ゾンビの世界は意外に余裕だった
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18話、丘陵の手前で(後編)
「お久しぶりです、斉藤さん。お元気そうで何よりです」
別荘地グループの代表である高橋さんが満面の笑みを浮かべて俺に手を差し出した。もちろん俺も笑顔で握手を交わす。
「高橋さんもご無事で何よりです」
高橋さんの顔色は研究所で会った時に比べてかなり悪くなったと感じる。白髪も増えたように見えるし相当疲れているのだろう。
一方、俺はそんなに変わっていない。好きな物を食って好きなだけ寝ている俺の外見は、内に秘めた気苦労を隠しきるほど元気に見えているはずだ。
「磯部さん。皆に丘の上で待つよう伝えて下さい」
車を盾にして銃口を俺達に向けていた人達が、高橋さんの指示に従って次々と車に乗り込み、丘の上に引き下がった。
残ったのは代表の高橋さん、リーダーの磯部さんと高市さんの三人。そして車一台だけだ。
「急にやって来て申し訳ありません」
「いえ、私のほうこそ遅くなって申し訳ありません。ちょうど物資の調達に出ていたのです」
黒いズボンにワイシャツ姿の高橋さんはしきりに頭を下げて謝ってくれた。高市さんは高橋さんの低姿勢に不満そうだ。腕を組んでこちらを睨む目が鋭く光っているように見える。
「こちらが勝手に押しかけただけですから。北原君は元気ですか?」
「ええ。彼は元気です。今は外出していますが帰ったら斉藤さんが心配していたと伝えましょう」
「彼が無事なら結構ですよ」
それから俺と高橋さんはしばらく世間話をしながら腹の中を探りあった。
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」
「今日来たのは高橋さん達と私達のグループできちんと境界を定め、連絡手段を確立してはどうかという提案をするためです」
「連絡手段を持つというのはこちらも望むところです。しかし、その、境界とはどういうことでしょうか?」
「私達のグループは安全確保のため、林道などに武装した監視チームを置くことを決めたのです。そこで交流のある高橋さんのグループと事前に境界を定め、お互いの活動地域を分けておけば、不測の事態を避けられると判断しました。どう思われますか?」
「なるほど、確かに感染者がうろついている状況では、武力衝突の危険は常につきまといますね。幸い我々は西側をほとんど利用してませんし、境界の位置次第ですぐに同意できると思います。ただし、斉藤さんの求めている境界が別荘地帯全体との境界というになりますと、我々の一存だけで決められる話ではなくなります」
「といいますと?」
「実は……別荘地は我々のグループだけの物ではないのです」
高橋さんが別荘地帯の大まかな勢力図を説明してくれた。まず物資豊富な家族単位や友達単位の小グループが五つ。彼らは今のところ引き込もっているそうだ。
次に十五人ほどの中規模グループが一つ。ここは高橋さんのグループと非常に友好的みたいだが、複雑な人間関係のせいで合流出来ないらしい。
最後に高橋グループを忘れずに加えると、別荘地に本拠地を置くグループは大小七つになる。
さらに別荘地の東の県営保養所本拠地にしているグループが、別荘地の住人の一部を仲間に加えているので時々見回りにくるらしい。このグループは高橋さんのグループに匹敵する規模なので、境界を定めるなら同意を取っておきたいとのこと。
かなり面倒そうだ。大日本共和国の危機なんだからせめて同じ別荘地に住んでいる住人は、一つのグループで頑張れよと言いたくなる。
「なるほど。協定を結べないならこちらで勝手に線引きすれば良いだけですね」
まあ高橋グループとだけ協定を結んでも良いが、それはそれで高橋グループと他グループとの関係を悪化させてしまうかもしれないので、俺が泣きながら泥を被ろう。
「お待ち下さい。いずれのグループとも私達は良好の関係を築いています。説得する時間を下さい」
研究所に一番厳しい視線を向けてきた高市さんが、境界を定めることに乗り気のようだ。これはアンドロイド達が突撃銃で武装しているおかげかもしれない。
