剣の丘に花は咲く
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第十三章 聖国の世界扉
第三話 甲板の上で
「コルベール先生。今回の件、本当にありがとうございました」
「いえいえシロウくん。こちらも飛行テストが出来たので願ったり叶ったりですので、そう畏まらなくてもいいですよ」
「そう言っていただけると助かります」
開け放たれた甲板へ繋がるドアから吹き寄せる強い風に押されるように、深々とコルベールに向かって下げていた頭を上げると、士郎の視界にドアの隙間から漏れる茜色に染まった光と共に入り込んだ冷え切った風が頬を撫でた。日が沈み始めた地上から遥か遠い雲の上、空を行く船に吹き付ける風は驚く程冷たい。思わず目を閉じた士郎の耳に、ドアの向こう―――甲板から歓声が聞こえた。
『よおおおぉぉしっ! この命令を完璧にこなし、汚名に塗れた我らの名誉を回復させるぞおおおおおおおおおぉぉぉぉぉッ!!』
…………………………。
「……まだ騒いでいるのかあの馬鹿達は……」
「はっはっはっ。ま、彼らにとってはまたとない名誉挽回の好機だからね。気合が入るのは仕方のないことだよ。それに女王陛下からの直接の指令だ。万が一にも失敗は許されないからね。その不安を紛らわしているのかもしれないよ」
「それは分かりますが……あいつらはただこれに乗じて騒いでいるだけだと思いますよ」
「はは、確かにそれも否定は出来ないね。で、シロウくんはどうするつもりだい?」
面白がるように笑みが浮かんだ視線を向けてくるコルベールに、士郎は大げさに肩を竦めて見せる。
「もう日が暮れますしね。これ以上騒いでいるようなら、風邪を引く前に船室に引っ張り込んでおきますよ」
「……手加減を忘れないようにね」
苦笑を浮かべ船の奥へと歩いていくコルベールの背を見送った士郎は、頬を一掻きすると甲板へと足を向けた。
『女王陛下直属女官ルイズ・ド・ヴァリエール嬢と魔法学院生徒ティファニア・ウエストウッド嬢を貴下の隊で護衛し、連合皇国首都ロマリアまで、至急連れてこられたし』―――その指令が届いたのは、昨日の夜のことであった。指令を受けた士郎は困った。なにせ『至急』と書かれてはいたものの、肝心のロマリアまで向かう手段がなかったのだ。普通に船を使って向かうとすれば、どれだけ早くとも一週間以上は掛かってしまう。そうなれば、指令にある『至急』には当たらないだろうことは確実だ。
そこで困った士郎は唯一その問題を解決出来る手段を持っている人物に交渉を持ちかけた。
その人物こそ、魔法学院の教師コルベールである。彼がキュルケの実家の協力を得て作り上げた“オストラント号”は、水蒸気機関を搭載しており、通常の船とは比べ物にならない速度を持つ船である。この船ならば、本来一週間は掛かるだろう行程を三日に短縮することが可能であった。
“オストラント号”でロマリアまで送って欲しい―――士郎の頼みにコルベールは快く頷いてくれた。
そして現在、ロマリアへと向かう“オストラント”号に乗り込んでいるのは、操縦士であるコルベールと士郎を始めとする水精霊騎士隊一行、護衛対象のルイズとティファニア……だけでなく、何故か無理矢理付いて来たキュルケとタバサを含めた合計十一名であった。
出発の前、タバサとキュルケが付いてくることを反対した士郎だったが、『船を動かす人員が必要でしょ』やら『学院長の許可は得ている』等といった反論を受けたことにより、最終的には乗船を許してしまうことになった。
実の所、他にもシエスタやジェシカ、ロングビルも付いていこうとしていたのだが。任務が任務であることから、ただの一般人であるシエスタとジェシカがついていく事は流石に出来ず。また、ロングビルはロングビルで、いくら優秀であっても休み過ぎだと学院長やら他の教師から諫められたことから、今回の件は渋々断念したのであった。
