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駆け落ち

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第一章


第一章

                   駆け落ち
 来るかどうかわからない。内心ではそうだった。
「本当に来るのかしら」
 田舎の駅の前で井出愛美は心配になっていた。ベンチに座っていても心配でならなかった。木造のベンチは古く座るだけできしむような音が聞こえてくる。彼女はその中で憂いに満ちた顔を見せていた。
 見れば二十歳にもなっていない。ようやく女学院を出たばかりであろうか。幼さの残るその顔には右目の上にほくろがある。それが少し気になるが奇麗な顔をしていた。
 服は都会風にしているがそれでも何処か田舎臭い。そうした相反するものを同時に抱えている彼女はそのままベンチに座って待っているのだった。
「もうすぐだけれど」
 電車の時刻表と自分の腕時計を見比べながら呟く。もうすぐ電車が来る時間だった。
「まだ。来ないのかしら」
「来ないわ」
 ここで不意に声が聞こえてきた。
「来る筈がないじゃない」
「どうしてそう言えるの?」
「わかるのよ」
 声は笑っていた。ねっとりとした身体にまとわり付くような声だった。その声で愛美に囁きかけてきていた。その耳元でそっと、という感じで。
「私には。わかるのよ」
「何がわかるの?」
「決まってるじゃない」
 また愛美に対して囁く。
「彼はよ。来ないわ」
「彼が。来ない」
「そうよ。来ないわ」
 声が笑ってきていた。嘲るような笑いだった。
「絶対にね。来ないのよ」
「あの人は。来ない」
「だって。立場があるじゃない」
 耳元で囁く言葉がさらに強くなった。
「立場が。そうでしょ?」
「立場が」
「考えてみなさい。あの人は大地主の息子さんよ」
 声が言う立場とはまずこれだった。
「長男さんじゃないけれどそれでも」
「それは」
「しかもよ。帝国大学を出てるじゃない」
「ええ」
 そうなのだった。愛美が待っている相手はそんな相手だったのだ。大地主で帝国大学を優秀な成績で出ている。この時ではかなりの立場にいることがわかる。
「そうよ。立派な方よね」
「ええ、立派だわ」
 このことは自分でもはっきりわかっていた。
「とてもね。それに」
「お父様は大地主だけじゃなく政治家」
 これもこの時代はよくあることだった。
「元々は大きな藩の家老さんの家で今じゃ大地主。それで政治家」
「立派な家だわ」
「貴女とは大違い」
 笑った声は今度は彼女自身に囁きかけてきた。
「普通の農家の家の娘で尋常学校を出てしかいない貴女とはね」
「私は」
「学校には行っていないわね」
「ええ」
 当時ではこれが普通だった。尋常学校、今の小学校を卒業してすぐに働く。農家ではとりわけそうだった。それは愛美もまた同じで学校を出てする家の仕事を手伝っていたのだ。
「畑に出ていたわよね」
「そうよ」
 また頷く愛美だった。
「名前だけは立派だけれどね」
「これは」
「名前はどうでもいいのよ」
 愛美の名前は一笑に伏せてみせた。
「それはね。貴女の名前はいいのよ」
「名前はいいの」
「大事なのは貴女」
 彼女の心深くに突き刺さるようにして囁いてみせてきた。
「貴女なのよ。貴女自身が」
「私自身・・・・・・」
「その通りよ」
 囁きは続く。
「貴女は。ただの農家の娘」
 このことを再び愛美に囁く。
「尋常学校を出ただけ。それに」
「それに」
「顔だって普通」
 今度は顔についても話す。
「顔だってね。普通だわね」
「私の顔は・・・・・・」
「それに対してあの方は」
 見計らったようにまた話を変えてきた。
「どうなのかしら。お顔だって立派で」
「それはそうだけれど」
「背も高くて。そうよね」
「・・・・・・その通りよ」
 このことも認めるしかなかった。頷きはしなかったが声にそれは出ていた。
「おまけに。文才もおありで」
「東京におられた頃は詩に小説で有名で」
「天才とまで言われていたわ」
「もう雑誌で引っ張りだこ」
 こうまで言われる。
「お役人にも顔が利いてね。いいことばかりよね」
「私と違って」
「お人柄も立派で」
 囁きはなおも続く。
 
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