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Magic flare(マジック・フレア)

作者:とよね
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第2話 泣ク看守

 ―1―

 七日、出動のない日が続いた。八日目の休日、強羅木ハジメの自宅を懐かしい客人が訪ねてきた。ACJ道東支社勤務、学生時代からの馴染みの向坂(むこうざか)ゴエイという男である。強羅木は宅配のランチメニューで客人をもてなした。
「クグチ君はどうしてるかな」
 強羅木は笑みを浮かべる向坂の顔を眺めた。空虚な笑顔だと思う。お互い、四十を過ぎてこれ以上昇格できそうな気がしない。こいつは俺をこう思っているだろう、また目つきばかり鋭くなったと、と考えて胃の腑が重くなった。被害妄想だが。
「どうもこうもあるか。何も変わりゃしない」
「他の仲間とうまくやれてないのかい」
「衝突はしないが摩擦はある。本人なりにうまくやってるつもりなんだろうがな。いかんせん、あれは天性のひねくれ者だ」
「天性の? そうかなあ。あの明日宮君の息子さんじゃないか」
「じゃあ俺の育て方の問題か?」
 パスタソースにまみれたフォークでいたずらにカプレーゼをつつきながら、強羅木は意図せず攻撃的な口調になったが、思い直して言い足した。
「いいや。俺の問題だ。確かに」
「済まなかった、そんなつもりじゃ……」
「道東の生活はどうだ」
「ここと一緒だよ。一年でいろんな所に行ってみたけど、どこの様子も変わらない。石垣支社、天草支社、鎌倉支社、あとどこだっけ。まあどこも同じだ。行っても行かなくても同じだった」
「鎌倉か。昔、明日宮とお前と三人で卒業旅行に行ったな」
「焼けてしまったよ」
「復興した」
「したね。ACJのフォーマット通りに。良くも悪くも見る影もない」
 強羅木はワインのボトルを掴んだ。向坂が掌を見せて、その動きを制した。二人はそのまま静止した。
 強羅木は守護天使を有しているが、最後に呼び出しを行ったのがいつだか思い出せない。向坂がどうかは知らない。二人ともレンズは目立たない無彩色のものを使用している。が、依然として相手の姿に重なって幸福指数と簡易プロフィール、勤務会社と役職が見えるので、守護天使を手放してはいないとわかる。
 星10個中7個 幸福指数A。
 同じ表示が俺にも表れ、向坂に見えているはずだと、強羅木は頭の中の冷たい部分で思った。俺はさして不幸でも幸福でもない。ACJの正社員であるというだけで、幸福指数ははね上がる。それだけのことだ。
「知ってると思うけど、僕らの特殊警備の職分はもうじきACJの手を離れる」
「……まだ可決されてはいないだろう」
「よほどのことがない限りまず通るよ」
 ワインボトルから手を離した。
 健全な市民生活のための電磁体利用と保護に関する規制法案。通称『電磁体保護法案』。居住区に住んでいるなら十代の少年少女でも知っている。
「今のACJのやり方は滅茶苦茶だ。居住区での暮らしに対して絶大な支配力を持つとはいえ、今のところ、一民間企業に過ぎない。本来なら他人の家に踏みこんで強制的に所持物を破壊する権利はないんだ。警備員たちの安全の問題もある。僕たちのやっていることは、銃の製造会社の人間が銃を持った強盗を取り締まっているようなもんだ」
 強羅木は不機嫌になって椅子の背にもたれかかった。向坂は続けた。
「サービス強制停止の際に暴れたり自暴自棄になる利用者は珍しくない。ただでさえ精神を病んで辞めていく特殊警備員は多いのに、もし危害を加えられることがあっても、今の体制ではACJには何もできない。僕たちは部下も自分も守れないんだ」
「はるばる道東から来て言うことがそれか。その程度のことを俺が考えていないとでも?」
「クグチ君を道東支社に送ってほしい」
 向坂の意味のない微笑に、媚びるような色が滲んだ。
「なんで」
