メモリーブレンド
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秋の海が見える喫茶店、学は一人席に座っていた。そして一人目の前の二つのコーヒーカップを眺めていた。
一つのカップは自分のもの。もう飲み干してしまった。そしてもう一つは。
中にあるのは紅の、ルビーを溶かし込んだ様な色の茶であった。向かいに座るべき人が好きな茶である。
しかしそれを飲む人は今ここにはいない。学はただ待つだけであった。
学はある大学に通う学生である。親は医師だった。その為か幼い頃より医者になりたいと思っていた。
その為に勉強を続けた。少しずつではあるがコツコツと勉強した。
その甲斐あって合格した。とある私立の名のある医学部である。
大学に入り暫くして学はある女の子と知り合った。同じ学部の娘だった。名を香織という。
香織は背中までの茶がかった髪を持つ娘だった。どちらかといえば大人しい娘であった。高校まで部活と勉強ばかりしていた学は女の子と話した機会はあまり無かった。入学して医学部の入学に際しての説明会で隣同士になりドキドキしたものである。
学は高校までホッケーをやっていた。ラフなスポーツであり怪我も多い。その為か学は大柄であった。筋肉質であった。今日もその身体を白いシャツと薄めのジャケット、そして青のジーンズとスポーツシューズで覆っている。
学は今日ここへ誤解を解きに来た。いや、謝りに来たと言った方が良いか。原因は全て学にあった。
この前のコンパでの事だった。医学部は文学部と合同のコンパを行っていた。学内ではどちらも遊び人揃いで知られており二次会、三次会になるにつれ人は減っていった。ある者は男や女ばかりで意気投合してカラオケや居酒屋に消え、ある者は男女で別行動を取った。週末でもあったので皆上機嫌で飲んでいた。
学は四次会まで出ていた。その頃には数はだいぶ減っていた。香織はお酒に弱く早々と下宿に帰っていた。
四次会も終わった。参加者は全て泥酔状態だった。
学も泥酔寸前であった。とりあえず吐いている文学部の女の子を介抱した。この時学はふと邪な考えを起こした。
この娘を介抱するふりをしてホテルか下宿に連れ込もうか。よく考える事であり学の友人達もよくやる事である。
とりあえずその娘が吐き終わったのを見て優しく背を擦ってやった。彼女の方はもう立っているのが不思議な程である。言葉もろれつが回らず自分の肩を担いでいるのが誰かも分かっていないようであった。狙いだった。
実は学はその時まで浮気をした事が無かった。別にもてないという訳ではない。通っている大学は遊びの方でも名の知れた学校であり合コンやコンパ等も多い。外見は悪い方ではない。喋りの方もわりかし得意である。人を笑わせるのは得意である。
だから女の子に誘われる事も多かった。学さえそのつもりならそういった機会は幾らでもあった。ただその機会を見送っていただけである。
それは何故か。別に香織への義理というわけではない。浮気はばれなければ良いという考えだった。学の父は母の目を盗んでこっそりと浮気をしていた。小さい頃母親から用事を言われ父の勤める総合病院に行った時である。若くて綺麗な看護婦に親しげに声をかける父がいた。学には気付かなかった。
たまたまタイミングが良かった。学が父の元に着いた時その看護婦は別の場所へ行っていた。父は何事も無かったかの様に学が母から言いつかっていた用事を受けた。この時は普通に話していたと思った。
時々であるが父は帰りが遅い。酒の他に女遊びもしている様だ。母親にはばれないようにしている。母は潔癖症でその様な事を許す筈が無いからだ。もしばれたら修羅場になるだろう。
だがこの父親は賢明であり家に女の残り香を持ち込んだりはしない。学も叔父に言われるまで気が付かなかった。あいつは女好きだ、と。実の弟の悪い癖をその叔父は苦笑しながら学に話した。
そういう父親を持っているせいであろう。学も香織に見つかりさえしなければ良い、と思っていた。事実機会があればそうしたいと思っていた。そしてその時が来たのだ。
夜の繁華街を出た。そして歩道を越えた向こう側へ進む。そこはホテル街だ。様々な色の看板が立ち並び恋人同士が歩いている。学も香織と一緒に何回か来たことがある。
その中でも最も気に入っているホテルの前に来た。洋風の内装がいいホテルだ。中に入ろうとした。
だがその時だった。学は携帯の電源を切っていなかった。これが彼のミスだった。
電話の主は香織だった。一足早く自分の下宿に帰った彼女はシャワーを浴びて酔いを醒まし学へ電話をかけたのだ。普段こんな時間に電話をかけたりはしない。一体何故・・・。今にして思えばこれこそが女の持つ第六感というものだったのだろうか。
学は一気に酔いが醒めた。必死に取り繕うとする。今日は友達の家に泊まると言った。だがそれも彼のミスだった。