……士郎たちが学院長室に出発の挨拶に行った際、オスマンの顔にいくつもの引っかき傷や青タンがあったが……多分、今回の件とは関係ないだろう……。
そうして、指令を受けた翌日。
そんなこんなで無事トリステインを出航した士郎たち一行は、騒がしくも無事に最初の一日を終えようとしていた。
遍く世界を照らしていた太陽が地平線の彼方へと沈み、代わりに無数の星々と二つの月が淡く世界を浮かび上がらせる頃、雲の上にいるからか、地上よりも強い月明かりに照らされた甲板の上に、一人の少女の姿があった。夜風にたなびく黄金色の髪は、月の光を浴びて眩いほどに輝いている。舷側に手を掛け、唯一の明かりである星空を見上げている少女の唇は薄く開き、そこから震えた吐息が漏れていた。不意に甲高い音が鳴り、冷えた刃となった一辻の風に少女が切りつけられる。ぶるりと身体を震わせ身を縮こませた少女は、寒さから身を守ろうと強く己の身体を抱きしめた。少しでも寒さを紛らわせようと、豊かな胸がぐにゃりと大きく歪む程強く自らの身体を抱きしめながらも、少女は何故か風が吹き付ける甲板から去ろうとはしなかった。
震える身体に手を回し、甲板上でただじっと星空を見上げて佇む様は、何か幼い迷い子が途方に暮れて立ち尽くしているように見える。
実際、それは別に見当違いなものではなかった。
一見すれば、寒さを忘れ満点の星空に心を奪われているようにも見える少女の心を満たしていたのは、星の美しさに対する感動などではなく、夜の闇よりも深く黒く重々しい不安であるからだ。
そして、その不安の源はこの船の行き先が関係していた。
少女―――ティファニアの視線が上から前へと、船の向かう先へと向けられる。
連合皇国首都ロマリア―――別名宗教国家ロマリア、ハルケギニア最大の宗教であるブリミル教の総本山である。ブリミル教の聖地に住むエルフと敵対している宗教団体の総本山で、自分がエルフの血を引いている事がバレてしまえば、一体どうなることになるか、ティファニアはアルビオンから出たこの一ヶ月の間で十分以上に身に染みて理解していた。
そんな場所へと向かっている事から湧き上がる不安。
だからと言って、不安だからトリステイン女王からの直々の命令を断ることなど出来はしない。ウエストウッド村を出た後の自分や孤児院にいる子供たち全員の後見人でもあるトリステイン女王の命令だから―――だけではなく、外の世界に出ると決意した自分自身、そして森を出る事に協力してくれたセイバーや士郎たちを裏切る行為でもあるからだ。
そう……断れるわけがなかった。
アルトやシロウさんは、もしバレたとしても、絶対に手出しはさせないと言ってくれたけど……やっぱり怖いものは怖い……。
それでも昼間はまだ大丈夫だった。
ルイズや水精霊騎士隊のみんなが傍にいて、アルトやシロウさんもいたから……。
でも、夜になって一人になってしまうと―――もう駄目。
寝てなんかいられない……。
アルビオンの森で使っていた硬い布団とは違う、魔法学院の寮にあるベッドと同じぐらい柔らかなベッド。何時もならば横になると直ぐに眠ってしまってたのに、今日は何時までたっても目が冴えて眠れなかった。
だから、星でも見れば少しは気が紛れるかと思って、こうして甲板まで来たのだけれど……逆効果だった。
空を行く船から見上げた星空は確かに息を呑むほど美しかった。
でも、眼下に広がる夜の闇は、底の見えない湖を覗き込んでいるようで……酷く、恐ろしくて……。
気晴らしに来たのに、逆に不安が更に募ってしまい、思わず叫びだしたくなってしまう始末。
弱気になっていくのが止められず―――思わず……言葉が、ぽろりと口から溢れる。
「……どうして、わたし……森を出たんだろ」
口から溢れた言葉。
どうして森を出たのか?
