ロード・オブ・白御前
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オーバーロード編
第6話 “ヒーロー”の定義
ヘルヘイムからユグドラシルの赤いラボに繋がる大クラックを、光実は跨いだ。帰って来た、それだけで肩から力が抜けた。
光実は自分の右手を見下ろした。数分前にはブドウ龍砲を持ち、トリガーを引いた手。
芋づる式に思い出す。爆ぜた紺色の背中。段差から落ちて気を失った、憧れだった人――
「おかえり」
家でも滅多に受けない言葉。光実は声の主をすぐ見つけ、小さく笑んだ。
「ただいま戻りました。裕也さん」
ラボの出入口横の壁にもたれていた裕也は、笑顔でひらひら手を振った。光実は裕也の前に歩み寄った。
「なんかあったのか?」
「? 僕、変な顔してますか?」
裕也の笑みは労りに満ちている。
「紘汰とケンカしてきた後みたいな顔してる」
ぐ、と胸に何かが込み上げて、光実は俯いた。
「今から碧沙んとこ行くんだ。お茶に誘われててさ。お前も一緒に来るか?」
光実は黙って首を縦に振った。
光実は裕也に付いて行き、「待合室Ⅰ」という看板の部屋に着いた。
光実自身も一人で何度か訪れた。このユグドラシル・タワーの医療フロアで、妹に宛がわれた、小さなプライベートスペース。
裕也が部屋のドアをノックした。
「碧沙ちゃん。俺。角居だけど。ミッチも一緒」
「え、裕也さん!? ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
バタンバタンと室内から慌ただしい音がした。待つこちらが不安にさせられる。転んだのではないか、と兄としては心配にもなる。
ドアが横に滑って開いた。光実にとっては珍しくない、肩を露出した私服姿の碧沙が現れた。
「いらっしゃいませ、角居さん。光実兄さん、ひさしぶり」
にこ。兄の贔屓目を引いても整った笑みで、碧沙は出迎えた。
「焦って着替えたろ」
「わ、分かりますか」
「肩の辺り。ちょいズレ気味」
――角居裕也は当て物上手だ。それは光実と同じ観察眼の鋭さに由来するものなのだろうが、裕也の「当て物」は厭らしさや陰湿さがない。そこが光実との大きな差であり、裕也がチーム鎧武のリーダーたれた所以だ。
碧沙は少しだけズレたシースルーのアウターを引っ張り上げた。
頬はほんのり薄紅色に染まっている。裕也はこれを分かって碧沙に接しているのだろうか。
「とにかく、どうぞ。大したおもてなしもできませんが」
「んじゃ、おじゃま~」
「お邪魔します」
碧沙の「待合室」も裕也の部屋と大差ない。ビジネスホテルのシングルルームのような内装で、設備も同じ。あえて差を挙げるとしたら、碧沙の部屋には客人をもてなす道具があるというくらいだ。
給湯スペースで碧沙が紅茶を淹れる。
準備し、砂時計の砂が落ちきってから、紅茶をカップに注ぎ、ソーサーに載って持ってきた。
「どうぞ。兄さん。角居さん」
「ありがとう、碧沙」
カップを受け取る。これらの茶器や茶葉などは、全て社員の善意の寄付品だ。
(若すぎる碧沙に過酷な実験を強いる罪滅ぼし――ってとこか。まあ、碧沙の人柄も大きいんだろうけど)
紅茶から漂うベルガモットの香りは、碧沙が至近距離にいる時に感じる香りと似ていた。
「紘汰さんを、撃ちました」
口を突いて出た。裕也と碧沙、二人分の視線を浴び、光実はカップの中身を見るように俯いた。
「木の陰に隠れて。後ろから。見えないように。アームズチェンジで無防備になる瞬間を狙って。トドメは、バロンの戒斗に、邪魔、されたけど」
裕也も碧沙も口を挟まず、光実の話を聞いていた。
「――紘汰に、なんかされたか?」
光実の非でないことを前提にかけられた台詞に、不覚にも涙腺が緩んだ。光実は慌てて歯を食い縛り、力を入れて首を振った。
「そっかぁ。でもアームズ交換中にってのはまずいなあ」
「え……」
「変身中のヒーローに攻撃しない。特撮モノの暗黙のルールだぜ?」
光実はたまに、この人はどこまで本気なんだろう、と思うことがある。
「そうでなくても隠れて不意打ち。気分悪くないか」
「悪いです……けど」
気分が悪いのは、決してそれだけではない。撃った相手が他ならぬ葛葉紘汰だから。
「けど?」
「……紘汰さんはもうヒーローなんかじゃない」
紘汰は舞に秘密をしゃべった。光実が隠して隠して隠し通した秘密を、他でもない舞に。許せるわけがない。
「仮面の下に痛みも悲しみも隠して戦って、愛する人の日常を守る。それこそがヒーローってものじゃないんですか。傷つくのは自分だけでいいのに。傷ついてほしくないから隠すのに。それを、それを――!」
握りしめたカップがソーサーとぶつかってカチャカチャと鳴り、中身の紅茶に波紋が立つ。ああ、自分は震えているのか。
そ。横から白い手が光実の手に重ねられた。妹が案じる顔で光実を見上げていた。
「ま、お前が紘汰を完全にやっちまわなくてよかったよ」
「裕也さんも、紘汰さんのほうがよかったって言うんですか」
お前も結局は葛葉紘汰の味方なのか。そんな思いを込めて裕也を睨みつける。
「違うって。だってお前、紘汰になんかあったら泣くだろ?」
完全なる言葉の不意打ちだった。
そして、その指摘は全くもってその通りだった。
恨む一方で、光実のどこかが紘汰を慕ったままでいる。
「僕は……っ」
その時、裕也のスマートホンが鳴った。
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