今宵、星を掴む
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1949年11月3日 長江南岸
梶谷洋一皇国空軍少尉が急増の野戦飛行場から離陸したのは30分前のことだ。低く雲がかかった空は、高度4000メートル付近からでは地上を見通すことができなかった。彼が搭乗している四式戦闘機疾風二型、通称疾風改の任務を考えれば、コンディションが良好とは言い難かった。
梶谷は1945年に編成された空軍で訓練を受けて配属された、最初の世代の1人だった。新田原の空軍士官学校で制服のアイロンがけから、上下関係、儀礼を叩きこまれ、1947年に任務に就いた。そして、1949年9月、国連軍の一員として中国大陸に派遣された。
戦場に出てから約2ヶ月の間、20回以上の出撃を経験し、戦場の空気を掴んだ気になっていた。アメリカ本土からの増援や日本の派遣部隊が中心となった国連軍の第2陣が、中国大陸の戦線に投入されてから、戦況が好転していることも彼の気持ちに余裕を持たせていた。このまま年末までには戦争は終わるかもしれない、そう思わせるほど国連軍の進撃は順調だった。その一方で、出撃の度に所属部隊から消えていく同僚の影が、軍隊の秩序に対して疑問を抱かせていた。今回の出撃の直前のやり取りが、それをさらに助長させていた。
レーダー管制を受けた正確無比な対空砲火から逃れる方法は、飛行高度を地面すれすれまで落としてしまうことだ。これまでの攻撃計画はすべてその経験則に基づいて策定され、搭乗員たちに伝えられている。
しかし、ソ連赤軍の師団編成をそのまま取り入れた中華ソビエトの前線部隊には、戦車連隊ごとに自走対空機関砲が中隊規模で配備されており、低空突入した僚機が弾幕の火線にからめとられるのを梶谷は何回も見てきた。そのたびに、原則が正しいことは分かっていても、低空突入特有の危険性を考慮しない攻撃計画への疑問は増していった。
今回の出撃前ブリーフィングで、梶谷はその点を作戦参謀に質問した。しかし、参謀からは攻撃計画に従えという返答があるのみだった。さらに質問を重ねようとすると、上申書を書いてから来いと止められてしまった。同僚たちの視線も冷ややかだった。特に制空戦闘を行う戦闘第三四三航空隊(三四三空)の面々の中には、自分たちの仕事にケチをつけられたと思ったのか、椅子から腰を上げている者もいた。まだ新任の少尉に過ぎない梶谷が、それ以上、言葉を重ねるのは無理な雰囲気だった。第2次世界大戦を生き残り、海軍基地航空隊から空軍へと移籍したベテランパイロットで構成される三四三空の影響力は、隠然として中国派遣航空集団の中に広がっていた。
梶谷の所属する戦闘爆撃第六五三航空隊(六五三空)は、結局、いつもの通りに攻撃を行う事となった。
離陸した梶谷は、翼を振って愛機を小隊長の左側へと位置付けた。小隊4機編成が正規編成だったが、今回の出撃では小隊3機の変則的な編成が組まれている。六五三空は現在、疾風改34機が保有機のすべてである。本来なら48機12個小隊が定数だが、回復力の低い本国からの補充はいつも遅れ気味だった。
今回の任務は前線の先鋒で進軍する友軍部隊の支援だった。六五三空から3個小隊9機の疾風改と三四三空2個小隊8機のP-80が参加部隊のすべてだ。3個戦闘航空隊、1個戦闘爆撃航空隊、計192機とその支援部隊で構成される中国派遣航空集団にとっては、日常的な任務だった。戦争が終わって進軍が止まるまでは地上支援、阻止攻撃を辞めることはない。
La-7やYak-9といった第2次世界大戦中に採用された戦闘機の頭を取ったP-80が、逆落としに銃撃を行い上空で交錯する。ジェット機特有の甲高いタービン音が空を横切った後ろで、数機の敵戦闘機が火の手を上げて地上に落下している。再び上昇に移ったP-80を敵戦闘機が追撃するが、上昇能力と高速に優れたジェット機について行ける機体はなく、再度の降下でまた敵は被害を出していた。時速で200キロ近い差は、空戦において致命的なものだった。