その友人は誰か、香織は聞いてきた。医学部の者を出そうにもすぐに嘘だとばれてしまう。文学部、といっても適当に名前を出しても駄目だ。とりあえずこういう時に名前をだしてもいい友人といえばサークル仲間だ。ホッケー仲間で遊び人の奴がいた。こいつには自分の名前を度々使わせている。こいつなら構わないだろう。そう思って名前を出そうとした時だった。
肩に担いでいた女の子が不意に喋りだした。とりとめの無い、酔っ払い特有のろれつの回らない口調だった。だがそれで充分だった。
学は額から汗を流した。必死に何か言葉を探す。だが言葉が思いつかない。そして肩に担いでいる娘は遂に止めの言葉を言ってしまった。
「ホテル?いいよ」
と。これで決まりだった。香織は無言で電話を切った。女の子を肩に担いだまま学はしばし呆然と立ち竦んだ。
その日はその娘を終電に乗せた。幸い終電には間に合ったし彼女の下宿も自分が降りる駅のすぐ隣だった。その娘を下宿に送ると学はタクシーで下宿へ帰った。
次の日の朝学は香織と会った。彼女は会った途端ににぷい、と顔を横に向けた。言葉のかけようが無かった。
暫くの間何とかあの時の状況を説明しようとしたが取り合ってはくれなかった。学校で話し掛けても電話や携帯でメールを入れても無駄だった。何しろ心が浮ついたのは事実なのだ。これは弁明の仕様が無い。
どうしようかと考えた。別れたくはなかった。離れられればそれだけ離れたくなかった。恋愛とは遠くなって初めてその大切さが解かる、高校の時気の利いた先生が授業で言った言葉だ。その時は一笑に付したが今その言葉の持つ意味を噛みしめていた。
そして学が思いついたのは手紙を送る事だった。香織の下宿に手紙を送る、そして喫茶店で待ち合わせて謝る、そして許してもらう、これしかもう思いつかなかった。自分の浮気心を弁明するつもりはもう無かった。ただ謝って許してもらおうと思った。
喫茶店は以前二人でよく行った店を選んだ。あえてその店にした。何故か、答えは簡単であった。香織がお気に入りの店だからだ。
香織は海が好きだ。泳ぐのが好きなのではない。勿論泳ぐのも嫌いではない。それよりも海辺を歩いて波の音を聞いたり砂の上を歩いたり、青い海を見たりするのが好きなのだ。
特に青い海を見るのが好きだった。どこまでも続く青い海、水平線で雲や空と結ばれている。特に夏や秋の海を見るのが好きだった。
香織に言わせると夏の海はその青さがいいらしい。実際彼女は青が好きだった。秋の海は高く澄んだ空の下で青さをたたえてるのがいいらしい。朝日や夕陽を映し出しているのは最高と言う。
海に映し出される朝日や夕陽は学も好きだった。毎年夏になると海の近くに住んでいる親戚の家へ遊びに行ったがその時見た海に沈む夕陽が今でも胸に焼き付いている。
この喫茶店に入ったのはたまたまだった。デートした帰り喉が渇いたので入ったのだ。
入ってまず香織が目を見張った。店の窓一面に夕陽に照らされ銀と橙に光る海があったのだ。
香織は迷わず窓側の席を選んだ。そして店の人がメニューを聞きに来てもほとんどうわの空で海を眺めていた。
とりあえず学がメニューを注文した。当たり障りの無いアイスティーを二つ注文した。
それからその辺りを通る度に香織はその店へ入った。その海辺でデートをする事も多くなった。その店は味もサービスも
申し分無かったので学としても異存は無かった。
その店で学はどれだけ待ったであろうか。昼に来たのだが昼と呼ぶにはもう陽が傾き過ぎている。
海が青から橙になろうとしている。白銀の波がその間で輝く。
それを見ながら学は今までの事を思い出していた。香織との思い出である。
初めて会ったのは講義で隣同士になった時だった。学校の事もお互い何も解からず話を交換するだけだった。
次の講義でも会った。また隣同士の席だった。その日はそれから講義も無かったので二人で学校やサークルの事を色々と話し合った。
そういう事が暫く続き二人は自然につき合うようになった。こういうふうに自然にカップルになるという話はよく聞いていたが自分がまさかそういうふうになるとは思っていなかった。
二人はそれぞれの下宿でよく話をした。講義がどうとか音楽や小説、漫画がどうとかごく普通のありふれた今時の学生の話である。そうして話をしたり皆を交えて一緒に遊ぶのが学はとても楽しかった。今まで男ばかりで騒いだり遊んだりばかりしていたのでそうしたのりが新鮮に思えたのだ。
海にも行ったし飲みにも行った。特に予定が無い時はいつも二人で遊びおしゃべりをした。学はそれまで特定の女の子との付き合いが無かった。それは香織も一緒だった。だから最初は二人共ぎこちなかったが次第に慣れて楽しむようになった。そこに甘えが出来ていたかというとそうかも知れない。
だから心が浮わついた。その時は特に悪い事だとは思わなかった。浮気は男なら当然の行為だと考えていた。今思うとそれが甘えだったのだ。
