夫婦茶碗
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第五章
第五章
「特に美味しいわよね」
「夫婦だからだろうな」
夫は笑顔で言った。
「夫婦で食べるから美味いんだよ」
「そうね。だからなのね」
妻も自分でも言いながらその言葉に応える。
「だから美味しいのね」
「そうそう毎日こうして食べられるわけじゃないけれど」
また夫の方から言ってきた。
「また時間があったらな」
「それは駄目よ」
今の言葉は自分でも思いがけない言葉だった。
「時間があったらっていうのは」
「あれっ、駄目か?」
「時間は作るものじゃない」
自然と口から出た言葉だった。
「自分でね」
「じゃあ時間を作ってこうして食べるか」
「そうしましょう。これからもずっとね」
これまた自然と口に出た。
「食べましょう、二人でね」
「そうだよな。一人だと寂しいぞ」
夫は茶碗に盛ったその白い飯を食べていた。
「ずっと一人で食べることを思うとな」
「え、ええ」
夫の今の言葉には内心ギクリ、としてしまった。
「そうね。二人ならともかく一人じゃ」
「少なくともこんな美味い飯は食えないな」
「そうよね。それにしても」
(何でかしら)
ここで内心不思議にも思った。
(何でこんなに二人で食べると美味しいのかしら)
夫婦茶碗を見ながら考えるのだった。
(二人で一緒にいると)
「なあ」
考えているその間にも夫は彼女に話してきた。
「もうすぐ結婚して四十年だったな」
「そうだったの?」
「そうだったのじゃないだろ?もうそろそろだろ」
こう妻に言ってきた。
「長いよな。本当にな」
「四十年に」
夫に言われてその年月について思いを馳せた。
「長いわね。本当に」
「その間いろいろあったけれど」
その長さについて考えるようになった。考えている間にも夫がまた言ってきた。
「それでな」
「え、ええ」
「その時に何処かに行くか」
彼はこう彼女に言ってきた。
「旅行にでも」
「旅行にって」
「御前この前言ってたじゃないか。ちょっと旅行にもでも行きたいって」
「あっ、そういえば」
言われてそのことを思い出したのだった。
「日曜日だったわよね。確かテレビで温泉番組を見ていて」
「その時温泉に行きたいって言ってただろ?長野の」
「そうだったわね。お蕎麦でも食べながら」
「だからだよ。蕎麦と酒を楽しくやりながらな」
酒を飲みながら楽しげに話してきた。
「それだといいだろ」
「ええ、わかったわ」
とりあえずといった感じで夫の言葉に頷いた。
「それじゃあ。二人でね」
「行くか。その時に」
今度はおかずを食べていた。普通の鮭のムニエルだがそれもかなり美味しそうに食べていた。まるでこれ以上はない御馳走のように。
「二人でな」
「そうね。二人で」
また二人で言い合った。二人という言葉を夫も妻も言うのだった。
「行きましょう。それでね」
「ああ」
「これからもね」
自分の方からこれからと言う妻だった。
「行きましょう。二人で」
「一人で行っても面白くないだろうな」
「そうね。二人だと面白くないわ」
話しているうちにそれがどうしてか何処となくわかってきたのだった。どうして一人で食べても旅をしてもそれ程ではないのか。それがわかってきたのだ。
それがわかってくるともうこれまで考えていることが馬鹿馬鹿しくなった。自分でも馬鹿なことをずっと考えていたものだと思った・
そして言うのだった。夫に対して。
「四十年が終わったら」
「それが終わったら?」
「それで終わりじゃないわよね」
夫の目を見ながら話す。
「四十年で終わりじゃ」
「それからもか」
「四十年の後は五十年」
所謂金婚式である。ここまで辿り着ける夫婦はどうしても少なくなる。
「そして六十年ね」
「そうだな。六十年よりも先もな」
夫も妻の話に乗った。そのうえで話す。
「一緒にいるか」
(定年とかそういうのはもう)
また頭の中で考えるのだった。自分がこれまで考えていたことに対して。
(本当につまらない。馬鹿なことね)
それで離婚しようなどという考えがどれだけ詰まらない、浅はかで自分勝手な考えであるのかがわかったのだった。夫は自分とは全く違うことを、もっと素晴らしいことを考えていたことに気付いて。
(だからもう。こんな考えは)
捨てることにした。今そのことを左手に持っている茶碗を見ながら決めた。
「二人でずっとここにいましょう」
「ああ」
二人で笑顔で言い合う。こうして妻は離婚をその考えから消した。そうしてその左手に持っている夫婦茶碗でまた御飯を食べるのであった。これからも今と同じように二人で美味い飯を食べようと思いながら。
夫婦茶碗 完
2009・3・2
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