三四三空の切り開いた血路を高度20メートルで突破した梶谷と僚機は、両翼に計12発搭載した3式噴進弾改と胴体下の500キロ爆弾を抱えて敵へと突入した。搭載量ぎりぎりまで積載した重い機体を、R-2800がうなりを上げて推し進めた。
四式戦闘機二型「疾風改」は川崎航空機による製品で、ある意味、キメラというべき機体でもある。
原型となった四式戦闘機「疾風」は、第2次世界大戦中、陸軍からの試作指示を受けて開発され、1944年に採用された機体だ。日本初の2,000馬力級航空機エンジン「誉」の搭載を前提として、陸軍伝統の軽戦思考に基づいて設計された「疾風」は、停戦間近に実戦配備され、おもに中国戦線で活躍を示した。3月に編成された最初の装備部隊、第22戦隊が7月に中国戦線へと派遣され、アメリカ軍から一時的に制空権を奪取する活躍を見せた。
停戦までの約1月間の戦闘ではあったが、確かな存在感を見せた「疾風」は、戦後、軍縮によって国産戦闘機の生産が次々と停止する中、生産が継続された。そして、「烈風」や「紫電改」といった海軍の新世代戦闘機の開発が遅れ、停戦と共に開発が中断したため、対抗馬が不在だったこともあり、新編成の空軍において最初の主力戦闘機として採用される。
しかし、時代は過度期にあった1946年にアメリカ陸軍航空軍がP-80を採用したのを皮切りに、主要各国は続々とジェットエンジンを搭載した戦闘機を配備していったのだ。日本でも1945年にドイツから持ち帰られたMe262「シュヴァルベ」の技術解析が行われ、国産技術の蓄積が始まっていた。
1947年、皇国空軍はアメリカ空軍との合同演習において、ジェット戦闘機とプロペラ戦闘機の性能差をまざまざと見せつけられ、また大陸の緊張が増していることから、早急に新型機の採用を政府に求めた。結果、1948年中にアメリカから余剰となったP-80戦闘機が供与されることになる。(すでにアメリカでは新型機の開発に目途が立っていた)
余剰となった「疾風」は改良の上で、戦闘爆撃隊に移されることとなった。一式戦闘機「隼」Ⅲ型を主力としていた戦闘爆撃隊にとっては念願の新型機ではあったが、日本製航空機特有の防弾性のなさや、芸術品と言われた「誉」の整備性の低さなどが問題視された。また、500キロ爆弾と噴進弾の同時搭載を可能とする積載量も求められた、改良がはじめられた。
アメリカからは余剰となったP-47「サンダーボルト」の供与を打診されたが、戦後、縮小気味の国産航空機産業を保護する観点から、エンジンのみの供与を受け入れた。
「誉」よりも一回り大きいP&W R-2800ダブル・ワスプエンジンを搭載するために機首を延長、変化した重心を安定させるために主翼が大型化された。主翼には噴進弾を搭載するためのハードポイントが増設されている。
また、過大な装備を搭載により、機体全体の剛性を高める必要が生じたため、機体フレームと外板を増圧、結果として防弾性の強化にもつながった。加えて自動消火装置、ゴム製の燃料タンク被膜、座席後ろの防弾装甲(20ミリ)を搭載し、一通りの完成を見た。
四式戦闘機二型「疾風改」として採用された機体は、1948年から配備が始まり、各所で「和製サンダーボルト」と呼ばれるようになる。それは、決してほめる言葉ではなかった。小型の機体に大型のエンジンを搭載した結果、ただでさえ重く設定されていた舵がさらに重くなり、防弾性も米軍機と比較して不十分だった。そして、中途半端な機体を渡された戦闘爆撃隊は、機種転換訓練を終えた頃に、新たな戦場へと派遣された。
攻撃は最初からかんばしくなかった。
中華ソビエトは度重なった航空機による損害を憂慮したのか、思っていたよりも多くの対空機関砲を部隊に同行させていた。低空で侵入した梶谷たちの編隊に、3000メートルの距離から射撃が始まり、照準が修正されて徐々に火線が密集していく。
編隊はさらに高度を下げた。最大積載時の対地最大速度の時速530キロで敵陣に突入し、編隊飛行のまま爆撃を敢行して、すぐさま帰投。そういう攻撃計画のまま、梶谷たちの編隊は飛行した。
