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Fate/insanity banquet

作者:
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Second day

「う……ん」
 目覚めの悪い朝だと、士郎は思った。今まで見ていた夢のせいなのか、少し気分が悪い。折角今日は休日だというのに、目覚めが悪いというのは辛いものだ。生々しい夢での描写を、目が覚めた今でも覚えている。鉄臭い中に倒れていたあの少年は、一体誰なのか。そして、少年を殺した誰かの存在。一番不思議なのは、殺されることに疑問も持っていなかった少年の心境だ。まるで、自分が殺されることが分かっていたかのようだった。
「というか、あれは誰なんだろう」
 過去の記憶だということは、なんとなく分かっていた。服装から、かなり昔の記憶であり、日本ではない場所での記憶だということも推測できる。英霊の記憶なのだろうか、と考えるがこの冬木に新しい英霊の存在なんて聞いていないし、そうなると考えられるのは。
「クロ?」
 自分の布団の上で丸くなっている子猫を見る。確かに、いつもと違うものと言えばこの子猫しかいない。
「気にはなるけど……」
 所詮は夢だ。そして、ここに居るのもただの一匹の子猫だ。また何かが始まってしまうのでは、という不安に駆られてしまったが、心配し過ぎなのかもしれない。ここには、セイバー、ライダー、アーチャーの三人の信頼できるサーヴァントたちがいる。そして、凛、あの戦いから成長できた自分もいる。きっと何があったとしても、大丈夫だ。
「クロー朝だぞ」
 つんつんと突っつくと、クロは尻尾を揺らす。ゆっくりと瞼を開け、金の瞳を士郎に向ける。
「おはよう、クロ」
 士郎が声を掛けると、クロはみーと鳴く。そして、ぴょんと跳ねると、士郎の胸元に飛び込んでくる。
「わっ……。びっくりさせるなよ」
 すりすりと顔を摺り寄せる仕種は、やはり可愛い。ペットを飼う人間の気持ちが、結構分かるかもしれない。こんなにも自分に懐いてくれると、ものすごく甘やかしたくなる。クロを撫でていると、いつの間にか金の瞳が自分を真っ直ぐに射抜いている、そんな気がした。何かを伝えようとして、自分を見ているのではないかと感じ、じっと見つめ合う。
 と、次の瞬間。
「衛宮士郎! いつまで寝ているつもりだ。今日は、朝九時からスーパーの日曜特売の日だろう!」
「シロウ、今日の特売は豚バラ肉だと、アーチャーから聞きました。今日の夕飯は、豚の生姜焼きを所望します!」
 ぴしりと音を立てて開けられた襖から、セイバーとアーチャーが顔を覗かせる。ちなみに、アーチャーはなぜだかエプロンをしている。地味に似合っているのは、やはり彼は自分なんだなと思ってしまうところである。
「すぐ支度するから、待っててくれ」
 そう言って部屋の時計を見ると、時刻は八時二十分。どうやらかなり寝坊してしまったようだ。士郎の焦りに気が付いたのか、クロは甘えるのをやめて、廊下へと出ていった。士郎はいつもの服をタンスから出し、着替え始めた。

「手袋してきた方が良かったかもな」
 商店街を歩きながら、士郎はぽつりと呟く。冬木が温暖な気候とはいえ、真冬のこの時期はさすがに寒い。
「その肩に乗っている猫を抱えればいいのではないか」
 横に立つアーチャーがそう言う。ちなみにアーチャーはもちろん私服の黒いシャツである。仲がいいとは言えない二人が一緒に出掛けているのは、お一人様二パックまでの豚バラ肉を買うためだ。
「クロが、肩の方がいいらしいんだよ」
 士郎の右肩でくつろいでいるクロ。そこから引っぺがすのも可哀想なため、士郎は冷たくなった指先に息を吹きかける。
「桜が実家に戻ってるのは知ってるけど、遠坂は何してるか知ってるのか?」
 どうせならこの買い物で出来るだけ多くの肉をゲットするために彼女にも手伝ってもらいたかった、と士郎は思っていた。衛宮家の食料の無くなり具合は凄まじい勢いなのだ。いや、冗談抜きで。
「あぁ、凛か。うむ……」