「ACJは特殊警備の職務にあう適性というものを探っている。それについては強羅木君も承知してるだろう。一部の特殊警備員も知っている。ところでこれは今のところ公表されていないけど、道東支社では守護天使を持たない人材を集めている。健康で、体力があり、守護天使がない人間が必要だ。それで新しい特殊警備チームを試験運用する」
「向坂。俺は頭も察しもよくないが、本社の連中が考えてることはわかるぞ。道東支社でやろうとしてることもだ。幽霊狩りはACJの手をはなれる。大いに結構。今後、その仕事を請け負うのは別に誰でもよくなるわけだ。守護天使がない人間でもな。そうなればACJは従業員が職務中に負った心的外傷に対しいかなる責務も負わない。今もそうだが。そうしたことに対する負い目は一切なくなるわけだ」
「強羅木君?」
「幽霊狩りは必要だ。だが利用者たちにとって特殊警備員は恐怖だ。悪だ」
 向坂が取りなすように口を開くのを、強羅木は言葉をかぶせて遮った。
「悪役は完璧じゃなければならない。そういうことだろう。善良な市民たちの大切な守護天使を破壊する役が、同じ守護天使を持った善良な市民では様にならない。誰にとっても幸せじゃない。だから守護天使を持たない、居住区の厄介者が必要になった。違うか」
「決めつけるのは早計だよ」
「適性か。全くふざけた言い分だな。上層の連中はACJのシステムに組みこまれない層が居住区内にあるのが気に食わんだけだ。従業員。利用者。そしてそれ以外。それ以外の連中というのが守護天使を持たない連中だ。ACJはありがたくもその連中に職を下さるというわけだな、幽霊狩りの仕事を」
「強羅木君――」
「ふざけるなっ!」
 強羅木は厚い掌でテーブルを打った。パスタ皿からフォークが浮き、また皿に落ちて、大きな音をたてた。強羅木は息を吸い、止めた。そして吐いた。
 ACJのやり方を糾弾する権利は自分にはない。上司として、既にクグチに指示を出してしまっている。適性を知るためだと、そう、自ら腹を立てているその理由でもって。指示を出さない理由がなかったから、口実が思いつかなかったから、クグチと、比較対象として他の部下たちに、指示を出した。
 激昂した理由を酒のせいにしてしまおうとも思ったが、いかにも安っぽい卑怯さに嫌気がさしてやめた。かわりに一言「すまん」と謝った。
「守護天使を持たない層の立派な職業になるだろうな、幽霊狩りは。名悪役だ。社会公認の憎まれ役。そうやってますます他の仕事に就けなくなる。ますますACJのシステムに捕らえられていく」
「何かあったのか、強羅木君。クグチ君のことでか?」
「先週、クグチの目の前で人が一人死んだ。サービス提供停止の対象者だ」
「……自殺か?」
「そうだ。ひどい死に様だった」
 向坂は沈黙を挟んでから、口を開いた。
「そういうことはたまにあると聞くが……道東で起きたことはないな。南紀でも初めてじゃないのか? 何にしろ大変だったな。さぞショックを受けたことだろう」
「顔には出さんがな。クグチだけじゃない。全員があの一件でやる気を失っている」
 重い溜め息と共に、しかし、と強羅木は思う。もともとやる気があってこの部署に入ってきた者はいない。特殊警備員たちはいつも不機嫌だ。とりあえず給料をもらっている分は真面目に働くが、好きでこの仕事をしているわけではないという態度を隠そうともしない。部署が異動になる望みはあってないようなものだ。それでも彼らがやめないのは、腐ってもACJの社員には違いないからだ。そのステータスが幸福指数に与える影響は大きい。好きでもない仕事の報酬として、Bランクの幸福指数を得ている。
「何だと言うんだ。何が幸福だ。何が天使だ」
 向坂は黙っている。
「元来守護天使には」強羅木は喋り続けた。「というより仮想体、電磁思考体はだな、家族の代わりになるようなものじゃないんだ。そんな機能はない。自分の思考の補佐のため、あくまで自分の役に立てるためにある」
「だけど今守護天使に求められている役割はそれじゃない」
