四重唱
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第八章
第八章
「きっと」
「その私があなたを裏切っても」
「僕はそうは思っていないよ」
また同じ答えであった。
「だから。それでいいじゃないか」
「有り難う」
また俯いて述べる。夫の言葉が心に滲みるのがわかった。
「そう言ってもらって。助かるわ」
「せめてその気持ちは楽になったかな」
「ええ」
今度は素直に頷いた。首をこくりと縦に動かして。
「何とか。あなたのおかげで」
「じゃあこれを食べて身支度を整えたら行こう」
アンドレアスはこう提案してきた。
「歌劇場にね。そうしたらいい時間だよ」
「そうね。舞台が待っているわ」
ハンナは夫の言葉に静かに応えた。
「だからね」
「うん。それじゃあいいね」
「ええ。今朝は何か気がとても楽になったわ」
夫とのこれまでの話のおかげであった。彼女はそのことに心から感謝していたのだった。
「きっといい歌が歌えるわ」
「それはシーズンまで続くかな」
「続けさせてみせるわ」
彼女はもう歌手としてのハンナ=フォン=リューゲンバルトになっていた。そのハンナ=フォン=リューゲンバルトとしての言葉であった。
「きっと」
「そう、その心意気だよ」
アンドレアスもまた歌手としての彼になっていた。夫婦としてよりも歌手同士の、言うならば舞台の上でのパートナー同士となって話をしていたのだった。
「それでいいから」
「ええ、そうね」
ハンナはまた歌手として彼の言葉に頷いた。
「今度もまた」
「最高の舞台をね」
こうして二人は歌劇場に向かった。魔物が棲むと言われているウィーン国立歌劇場もその外観は見事なものである。音楽の都と言われているウィーンの象徴の一つでもある。二人は自分達の運転手が操る車の後部座席に二人並んで座っていた。そうしてウィーンの何もかもが白い街並みを眺めながら歌劇場へ向かうのだった。
その途中で二人はあるものを見た。それはゼウスの像である。ギリシア神話における天空と雷の神である彼はその二つを司ると共に神々の主神でもある。オリンポスに集う神々の長でもあるのだ。
ウィーンにあるゼウスは他のゼウスとは少し違う。それは何かというと顔である。
この街のゼウスの顔は彫が深く高い鼻を持ち頬髯と口髭がつながっている。この顔はオーストリア=ハンガリー帝国の主であったフランツ=ヨーゼフ帝のものである。ハプスブルク家の中でもとりわけ有名な君主の一人であり美貌の帝妃エリザベートや悲劇の皇太子ルドルフとのことでも知られる彼はこの帝国の象徴であったのだ。ゼウスが彼の顔になっているのはそれを表わしているのである。二人は今その皇帝であるゼウスを見ていた。
「ほら、見て御覧」
アンドレアスがハンナにゼウスを見るように誘う。
「ゼウスが、皇帝陛下が僕達を見守ってくれているよ」
「フランツ=ヨーゼフ帝が」
「薔薇の騎士の初演の時の皇帝がね」
丁度第一次世界大戦直前が薔薇の騎士の初演の時である。フランツ=ヨーゼフ帝は第一次世界大戦中にこの世を去っている。せめて彼が戦勝終結まで生きていればオーストリア=ハンガリー帝国、そしてハプスブルク家の崩壊はなかっただろうと言われている。彼はそこまで偉大な象徴となっていたからだ。
「演じる頃は」
「偉大な女帝の頃」
ハプスブルク家での女帝と言えばマリア=テレジアを指す。十六人の子の母でありよき妻でありそれと共に英邁で活力溢れる君主であった。オーストリアを建て直し国を守り抜いた偉大な女帝である。フランス革命の悲劇の王妃マリー=アントワネットの母としても有名である。
「その二人が君を見守っているんだ」
「だから安心していいのね」
「今度の舞台は必ず歴史に残るものになる」
奇しくもアンドレアスは大沢と同じことを言った。
「絶対にね」
「それは私の力だというのね」
「そうさ」
彼は迷わずにハンナに告げた。
「君がいるからこそ。絶対にね」
「薔薇の騎士はマルシャリンの存在が大きいわね」
「勿論」
薔薇の騎士の主役はソプラノ二人とメゾソプラノ一人である。その中でもソプラノの一人である元帥夫人の存在が非常に大きいのである。そうした意味でこの作品は完全なプリマ=ドンナオペラであるのだ。
「君がいるから。僕は安心してこの舞台に向かえる」
「私のマルシャリンだからこそ」
「当然僕も今まで以上の舞台を見せる」
彼にも自信があった。やはり当代きってのドイツ系バスとしての自負があるのだ。
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