ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~
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第30話 フェザーンの夜
前書き
いつも閲覧ありがとうございます。
ジャブの次はフックとアッパーでしょうか。
宇宙歴七八六年一〇月 フェザーン
この年の自由惑星同盟フェザーン駐在弁務官事務所の首席駐在武官はアグバヤニ大佐といい、かなりの年配で、歳相応に太っている男だった。褐色の肌はレーナ叔母さんと遠い先祖が同じであることを示してはいたが、性格は正反対だった。
初対面で着任の挨拶をする俺を見る目には明らかに隔意があったし、表面からにじみ出る陰気で尊大で狭量な性格は、俺以外の駐在武官からも敬遠されている。彼がこの重要な任地に赴任できた理由も、政治家との深い繋がりがあるからであって、自身の積み上げた功績ゆえではないことも知れ渡っている。知らないのは当の本人だけではないか、というのはとても笑えない冗談だ。
そうとはいえ、新任駐在武官である俺がフェザーンに着任した以上、形式として歓迎パーティーを開催しないわけにはいかない。長年の慣例であり主賓の質はともかく、わざわざ中止して、フェザーン上流階級との貴重な情報交換の場を失う必要も、同盟の悪化する財政状況を喧伝する必要もない。場所はホテル・バタビア。たしかユリアンもこのホテルではなかったかと記憶を辿ってみたが、さすがにホテルの名前までは俺も覚えきれていない。
主賓として招かれた以上、俺は笑顔を浮かべてフェザーンの紳士淑女を相手に会話とダンスに勤しまなければならない。所持している一張羅の白の軍用礼装を身に纏い、パーティー会場の中央で檻の中にいる動物よろしく、招待客の皆様に愛嬌を振りまくことに専念する。空腹に耐えることといつでも笑顔でいることさえできれば、特段難しい作業ではない。
特段意味をもたない上っ面だけの会話、ご機嫌取り、売り込みに自慢に冗談……パーティーが開かれて二時間経ってもなかなか途切れない来客の挨拶に、俺はそろそろ顔の筋肉が引き攣り、胃袋が不服を訴え始めた頃、俺とアグバヤニ大佐の前に異形の男が現われた。まだ若い。だがその姿を見て俺と大佐の周りにいた招待客は、ゆっくりとかつ敬意を欠かすことなく離れていく。
「アグバヤニ大佐」
「やぁ、ルビンスキーさん。ようこそいらっしゃった」
「丁度時間が空きましてな。ならば若い大尉を冷やかそうかと参上した次第」
肌は浅黒い。目も口も鼻も眉もみなそれぞれ作りがデカい。それにもまして身体がデカい。ハゲだが。現在一七七センチの俺が顎を上げて顔を見るのだから、おそらくは一九〇センチ以上だろう。精気みなぎる体躯を薄紫色のタートルネックと上品な浅葱色のスーツで覆うことで、周囲に威圧感ではなく自然と敬意を向けるような雰囲気を醸し出している。傲慢な台詞もこの体躯と服装のセンスで、柔剛両面から相手に認めさせてしまう。
アドリアン=ルビンスキー。フェザーンの黒狐と言われるが、外見だけならどう見ても「黒熊」だ。
「貴官がヴィクトール=ボロディン大尉殿ですな。自治政府高等参事官のアドリアン=ルビンスキーです。よろしく」
差し出される手は大きく、そして肉厚だ。軽く握っているのだろうが、こちらとしては万力に挟まれたかのような締め付けに感じる。
「よろしく。高等参事官殿」
「ルビンスキーで結構ですぞ。なにしろ役職で呼ばれては自分かどうか分からないものですからな」
この傲慢さが当たり前のように聞こえてくるのだから、コイツは本当に恐ろしい。ルビンスキーが三六歳で自治領主となったのは、和平派の前自治領主ワレンコフが地球教のコントロールから逃れようとして事実上処刑されたからだが、まずもってそれなりの実力が伴わなくては長老会議での立候補すら出来ないのだ。転生して、これからの未来が少しは分かるとはいえ、小心者の凡人である俺にとってルビンスキーを見ると、いずれどんな形であれ相対することに恐怖を覚える。
