アネモネ
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第四章
第四章
「猪!?」
「馬鹿な、そんな筈がない」
「この森に猪がいるとは」
従者達はその猪を見てすぐに剣を抜いた。そのうえで主を護ろうとする。
アドニスの前に立ち猪に向かおうとする。しかしであった。
猪は突進しそのうえでまずは従者達を吹き飛ばした。そしてだった。
アドニスのその柔らかい腹に牙を突き刺した。それは深々と突き刺さり彼を上に大きく放り投げた。アドニスの身体は鮮血を撒き散らし緑の世界を赤いもので染め上げそのうえで地面に叩き付けられた。
そうしてそのまま倒れる。猪は何時の間にか姿を消していた。
何とか起き上がった従者が彼のところにすぐに寄る。だがもう彼は今にもこときれようとしていた。
「アドニス様!」
「僕はもう駄目だ」
そのアドニスが彼等に対して言った。もうその顔には死相が出ている。
「もう」
「いえ、安心して下さい」
「大丈夫ですから」
「いや、わかるよ」
アドニスは従者達の気遣うその声を聞いてもこう返す。
「自分のことだから。ただ」
「ただ?」
「どうされたのですか?」
「僕をアフロディーテ神の神殿に」
そこにだというのだ。
「そこに連れて行ってくれないからな」
「アフロディーテ神のですか」
「そこにですか」
「うん、そこに」
こう言うのである。
「そこに連れて行って欲しい。僕が死なないうちに」
「は、はい」
「わかりました」
従者達も彼のその言葉に頷いた。
「今すぐに向かいます」
「それならば」
「頼むよ。僕の最後の御願いだから」
アドニスはすぐにその地のアフロディーテの神殿に運ばれた。
するとだ。すぐにアフロディーテが出て来た。彼女はすぐにアドニスを抱き上げそのうえで必死の形相で彼に声をかけた。
「アドニス、どうしてなの!?」
まずはこう彼に問うた。
「どうしてそんな怪我を」
「すいません」
だがアドニスはその彼に申し訳ない声でこう言うだけだった。
「僕はもう」
「そんなことは言わないで」
彼の言葉をすぐに打ち消した。そのうえで彼のその頭を抱き寄せる。
その顔は白くなってきていた。今死のうとしているのは明らかだった。
しかしそれでもだ。アフロディーテは諦めたくはなかった。その愛しい相手を何としても失うまいと。彼に対してこう言ったのであった。
「イーコールをすぐに。そうすれば」
「いえ、もう間に合いません」
こう返すだけのアドニスだった。
「僕はもう」
「そんな、どうして・・・・・・」
「さようなら」
遂にこの言葉が出された。
「貴女と一緒にいられて嬉しかったです」
「私も・・・・・・」
アフロディーテは泣いていた。その青い美しい目から涙を流しながらそのうえで彼に対して言葉を返していた。そしてであった。
「貴方のことは何があっても」
「覚えていてくれるのですか」
「ええ、忘れることはないわ」
こう彼に告げた。
「何があっても」
「有り難うございます。では僕は」
「貴方は?」
「もう思い残すことはありません」
これが彼の言葉であった。
「もうこれで」
「そんな、それではもう」
「はい、お別れです」
また別れの言葉を告げた。そうして。
「永遠に・・・・・・」
最後にこう言ってゆっくりと目を閉じてだった。アドニスは愛するアフロディーテのその手の中で息絶えたのであった。
「アドニス・・・・・・」
女神はその彼をまだ抱いていた。そのうえで泣き続けていた。
「貴方のことは忘れない。忘れたくないから」
こう言って手をさっと動かした。するとだった。
アドニスの亡骸が変わった。光に包まれそうしてだった。
「花に」
「赤い花に」
「ええ、花になってそれで」
その赤い花を手に持って言うアフロディーテだった。
「この世を飾って。私はこの花を見てその度に貴方を思い出すわ。忘れたたくはないから」
言いながら涙を落とした。その涙は赤い花に落ちて花を濡らした。濡れた花はこれまでよりもさらに美しく見えた。悲しい美しさだった。
この花がアネモネだ。人々はこの花を見る度にアドニスという少年を思い出す。女神に愛されその心に永遠に残る少年をだ。この花は今も咲き誇っている。女神は今もこの花を見て彼のことを心に残しているのである。
アネモネ 完
2010・4・13
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