 強羅木は、改めて向坂の顔を見た。
 裏切りを受けた気分になった。そんな気分になるとは、自分でも予期していなかった。
「守護天使も幸福指数も、今となっては絶対に社会に必要だ、強羅木君。国難に面した今、国にとって即戦力となる有能な人材が求められている。そうした人間の選別に、幸福指数ほど適した評価基準はない。違うか」
「もう何年国難に面しっぱなしだと思ってる。いい加減にしてくれ」
「みんな忘れてるみたいだが、戦争は磁気嵐のせいで停戦しているだけだ。終わってはいない。そしてACJの守護天使育成サービスは停戦期間中に立派な社会システムになった。今後も政府で、軍で、企業で、社会システムによって選ばれた人間は必要とされ続けるんだ。僕らが不満を言おうと言うまいと関係ない」
「コミュニケーション能力の高い人間は有能だ。そして幸福だ。少なくとも守護天使が定める幸福指数の基準ではな。頭がよく、体も健康で、家庭に問題がなければなお良い。だから幸福指数のために結婚する。幸福指数のために子を作る。幸福指数のために進学先や就職先を選ぶ。指数指数。幸福。天使。何が『自分の』役に立てる、だ! それで結局はお国のためかよ」
「ACJとそのサービスが受け入れられた結果だよ。サービスが時代と利用者のニーズに合うよう進化した結果だ」
「仰る通り、ごもっともだ。何の陰謀でもありゃしない。会社がそうしました、社会がそうしました、お客様がそうしました。そうやって人生そのものを、指数を競うゲームにしてしまった。そこに政治が絡んじまったらもう後には戻れない」
「強羅木君、何故そんなに怒ってるんだ?」
「俺にとってクグチが何だと思っている」
 赤く充血した目で睨まれ、向坂は居ずまいを正した。
「明日宮君の、僕と君の親友の、遺児だ」
「そうだ。俺が引き取った。俺が育ててきた。お前じゃない。それをいきなりやって来て、寄越せだと? うわべばかりの、真意がわからない理屈のために?」
「僕個人の意向じゃない。道東の横尾支社長の意向だ。背後に本社の意向もある。横尾は南紀の支社長に明日宮君を送ってくれと正式に申し入れる。南紀の支社長はおそらく了承する。断る理由はない」
「じゃあ、お前は何しに来た」
「君に同意してほしくて来た。でなけりゃ君は、上の意向でいきなりクグチ君を横取りされる形になる」
「お前がクグチを預かりに来たというわけか? 心情的に、お前にクグチを預ける形にすることで、それで安心しろと、納得しろと、そういうつもりで来たのか」
「怒らないでくれ。君を愚弄しているんじゃない」
 強羅木は黙りこんだ。
 どうにもならないことはわかっていた。クグチは道東行きを拒絶しないだろう。いい顔もしないだろうが。かと言ってこの男にクグチを預けるなどとは死んでも言うつもりない。そんなことを言えば、どういいように使われても文句は言えなくなる。
 もはやこの古い友も、昔のままではない。広大な北の大地ではしゃぎあっていた頃の、懐かしい友ではない。
 強羅木は安いワインをグラスに注いだ。胸の悪くなる臭いがした。

 ―2―

 翌週末までにことは全て運んだ。専ら面談用として使われている小会議室に呼び出され、クグチは強羅木と対面した。
「明日宮クグチ、配置換えだ。お前は道東支社に行くことになった」
 クグチはぼんやり座っている。一瞬、目の中に驚きと戸惑いがよぎったが、それだけだった。
「決定事項ですか」
「そうだ」
「いつから」
「今日だ」
「急すぎる」
「不都合があるか」
「俺に何の予定もないことが前提の物言いだな」
「その通りだろう。辞令は出ている。行け」
 強羅木が机の向こうからクリアファイルを寄越してきた。支社長の名前入りの、確かに辞令だった。会ったこともない男だ。会ったこともない男のもとから、会ったこともない男のもとへ。一緒に航空会社の封筒が入っている。今晩のチケットだった。
「お前にとっては故郷への帰還だな」
 クグチは目線を、チケットから強羅木に戻した。