女性に、交際相手に対して甘えがある。だから浮気をする。例えばれてしまっても許してくれる。そういう考えが根底にあるから浮気をするのだ。
思えば父もそうなのだろう。母に甘えているから浮気をするのだ。そして後ろめたいから隠れて、ばれないようにする。ひょっとしたら母はそれを知っているのかもしれない。若しそうだとすれば知っていてあえて知らないふりをしているのであろう。父はとんだ道化になる。
今まで浮気は格好良いものだと考えていた。だがそれは大きな間違いだった。それは裏切りであり醜い行為であったのだ。
「気付くのが遅かったな」
学はぽつりと呟いた。もう思っても仕方が無いのは解かっていた。しかし思わずにはいられなかった。
ふと向かいのカップを見る。既に冷めてしまっている。
二人で来た時香織はいつもミルクティーを頼んでいた。アイスかホットかはその時の彼女の気分次第であった。そして学も彼女と同じティーを頼むのが常だった。
不意に学はもう一杯飲みたくなった。店の人にミルクティーを頼む。ホットだ。
ティーがきた。紅のルビーを溶かしたような茶がほのかな香りを辺りに漂わせている。
そこに白いミルクを入れる。ティーの底に落ちそこから白い雲となってカップ全体を包んでいく。その白と紅が混ざりティーは白に紅が僅かにかかった様な独特の色になった。
学はふと思った。男と女の付き合いはこのティーの様なものかもしれないと。
それぞれの想いが混ざり合って恋愛となる。例の気の利いた先生が別の機会に言った言葉だ。この先生は他にも色んな事を言ったので多くは憶えていない。ただ『良い恋をしろ』とはいつも口癖の様に言っていた。
「けれど混ざるのは想いだけじゃないな」
混ざり合うのは想いだけではない、記憶も混ざり合うのだと思った。
混ざり合った記憶は二人の共通の記憶となる。そして永遠に二人の中で芳しい香りを醸し出していくのだ。
「・・・けれどそれは全部俺が駄目にしてしまった」
学は肩を落とした。混ざり合ったティーとミルクは別れてはいないが。
二人の心は自分のせいで離れてしまった。それを何とかする為に今日ここへ来て香織を待っているのだが。
「・・・やっぱり来てくれないか」
窓の外を見る。夕陽は半ばまで海に沈んでしまっている。
とりあえず最後までいるつもりだ。あの夕陽が沈んでしまい店が閉まろうとも何時までも待つつもりだ。そうしなければならないと思っているからだ。
夕陽は完全に海に沈んだ。海はまだその光で輝いているがすぐに暗くなり闇の中に消えていくだろう。
「・・・・・・来ないか。けれどそれでも」
海から目を離した。そしてテーブルの上に視線を移したその時だった。
ガチャリ
店の入口と開ける音がした。この店の入口は昔ながらのガラス製の手押しの扉なのだ。これはこれで趣きがあった。
学はそれに気付かなかった。だが今しがた入って来た人はそのまま店の中を歩いていく。
学ぶのいる席の前で立ち止まった。そこで学もようやく人が来た事に気付いた。
「あ・・・・・・・・・」
学は顔を上げた。そして些か間抜けな声を出した。
「・・・・・・・・・来たわよ」
香織だった。薄いピンクのブラウスに青のジーンズを着ている。
「・・・・・・・・・うん」
それ以上は言えなかった。また言う必要も無かった。
「色々考えたけれどね。この店に入ってみたの」
「・・・・・・・・・そうなんだ」
もし学が今この場にいなかったならば全ては終わっていたであろう。そう確信させるものが香織の声にはあった。
「・・・・・・わたしの分も注文してくれてたのね」
ふとテーブルの上にあるカップを見て言った。
「うん」
「じゃあ飲ませてもらうわね」
そう言う学の向かい側のテーブルに座った。そしてそのカップを取り口に持って行った。
もうすっかり冷めている。だが香織はその事を口にはしなかった。
「これからどうするの?」
香織は素っ気無く聞いてきた。
「?別に無いけど」
とにかく香織にここに来てもらってこの前の事を謝る事だけを考えていた。その他の事は全く考えていなかった。
「わたしの下宿に来ない?新しいCD買ったんだけど」
「え!?」
それは予期せぬ言葉だった。それにこれからは学がとにかく謝るつもりだったのだから。
「来るの?来ないの?はっきりしてよ。来ないなら別にいいけど」
「・・・・・・・・・」
学は香織の真意がわかった。そしてどうするべきかもわかっていた。
「行かせてもらうよ。アーティストは誰?」
「宇多田よ、最新のアルバムが出たのよ」
「宇多田か、いいね」
「そうでしょ。さ、行きましょ。駐車場に車停めてあるし」
「うん」
香織は学を急かす様にして店を出た。後にはテーブルの上にティーの入っていないカップが二つ置かれていた。
メモリーブレンド 完
2003・11・2
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