 アーチャーは歯切れの悪い声を漏らす。その反応で、彼女がまたよからぬことでもやらかしているのではないか、と勘ぐってしまうのは自分のせいではないと思う。
「まぁ、夕飯までには帰ってくるだろうから、心配は無いか」
「あぁ、大丈夫なはずだ」
 アーチャーの強張った表情を見て、一体凛が何をしているのか恐ろしくなった。と、士郎は彼との会話に集中していて、前から来た影に気が付かずにぶつかってしまった。僅かに感じた衝撃で自分が、まだ小さい子供と接触したのだと分かる。
「あ、すみません!」
 士郎が見下ろした先に立っているのは、小さい少年だった。小学校の低学年くらいの身長であり、ゆるくウェーブのかかった茶色の髪と、空を映したような青の瞳を持っている。赤の半ズボンに白のシャツ、そして青のリボンタイを着ている姿は、まるで貴族のようだと士郎は感じた。
「大丈夫だよ。君こそ、怪我無い?」
 士郎が話しかけると、こくりと頷く。
「僕なら平気です。あ……の、それじゃあ」
 少年は慌ただしくパタパタと駆けて行ってしまう。
「何か、遠坂に似てた気がする」
 駆けて言った少年を見て、士郎はぽつりと言葉を漏らす。それを聞き、ぎょっとしたようにアーチャーが士郎を見た。
「衛宮士郎、お前の目は大丈夫か?」
「なっ、どういう意味だよ!」
 アーチャーは咳払いをして、自分の主人を思い浮かべながら語り始める。
「よくよく考えてみろ。先ほどの少年、大人しく、どことなく優雅な雰囲気を持っていた。凛とは全く比べ物にならないくらい、いい子だっただろう。似ているなどというのは、彼に失礼だ」
 真顔で言うアーチャーを見て、ここにはいない赤い悪魔の存在を思い出す。
「お前、遠坂にそれ聞かれたら殺されるぞ……」
 そう言ってまたスーパーに向かおうとした時、地面にきらりと光りを放つ赤い石が落ちてるのを見つけた。
「あ、これ。さっきの子の落としもの?」
 士郎が拾い上げようとすると、彼の肩からクロが降り、そ石をくわえる。そして、先ほど少年が立ち去った方向へ弾丸のように飛び出していった。
「クロ!」
 士郎が呼び止めるが、お構いなしに走っていく。
「悪い、買い物頼んだ!」
 このままではいけないと思い、財布の入ったお買い物かごをアーチャーに押し付け、士郎はクロを追って走り出した。
「おい、衛宮士郎!」
 アーチャーが呼び止める声は届かず、士郎の姿は人ごみに掻き消えていってしまう。一人残されたアーチャーは、大きくため息を吐き出した。
「何のために、貴様に付き合ってここまで来たと思っている。豚バラ肉を二人で四パック買うためだろう……」
 落胆して肩を落としたアーチャーは、近くにある公衆電話を見つけ、どうせ家でごろごろしているセイバーに来るように言ってやろうかと思った。

 駆け出していったクロは、数分のうちに先ほどの少年を見つけていた。公園の入り口で立ち止まり、自分の服のポケットを何度も調べている彼の前に姿を現した。
「あ、猫さん」
 クロの存在に気が付き、しゃがんで目線を合わせる。クロは咥えていた石を彼の前に転がした。
「あ、僕が落とした……もしかして、僕に返しに来てくれたんですか?」
 クロは自慢げに、にゃおんと一鳴きする。少年は石を受け取ると顔を輝かせた。
「ありがとう。すごく大事なものだったんだ」
 感謝の思いを込めてよしよしとクロの頭を撫でていると、息を切らした士郎が現れた。
「やっと追いついた……」
 少年は先ほどぶつかった相手が再び現れたことに、少し驚いているようだった。
「クロ、いきなり走り出さなくても良かったのに」
 クロは士郎の足元に行き、かりかりとズボンのすそを引っかいた。はいはいと返事をしながら、士郎はクロを抱き上げる。
「また、会ったね」
 士郎が笑顔で語り掛けると、少年も表情を緩める。
「はい」
 これも何かの縁、名前でも聞こうかとした時だった。
「発見した」
 感情を含まない声だ。それが自分たちに向けて発せられたものだと気が付き、士郎は周りに目を向ける。
「誰だ……って、セイバー?!」
 公園のベンチに立っている少女は、黒い戦闘服を纏っているセイバーそのものだ。
 ――違う。あれは、黒くなったセイバー。でも、どうしてここにいるんだ? 大体、どういう原理で動いてるんだ?
