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パープルレイン

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第三章


第三章

 その少年は友人達と楽しく談笑しながらテーブルに着いた。そして食べながら談笑を続けていた。真砂子が見ていることには全く気付いていなかった。
「ねえ」
 ここで丈が声をかけてきた。
「えっ、ええ」
 真砂子もその声に顔を向けた。
「そろそろ時間だよ。急ごう」
「そうね」
 真砂子はそれを受けてあたふたとハンバーグを食べはじめた。肉を切る手の動きもかなり速くなっている。
「仕事ももう少しだしね」
「そうね」
 丈の言葉に食べながら応える。
「期待しているよ、そっちは」
「任せて」
 応えはするが意識は仕事には向いていなかった。
 ちらりと横目で店の中を見渡す。そこにあの少年が映っていた。
「代休ももらえるしね。元気よくいこうか」
「わかったわ」
 彼女は大人の顔でそれに頷いた。顔は大人であったが今の彼女は心は少女の様になっていた。少年を見て胸の高まりを抑えられなくなってきていた。
 その日はそのまま仕事を終わらせた。真砂子はすぐに家に帰った。そしてシャワーを浴び、下着の上にカッターを羽織った格好でキッチンの椅子に座っていた。その手には缶ビールがある。
「まさかあんなところで会うなんて」
 正確には会ったとは言わないが彼女は会ったと認識していた。ビールのせいでほんのりと赤くなった顔に愁いを微かに漂わせて呟いている。
「思いもしなかったわ」
 もう缶の中のビールはかなり減っていた。それを右手を揺らしながら物思いに耽っている。考えることはやはりあの少年のことであった。
「いつもは夜に会っていたけれど。昼にも会うなんて」
 それが新鮮に感じられた。
「また昼に会えたら」
 そしてふとこう思った。
「楽しいかしら。いつも会えたら」
 その思いは次第に膨らんできていた。それは酒のせいかどうかまではわからない。彼女が今酒の中にいるのは事実である。しかし今思っていることは酒のせいではないところもあった。
「そして側にいて」
 歳の差はあまり気にならなかった。今彼女は少女の頃の様に淡い気持ちに戻っていた。そのうえでその気持ちの中であれこれと考えていたのである。
「一緒にいて」
 また考えた。
「いられたら。どんなに楽しいかしら」
 自分が恋をしているのがわかってきていた。同時にそれを抑えられなくなっていることに。
「一度」
 呟く。
「勇気を出して言ってみようかしら」
 告白が頭の中に漂ってきた。
「そうしたらもしかすると」
 名前も知らないあの少年と何時でも一緒にいることができるかも知れない。恋人になれるかも知れない。今までの彼女だったらすぐに歳のことや自分の今の立場を考えて笑って止めたことだろう。だが今の彼女は違っていた。大人のラフな服で、そして酒を飲みながらもその心は少女のものに戻っていた。そしてその心で思っていたのであった。
 それから彼女はまだ迷った。告白すべきかしないべきか。今の自分を思ってのことではない。それが成功するかどうかを心配していたのだ。
 あの少年はそれからも横を通り過ぎていった。だが彼は真砂子には気付いていない。真砂子は日が経つにつれて少年への想いを強くしていっているというのに。それはもう完全に抑えられなくなり夜、その通り過ぎていく時間が来るのが待ち遠しくなってきていた。
 そうした日々がどれだけ続いたかわからない。カレンダーの問題ではなく真砂子の心の問題であった。彼女にとって一日はあまりにも長くなり、そして少年を見る時は一瞬になってしまっていた。もう我慢できなくなってきていた。
「今日こそは」
 これ以上は耐えられなくなってきていた。ある朝真砂子は意を決した。彼に言うことに決めたのである。
 この日はいつもと全く違っていた。ランニングも足のノリがよかった。そして化粧も念入りにした。いつもよりも妖しいものにしていた。
 服も。一張羅を出した。イタリアの特注である。スカートもいつもより短めで横にスリットが入っている。ストッキングはガーターにし、下着もシルクのものにした。普段とは全く違っていた。
「これなら」
 いけると思った。女としての魅力でも、と。そして会社に向かった。だが心は仕事にはもう向けられていなかった。
「また今日はえらく派手じゃない」
 丈は真砂子の姿を認めてこう言った。
「何かあるのかい?」
「さて、どうかしら」