そんなの分かりきっている。
自分の事だ―――当たり前に分かっている。
外の世界を見たい―――その思いで森を出た。
その筈だ。
森から出れば、どんな危険があるかは昔から想像はしていた。森を出ればきっとたくさん嫌なこと、苦しいことがあるだろうと。特に自分の体には半分“エルフの血”が流れている。“エルフ”を恐る人間が多く住む外の世界に出れば、普通の人間よりも負うリスクは大きい事もキチンと分かっていた。それでも、大丈夫だと、外はそんな嫌なことばかりじゃなく、楽しいこと、素敵なこともあると―――何故か、無邪気にもそう思っていた。
そして、わたしは森から出た。
森を出て、トリステインに行って、魔法学院に入学して……色々な事があった。
嫌なこと、辛いこと、苦しいことも……そして、楽しいこと、嬉しいことも。
アルビオンの森の中にいた頃、一人想像に耽っていた世界に自分はいる。
なのに……時折不安に駆られる。
―――わたしが望んでいたのは、本当にコレだったの? と。
未だ慣れない環境に、弱った心がつい漏らしてしまったただの戯言。
きっと、まともに考える暇もなく流されるままにいたから、ほっと一息ついた時に何とはなしに出てしまった言葉。
誰に尋ねるでもなく口から出てしまった疑問。
応える者などいない―――その筈なのに。
「―――ん? 世界を見たいからじゃなかったのか?」
「え?」
返事があった。
有るはずのない返答に慌てて振り返ったティファニアの前には、
「甲板は寒いだろ。暖かい飲み物でもどうだ? 茶菓子にクッキーもあるが、皆には内緒だぞ……特にセイバーにはな」
両手でお盆を持った士郎が立っていた。士郎の持つお盆の上には、暖かな湯気をくゆらせるカップとクッキーが乗ったお皿が見える。お盆からカップを一つ取り上げると、士郎は驚きすぎて呆然と立ち尽くしているだけのティファニアに差し出した。
「シロウ、さん?」
「何だ?」
反射的に向けられたカップを受け取ったティファニアは、手に広がる温かさにこれが幻でも何でもないことを理解すると、お盆から自分の分カップを取り上げていた士郎に話しかけた。
「え、あ、そ、その、い、何時からそこに……」
「丁度今だ。寝る前に星でも見ようかと思ったら先客がいたんで一旦戻ったんだが、時間を置いてまた来てみるとまだいたんでな。悪いとは思ったんだが、少しばかり便乗させてもらおうと思って……この通り手土産も持ってきたから許してくれないか」
お盆を軽く持ち上げて見せた士郎は、ティファニアの隣に立つと舷側に背を向け腰掛けるように寄りかかった。
「あ、す、すみません」
「どうしてテファが謝るんだ」
口の端を軽く曲げて笑った士郎は、そのまま顔を上に向ける。こぼれ落ちてきそうな程の無数の光が空を満たす光景に、思わず感嘆の声が士郎の口から漏れた。
「凄い星空だな……空を飛んでいるからか、何時もよりも星の光を強く感じる。何時までも見ていたくなるような光景だが……別にテファはこれに見惚れていたという理由ではないんだろ」
「……」
「どうしたんだ?」
「……」
士郎の問いに、ティファニアは応えず、カップを両手で握り締め視線を下に向けると押し黙ってしまう。
二人の間に沈黙が落ちる。
カップが人肌よりも冷たくなってきた頃、ティファニアがポツリと言葉を零した。囁くような、小さな声で。
「……何でもありません」
首を小さく横に振ったティファニアは、一歩前に出て舷側に近づくと、舷縁に手を置き空を見上げた。
士郎は隣のティファニアに顔を向けることはなく、同じように夜空を見上げているまま。
「ただ少し……随分遠い所まで来たなと……そう思っただけです」
「テファは、森に帰りたいのか?」
「……分かりません」