 士郎の頭の中にクエスチョンマークが立ち並ぶ中、黒いセイバーは剣を彼らに向ける。
「わが主からの命。再び生まれし魂を、殲滅する」
 彼女の振り下ろした黒の剣。そこから溢れる負のオーラが、士郎たち目掛けて放たれた。
 咄嗟に士郎は少年を庇い、抱きとめた。あの聖剣から放たれた一撃を前にして、とりあえず避けみれば良かったとか、令呪を使って本物のセイバーを呼び出せばよかったとか、行動をした後に公開するのは、人間の習性なのかもしれない。彼を庇ったところで、斬撃を生身で受けて二人とも無事でいられる訳がない。
あ、選択完全にミスった。
 衛宮士郎は、ここ一年で何度目かの死を覚悟した。
 だが、その決定的な瞬間はいつまでたっても訪れない。薄く目を開けると、自分たちの前に一匹の黒猫がいる。紛れもない、昨日自分の拾ってきたクロだ。漆黒の剣士から放たれた破壊の斬撃は、その黒猫の前で動きを止めていた。
「え……」
 思わず漏れた声は自分のものか、それとも少年のものか、はたまた黒セイバーのものだったのか。
 クロは、みゃおんと声を上げる。それを合図にしたように、黒の斬撃は跡形もなく消え去った。文字通り、消えたのである。初めからそんなものは、放たれていなかったように。クロはちらりと士郎を窺うが、すぐに目の前の黒セイバーに向き直る。クロの尻尾がくにゃりと揺れた。それに目を奪われた次の瞬間、士郎の前には先ほどまでいた可愛らしい黒猫ではなく。風になびく漆黒の髪の持ち主の背中だった。
「『吾輩は猫である。名前はまだ無い』っていうのは、夏目漱石の小説の冒頭だったね。前に一度読んだことがあるけれど、ボクはこの物語が好きだよ。人間を客観的に見ている猫が好きなんだ」
 ふふっという笑い声を漏らしながら言う。その柔らかいボーイソプラノは、士郎が聞き覚えのある声だった。だが、どこで聞いたものなのか思い出せない。
 突然の彼の登場に、黒セイバーも戸惑いの表情を顔に浮かべていた。ただでさえ自分の斬撃を目の前の彼に防がれたのだ。飄々としている彼の行動に、彼女は僅かに恐怖を感じていた。得体の知らないものに対する、未知の恐ろしさ。それを目の前に立つ少年は持っていた。彼女は、剣を構えながら少しだけ後ずさりをしていた。
「あぁ、まだ名乗っていなかったね。そうだな。ボクの事は、ソロモンとでも呼んでくれないか?」
 名前を告げ、彼はパチンと指を鳴らす。すると、彼の手元に彼の身長と同じくらいの長さの杖が現れる。彼がぐっと握りしめるその杖は装飾は無く、木を削っただけのシンプルなものだ。
「さぁ、ボクが相手になろう。闇に囚われし姫君」
 彼の相手になる、という言葉で黒セイバーは戦闘意識を取り戻したようだった。足に力を籠め、地を強く蹴る。彼は鎧も付けていない。武器となりそうなものは持っていない。杖を持っていることから、魔術師なのだろう。セイバーのクラスを持つ自分が、遅れを取る相手ではない。
 ――もらった。
 彼が切り裂かれた胸元から血をまき散らす、すぐ先の未来が分かる。剣を振り上げ、目の前の彼の胸元に振り下ろす。
 だが、その刃はもう一つの刃によって防がれる。
「何っ?!」
 先ほどまで彼の手に握られていた杖は、鋼鉄の刃を持つ剣へと形を変えていた。
「よっと」
 手を捻り剣を払う。彼が剣を振るおうとするのを見て、彼女は間合いをとるために飛んだ。
「錬金術、か……?」
 分子を集め再構成し、全く違う物質に作り替えることの出来る、かなり高い技術を必要とする術だ。
黒セイバーは、冷静に目の前の敵について考える。相手がいきなり現れ、無策で自分を迎え撃とうとしていると考えていたが、その認識は間違っていたのかもしれない。最初から、自分の襲撃を予測していた? この場所には、この魔術師が戦いやすいように様々な術が施されている? 憶測に過ぎないが、もしそうだとすれば単騎の自分は不利なのかもしれない。
――主は、不利と思ったら退却を許すとおっしゃっていた。この状況を不利と取るか……。
自分の相手は、変わらず笑みを見せている。それが、不敵なものだと思ってしまうほど、黒セイバーは得体のしれないこの魔術師に圧倒されていた。
「……」
 無言で彼を睨みつけると、黒セイバーは剣を収める。
「また、必ずその命を消し去るために参る」
 彼女の姿は黒い光の粒となり、空気に溶けるように消えていく。彼女が霊体化してこの場から去った、ということが分かった。
 士郎がほっと息をつき、少年を抱きしめていた手を離す。今まで黒セイバーと対峙していた彼は、へたりと地面に座り込む。
「あぁよかった。相手が勝手に勘違いして帰ってくれて。フォルネウスの力のおかげかな。耐魔力の強いセイバー相手に効くか心配だったけど、大丈夫だったし」
 大きく息を吐き出して、独り言をいう彼の前に士郎は立つ。正面から彼の顔を見て、どきりとする。世界史の教科書に載っていそうな彫刻に、命を吹き込んだように整った顔立ちをしている。彼の美貌に見惚れていると、はっと気が付く。彼は、あの黒猫から姿を現したのだと。