「大尉は随分とお疲れのようだ。無理もない。五〇〇〇光年も旅してこられて、すぐにパーティーですからな。こういう世界に慣れていない若者にとってみれば、もはや拷問に近い」
三〇代前半のルビンスキーの毒舌というか、皮肉はスパイスが効き過ぎている。当てこすられた感じのアグバヤニ大佐の肥満した顔も、時折ではあるがピクピクと痙攣している。まだ若い自治政府の要人を、年配である大佐が表だった場所で怒るわけにもいかない。自分自身への評判だけでなく、同盟とフェザーンの関係悪化を招きかねないからだが、大佐にとってどちらが重要かは俺は分からない。
それを見越した上でこういうトゲの生えた言葉を投げかけてくるわけだから、ルビンスキーも人が悪い……いや、人が悪いのは分かっているんだが、原作ではこれほど直接的に言うような男ではなかったはずだ。むしろ、こういうどぎつさは彼の息子であるルパートの方が強かっ。ということは、この時点ではルビンスキーも才幹と若さの釣り合いがまだ取れていないということかも知れない。
「いえ、大佐のフォローのお陰で、小官はパーティーを楽しんでおります。高等参事官殿」
若さなら負けるつもりはないし、ここで怯んでいるようでは後々で軽く見られる。もちろん軽く見られた方が俺としてはありがたいのだが、尊敬せざるとはいえ大佐は俺の上司であり、フェザーンにおける同盟軍の事実上の代表でもある。別に恩を受けたわけでも関心を買おうとも思わないが、ささやかな愛国心を見せるくらいはいいだろう。
「チキンフライ以外にも、フェザーンに料理があることを改めて教えていただけましたし。何事もよい人生経験だと思います」
「ふふっ。なるほど」
俺の挑発にも黒狐は乗ってこなかった。むしろ怒りを見せるどころか、楽しんでいるかのようにも見える。しかし異相とはいえ絵になる男だ。グラスを傾ける仕草一つとっても隙がない。
「いや、失礼。大尉はなかなか面白い方のようだ。月並みのようですが、これからもよろしくお付き合いを」
そう言うとルビンスキーは上目遣いで小さく頭を下げると身体を翻して、出口の方へ向かっていこうとするが、数秒立ち止まった後、首を廻して俺に視線を向けて言い放った。
「そうですな。今度時間が出来たら、大尉にはエビをご馳走して差し上げますよ。では失礼」
「いや、良かった。ホッとしたぞ、君」
ルビンスキーが上機嫌で俺の前から去っていったのを見て、アグバヤニ大佐は顔の脂肪を揺らしながら喜んでいたが、俺はとてもそんな気にはなれない。
「若手でも実力派というあのルビンスキーに一泡吹かせたようなものだ。私は彼のことが嫌いだが、彼から食事に誘われるというのも滅多にあることではない。彼が言っていた『エビ』とは一体何の事だかわからないが、とにかく大尉、お手柄だぞ」
「……はぁ、そうですね。緊張しました」
緊張したのも事実だが、あの野郎の捨て台詞だけはどうにも勘弁ならない。ルビンスキーの知識の深さと広さを見せつけられた、あるいは地球との結びつきを思い知らされたが、よりにもよってロシア系の血を引く俺に『エビ』か。俺が日本人の転生者であることはさすがにルビンスキーでも知らないだろうから、純粋にこちらの世界における血統から挑発したのだろう。左手に持つコップを割らなくて本当に良かった。
その後、ルビンスキーが俺達の前から去ったことで周囲の訪問客もそろそろお開きかと感じ取ったようで、次々と俺と大佐の前に来ては挨拶をし、出口へと向かっていく。それでも予定時間通りに終わったということは、ルビンスキー自身も時間を見計らってきたということだろう。どこまでも気に入らない夜だった。
