四重唱
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第十章
第十章
「言い過ぎじゃないのか、ちょっと」
「いや、僕は決してそうは思わない」
しかし大沢はそうバジーニにも告げる。
「これは本当にいけるよ」
「カラヤンやクライバーを超えられるか」
「うん、絶対にね」
大沢は強い言葉で断言した。
「フロイライン」
「はい」
そう話したうえでまたマゾーラに声をかける。彼女はすぐに応えてきた。
「貴女もですよ。理想のゾフィーです」
「有り難うございます」
「私が言うことは特にありません」
彼はこうまで言い切ってきた。
「後はそのまま練習をされればいいです」
「左様ですか」
「これはオーケストラにも言えます」
彼は今は楽譜を見ているだけのオーケストラの面々に顔を向けて述べた。この国立歌劇場にいるというだけで最高の演奏者達であるのがわかる。しかしそれでも念入りな打ち合わせと研究、練習が必要な程この作品は重要なものがあるだ。シュトラウスの魔力は彼等にそれを強いるのである。
「貴方達もこのまま練習をされて下さい。もうシュトラウスがここにいますから」
「シュトラウスがですか」
「その通りです」
今度は作曲者自身も出された。生み出した親が。
「そしてホフマンスタールが」
「ホフマンスタールも」
この作品の脚本を書いた人物である。ドイツ語圏においては文豪と言われシュトラウスと二人で数々の名作を生み出している。お互いを信頼し合い、互いになくてはならない関係とさえなっていたのである。
「ここにいます。彼等が見えませんか?」
「はあ」
皆大沢のその言葉に息を飲む。かなり神がかっているように見えたのだ。
「そうして笑顔で頷いています。ですから」
「このままで行けばいいと」
「今を忘れないで」
彼はこうも言う。
「そして」
「そして?」
「この薔薇の騎士がどういう作品なのか。御存知ですね」
「はい」
誰もがその言葉に答えることができた。だからこそ大沢も安心してこの問いを出したのであるが。
「この作品は」
「誰も死にません」
オーケストラの中の初老の男が答えた。彼はバイオリンであった。
「しかし」
「そう、しかし」
「少しずつ何かが死んでいく」
彼はそう述べたのだった。
「そうした作品でしたね」
「そう、その通りです」
大沢の待ち望んでいた答えであった。彼はその言葉に満足した顔で頷くのであった。
「そう、この作品は本当に誰も死にません」
「はい」
悲劇であるが誰も死にはしないとも言われている。変わった悲劇でもあるのだ。
「しかし。少しずつですが」
語る大沢の顔が哀しげなものになる。本当に何かを失うことを哀しむ顔であった。
「何かが死んでいきます。その何かは」
「わかっています」
またそのバイオリンの演奏者が答えた。
「ですから。だからこそですね」
「はい。私はもう何も言うことはありません」
その言葉を受けて大沢はまた皆に告げた。
「皆さんがわかっておられるからこそ」
「そうですか。それでは」
「一日一日。練習を詰まれて下さい」
彼が言う言葉はそれだけであった。
「それを重ね重ね御願いします」
「はい」
「だからこそ」
彼等は同じものを見て同じものを目指すのであった。その中に同じものがあるからこそ。そうした意味で彼等は一つになっていたのであった。これが大沢の狙いであった。
練習が終わってから自宅に帰り。ハンナは安楽椅子に座って静かに考えていた。考えることは舞台についてであった。それ以外にはなかった。
「誰も死なないけれど」
大沢のその言葉を呟く。静かに。
「けれど少しずつ何かが死んでいく」
「そうだね」
彼女のその言葉にアンドレアスが頷いてきた。見れば彼は彼女のすぐ側にいた。そうしてそこで温かいコーヒーを飲んでいたのだった。
「深い言葉だね」
「その何かは決して一つではないわ」
彼女だけでなく皆がわかっていた。それをあえて呟くのである。
「一つではない」
「じゃあそれは何か言えるね」
「ええ」
夫の言葉に頷いてみせた。
「まずは時間」
「そう、まずはそれだね」
「元帥夫人の時間ね。若さが」
「だから彼女は時計を止めるんだ」
そう言われている。彼女は自分の時を死なせたくはなかったのだ。だからこそ一見して無駄な行動を取っていたのである。そこにあるのは哀しみである。
「どうしてもそれから逃れたくて」
「ええ、そうね」
「そして」
アンドレアスはまた妻に、マルシャリンに問う。
「他には」
「オーストリアが」
彼等の祖国でもあるがここでは舞台となっている国として出された。
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