四重唱
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第十八章
第十八章
「まさかな」
それを見て批評家の一人が思わず唸った。
「ここまでとはな。彼が見事な歌手だとは思っていたが」
それ以上というのであった。そう評価させるものがそこには確かにあった。
最後の場面。元帥夫人とオクタヴィアン、ゾフィーの三重唱の場面になっていた。この作品で最後の見せ場の一つだ。この名作の。
「さあ早くお行きなさい」
元帥夫人はそうオクタヴィアンに告げる。
「そしてあなたの心の為さりたいことをされるのです」
「テレーズ、一体どういう」
つもりなのですかと聞こうとすれば。ハンナは言うのだった。
「今は出て行きあの人の御機嫌を劣りなさい」
「誓って言いますが」
ヒルデガントはわかっていた。この場面で全てが終わるということを。わかっていたがそれと共にそれから逃れることができないのもわかっていた。何もかもがわかっていたのだ。
「今はそんなことはいいのよ」
「何を考えておられるのか僕にはわからない」
(いえ)
ヒルデガントはオクタヴィアンの心がわかっていた。そして元帥夫人の心も。じっとハンナを見詰めていた。しかしハンナは彼女から視線を外し。全ては終わったのだった。
「あの方の所へいらっしゃい」
「では」
それを受けてゾフィーに顔を向ける。三重唱の後で元帥夫人に向かおうとするが戸惑う。ハンナはそんな彼に穏やかに歌う。彼女から視線を外しながら。もうそれを合わせることはなく視線を外したままであった。
「どうしてそんなに困った様子で中に立っているのかしら」
「御願いですからここにいて下さい」
(けれどそれは)
適わないのだ。ヒルデガントにはわかっていた。
(できはしない、これで)
「何か仰いましたか?」
「そんなに早くあの方を愛するようになられたのですか?」
元帥夫人の言葉でありハンナの言葉でもあった。
「何故そのような質問を」
今度はマゾーラがハンナに問うた。
「私もわからない、全くわからないこと」
ハンナは舞台を後にしようとする。ヒルデガントは自然に出て行こうとしたがそれは自分の意志で踏み止まった。それと全く同じ瞬間にハンナは彼女に舞台に留まるように示す。これには二人とマゾーラ以外誰も気付きはしなかった。
最後の三重唱の後で元帥夫人はそっと姿を消し後には二人だけが残った。二人は互いに見詰め合っている。最後はその愛を確かめ合うだけであった。
「私の心から他の全てのことは夢の様に消えていく」
「私達が永遠にこうして一緒にいられるのは」
二人は固く抱き合っていた。もうヒルデガントはハンナを見てはいない。マゾーラを見ているだけだ。もう彼女の心はそこに完全にあったのだった。
「貴女だけを感じている」
二人の最後の二重唱が終わり固く抱き合う。舞台の裏ではもう一組堅く抱き合っていた。それはハンナとアンドレアスであった。
「有り難う・・・・・・」
「うん」
彼はハンナを優しく抱き締めていた。何も語らずに優しく抱き締めるだけだった。だがそれこそが今のハンナに必要なものであった。だからこそであった。
二組のカップルが抱き合いそうしてその中で何かが完全に死んで戻らなくなってしまった。この舞台は薔薇の騎士の一つの歴史となった。しかしそれを知る者もそこにあった四重唱のことは知らないのであった。それは彼女達だけが知っているものであった。それだけのことだったが何かが完全に死んで静かに眠った。それだけだった。
四重唱 完
2007・11・12
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