「助けてくれて、ありがとう。えっと、君は……」
「たくさん君と話したいことはあるんだけど、この姿はあまり持ちそうにないんだ」
 眉を下げて申し訳なさそうな顔を見せる。彼は立ち上がり、士郎を真っ直ぐ見つめる。士郎よりも大きい背は、彼を見下ろすような形になった。
「魔力をもう少し回復できれば、色々と話せると思うから、猫のクロを頼んでもいいかな」
 彼の言い方は提案の形をしていたが、その声音は有無を言わせぬ力強さがあった。士郎は彼の金色の瞳を見つめ返す。自分の心の中に生まれた一つの確信。
 彼は敵ではない。
 それが浮かんだだけで、士郎が彼に返す言葉は決まっていた。
「あぁ、分かった」
 士郎の強い瞳を見ると、彼は安心した顔を見せた。
「ありがとう。ボクも、クロも、君のことが大好きだよ」
 そう言うと、彼は士郎の髪をかき上げ、その額に唇を落とす。
「はっ……?!」
 考えもしなかった彼の行動に、士郎は顔を赤くする。それに相対するように、彼は不思議そうにしている。何か問題のあることでもしましたか? と彼の顔には書いている気がする。
 そして、彼は士郎の後ろの少年に気が付くと、少年の目線に合わせて腰をかがめた。
「それと、君」
「は、はい」
 恐らく今、目の前で起こったことの整理もついていない少年は、その丸い瞳を不安げに揺らしながら、彼を見る。
 彼は少年の頭に手を置き、優しく声を掛ける。
「選択の時は恐らく、今だと思うよ。どうか迷わないで」
 彼の言葉に、少年は目を見開く。そして、先ほどクロから渡された石を持つ右手をぐっと握りしめる。そして、小さな声で「はい」と答えた。それを見ると、彼は満足そうに笑みを浮かべ、もう一度士郎に向き直る。視線が合わさったと思った時には、彼の姿はもう無く、黒の子猫の姿があった。
「クロ……」
 名前を呼ぶと、背を向けていたクロは振り返る。そして、士郎の姿を見つけると、彼の足元に擦り寄る。それが、抱き抱えて欲しいというサインだということは学んだため、抱き上げてやる。
 暖かいクロを抱いて、少し冷静になる。さて、どうするかと考える。クロとさっきのソロモンと名乗った彼の関係は、まだ保留にしていてもいいかもしれない。次に気になるのはというと。
「あの」
 そう、こちらの少年だ。不安げに青の瞳を揺らしている彼は、先程襲って来た黒セイバーの標的だったようだし、放っておくわけにはいかない。
「俺は、衛宮士郎。名前、まだ聞いてなかったよね」
 なるべく緊張を解けるように、優しく声を掛けた。
「時臣と言います」
 ときおみ、と彼の名前を繰り返す。初めて聞いたような気がしないのは、自分の勘違いなのだろうか。
「なんか、いきなり襲われてびっくりしてると思うけど……」
 彼の顔をよく見ると、青白くなっている。そりゃ、あんな現実離れしたものを見せられたら、普通驚く。血の気も引くと思う。大人でもそうなりそうなのに、彼はまだ子供なのだ。彼はそれでもしっかりとした声で話す。
「驚いてます。でも、ああいうの何だか初めてじゃない気がして。それと、さっきの方も言ってましたけど、僕は選択をしなきゃいけないと思うんです」
「選択?」
 一体何を選択するというのか。彼の次の言葉を待つと、とんでもない一言が飛び出した。
「士郎さんの家に、住ませてもらえませんか?」
「え?」
 思考がフリーズ。言葉の意味を考える。家に住むって、どういうこと?
「僕は、親戚の家で生活をしているんです。叔母は僕が説得するので、お願いします」
「いや、ちょっと待って。何でそんな話が出て……」
 どっかの赤い悪魔がうちに居候を決めたことを思い出す。なんでこう、強引に話を進めたがる人間ばかり自分の周りに集まるのか。
「吾輩は、猫である!」
「ちょっとうるさい」
 思考がぐちゃぐちゃになりかけた時に聞こえた声に、間髪入れずに返事を返す。すると、次にむっとした声が聞こえた。
「クロは、士郎と時臣を守るようにって、あいつから言われたのである!」
「それはありがたいな……ん?」
 今、自分は何と話した? ここで会話が出来るのは、自分とその横にいる時臣だけのはずだ。じゃあ、一体誰と話しているんだ。答えは簡単だ。消去法で出るじゃないか。クロだ。
「ゴエイタイショウは、纏まっていた方が好都合なのだ!」
「ストップ、何でクロが喋ってるんだ? いや、いきなり人間になったりするから、なんでもありかもしれないけど!」
 自分の腕の中でふんぞり返っている子猫に向かってツッコミを入れる。話を中断された時臣は、士郎の腕に縋り付くようにして再び頼み出す。段々収集のつかないことになってるんじゃないのか、と士郎の脳裏によぎった時。
「あれ? 士郎、こんなとこで何してるの?」
 聞き慣れ過ぎた声。何でこのタイミングで来るんだろうか、と誰にでもなく問いかける。間違いなくこの赤い悪魔がここに現れたことで、話が更にややこしくなる。その確信だけが、士郎の中にあった。