 物腰は普段と変わらない。軽く彼をあしらう。
「それは御想像にお任せするわ」
「生憎僕は想像力がなくてね」
 丈はその言葉に対して笑って返す。
「何なのかはわからないね」
「そうなの」
「まあ何かあったら教えて欲しいけれどね」
 そしてこう述べる。
「それでいいかな」
「気が向いたらね」
「楽しみにしているよ。おや」
 ここで窓の方を見て声をあげた。
「雨か」
「梅雨も終わったのにね」
「夕立にはまだ早いけれどね」
 壁にかけられている時計を見て言う。時計はまだ二時になったばかりであった。
「天気予報では晴れって言ってたのにな」
「天気予報はあてにはならないわよ」
 真砂子は笑ってこう言った。
「外れる為にあるんだから」
「それで外れたと」
「あてにならないものよ」
「やれやれ」
 丈はそれを聞いて溜息を吐き出した。
「傘を用意しておくんだったね」
「何なら貸してあげましょうか?」
 真砂子はそれを聞いてこう申し出てきた。
「いいの?」
「ええ。こんな時に備えていつも一本余分に置いているから」
 そう言って机の端にかけている傘を一本取り出してきた。黒い地味な傘であった。
「これでよかったら」
「有り難う、それじゃあ使わせてもらうよ」
 丈はそれを受け取って言った。
「御礼はビール一本で」
「えらく奮発するわね」
「感謝の気持ちさ」
 そんな話をして午後の仕事の時間を過ごした。雨は降り続けていた。そして結局仕事があけても雨はあけはしなかった。まだ降り続いていた。
「よく降るね、本当に」
「夏にしてはね」
 丈と真砂子は会社の出口で上を見上げながらこう話していた。
「降るわね、本当に」
「雨の神様を何処かの色男が泣かしたのかな」
「それは貴方だったりしてね」
「さて、それはどうかね」
 彼は真砂子の言葉に対して肩をすくめて言葉を返した。
「僕は女神に知り合いはいないけれど」
「この前作ったんじゃないの?バーか何処かで」
「心当たりはないよ」
「男ってのは知らないうちに女を泣かせるものなのよ」
 真砂子は傘を取り出していた。
「知らないうちにね」
「男ってのは罪深い生き物だね」
「自覚すらないからね」
「というと僕もか」
「そうかもね」
 傘は完全に組み立てられていた。これでもう準備は整っていた。
「貴方が気付いてないだけで」
「だから男は罪な存在か」
「そういうこと。それじゃあね」
「またそんなに急いで」
 真砂子はその傘をかけて歩きはじめた。丈はその後ろ姿を見て呟いた。
「まあ頑張ってね」
 彼にはおおよそこのことは察しがついていた。女が変わるのはどういう時か、それがわかるまでには経験を積んできていたのである。
「けれどさっき自分の言ったことは覚えておいてね」
 これは誰にも聞かれないように小声で呟いた。
「男ってのは自分が気付かないうちに女を泣かせる生き物だってことは」
 そう言うと彼も傘を開いた。午後に真砂子から借りた黒い傘だった。
「じゃあ僕も帰るか」
 彼も会社から出た。そして一人真砂子とは反対の方向に足を進めるのであった。だが途中で足が変わった。
 真砂子はそのまま歩いていった。バッグに一通の手紙を忍ばせて。彼女は夜道を歩いていた。
「そろそろね」
 その場所に来たところでこう呟いた。
「それじゃあ」
 ゴクリ、と唾を飲み込んだ。意を決した。そして彼を待った。歩きながら待った。
「それでね」
「来たわね」
 声が聞こえてきた。間違える筈もない声だった。
「あの時さあ」
「いよいよ」
 真砂子は身構えた。とりあえずは平静を装って歩いていたが身構えていることに変わりはなかった。心の中で身構えていたのである。
 足音まで聞こえてきた。彼は間違いなく来ていた。真砂子はそれを聞きながらタイミングを見計らっていた。
(問題はどうやって切り出すかね)
 心の中で呟いた。
(そしてそれから)
 手紙を渡して切り出す。その際女もアピールする。これで自信があった。それはもうすぐであった。全てが決まるのは。
「それでどうなったの?」
(えっ!?)
 その言葉を聞いて思わず動きを止めそうになった。
「結局その時は何もなしさ」
 また少年の声が聞こえてきた。そこで少年はいつも通り真砂子の横を通り過ぎた。
「今でもね」
「何だ、大したことないじゃない」
 だが今日はいささか事情が違っていた。少年は隣に一人の少女を置いていたのだ。彼と同じ位の歳の可愛らしい少女を。見れば似合いと言えた。

 
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