高射砲弾の破片が上空で飛散した。時限信管の調整が上手くいっていないのだろう。起爆位置は遠い。ⅤT信管のような気の利いたものは供与されていないようだった。
<全機、そのまま進め。一航過して――>
編隊長からの通信が途絶えた。右斜め前に居た編隊長機の左主翼が、機関砲弾によって破壊されていた。バランスを崩した編隊長機は、引力に従って落下し、地面へと突っ込んだ。噴進弾が爆発し、燃料が燃え上がる。
梶谷と残った僚機は火中をくぐりぬけて突進を継続。先任の梶谷が三番機の前に出た。
広い主翼の抵抗で浮き上がろうとする舵を必死に押さえつける。機体の振動すら感じる余裕はなく、梶谷を絡めとろうと交錯する機関砲弾の網を、左右に翼を揺らしてかわしていく。
網の目は敵に近付くほど小さくなっていく。高度はすでに20メートルを切っていた。これ以上、降下するのは、梶谷の技量では難しい。
制空隊は新たな敵機に駆けずり回っているらしい。
眼前で高射砲弾が弾けた。必殺半径からは外れていたが、破片が主翼と風防を叩いて梶谷の精神を摩耗させる。ⅤT信管はないが、高精度なレーダーはあるようだ。地上からの反射波を排除して、正確に狙いを付けてきている。撃墜まで時間の問題だった。
機体を横滑りさせようにも、あらゆる種類の火器が梶谷と僚機を狙っている。どこを見ても爆発か、機関砲弾の火線しか見えない。
ええい、ままよ。
梶谷はフラップを全開に下げた。急激に増した空気抵抗で、機体の速度がガクンと落ちる。その前方を機関砲弾が飛び去った。今度はフラップを上げる。増速した機体の後ろで高射砲弾が炸裂する。フラップの展開面積を調整して、加速度を変化させながらふらふらと飛行し、梶谷はなんとか目的地に達した。
6機に減じた疾風改の編隊は、敵陣の400メートル手前で翼下の噴進弾を発射。さらに、進むと500キロ爆弾を一斉に投下した。噴進弾はてんでばらばらの方向に飛び去って、いたる所で爆発する。その火炎を隠れ蓑にして、爆弾を投下した編隊は高度を維持したまま逃走を開始した。後方から500キロ爆弾の破裂音が聞こえてくる。梶谷は振り返りたい衝動をなんとか抑えつけて機体を走らせる。
無事にすることができた。しかし、彼の機体には24の穴が穿たれていた。どれも小口径の機関砲弾によるものだった。僚機は4機を失い、今回出撃した3つの小隊は、作戦能力を喪失した。帰ったその足で作戦参謀に殴り込みをかけようとした梶谷を、生き残った僚機の搭乗員が引き止めた。梶谷は制止を振り切ろうとしたが、数の差で抑えつけられた。
先に帰投していた三四三空の搭乗員たちがその様子を見ていた。表情はない。蔑みも諦観も闘志も、何も感じられなかった。
そこで気付いた。出撃前、17人いたはずの搭乗員は10人になっている。しかし、梶谷が死にざまを知っているのは編隊長だけ。あとの6人は彼の知らないところで死んでいる。
ああ、俺は何も分かっちゃいなかったのか。
彼の知らない場所で決定され、現実が動いている。そして、誰にも知られずに死んでいく。叫びたければ、叫んでもとやかく言われないような実力が必要なのだ。
◆
1950年2月6日 岐阜県 日本皇国空軍各務原基地
冬の風が空を凪いだ。着込んだコートの上から叩きつけてくる風は、高嶋少佐の体を凍えさせた。周囲を見れば盆地を囲む山々が見えた。南側には川が流れ、その対岸は転々と田畑と民家が広がっている。北側には彼が立っている滑走路と共に、航空機格納庫が立ち並んでいるのが見える。併設する川崎飛行機の工場では、試験飛行のために持ってこられた試作機が整備を受けているはずだ。
純国産航空機の試験飛行は6年ぶりだ。巌谷中佐と高嶋少佐が持ち帰ったドイツからの舶来物の解析と、国産化の末に完成した機体だった。石川島飛行機製作所が開発した初の国産軸流式ターボジェットエンジン「ネ130」の搭載を前提に、中島飛行機と九州飛行機がそれぞれ1機種ずつ試作している。それぞれ陸軍と海軍の要請によるものだ。
今回の試験飛行では、50年代中盤に採用が予定される空軍の次期主力戦闘機の候補として開発する国産機を選ぶことを目的としている。いまだ復興途上の日本には、2機種の開発を継続できるだけの余裕はなく、しかも中華動乱での消耗を補充する必要もあった。そのため、1機種に絞り込んでの開発継続が決まっていた。
