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四重唱

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第一章


第一章

                    四重唱
 ハンナ=フォン=リューゲンバルトが当代きってのソプラノ歌手であるとの評価は揺るぎないものがある。それは彼女の母国であるドイツだけではなく世界各国からの評価でもある。
 本来はクラシックの世界から見て僻地である筈がどうにも耳の肥えた者が多い為こちらの世界においても実力をつけるようになっている日本の批評家達からも高い評価を得ている。
「今一番のドイツ系ソプラノだ」
「このままいけば歴史に残る歌手となる」
 そうした評価を受け続け日本での公園も大評判に終わっている。そうした優れた歌手である彼女だが実はちょっとしたスキャンダルも持っているのだ。
 それは不倫である。彼女は若い頃に結婚しその夫とは今でも続いている。だがそれでも彼女は不倫をし、その結果そちらでも世を騒がせることになってしまっている。それも普通の不倫ではないのだ。
 普通の不倫でないとするとどうした不倫であるのか。それは相手の問題だ。所謂普通の不倫というのはそれをする者が女であるならば相手は男になる。ところが彼女の場合はそれが女なのだ。その為こちらでも議論となっているのである。
「これは不倫なのか」
「そもそも道徳的にどうなのか」
 不倫という時点でそもそも道徳的に問題であろうがキリスト教の影響が強い欧州においては、とりわけ彼女が今住んでいるウィーンといういささか保守的な土壌の場所においてはそうした問題がつとに問題視されるのであった。なおこの問題は日本においては不倫でも何でもないとされている。日本人達の言い分としてはこうである。
「相手が男ならともかく」
「レズなら浮気にならないではないか」
 そう考える者が多かった。同性愛というものがごく普通に存在してきている日本という国においては変わった趣味という程度で終わるものであった。しかし彼女が主にいるのは欧州でありウィーンなのだ。だからこそ問題であった。
「やれやれだ」
 演出家のアルトゥーロ=バジーニはウィーン国立歌劇場の中の一室でゴシップ誌を見ながら溜息をついていた。彼は今度のこの歌劇場の演目の一つ『薔薇の騎士』において演出を担当することになっていたのだ。彼はこのことで大いに頭を悩ませていたのであった。
「こんなことならスカラ座との話に乗るべきだった」
 彼はこのシーズンミラノのスカラ座とこのウィーンとどちらにするかで考えていたのだ。だがミラノでやる演目は彼にとっては今まであまり演出をしたことのないロシアオペラの作品でありしかもやたらと解釈も複雑なムソルングスキーのボリス=ゴドゥノフなので止めた。彼もこの作品は好きだが実際に演出するにはより深い研究が必要だと思ったからである。 
 彼はイタリア人であるがドイツ語にも堪能でドイツオペラの演出も多く手がけている。それでウィーンに来たわけだがそこで思いも寄らぬ問題にあたってしまったのである。
「どうしてもこの歌手なのかい?」
「そうだよ」
 彼の向かい側に座る白髪頭のアジア系の男が笑顔で頷く。
「駄目かな」
「駄目かなって」
 バジーニはそれを聞いて目の前の男を怪訝な目で見た。この男こそこの歌劇場の音楽監督である大沢清治郎である。日本人ではじめてのこの歌劇場の音楽監督として祖国では有名になっている人物である。
「君は何も思わないのかい?」
「彼女は素晴らしい歌手だよ」
 大沢の言葉はバジーニにとっては実に的を得ていないものであった。
「他の歌手達も。そうじゃないのかい?」
「皆君が選んで頼んだんだったね」
 バジーニは能天気な彼に対して述べた。剣呑な声で。
「確か」
「そうだよ。それがどうかしたのかい?」
「わかっているのかいないのか」
 本人の前でも言う。あまりにも彼が能天気に見えたからだ。どちらかというと祖国の関係でバジーニの方が能天気に見られるし実際に資質もそうなのだが今回ばかりはどうにも大沢の能天気さはあまりにも凄いものであった。そうバジーニは思えるものであった。
「いいかい。マルシャリン役は」
「君が何を言いたいのかわかっているよ」
 大沢はバジーニの機先を制してきた。
「あれだろう?彼女の不倫のことだね」
「その通りだよ」
 バジーニは剣呑な顔で彼に言うのだった。声も同じものである。
 
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