 某、衛宮家の居候の赤い悪魔、遠坂凛は、すたすたと士郎の元に歩いてくる。
「公園のど真ん中で、本当に何してるの?」
 休日の昼間、男子高校生が小学生くらいの男の子と何やら揉めており、その手には黒猫。怪しい。実に怪しい光景だ。士郎もそのことは自覚しており、彼女になんと答えればいいのかと、戸惑う。
「あ、いや……」
 何と説明すればいいのだろうか。というか、どこから説明すればいいのだろうか。士郎が話を纏めようとしていると、彼と凛に挟まれるように立っていた時臣が行動を起こした。
「お願いします。僕には、あなたが必要なんです。見捨てないでくださいっ……」
 凛の出現で大人しくしていた時臣は、痺れを切らしたように士郎の腰に抱き付いたのだ。
「ちょっと待て、誤解を生みそうな発言は……」
 どこかの昼ドラでありそうなシーンを、自分とこの少年で再現するのは根本的に間違っている。その上、凛には先ほどから不信感の積もった視線を向けられている。
「士郎……あんた……」
 数歩下がって凛は、引き気味に言う。やはり、彼女が何か彼との関係で重大な勘違いをしているようだ。士郎は大きな身振りで否定する。
「遠坂、絶対に何か勘違いしてるから。お前が考えてるようなことは、起きてないから! 時臣君も、ちょっと黙ろう、うん」
 士郎が口にした、時臣という少年の名前。もちろんそれに大きく反応を見せたのは凛だった。
「え、時臣? あなた、時臣っていうの?!」
「は、はい」
 彼女の勢いに気圧される時臣。
「士郎に気を取られてて気づかなかったけど……」
 凛は自分の前の少年をじっくりと見る。そして、今は亡き自らの父のことを思い出す。自分の目標であった父と、どことなくこの少年は似ている。否、この少年は自分の父、遠坂時臣自身なのだと。彼女の勘がそう告げていた。
「お父様……」
 小さく呟く。彼の持つ青の瞳は、父と自分を繋ぐもの。それが懐かしくて、心を締め付けるようで。彼女の口から、それ以上の言葉は出ない。凛は、自分の手をきつく握りしめていた。
「遠坂、とりあえず、何があった説明してもいいか?」
 彼女が感傷に浸り、押し黙ったところで士郎が提案をする。そこで凛は、自分は彼らに何が起こったのか全く知らないことに気が付く。凛は頷き、士郎に説明を求める。
 そこで、士郎は商店街で時臣に出会ったこと、彼の落し物を届け、そこで黒いセイバーに襲われたこと、ある少年に助けられたことを、大雑把に説明していく。一通り話し終えた後、凛は大きくため息をついていた。
「大体、分かったわ。また、士郎がめんどくさそうなことに巻き込まれてることが」
 それだけじゃないと言いたかったが、八割はそれで片付いてしまう気がして士郎は口を噤んだ。話を聞いた上で疑問に残るのは、時臣の士郎の家に住まわせてほしいという願いだ。なぜ彼はそんなことを頼むのか、それは知らねばならないと考える。
「で、時臣君。あなたは、どうして士郎の家に住ませて欲しいって思ったの?」
 かつての父の名を呼び捨てにすることに少し戸惑いもあったもの、凛はさして気にせずに普通に呼ぶ。時臣は、一つ一つ噛みしめるように言葉を紡いでいく。
「両親を亡くした後、この石を形見として渡されました。そして、本当にたまになんですけど、この石の中に人影が映るんです」
 日の光が石の中を通り、赤が更に煌めいている。時臣は石を両手で包み込むようにして持つ。
「士郎さんは、そこで見たことがあるような気がして、もしかしたら助けてくれるかもって。さっき助けてくれた人は、迷っちゃだめだって言っていたから、なおさらそう思ってしまって。いきなり言われても迷惑ですよね。すみません」
 彼の言葉を聞いていた士郎は、気がかりなポイントを見つけて、尋ねる。
「助けてくれるって、何から?」
 彼が助けを必要としているのならば、自分は、彼を助けたいと思う。それはいつもの士郎の行動であるようで、少し違うものでもあった。誰かにその選択を選ぶように導かれているような。時臣は、先程の襲撃を思い出すのか、表情をわずかに歪めていた。
「さっきの女の人みたいな人たちです。ここ一カ月くらい、ずっとあんな風に知らない人たちが来て。その度に、なんとか逃げていたんです」
 一カ月。それほど長い間、一人で彼が先ほどの黒セイバーのようなサーヴァントから逃げ続けていた。それを考えると、とても過酷だったのだろう。守ってあげたい。そう思ったのは、士郎だけではなく凛も然りである。
「確実に守ってあげられるかは分からない。でも、俺が助けになれるなら、君の助けになりたい」
 士郎はそう言うと、笑顔で彼に手を差し出す。時臣は、その手を取ろうか迷っていたが、士郎の表情を見ると、自分の手をそこに重ねる。
 そうやって話が進んでいく中、三人の話をじっと聞いていたあるものが動き出した。
「とりあえず、吾輩の話も聞くのである!!」