「お前の父親の故郷でもある」
「よく覚えていない」
「道東支社に向坂ゴエイという男がいる。俺と同じ立場の人間だ。そいつはお前の父親の友人だ。暫くはその男を頼るがいい」
「信用できる男なのか?」
「さあな」
「さあなって。知り合いじゃないのか」
「旧友だ。俺とそいつと、お前の父親は大学の同期生だった。だがお前がそいつを頼っていいのは、道東の暮らしに慣れるまでだ。結局、お前が最後に信用するのはお前自身だ。俺を信用していないのと同じようにな」
 クグチはチケットを封筒に戻しながら、この男は何を言いたいのだろうと考えた。義理とはいえ家族だ。十五年間家族らしい交歓が何もなかったことをクグチのせいにしているのか、あるいは単にこの世の中の誰も信じるなと? クグチにはわからない。
「何か質問は?」
 質問はない。自分のことなのに、まるでどうでもよかった。どこにいようとどうせやる仕事は同じだろう。今と同程度の生活ができればそれ以上は望まない。
 二度と帰って来れないとしても、それはそれで構わない。この男を家族として愛しているかと言われたら、そんなことはない。仕事も仕事仲間も全く好きではない。守るべき居住区の市民たちの暮らしにしたって、心から守りたいと思った事は一度もない。本当はどうなろうと知ったことではない。
 自分の考えに、クグチは何となく絶望した。ない、というべく口を開いたその瞬間に、彼は気が変わった。
「あのハツセリという子はどうなった?」
 強羅木は眉を片方あげ、意外そうな目で見つめ返してきた。
「先週の件で保護されただろう。守護天使のない女の子だ。補導されたと聞いたが、その後どうなった」
「それは、俺は知らん」
「あれは自分を幽霊、つまり廃電磁体だと言った。人間ではないと」
「それが本当なら生きておれんな」
 強羅木は鼻で溜め息をついた。
「だがそんなことはあるまい。件の少女についてはお前以外の班員もレポートに書いている。本当に幽霊なら、UC銃を間近で浴びたんだ、消え残ったはずがない。俺はそいつを見てないが、間違いなく人間だ」
「もし仮に自分を幽霊だと信じている人間がいるとしたら、そんな人間はどうやって生まれると思う?」
「どうせ空想癖が高じた結果だ。深い意味などありはしない。何故そんなに行きがかりの女の子にこだわる?」
「……別に。言ってみただけだ」
「他に質問はないか」
「ございません。話が以上なら、退室します。今晩の出立に向けて準備をしなければなりませんので」
「よし。今日は退勤していい」
「わかりました」
 これが、南紀支社での最後となる。二年半の退屈な生活が終わる。
「クグチ」
 ドアノブに手をかけた時、何か切実なものを秘めた声が呼び止めた。
「何故俺がお前に守護天使を持たせなかったと思う」
「……今更そんなことを質問すればよかったのか? 今までに俺が何十回聞いて、あんたが何十回答えなかったと思ってる?」
「数か月以内に最大規模の太陽フレアが訪れる。そして最後の磁気嵐がくる。それがやんだら戦争が再開するだろう」
 そう言って立ち上がった。
「守護天使は持ち主にとって最も真摯な話し相手だ。利用者は守護天使を相手に会話することで、ゲーム感覚で自分の考えをまとめたり、事実の一面に気付く機会を得ることができる」
「それがどうした」
「その守護天使がどれも、少しずつ特定のイデオロギーを利用者に刷りこむことができるとしたら?  例えば好戦的な気分に、例えば差別主義的なものの考え方に、自分自身の考えとして、国民一人一人を誘導できるとしたら? 守護天使には潜在的にそういう能力がある。ところでACJの事業の一部が間もなく公営のものとなり、政府が馬鹿にならない事業資金を提供するようになるが、どう思う」
「あんたは自分が何を言っているかわかってるのか」
「もし仮に政府が守護天使を利用して国民の思想を誘導しようとしているとしたら――仮に、だ。絵空事だ。だがそういうことがあるとしたら、お前は怒りを感じるか」