翌日、改めて俺は弁務官事務所で自己紹介し、駐在武官の上司・同僚・部下(といっても俺の部下ではないが)の紹介を受けオフィスの見学を終えると、レクリエーション終了とばかりにフェザーンの市街に足を伸ばした。
もちろんユリアンについていったマシュンゴのような部下がいるわけでもなく、同期生は当然いるわけが無い。ゆえに俺は一人ところどころ解れたVネックと擦り切れたジーンズの上下で、ノタノタと繁華街を歩いていく。時折ブランドモールの柱やエスカレーターの鏡面部で自分の姿を見るが、乞食とまでは言えないが、貧乏人には見えるだろう。同盟弁務官事務所から尾行でもしない限り、俺を同盟軍大尉とは認識できないはずだ。もっともアントニナが今の俺を見たら憤慨するに違いないが。
しばらくは表の繁華街をそうやってブラブラしていたが、特に買いたい物もほしい物もない俺としては、衣料品店に入って情報収集するよりは、夜の繁華街で酒を飲んで美味しい物を食べて情報収集したいわけで……裏道を数本抜けて、時折意地悪く後を振り向いたり、急に角を曲がったりしながら、小さな路地裏へと足を踏み入れた。
その路地裏は、裏通りという割にはそれほど汚れているわけでもなく(もともとフェザーンは清潔な街だが)、七割の整然と三割の雑然とが絶妙に混ざった、言うなれば『良い感じに退廃的な』飲食街だった。街の飾り付けはやや帝国風を思わせる擬似木材と石材のコントラスト。照明も前世でいうクラシカルなデザインで統一されている。その街中を若い女性の滑らかで張りのある歌声が、大きくもなく小さくもなく耳障りよく流れている。
歌声に引っ張られるように俺が歩みを進めると、歌声の発生源は地下だった。人が肩をすりあわせてようやくすれ違うことの出来るくらいの狭い階段を下り、本物の胡桃材で作られた扉をゆっくりと開く。そこは照明が適度に落とされた小さなスナックだった。それほど広くはない。カウンター席が幾つかと、ボックスソファーが幾つか。そして低く抑えられた小さなステージ。
「いらっしゃい」
バースペースの奥にいたバーテンダーが俺に声を掛ける。店内の客は俺の侵入など気にすることなく、ステージで歌う若い女性に視線を向けている。とりあえず俺は誰も座っていないカウンター席の一つに座って、バーテンダーにウィスキーを注文すると、他の客同様にステージを見つめる。
歌う女性は若い。二〇歳には達していないだろう。まだ身体の線は細いが、ピッタリとした深紅のナイトドレスが身体の曲線をより強調している。スリットは深く、肩口も大きく開いていてより扇情的だ。男の客達の視線は殆ど胸やスリットの奥へと向いている。歌手はその視線に気がついているのは明らかだが、その歌声に雑念は全く感じられない。強くしなやかに延びる豊かな声は、狭い店内で反響し、俺の胸すら揺さぶる。帝国公用語であるのをこれほど残念に思ったことはない。
歌が終わり、店内は拍手の渦に包まれ、女性はゆっくりとお辞儀をする。胸の谷間が見えそうなくらい深く……おそらくはそれを狙っているのだろう。にやけ下がったボックスソファーの男達に愛嬌を振りまき、時に酌をしていく。そして今度はボックスソファーに座っていた別の女性がステージに立ち歌い始める。先ほどとはうってかわってリズミカルな曲だ。再び男達の視線がステージへと向けられる。だが声量といい声質といい、先ほどの女性に比べたら素人の俺にですら分かるほどの差がある。
聞くまでもないなと思い、バーテンダーが入れてくれたグラスを手に取り一口すすると、俺の横に座る影があった。深紅のナイトドレスに赤茶色の長い髪。ほっそりとした顎の左に小さなほくろ。
「お客さんはこの店は初めてね」
若い女性はバーテンダーから渡された烏龍茶のグラスを俺に掲げる。
「わたしはドミニク。これからもどうぞご贔屓に」
後書き
2014.10.28 更新
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