 士郎の腕からぴょんと抜け出すと、地面に降り立ち凛たちを見上げるクロ。なにやら不服そうな表情に見える
「へっ? クロが喋った?!」
 先ほど言葉を発した時にはいなかった凛は、もちろん驚いた反応を見せる。まぁ、当たり前だが。
「クロは、士郎の猫なのである。クロが喋るのも、当然なのだ!」
 えっへんと胸を張ってクロが答えるが、どうして士郎の猫だと話すことが出来るのか、全く理解できない。
 凛は訝しげに近づき、クロを片手でつまみ上げる。
「にゃ?! 何をするのだ! クロを、汚い雑巾持ち上げるような感覚で持つな――!」
 じっとクロを見つめ、観察する。なぜ人の言葉を話すことが出来るのか、凛はそれが魔術によるものだと踏んだのだ。自分が見ることで、これが何なのか知ることが出来る、そう判断した。
「士郎、これ猫じゃないわ」
「え?」
 一通り観察し終えた凛が下した結論はそれだった。彼女の言葉に士郎は目が点になる。猫ではないと言われても、見た目は完全に猫だ。凛は士郎の動揺を読み取ってか、説明を始める。
「錬金術と投影魔術を組み合わせて作られている、レプリカ。それに、模擬人格や模擬の魔術回路も埋め込まれてる。生物に限りなく近いけど、違う。こんな高等な魔術、見たことないわ。確実に封印指定ものね」
 クロは手足をバタバタと動かし、凛の手から逃れようと必死だ。だが、子猫の足掻きは凛には効果が無い。
「もし、この魔術を一人で作り上げたとしたら、その魔術師はとんでもない魔力と天才的な魔術センスを持ってるはずよね」
 摘まみ上げていたクロを今度は両手でしっかりと持ち、ずいっと顔を近づけて凛は尋ねる。
「あんたを作った魔術師って、一体誰なの?」
「クロは、クロであって、士郎の猫なのである。それ以上でもそれ以下でもないのだ! 大体、クロには記憶が無いぞ!」
 これもまた胸を張って言うのだが、どこに胸を張るポイントがあったのかはいまいち分からない。そして、クロの記憶の無いという点に凛は、使えないと舌打ちを漏らした。
 それに反して、士郎は自分の疑問をクロに尋ねる。
「クロは、さっきのソロモンって名乗った人や時臣君のこと、知ってるのか? 知ってるから、守るって言ったのか?」
 クロは尻尾をくゆらせながら答えていく。
「クロはあいつから、士郎と時臣、そして、これから出会う奴らを守るようにと言われたのだ。でも、あいつが誰なのかは知らないのである。知っているのかもしれないけれど、兎にも角にも、クロにはマリョクが足りないのだ」
 クロの言葉に、凛が確かにと反応を示す。先ほどクロを調べた時に、魔力が足りないことには気が付いていた。
「魔力が著しく枯渇しているのは事実ね。模擬の魔術回路が機能でしないくらいだから、よっぽど大きな術を使ったのね」
 クロは凛の言葉に頷く。だが、どんな術かは分からないと続ける。
「マリョクが溜まれば、きっとクロはあいつのことも、クロの事も思い出せるはずなのだ! でも、マリョクがなくても、士郎と時臣は絶対に守ってやるのだ!」
 頑張るから褒めて、というように士郎にすり寄る。自分から降りたクロを、士郎はもう一度抱き上げてやる。凛はあまり役に役にたたなかったクロの話は置いておいて、時臣のことに話を戻す。
「時臣君も衛宮君の家に住むとして、彼の家の人とかになんて説明しようかしら?」
 いきなり、お宅のお子さんが危ない英霊に襲われているので、こちらで引き取ります、とは言えない。というか、一般人に魔術の話などできるはずもない。
 どうしようか、と悩んでいると時臣が口を開く。
「多分、何も言わずに出て行っても、何も言われないと思います」
 冷静な声だった。それゆえ、士郎と凛は何も言えなかった。
「きっと、僕の存在は今の家では重要じゃない。だから、適当に荷物を纏めてきます。二時間後くらいに、またこの公園で待ってます」
 時臣はそう言い、ぱたぱたと駆け出していった。凛と士郎は、それを見送っていた。彼に言葉はかけられなかった。
 沈黙が場を支配ている中、凛は話し始める。
「ねぇ、士郎。私のお父様は、魔術師だった。遠坂時臣っていう名前のね」
 時臣、という名前に驚きを見せるのは、次は士郎の番だった。凛はそれには反応せずに、続けていく。
「時臣君は名前だけじゃなくて、なんていうか、すごくお父様に似てるって感じたわ。彼の持つ雰囲気も、容姿も。お父様なんだって、思ったくらい。神様が、聖杯戦争を生き残ったお礼に、もう一度お父様に会わせてくれたのかなって。でも、違うのね」
 少し寂しそうに、少し安堵しているように、凛は笑みをみせる。
「全く同じ人間は、存在しない。どんなに似ていたとしても、一度生を終えた人間とは、違う存在」
 凛はそこまで言うと、自分がここで時臣を待つ、と言った。だから士郎は買い物に戻ってほしいと。今から言ったところで、セールの豚バラ肉は無いだろうが、全てをアーチャーに任せっきりだと、後からねちねちと文句を言われるのが目に見えている。士郎は、頼むと声をかけるとその場を去る。