「別に」
「だろうな。そういう人間になるように俺が育てた」
 じんわりと、怒りが苦い水のように広がるのをクグチは堪えた。
「……興味はある。持ち主を特定の思想に誘導する守護天使があるとすれば、持ち主の死後どういう幽霊になるのか」
「今いる幽霊は、どういう幽霊だ? お前にはどう見える?」
「どういうって……」
「電子の幽霊たちは自意識を持っている。自分を人間だと思っている。死んだ人間だとな。そんな存在が何を思って存在している。奴らはどうすれば消える」
「勝手に消えやしない。奴らは磁気嵐に固着している。それくらいのことはあんたも知ってるだろう」
「奴らに存在し続けるための希望があるとしたら、それは何だ」
「見つけてほしいんだ」
 クグチは即座に答えた。
「どういうことだ?」
「見つけて、と、前回の幽霊は言い残した。自分を死んだ人間だと思いこんでいるのなら、死体を見つけてくれという意味以外にないだろう。あいつらは人間として弔われたいんだ」
 強羅木の目の中で、希望と苦悩の光がせめぎあい、奇妙な様相を見せた。クグチは反応に困って立ち尽くした。
「……何だ、何が言いたい?」
「件の廃電磁体について、俺は他の班員にも話を聞いた。一人ずつ面談を行ったんだ。だが、そんなことを言ったのはお前だけだ」
 クグチは目の前の男が何を考えているかわからず、逃げ出したくなった。
「だからお前は、北に行くんだ」
「退室していいか」
「構わん。出て行って、北で幽霊狩りをしろ。どう狩るか考えろ。何故狩るか考えろ」
 ドアノブを回した。掌に汗をかいていて、いやに滑った。
「見送りには行けん」
 クグチは返事をしなかった。
 部屋で一人になると、強羅木は深い虚脱感に身を任せ、椅子に座りこんだ。
 初めて対面した時、クグチは幼かった。まだ六歳だった。育ててきた。何もかもが初めてで、どう接するのが正しいのかわからなかった。十五年。とうとう彼は自分の手をはなれる。熱いものが目の縁までこみ上げてきた。
 自由に生きろ、クグチ。
 守護天使を持たないお前に社会は不便を強いるだろう。それでも、守護天使を持たなくても生きてゆけることが、社会に、居住区に、ACJに対する武器になる。
 お前は俺に怒っているだろう。憎んでさえいるだろう。しかしどうか、怒りに捕らわれてくれるな。憎しみに縛られるな。
 自分のために生きろ。

 ―3―

 クグチは同僚たちの誰にも何も言わずに居住区を出た。空港直通の地下シャトルから地上に出れば、電磁装飾のない本物の夜が、世界中に広がっていた。トランクを預けて機内へ。座席は最後尾だった。
 時と共に人が増える。
 身なりのいい中年の婦人の団体がどっと流れてきて広がった。中央辺りの席を占拠し、クグチの耳を苛む。
「この間の詩作会、あなた見事なものでしてよ。あれほど的確で美しい言葉運びはなかなかできるものではありませんわ」
「私なんてまだまだですわ。あなたの詩こそ濃密で、オリジナリティがあって、私あなたのファンですのよ」
「いやぁー、お二人とも本当に才能に満ちていらして……」
「あなたこそ素晴らしい感受性をお持ちで……」
「そうそう、新しい先生のお作品も、実に見事……」
 その内、一人がトイレに立った。クグチは何となく顔を見て気付いた。その中年女の耳には電磁体の音声を聞くための無線イヤホンがなかった。
 Sランク市民だ。
 幸福指数を最大の星十個まで上げたら、特典としてイヤホンやレンズの機能を体内に埋めこむ手術を受けることができる。居住区外での守護天使の呼び出しは禁止されているが、幸福指数の表示がなくても、無線イヤホンの有無でSランク市民だけは見分けがつく。
 なるほど、彼女らは守護天使の目がない時でも、守護天使に好まれる振舞いを心得ている。僻みだとわかっているが、クグチは無性に苛立った。
 守護天使を持たない層の大多数は、子供の頃親に経済力がなかった、またはそういう教育方針のもとに育った人である。守護天使育成サービスの月々の契約金はそれなりに高い。