さて、高市さんの申し出にどう答えるか。
今まで高橋グループのトップしか研究所の存在を知らなかったにせよ、今は何十人もの高橋グループ構成員が、西側のどこかに隣人がいることを知っている。
しかも交渉で境界を決めても勝手に線を引いても、研究所のことは他グループにいずれ知れ渡ることは変わらない。
さらに高橋グループに食糧を分けたことまでバレたら、かなり面倒が起きそうで嫌な予感がする。
やはり俺としてもお互い納得の上で境界を定めておくメリットは大きいようだ。気前が良い上に話せば分かると思わせておけば、高橋グループも良き隣人として俺達の防波堤になるだろう。
研究所からの略奪を望む人達が別荘地やその周辺で主流になる可能性も低下させられるかもしれない。少なくとも研究所の要塞化の時間は稼げるはずだ。
覚悟を決めた俺はニンジンを高橋グループの鼻面にぶら下げて面倒を押し付けることにした。
「分かりました。高橋さん達には別荘地の取りまとめをお任せします。それと境界が決まったら差し上げようと思って僅かですが食糧を持ってきています。これを他グループとの交渉の材料にして下さい」
「食糧ですと! いや、少しでも何でもあればあるほど助かります。何時も申し訳ありません」
境界を決めたらという条件が聞こえなかったようだ。俺が苦笑いを浮かべたら高市さんが気を利かせてくれた。
「高橋さん。斉藤さんは境界が決まったらとおっしゃっています。他のグループを説得する前に、どこを境界にしたいかをきちんと聞くべきではないでしょうか?」
「高市さんのおっしゃる通りですね。斉藤さん達はどこを境界にしたいと考えているのですか?」
「あの丘ではどうでしょうか?」
俺は駄目でもともとの精神で真ん中の丘を指差した。別荘地が少し見えるけど、無人で放置されていたから文句なしの可能性もある……
「斉藤さんのグループからは食糧と診察でお世話になっていますから極力協力したいのは山々ですが……」
高橋さんが渋った様子を見せる。押し切れそうな雰囲気を感じたが、高市さんがすかさず「あの丘から別荘地の一部が見えてしまいます」と抗議した。
高橋、高市ペアはかなり良いコンビなのかもしれない。
「分かりました。境界は真ん中の丘の西斜面と平地の境にしましょう。私達はその奥の丘陵を拠点にします。真ん中の丘はそちらにお任せしますよ。その代わりと言ってはなんですが、南にある林道は県道に繋がっているだけなので我々の自由にさせて欲しいですね」
別荘地組は自分達だけ相談させて欲しいと言って俺にことわり、車の陰に隠れてひそひそ話をしている。
「…………先に頂けるという食糧を見せて貰ってもよろしいですか?」
「ええ。構いませんよ」
クール車に積んである食糧の現物を見せたら三人共黙ってしまった。特に磯部さんはあからさまに物欲しそうな顔をしている。相変わらず高橋グループは食糧不足のようだ。
「これは今すぐ持って帰って頂いて構いません。妥結しなくても弁当の方は返せと言いません。それに境界が決まれば、今回用意した食糧と同じ量をもう一度提供しましょう」
以後の話はとんとん拍子に進んだ。そして高橋さん等三人はクール車を連れて別荘に引き上げ、他グループとの交渉に向かうことになる。
俺はここでお留守番だ。すぐに妥結すらなら良し、説得に時間がかかりそうなら日をあらためるつもりだ。
それにしても今日二度目の暇な時間がやってきた。しかも、今度は誰も近くにいなくて暇つぶしも出来ない。高橋グループの監視役でさえ丘の上に居る。
もうコーヒーも飲み飽きたしお花畑やら芝刈りに行くのも飽きた。
仕方ない。丘の上の連中からはパッと見でゾンビの行動に見えるかもしれないが、ひたすら車の周りで早歩きをして時間を潰すことにする。
しかもこれが運動不足解消に役立つ上に意外と楽しい。
そうこうするうちに辺りがだんだん暗くなってきた。そして、ようやく丘の上にヘッドライトを点灯させた車が数台姿を見せる。
冷蔵車もいるので間違いないなく高橋さんが来たのだろう。
薄暗くなった道を高橋さんと高市さん、磯部さんが作業服を着た新顔を連れて近づいてきた。
「お借りしたクール車をお返しします。食糧はどのグループにも喜ばれました」