 そして、ほんの少しだけ、思いを馳せていた。もし、衛宮切嗣に似た少年が自分の前に現れたのなら、と。自分はその存在に何を求めるのだろうかと。その問いかけへの答えは不透明で、すぐに士郎は頭からそのことを消し去った。

 結局、アーチャーと共に行くはずだったスーパーに彼の姿は無かった。これは後でかなり文句を言われると分かり、内心大きくため息をついていた。そして、スーパーでの買い物が無くなった時点で、士郎は暇になっていた。
 このまま家に帰ってもいいのだが、そうすると赤い弓兵から昼間から夕飯の支度の時間までねちねちと小言を言われるのが分かっているため、なるべく避けたい。どうしようかと考えていると、彼の腕の中の子猫が顔を彼に向けながら尋ねた。
「シロウ。ご飯は食べないのか? 吾輩は、お腹が空いたのである!」
 普通に喋り出したクロの口を、慌てて士郎が塞ぐ。結構大きな声で伝えられた言葉に、周りに聞こえていやしないかと不安になるが、どうやらその心配は杞憂に終わったらしい。ほっと息をつくと、不満そうにクロががじがじと士郎の指を甘噛みしていた。
「ごめん、ごめん」
 塞いでいた手を退けると、クロは大きく息を吸う。そして、ご飯と書かれたキラキラとした目を士郎に見せていた。
「うーん、昼ご飯か……」
 クロを連れたままでは、普通の店には入れない。そこで士郎は、以前間桐慎二が言っていた、新しいテラスのあるカフェの存在を思い出す。テラスであれば、、ペットを連れていても文句を言われることは少ないだろう。士郎はそう考えると、彼が言っていたはずの場所へと足を進めた。

 開店から少し経っていたそのカフェは、休日のお昼でも少し人の入りが控えめだ。真冬なのに、テラスをお願いしますと言った時の店員の反応は、自分がもし店員だったら同じ反応を示しただろうと思う。ホットコーヒーとランチのサラダとスープ付きのサンドイッチのセットを頼み、会計をする。クロは店内に入れてはまずいので、外のテラスで待っている。トレイに乗る注文の品をこぼさないよう、気をつけて席まで運んでいく。
 士郎の姿を見つけたクロは、彼が運んでくる食べ物に期待を寄せて、目を輝かせていた。
「ご飯、ご飯!」
 嬉しそうにするクロは、テーブルの上に乗っかる。士郎はクロのために、自分のサンドイッチの具のハムを渡してやる。
「ご飯なのだっ!」
クロが幸せそうに食べる様子を見ると、衛宮家の腹ペコ王の存在を思い出す。食べ物にとっての一番の幸せは、セイバーやクロのようにおいしそうに食べられることであろう。
士郎はコーヒーカップを手に持ちながら呟く。
「それにしても、クロが魔術で作られた存在、なんて中々信じられないな。普通に見たら、どこにでもいる黒猫だしな」
 クロはぱちりと目をしばたたかせる。士郎はクロを見ながら続ける。
「クロは、記憶が無いんだろう。それって、怖かったり、辛かったりしないのか?」
 士郎の問いかけに、きょとんとした反応を示す。
「どうして? クロはそんなこと思わないぞ」
 堂々としているクロの言葉に、士郎は戸惑いを見せる。クロはえっへんと胸を張って答えていく。
「吾輩は吾輩なのだ。今、ここに居るクロがクロなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。クロが本当は何なのかなんて、どうでもいい。クロは確かに今、ここに居るのである。ここに居て、士郎と一緒にいる」
 クロはにゃおんと声を上げて鳴く。
「吾輩は、それで満足なのだ」
 そう言ったクロの顔は、満足そうなものだった。自分自身がここに存在している事実は変わらない。それは、もっともなことだと思う。当たり前のようで、人が簡単には考えられないこと。それをはっきりと言うクロが、ほんの少しだけ眩しく感じた。

 あの後、家に帰った士郎は案の定アーチャーにねちねちとまるで嫁と姑のような感じで文句を言われた。最初のうちは自分にも非があると認めていたので、静かだった士郎だが、ある一定時間を超えるとただの喧嘩へと発展していった。それを微笑ましくも他の面々が見ているところに、凛が時臣を連れて帰ってきた。そこでアーチャーも交えて、衛宮家の居候が集まったところで時臣の紹介をする。
「ということで、今日から家で暮らすことになった時臣君。よろしくな」
時臣を見て、桜は凛に小声で話しかける。
「姉さん、あの……」
「大丈夫よ、桜。いずれ時臣君の戸籍も、遠坂家の養子にするつもりだし、抜かりはないわ。ふふふ」
「誘拐とかじゃないですよね、姉さん」
自分も言えたものではないが、今の姉は十分に危険な存在な気がしたのだ。そんな凛に不安を覚えているのは、アーチャーもまた然りだ。
「時臣……」
どこかで聞いたことのあるような気がすると、思っていたのはセイバーだ。恐らく聖杯戦争関連なのだろうが、思い出せそうに無い。まぁいいか、と思う彼女は随分と緩くなっている。
「いきなりですが、よろしくお願いします」