 自分で稼ぎを得るようになってから契約したら、それはそれで面倒が待っている。守護天使を新しく持ったら、幸福指数は星一個から十個のカウントより前の、星のないキッズランクから始まる。
 今まで何となく除外されていた階級闘争に、いい大人になってから、最下層の子供扱いから参加しなければならないのだ。それに対する心理的な抵抗が、義務教育を終えてからのサービス新規加入を踏みとどまらせる主な理由だ。
 無論ACJも企業だから新規顧客を増やしたい。新規加入者への救済措置として、就労可能年齢から加入した場合、金さえ出せば星一個のCランクから守護天使を持てる。しかし大多数の利用者にとって、守護天使育成は人生だ。人生をかけて幸福指数を上げ、幸福指数によって人生の選択肢を増やす。金で幸福指数を買った人間は、市民たちにやすやすと受け入れられはしない。
 四時間のフライトが始まった。飛行機は磁気の嵐に耐えて、薄雲に月の見え隠れする空を目指す。Sランク市民の婦人がたは、声を落としてまだ話している――まあ――いいわね――あなたこそ――素晴らしいわ――クグチは椅子に深く身を預け、目を閉じた。
 飛行機はどんどん高くなり、地を振り切ろうと試す。この飛行機は本物の空を故郷と信じている。帰りたい。帰りたい。飛行機は炎を纏って墜ち、花びらに埋もれて死ぬ。月は涙を湛えて満ち、涙を流し欠ける。そんなことには頓着せず、婦人方は滅亡への時を無為に過ごす――立派だわ――楽しみ――本当よ――素敵――お宅の天使。天使天使。
「持てよォ、世界が変わるぞォ」
 前の席の乗客が立ち上がり、座席越しにクグチを振り返る。中学校の同級生の男だ。
「俺は駄目なんだ」
 中学生のクグチは教室の席で委縮して答える。
「何で?」
「父さんが駄目っていうから……」
「持ちたいって言わなきゃ。本気だってわかればお父さんも考えてくれるよ」
 いつの間にか隣に少女がいて言う。
「駄目なんだ」
「どうして?」
「これまでも何回も言ったよ。でも」
「きっと本気だと思わなかったんだよ。もう一度頼んでみなよ」
「無理だよ」
「どうして? なんでやる前から諦めてるの? やってみなきゃわかんないよ! そんなふうだから持たせてもらえないんじゃないの」
 女教師が機内限定販売の土産物やコーヒーを載せたカートを押して教室に入ってくる。
「みなさん、守護天使が表すステータスはみなさんの名札です。名札がないまま社会に出たら大変な思いをしますよ。そんなことより間もなく最後の大きな太陽フレアが来ます。その後さよなら。お別れです。みんな死にます。さようなら……」
 クグチは恐怖を吸う。ここに酸素はない。ここでは長く生きられない。逃げても、逃げても聞こえてくる。褒めあって、なれ合って、世辞を言いあって――あら、本心よ。私心にもないことは言ってないわ――わかった。じゃあ一のことを十にして言っているのだな。そうすると幸福指数のポイントが貯まる。守護天使にも同じことをさせる。すると更に貯まる。便利な幸せが買物券のように貯まっていく。
 窓の外を凄まじい勢いで広告が流れ去る。『指数Aランク以上の方必見! 厳選土地物件はコチラ!!』『Cランクから就労可能・寮、社保あり』『締切迫る! Sランク市民のみ宿泊可能のVIPスイートに抽選で三十組様ご招待!』
「何をそんなに苛立つことがあるの」
 さっき教室にいた少女だ。隣の客席に座っている。
「別に苛立ってなんかない」
「苛立ってるわよ。前の席のおばさんたちのこと、さっきから気にしてるじゃない」
「別に」
「どうして別に、なんて言うの。そんなにあからさまなくせに。どうせ言ってもわからないとでも思ってるの? そんなに高尚なことを考えてるわけでもないんでしょう?」
 隣の少女を見つめる。見た顔だと思ったら、居住区で会ったことがある。その時は、自分を幽霊だと語った。少女は重ねて言った。
