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夏の湖

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第二章


第二章

「口は上手いのはあの時から変わらないわね」
「そんなつもりはないけれどな」
 見れば夫も少し笑っていた。
「本当のことを言っただけのつもりだが」
「それが上手いって言うのよ」
 今度は妻が苦笑いになった。そうして夫に対して言うのだった。
「お世辞はね。嘘でも本当でもいいのよ」
「そうだったのか」
「そうよ。わかってると思っていたのに」
「知らなかったな」
 とぼけているのか本気なのか。少なくとも彼はこう言うだけだった。
「そんなことは」
「そう。けれどね」
 妻はやはり湖と夫の顔を見ながら言葉を続ける。まるでどちらも同じものであるように。
「あの時はそれであなたが好きになったのよ」
「俺は口で得をしたのだな」
「そういうことね。そして私も」
「御前もか」
「あの時。正直迷ったのよ」
 彼女にとってははじめての告白であった。実は今までこのことは夫に対しても言ってはいなかったのである。ところが今こうして言うのだ。内心では勇気がいるものだったがそれでも二人きりでありその相手だからこそはっきりと言ったのであった。
「どうしようかしらって」
「俺と結婚するかどうかか」
「その時あなた言ったじゃない」
 穏やかな微笑みで今度は夫だけを見た。そうして言う言葉は。
「御前と一緒にこの湖を一緒に見ていたいって。覚えているかしら」
「今思い出した」
 台詞が少しキザになっていた。実は彼は元々キザなのだがここでは特にそうなっていた。これは妻の前で格好よく見せる為の演出でもあった。
「御前の言葉でな」
「それは嘘よね」
 嘘なのは妻にもわかった。
「ずっと覚えていたわよね、これは」
「さてな」
 こうした場合の常でとぼけた。これも計算のうちであった。
「知らんな」
「そうなの。知らないの」
「全くな。何のことか」
「そうやって大切なことはいつもとぼけて」
 咎める口調だが決して悪い気はしていない。むしろそんな夫の反応を見て楽しむ顔になっていた。それは向こうにもわかっているがそれでも構わなかった。
「ずるいんだから」
「男は皆そうだ」
 夫はそう答えて笑った。
「ずるい。特に女房ができてからな」
「最初からでしょ」
 またその言葉に突っ込みを入れる。
「ずるいのは。違うかしら」
「それは自覚している」
 今度は素直になる。だがこれも計算のうちである。
「自覚しているが。それでも」
「それでも?」
「なおす気はない」
「別にそれでもいいわ」
 妻はそれでもいいとあえて述べてみせる。わかっているから、と顔で言いながら。
「別にね。だってあなたずるいふりをしているだけだし」
「本当だが」
「そのわりに浮気も大事なところでの嘘もなかったわよね」
 夫はこれまで浮気をしたことがない。ずっと妻だけだった。妻はそれが嬉しかったのだ。少なくとも自分だけを見ていてくれているからだ。
「だからいいわ。大切な時には正直だったから」
「それでいいのか」
「人間嘘は必要よ」
 彼女なりの人生を学んだうえでの言葉であった。人間は時として嘘も必要になる。しかしそれは信頼を冒涜するような嘘ではなく相手を傷つける嘘でもあってはならない。それがわかっていないならばその嘘は必ず露見して己にふりかかる。嘘は難しいものなのだ。
「けれど。私を裏切る嘘じゃなかったから」
「いいんだな」
「いいわ。許してあげる」
「じゃあ俺も許そう」
 夫はそれを受けて妻に対して言葉を返した。
「御前の嘘もな」
「有り難う」
 妻は夫のその言葉を受けて微笑んだ。微笑みながら湖に顔をやるのだった。彼女も浮気はしたことはないがそれでも夫に嘘をついたことがある。それを今許すというのだ。これもまた信頼を傷つける嘘ではなかったからこそであった。
「そう思うと。私達今まで上手くやってこれたわね」
「そうだな」
 これに関しては夫も妻も同じ考えであった。
「色々あったが」
「子供達もできて」
「暫くここに来ることすらできなかった」
「けれどそれもできるようになったわ」
 妻は今度は完全に湖を見て微笑んでいた。
「毎年。ここに来たいわ」
「二人でか」
「勿論よ」
 答えは決まっていた。
「あの頃みたいにね」
「あの頃の俺じゃなくてもか」
「それでもいいわ」
 それはもうわかっていることだった。だから返事にも迷いがなかった。
 
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