「それは良かった。キャリー、車両の回収を頼む。ところでそちらは県営保養所のグループリーダーの方ですか?」
俺は予想の一つをぶつけてみる。次の予想は高橋グループの副代表だ。
「いえ、こちらは十五人ほどのグループを代表する西川さんです」
高橋さんにあっさりと勘が外れたことを知らされた。
「斉藤さんですね。はじめまして、西川と申します」
「はじめまして」
渋い声で挨拶した西川さんは五十歳で歯科医とのこと。痩せ顔で髪の毛の七割が白髪だ。
「それで高橋さん。首尾はどうなりましたか」
「概ね成功です。県営保養所グループと各小グループは食糧提供と聞いてすぐに同意してくれました。ただ県営保養所の方はいつでも良いので斉藤さんと情報交換をしたいそうです」
「構いませんよ」
「それからこちらの西川さんのグループも条件付きで同意してくれています。ただ、医薬品の提供について斉藤さんと直接交渉したいと仰るので同行して貰いました」
「医療品ですか?」
「糖尿病の薬があれば分けて頂きたいのです。重度の患者が三名いますのでどうかお願いします」
西川さんの醸し出す雰囲気は山田所長と似ている。人を動かすながうまい人なのだろう。
「糖尿病ですか。少しお待ちを」
俺は別荘組から一旦離れてキャリーに在庫を確認した。結論を言えば有り余っている。
「境界を結ぶ協定に同意していただけるなら、三人に一ヶ月分づつ提供しましょう。それ以上必要でこちらに在庫がある場合は別の対価でお譲りします」
「助かります。もちろん、境界については異存ありません」
「高橋さん。西川さんも納得してくれたようですし、正式な境界を決めましょう」
「分かりました」
俺達は車のヘッドライトの当たる場所に地図を広げ、別荘地との境界を確認していく。大体は試案通りになった。まず南北に縦断する三つの丘陵の真ん中を利用することで合意する。
真ん中の丘陵の頂上を別荘地の物とする一方、境界をその西斜面と平地の境に設けた。
真ん中の丘陵はここから若干南東に向かうが、そのまま境界にすることでも合意した。 また別荘地が利用出来ない南部の林道は、要求通り研究所側で占有できるようになった。
南部の林道は真ん中の丘陵の手前で県道に接続するので、分かりやすい境界と言えるだろう。
「少しよろしいですか?」
黙って佇んでいた西川さんが何かを思い出したように口を挟んだ。交渉妥結間近で流石に安心した様子になっていた高市さんがかなり嫌そうな顔になる。俺も面倒事じゃないかと警戒気味に「どうぞ」と告げる。
「南側の林道は県道側の入り口近くの牧場主が封鎖していますので利用できませんよ」
「牧場主ですか?」
「ええ。私は一度あそこに食糧を物色しに行ったのですが、銃で武装した牧場一家に二度と近づかないよう誓わされました。まあ、食糧自体はまだ余っているから持っていけと言ってくれたので、悪い人間ではないようですが気を付けて下さい」
「ご忠告ありがとうございます。貴重な情報です。では高橋さん。他に問題ないようですし、交渉成立でよろしいですね」
「ええ。よろしくお願いします」
俺は高橋さんと西川さんと握手を交わした。向こうは食糧や医薬品の提供で大喜び、こっちも境界の位置で目論見通りになりホクホク顔だ。
「私は明日の朝、北側の舗装されていない林道の境界を確認しに行きます。その際、残りの食糧と医薬品を引き渡します。もし県営保養所の方が来れるなら会いますよ」
俺は明日の予定を知らせた。
「正確な来訪時間は決まってますか」
「朝七時から八時の間の予定です」
「分かりました。県営保養所グループには声をかけてみます。それから明日は私も新しい境界の手前でお待しています」
高橋さんも来るなら、会合相手を朝から豪華な食事にするか。境界が決まって口が軽くなるかもしれないから、情報収集するのも有りかもしれない。
最後に連絡手段のことを思い出した俺達は、この林道の境界に白旗を持って立つというアナログ方式で合意して別れた。
もう辺りはすっかり暗くなっている。俺はアンドロイド達に研究所への帰還を命じた。
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