話しているだけだというのに、やたらと荒くなっていた。胸がキリキリと痛む。他人の哀れな姿を見た時なんかよりよっぽどその痛みが強いのは、哀れでちっぽけな存在が、自分自身だからだ。もう二度とやり直す事のできない選択、それにしくじった惨めさが容赦なく自分を締め付ける。いくら積んだって、何をやったって、あの間違いは贖う事はできない。これから一生、ずっと。
気がついたら、小倉は泣いていた。勝手に涙が目からこぼれ落ち、部屋のカーペットにシミを作っていく。嗚咽もないままに、ただ小倉の目は涙を垂れ流し続けた。それはさながら、出血だった。二度と元に戻らない心が出血を起こし、その雫が溢れていたのだった。
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