「なら、森を出たことを後悔しているのか?」
「…………分かりません」
ティファニアの声は、震えていた。
震える声が宵闇の中に消えてしまうと、続く言葉は現れることはなく。二人の耳には、船が風を切る音に混じり、シュシュシュと微かに水蒸気機関が動く独特の音が聞こえるだけ。
暖かったはずのカップの熱が失われ、氷が入ったかのように硬く冷たくなってき始めた時、風音に消えてしまいそうなか細く震えた声が士郎の耳に届いた。
「―――分からないんです……何をしたいのかも、どうしたいのかも……何もかも……自分のことなのに……どうして、でしょう。森の中にいた時は、あんなに外の世界に憧れていたのに……その気持ちが………どうしてでしょう、思い、出せません」
こてん、と頭を横に倒してティファニアが士郎に顔を向ける。
困ったような、照れたような顔をしながら、ティファニアは……泣いていた。
朧に揺れる瞳からスッ、と頬を伝い流れる銀の線。目尻から流れた涙は細い顎先で透明な雫に戻ると、そのまま身体から離れ落ちていき、暗い雲の中へと消えていった。
幻のような涙。
まるで、月光の下、踊る妖精の羽から舞い落ちる妖精の粉のように美しい涙。
そんな今にも月明かりに溶けて消えてしまいそうなほど儚く美しいティファニアの姿を見た士郎は―――。
「まったく、お前という奴は」
無造作に伸ばした手で妖精の羽根のように美しい金髪を乱暴にかき混ぜた。
「っあう、ん、え、えと」
士郎の手が離れると、ティファニアは真っ赤に染まった顔で少し乱れた自身の髪に手を置き、士郎を戸惑った目で見上げた。
お盆の上に戻していた自分のカップを再び手に取った士郎は、上目遣いで見上げてくるティファニアに肩を竦めて見せると、カップに入っていた残りを一気に飲み干した。
「生真面目というか、何と言うか……考えすぎなんだお前は。まだ森から出て一ヶ月も経っていないだろ。答えを求めるにしても出すとしても早すぎる。今はまだ何も考えず、外の世界を楽しんでおけばいい」
「で、でも―――ぁ」
空になったカップをお盆の上に置きながら気楽な声を上げる士郎に、少しむくれたティファニアが反論の声を上げようとしたが、またも頭に乗せられた熱く硬い……しかし、心地良い感触に、続く言葉が喉の奥へと滑り落ちてしまう。
押し黙ってしまったティファニアの頭を撫でながら、士郎はふっ、と困ったような調子で鼻を鳴らした。
「ま、テファは色々とあるから気楽に楽しむだけではいられないか。それに、こうして落ち着く暇もなく、あちこち連れ出している俺が偉そうに言うのも何だしな」
「そっ、そんなことは……」
顔を下に向けたまま、ごにょごにょと口の中でティファニアが呟くと、士郎は撫でていた手に力を込めくしゃりと一度強く撫でる。反射的に顔を上げたティファニアの頭から手を離した士郎は、顔を上げたティファニアに向かってニヤリとした笑みを向けた。
「だから俺が言えることはな、テファ。周りを気にせず好きな事をしろ」
「好きなこと、ですか?」
楽しげに告げる士郎の言葉を、ティファニアは首を傾げながら繰り返す。
「考えるな、感じろ。今は理由とかは考えずに、ただ感じるままに行動してみろ。それで少しは気持ちが楽になるし……そのうち森から出た理由も思い出せるだろう」
「好きな事、ですか?」
「ああ。お前は少々我慢しすぎる所があるからな。少しばかり羽目を外したくらいが丁度いい」
「好きな、こと……羽目を、外す」
眉間に皺を寄せて考え込み始めたティファニアの様子に苦笑を浮かべた士郎は、人差し指でティファニアのオデコを少し強めにつついた。小さな悲鳴を上げてティファニアが顔を上に逸らす。
「っ、な、なんですか?」