もっとも、陸軍所属の高嶋少佐が足を運ぶ必要はないはずだった。すでに陸軍に航空機部隊はなく、帰国後、直接開発にタッチする機会もなかった。彼が今回、各務原基地を訪れたのは、沢城重工社長に会うためだった。
1950年冬。まだ年明けの余韻がなくならない日本は、激しい変化の渦中にあった。その原因は中華大陸における戦況の急速な悪化と国連軍による反撃、そこから派生した日本国内の政治情勢の急変にあった。
1949年8月21日、中国大陸に上陸したアメリカ陸軍第2軍集団、日本皇国軍大陸派遣群、ANZAC師団を中心とする国連軍第2陣は、南京前面の防衛線に展開し、12月末までに長江南岸に達し、攻防の中心は上海の争奪戦と、長江北岸への国連軍渡河めぐる攻防戦となる。
開戦から8か月、戦争の成果を失いかけていた中華ソビエトは、国連軍の戦力分散を図り、かつソ連からの更なる支援を引き出すための反撃を、北の大地で行う。
彼らの手にはあらゆる形で集められた歩兵、民兵の類が多量に存在した。そして、攻勢にも反撃にも、防御戦闘にも使い難いそれらの(失っても惜しくはない)戦力を、毛沢東とその取り巻きは、極東におけるアメリカ最大の権益地、満州へと送り込んだ。
120万とも言われる戦力の投入は、1950年1月11日に事実上の国境となっていた万里の長城を突破、北京北方の承徳、内蒙古のシリンホトをめざし進軍を開始した。対する国連軍は、戦力の多くを長江の戦線に送っており、満州には対ソ戦用に動かせない国境兵力を除けば、機動防御用の2個機械化歩兵師団しか残っていなかった。
在満州国連軍、事実上の進駐アメリカ陸軍の総司令官、ダグラス・マッカーサーは、この危機に対しある新兵器の投入を決断し、大統領府へと進言した。
最初の2週間で戦線は国境から80キロあまりの位置にあった。中華ソビエトの戦力が徒歩の進軍が、遅い戦線変化の理由である。その間、国連軍は満ソ国境、朝鮮半島から引き抜けるだけの予備戦力を奉天に集結させ、さらに新兵器を載せた爆撃機を岩国基地に配備していた。
1月27日現地時間8時30分、承徳を攻囲しさらに北上を始めた中華ソビエトの主力の上空で、もう1つの太陽が生まれた。TNT火薬15キロトン分のエネルギーが解放され、数千度の熱線と爆風が辺りをつつんだ。
ソドムとゴモラを滅ぼした神の火の再臨である、と後に攻撃を行ったB-36の機長が手記に書き残している。
この攻撃で70万の戦力のうち、12万が文字通り消滅し、さらに10万が重傷者となった。それよりも多くが軽傷者となり、無傷の者も時間がたつごとに脱落していった。3割の喪失で全滅と計算される軍事上では、すでに戦力としての価値を失っていた。また、国連軍は戦線後方の物資集積地、内蒙古方面を進軍する敵に対しても、同様の攻撃を実施し、満州地域における敵の軍事的意図を封殺することに成功する。
もっとも、成功したことが、国連軍、特にアメリカ軍の立場を危うくすることとなる。
使用されたのは「原子爆弾」と呼ばれるようになる兵器だ。この兵器は、第2次世界大戦中に開発が始まり、1946年、アメリカ・ネヴァダの核実験場でその産声を上げた。ガンバレル方式、爆縮方式とよばれる2種類の実験が行われ、世界初の核保有国となった。
もっとも、この実験ではその後の影響についてはあまり調査も行っていない。はじめての実戦使用となった満州の地で、その威力が世界中に知れ渡り、なおかつ非人道的な中長期にわたる影響が明らかになった。
120万の人間が1日で、しかもたった数発の爆弾で壊滅した。瞬く間に世界中へと伝えられ、最初、アメリカは勝利を強調し、中華ソビエトに対して更なる核兵器の使用を示唆する警告すら与えた。国連参加各国も、これを機会に1948年の停戦ラインを維持する休戦を中華ソビエトに対して求める。が、ここでソ連が介入する。