「あなたには彼女たちの会話を受け入れられない。もし彼女たちがあなたの何かを褒めでもしたら、もう我慢できないでしょうね。でもそれはあなたが彼女たちの感情に共感できないからじゃない。自分に向けられるお世辞に共感できないからよ」
「意味がわからない」
「普通の人は、お世辞も褒め言葉もとりあえず受け取っておくものよ。あなたはそれができない。共感できないから。自分に対する良い意味の言葉がほんの少しも嬉しくないのなら、あなたは自分を愛していないのよ。あなたは愛にまつわる能力が欠けてるの」
「そんなことはどうでもいいだろう。頼むから黙ってくれ。寝たいんだ」
「駄目よ。夢で寝たら死ぬわ」
 そんな迷信は聞いたこともない。そう思って少女を見たら、彼女は指を顎にかけ、顔を取り外した。隠れていた宇宙が少女の髪の毛の下に現われた。
 乗客が、座席が、小さくなって宇宙に吸いこまれていき、風が強い、風が強い、クグチは宇宙を見て動けない。目をみはれば太陽が……赤い。紅蓮の竈だ。老いた女が落ちていく。
「見つけて!」
 叫びが老婆を砕いた。血が散る。苺果汁だ。

 びくりとして起きた時には、胃の内容物がもう喉までこみ上げていた。立ち上がる。急に動いたせいで頭がひどく痛む。眩暈がし、背もたれに手をかけ、よろめきながら男子トイレに駆けこむと、便器の蓋が自動で上がりきるのも待たずに吐いた。夕食も昼食も口から出た。胃はからになり、何かに手ひどくやられてしまったような敗北感だけ残った。
 便器の蓋を閉め、そこに座り、頭を抱えた。
 気がすんでから個室を出ると、薄ぼんやりと窓に映る自分の姿の向こうで地が光って見えた。
 道東の居住区だ。
 透きとおるドームに守られて、燦然と白一色の輝きを放っている。その外には明かりのない家々がびっしり群れて、息を殺している。貧しい人々が、磁気嵐に耐える電子機器を持つことも開発することもできず、ドームから垂れ流される汚水に耐え、排気に耐え、ごみの中から使えそうなもの食べられそうなものを拾い、電子の幽霊たちと重なりあって生きている。
 遠くで巨大な炎の花が開いている。あの火災でどれだけ人が死のうと、居住区で報じられることはない。居住区の市民たちは天から降る七色の羽根の幻覚、魅力的な動物が行き交うサバンナの幻覚、美しい水が流れる滝の幻覚の中で生き、自分を決して否定しない天使たちの声を聴き、喋り、いつかそれが黒い水になってドームを満たしても決して気付くことはなく、出ていくこともできぬまま、溺れて死ぬ。
 さながら電子の幽霊たちは看守だ。居住区の中の家族に会いたいと涙を流し、震える指で鍵穴を探す。幸せの牢獄。
 本当はこんな所に来たくなかったと、クグチはついに本心を認めないわけにいかなくなった。壁に背を預け、両手で顔を覆う。
 柔らかなチャイムと共に、着陸を告げるアナウンスが始まった。

 その二人は空港のロビーで待っていた。同類はわかる。男女一人ずつでの迎えだった。クグチが彼らを見つけると、彼らもクグチを見つけた。
 夜に塗られたガラスの壁を背に、並んで歩いてくる。どちらも背が高くて逞しい。スーツケースに手をかけたまま、クグチは一礼した。
「道東支社特殊警備センターの岸本です」
 四十手前くらいの、浅黒い肌の男だ。細い目は不機嫌な光をともし、品定めするような目でクグチを見つめてくる。この男が上司になるのかと、クグチは憂鬱になった。
 隣の女がハンドバッグを肩にかけ直した。
「バンジョウです。万乗槇女(まきめ)。よろしく」
 こちらは三十前後の、明るく染めた髪が目を引く、少し派手な装いの女だった。クグチもまた品定めするような目を返した。
「明日宮九々智(クグチ)です。よろしくお願いします」
 結果、気付いた。二人の目もレンズの薄い膜に覆われていない。
 Sランク市民というふうでもない。
 ならば彼らにも守護天使がないのだ。
 梅雨が来る。


 
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