大きめの旅行バックを持ったまま、ぺこりと頭を下げる時臣に、士郎は優しく声をかける。
「ここには君を守ってくれる強い人達がいっぱいいるから、安心して大丈夫だよ」
士郎の言葉に、彼は少しほっとしたように表情を緩めた。一通り自己紹介の終わった後、衛宮邸の有り余る部屋の中から時臣の部屋を決めたり、夕飯の鍋の用意をしたりと、休日の夜は更けて行った。

 その夜、士郎は再び夢を見た。
この前見た夢に出てきた少年の姿がまた、そこにはあった。寝室と思われる部屋を明るくする小さな火。少年はその火をじっと見つめていた。ゆらりゆらりと揺らめく火を飽きることなく、ずっと。
「あなたって、本当につまらないわ」
 大人の女性の声だった。その言葉は少年に向けられたものであったようで、言葉は続いていく。
「わたくしみたいな女が、いるっていうのに、一度も手を出さないなんて。本当に、つまらない」
 彼の寝台に寝そべりながら彼女は言う。日に焼けた褐色の肌と、それを引き立てる癖の無い長い黒髪。整った顔をしている彼女は、誰もが美しいと声を上げるであろう美女だ。
 だが、そんな女性を前にして彼は迷惑そうに顔を歪めている。
「興味がないんだよ。君がボクの寝室にいるという事実も耐えがたく不快なのだが、追い出さないだけましだと思ってくれ」
「可愛くないわね」
 憎々しげに彼女が吐き捨てると、少年は肩を竦めて見せる。
「こう見えて、もう長く生きているからね」
「夜はまだ長いわ。わたくしと愛を交わすつもりがないのなら、謎かけでもしましょうか、王よ」
 挑戦的な笑みを見せた彼女は、少年を寝台に誘うような仕種を見せる。彼は大きく息を吐き出し、寝台の彼女から一番離れた場所に腰かける。不服そうな顔をする彼女だが、王が謎かけに乗っただけでも良しとするらしかった。彼女は自信ありげに問題を出していく。
「それじゃあ、最初。たくさん入れても、大きくならず、たくさん取っても、小さくならないものは?」
「『海』だ。どれだけ水を入れたり取ったりしても、海の大きさは変わらない」
「自分の母から生まれ、その後に再び自分の母を生むものは?」
「『水と氷』だ。氷は水で出来ており、そしてまた溶けて水に戻る」
「川に水は無く、森に木は無く、都市に建物が無い。どうして?」
「『地図』だからだ」
「どんなときでも必ずやってくるけれど、絶対に到達できないものは?」
「『明日』だ。明日は毎日やってくるが、明日に到達するときにはもうすでに今日になっている」
 矢継ぎ早に出した彼女の謎かけを、一瞬さえ考える暇なく少年は答えた。彼女は舌打ちをして、彼を真っ直ぐ射抜く。
「……。王よ、あなたは本当につまらないわ。少しは考える素振りも見せなさいな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
 少年はそう答えると、彼女に寝台から降りるように合図を送る。なんとしてでも彼は彼女と夜を共にするつもりは無いようだ。彼女は潔く立ちあがると、彼に蔑んだ視線をよこす。
「あなたほどの知識があれば、この世界の真理さえも知っているんでしょうねぇ」
 くつくつという笑い声を上げる彼女に、彼は何も答えない。彼女は心底楽しそうに言葉を続けた。
「あなたが、神から授かった正しい判断をするための知恵、そして天使から渡された世界の理が書かれた書の存在。もちろんわたくしは知っていてよ? わたくしは、その二つを手に入れたいんですもの」
 彼は彼女の言葉に僅かな訂正を入れる。
「君はそれを手に入れて、この世界からの逸脱を願っているんだろう? 悪いが、ボクは興味がない。やるなら一人でやってくれ」
 取り付く島もない彼の言い方に、彼女は心底つまらないという視線を浴びせる。
「それだけの力を持っているのに、やることといえば国の発展を望むだけ。あなたみたいな人間には、勿体ないくらいの力。奪ってやりたいくらいね」
 巨大な力を持っても、それを無闇に振るおうとせず、正しく民のために使う彼の姿は、彼女から見て偽善に見えていた。力は使うものだ。力は振るうものだ。救済のために使う力など、間違っているのだと。
 少年は自分の左手の薬指に嵌まる、一つの指輪を見ながら言う。
「ボクには願いがある。その願いは、この世界でしか叶えられないものだ。だから、勝手にこの世界を壊させたりはしない」
 冷静な感情に流されない声だ。いつも彼の口から紡がれる言葉よりも低い声。彼が強き意志を持って言ったのだということが分かる。
「いつまでもそう言っていられるとは、思わないことね」
 吐き捨てるようにいい、彼女は立ち上がり彼の部屋を後にする。少年はそれを無言で見送った。そして、たった一つの明かりの元へ行き、それを息で吹き消した。真っ暗になった部屋で、彼は窓から覗く夜空の星々を眺めていた。


 
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