1月29日、ソビエト連邦はオホーツク海にて海上核実験を実施。同種の兵器を輸送手段と共に実用化していることをアメリカに示し、これ以上の使用が行われた場合、中華ソビエトへの核兵器の供与とソビエト連邦の中華大陸介入を実行すると脅迫まがいの声明を発表する。
結果、2月現在、中国大陸の戦火は、南北ともに小康状態に入っている。アメリカでは更なる核兵器使用による戦争の早期終結を主張するマッカーサーと、ソ連参戦を恐れるホワイトハウスの間で意見の相違が生じていた。
そのあおりを受けて、日本でも国連軍参加を決定した吉田茂内閣に対する批判が巻き起こり、2回目の退陣にまで話は及ぼうとしていた。彼のライバルである鳩山一郎と彼に同調する派閥が、この機に吉田首相のアメリカ追従外交からの脱却や、改憲などを目的に、党からの離脱すらも視野に入れた動きを見せていた。
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同日1100 各務原基地第2滑走路
冬の空は高く青く広がっていた。南側に木曽川を臨み、その向こうを中部高地の山々が控えている。山から吹き降ろしてくる風が管制塔の上に掲げられた旗をなびかせる。
「あれは無粋なものですね」
滑走路に立って格納庫から引き出されてくる航空機を眺めていた裕也の後ろから声がかけられた。コートが風になびく。振り向くと濃緑で染められた陸軍制服に身を包んだ男が歩み寄ってくるところだった。
男は裕也の前に立つと、さっと右手をこめかみに当て敬礼した。それから、管制塔に隣接して建てられた巨大な八木アンテナを眺める。
「レーダー、電波探知機の登場で、航空戦すらも個人の武勇が介在できる場所ではなくなりました。
おかしなものです。個人の力、権利を保障し、その良心に担保される民主主義の軍隊が、個の力を頼らない体制を作っていくとは」皮肉めいた調子だった。あるいは、どこか揶揄するような。
「船が海を結んだように、航空機は空を結び、個の世界を広げた。しかし、広くなった世界は1人ではすべてを見ることは出来ない。だからこそ、それを管理する技術が発達したのでは」
「なるほど。ではその先は、まだ個の力の発する余地があるというわけですね。あるいは、目指す人間が少ないからこそ、個の力を必要とする」
「今の時代は、もう、なにごとも一人ではできませなんだ。
それは、ドイツのあの方を見てきたあなたの方がよくご存じでしょう、高嶋少佐」
「私のことをご存じで?」裕也の隣に立った陸軍軍人――高嶋少佐は、意外そうな表情を見せた。
「シンガポールからの脱出劇の噂はかねがね。もっとも、私にとっては、噴進弾開発の責任者としての名前の方が重要ですが」
少佐は右手で制帽をいじると、所在なさげに右手をさまよわせて、それからその手を裕也の方に差し出した。
「初めまして。皇国陸軍少佐、高嶋和樹と申します。今は防衛技術研究所第2課所属ですが」
「それで、私にどのようなご用件を?」裕也は握手する。高嶋少佐の噂はスコットからV2の事を聞いた後、満州時代の伝手を通じて知っていた。
「いやなに、噴進弾開発――今はロケットと呼称している開発部門の責任者として、お願いにあがったまでです」
「ああ、商談ですか。それなら、また後ほど。これから、飛行機が飛ぶところですし」
「はい。私としても、自分の持って帰ったものの成果を、確認したいですから」
それから2人は格納庫に隣接したコンクリート造りの管制塔前に据えられた簡易テントへと向かった。整然と並べられた椅子の背には、座席を指定する紙が貼られており、そこには皇国空軍幕僚長大西滝次郎大将、同作戦参謀源田実少将、皇国海軍統合艦隊司令長官山口多聞大将、同第2機動艦隊司令黛薫少将ほか多数の軍官民の代表者が控えられていた。
2人の立場は、九州飛行機と提携する一企業の社長、防衛技術研究所の所員でしかなく、無関係ではないものの優先される人物でもない。結局、2人は手近なコンクリートの塀に座り、滑走路を眺めるのだった。
聞こえてきたのは、プロペラエンジンの独特な低音ドラムのごとき回転音ではなく、元シャープで回転数が多い甲高い音だった。格納庫の方を見ると、ちょうど車両にひかれて試験飛行を行う機体が引き出されてくるところだ。
最初に出てきたのは、Me262シュヴァルベに酷似した双発、後退翼をもつ機体だ。翼下に2発のネ130エンジンを搭載している。高嶋少佐は5年以上前に、ドイツで実見した時の様子を思い出していた。富士重工業、旧中島飛行機製キ201、通称<火龍>。陸軍側の要請で試作された機体だ。
見た目の通り、高嶋少佐が持ち帰ってきたMe262の設計図をもとに一回り大型化した設計で、すでに実績のある設計を特徴とする。機首に4門装備する20ミリ機関砲の他、翼下に噴進弾を搭載しての対地攻撃も任務に含まれており、保守的な性格が強くでている。
続いて出てきた機体は、ある種の驚嘆の声と共に迎え入れられた。主翼を機体後部におき、機首には尾翼を持ってきたような翼配置を持つその機体は、九州飛行機製の十八試局地戦闘機震電と呼ばれていた設計案をもとにした機体である。開発名称は<蒼雷>と呼ばれている。
戦後すぐに、業務提携の話し合いの席で意気投合した九州飛行機社長から「もういらないから」と設計図を見せてもらったことがある裕也は、震電と呼ばれていたころとの違いを、裕也はいくつか見出すことができた。
特徴的なエンテ翼はエンジンの変更で、重くなった機体を支えるために翼面積が増している。その翼端はコクピットよりも前方にあり、かなり広く取られている。また、エアインテークもコクピットの左右から機体下部に移動していることが見てとれた。エンジンの変更に伴って、かなり長く取られていた降着脚の設計も変更されている。戦中、主に陸軍機と関わってきた裕也にとっては、火龍の保守的な設計の方が分かりやすく、蒼雷の前衛的とも思える設計は挑戦的に思えた。
両機は共に石川播磨重工製のネ130を双発で搭載している。ネ130はドイツの軸流式ジェットエンジンの設計を基に開発され、1947年の実験で推力1080キログラムを記録している。しかし、冶金技術の低さから耐久時間がアメリカ製のエンジンに比べて非常に短く、この3年の間に少しずつ改良を加えられてはいたものの、40時間程度の稼働が精いっぱいであった。
それでも、国産技術の継承や新たな同盟国であるアメリカとの駆け引きに利用するため、開発は継続することが決まっており、今回の試験飛で選ばれた機体と共に、次期主力戦闘機事業に候補機として提案される予定だった。
「もう巴戦の時代ではありませんね」
そんなことを高嶋少佐が上空を見上げながらつぶやいた。滑走路から軽やかに離陸した僚機は、プロペラ機に見慣れた軍の人間に驚嘆の声を上げさせながら上昇し、高度4000メートルで模擬空戦を行っている。
正面投影面積の小ささからか、上昇速度で優越する<蒼雷>が<火龍>の頭を押さえつけるように急降下して銃撃――もちろん模擬弾――を加えると、後退翼の存在から直線加速に優れた<火龍>がラダーを翻してそれを回避し、降下していく<蒼雷>の背後に取り付いて追撃する。
「蒼雷は思ったよりも小回りが利くようですが、一撃離脱に徹していますね」
裕也はよく見知っているほうの機体を評価するだけに留めた。
背後からの銃撃を左旋回で回避した<蒼雷>がまた上昇に転じる。<火龍>は追撃を続行。上空からの降下で稼いだ速度を上昇力に変換して<蒼雷>に追いすがり、先ほどの一航過で劣っていることが分かった上昇力を補ってみせた。
鋭く機首を翻した<蒼雷>が、裕也の思ったよりも小さな旋回半径で反転する。一閃、銃撃と機影が交錯し、両機に塗料が付着する。こんどは上をとった<火龍>が上空から逆落としに<蒼雷>へと襲い掛かる。
「重戦闘機嗜好と言うのでしょうか。第2時大戦の後半から大馬力のエンジンを積んだ大型戦闘機の採用が増えました。その機体は機動性という点では、従来の機体に劣りましたが、それ以外の面ではすべてにおいて優越しました」
水平飛行に移った<蒼雷>のエンジン音が一際甲高く響いた。上空からの射撃を右旋回で回避、さらに追いすがる<火龍>の射線を低空飛行で掻い潜る。設計元の震電が高高度迎撃機として設計されていたことを考えると、良好な低空性能であるように地上からは見えた。
左右に翼を振る<蒼雷>に<火龍>が覆いかぶさるように上を取って、その機動可能位置を奪い取ろうとする。瞬間、<蒼雷>が機首を上げた。改設計で面積を広く取られた主翼が揚力を生み出し、機体を大きく浮かび上がらせた。機位を下げて攻撃位置を取っていた<火龍>は反応が間に合わない。<蒼雷>が天頂方向へ上昇し、反転。機首に4門、集中装備した35ミリ機関砲を掃射し、<火龍>を赤で染め上げてしまった。
「ああ、終わりました――各国が重戦闘機を揃えた今、また運動性能が重要になったようだ」
「運動性だけでは、まだ。積載能力、航続距離、それから政治が決めるでしょう」
「確かに」
空戦戦技試験を終えた2機が、速度性能の試験のために、また高度をとった。
滑走路から追跡機のP-80が離陸し、それに続いた。試験は6000メートルで行われる予定だった。見上げた空にポツンと黒い点となった2機が見える。
「まだ続きそうだ。どうします? 商談なら宮崎の本社でもいいですし、どうせなら防衛技術研究所の研究室でも私は行きますよ」
「次の発射実験は?」
裕也が眉をそばだてた。高嶋少佐が右手で制帽をいじり、得意げな表情で鼻を掻いた。
「私の手元には、情報が集まりますから。航空局への届け出は、軍内で共有されますし。国内だけではありません。アメリカ、イギリス、ドイツの開発状況も、手に取るようにとは行きませんがある程度は集められます」
「なるほど……ああ、ではご存じなのでは。日付どころか、次の実験の内容も」
「新田原基地をお借りすることは耳にはさんでいます」
「そこまで知っているなら、後のネタは現地で確認した方がよいでしょう」
テントの方からまた歓声が上がった。上空を見ると、3つの小さな機影が飛翔している。追跡機を務める直線翼のオーソドックスな垢抜けない機体、P-80が徐々に取り残され、後退翼の機体が先行し、その後ろをエンテ翼の機体が追いかける。
碧雲が広がる空に、三条の飛行機雲がたなびいていた。
1950年2月14日0700.
甲高いタービン音が聞こえてきた。
「おい! 頭隠せ、また奴らが来るぞ」
兵士たちが前線の蛸壺に身を収めるために装備一式を担いで駆けてゆく。上空では中華ソビエトがソ連から供与されたらしい後退した主翼をもつ新型を投入していた。後方からやはり聞き慣れた、味方戦闘機のエンジン音が響いてきた。
P-80が400メートルの距離で、対空噴進弾を発射。散布界に敵の姿はない。むなしく上空に爆発の花が咲く。敵の新型機は異様に小回りが利くらしい。さらに速度性能でも、頭一つぬきんでていた。
そのため、国連軍の戦闘機は不利な制空戦闘を繰り広げねばならず、新型機の後方から前線に向けてイナゴのように異常な数で迫ってくる水冷エンジンの襲撃機、Il-2を叩き落とすことができないでいた。
襲撃器の群れは前線に到達すると、上空で繰り広げられる制空戦闘など尻目に、低空で侵入し、250キロ爆弾の雨を降らせ、機関砲の嵐を浴びせかけた。
「ちくしょう、高射砲大隊の奴らは何やってんだ」
蛸壺で身を縮めている兵士の1人が叫んだ。隣の蛸壺を機関砲の火線が通り過ぎる。思わず頭を抱えて亀のように身を固くする。巻き上げられた砂塵が呼吸器に入り込み咳き込んだ。土砂が体の上からかかってくる。
飛翔音が遠くに去った。身を起こすと、視界が広がる。
背中から流れ落ちた土砂と一緒に、ごとりと何かが落ちた。
砕かれた人体の一部だった。航空機用の大口径機関砲で粉砕された体は、部位が分からないほど損壊していた。
膠着した戦線のそこかしこで繰り広げられている光景の一つである。ソ連が供与した新型機――Mig-15によって、絶対的だった国連軍の制空権は揺らぎ始めることとなる。それは、前線の兵士たちの出血に直結し、陸上兵力の消耗を促すこととなった。
それは、中国ほど兵士の値段が安くない国々にとって、許容できる数字を越えており、徐々に国連軍の後退と士気の低下が見られるようになっていた。
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