「だから考えすぎるなと言っているだろうが……全く、仕方のないやつだ……まあ、そうそう変えられるようなものでもないが。何かあれば、何時でも相談に来い。こう言った手合いは得意とは言えないが、人に話せば楽になることも多いからな。話なら何時でも聞くぞ」
「……はい……ありがとう、ございます」
笑いかけてくる士郎から逃げるように顔を下に向けたティファニアは、つつかれたおでこを片手で抑えながら、伏せた頭を小さくこくりと縦に動かした。
轟々と唸り声のような低い風を切る音が耳に響く中、吹き付ける風に細めた目で、一人甲板に立つ士郎は、夜の闇の中月明かりに浮かび上がる白い雲が横切っていくの姿を追いかける。
高度数百メートル―――身を切るような氷着いた空気の中、士郎は息を吐くと、微かに白染む吐息が雲のように流れていく。解け消えていく白い吐息を追い掛けていくと、眼下に広がる闇に沈んだ海原が目に飛び込んできた。
見つめていると吸い込まれそうになる程の闇の深さから逃れるように空を見上げると、そこには満天の星空が広がっている。
「美しいですね」
風になびき揺れる金の髪を片手で押さえつけながら、何時の間にか寄り添うように隣にセイバーが立っていた。しかし、士郎は驚きを見せることなく最初から知っていたかのように頷いてみせる。
「ああ……寒くはないか?」
「これぐらいなら平気で―――くしっ」
セイバーが話しの途中で小さくくしゃみをした。髪を押さえていた手を外し慌てて口を抑えたセイバーが、肩を縮こませつつ身体を小さくする。顔に掛かった金の髪の隙間から赤く染まった頬が覗き、士郎は顔を背け頬をポリポリと数度掻き、大きく一歩横に身体を動かすと、風よけになるような位置に移動した。
無言のまま時間が過ぎる。
その沈黙を先に破ったのはセイバーであった。
「ティファニアの事ですが……ありがとうございました」
「何がだ?」
士郎の問いに苦笑で返したセイバーは、舷側に近づくと手を掛け眼下に流れる雲に視線を落とした。セイバーの後を付いて舷側まで傍に寄った士郎も、同じように船縁に手を置いて眼下に視線を向ける。
「―――彼女が最近様子がおかしい事には気付いていたのです。ですが、結局私は何も出来ませんでした」
「……俺はただ話を聞いただけだぞ」
後悔を含んだ声に、士郎は大したことはしていないと言う。すると、セイバーはチラリと隣の士郎に視線をやり。
「私は、その話を聞くことすら出来ませんでした」
「……そ、そのだな、傍にいるだけでも―――」
別段避難されているワケでもないのだが、士郎は何とはなく居心地が悪いものを感じた。慌てた様子で士郎が言い訳じみた言葉を口にすると、セイバーは視線を再び下に落としてしまう。月明かりに照らされたセイバーの頬が、士郎の目に何となく膨らんでいるように見えた気がした。
「……別に気にしてはいませんので、気を使わなくても結構です」
一見すれば何時もと変わらないように見えるセイバーの様子。しかし、セイバーを良く知る士郎は、何処となくむすっとしたオーラが漂っているのを敏感に感じ取っていた。
そのため横に一歩セイバーに向かって移動し近づいた士郎は、横目でセイバーを見下ろしながら爆弾を処理するかの如く緊張に満ちた声で慎重に尋ねてみる。
これをほっておくと、後々厄介な事になることをよく知っていたためである―――経験的に。
「……本当に気にしていない?」
「はい」
「まあ、確かにテファのことはセイバーの方が良く知っているしな」
「そうですね」
「テファの事を信じていたからこそ、テファが自分から相談に来るまで待っていたんだろ?」
「……否定はしません」
「……本当に怒ってない?」
「ええ」
「……クッキーをどうぞ」
「許します」
「…………」
一つ一つ仕掛けられたトラップを解除するかの如く慎重さでセイバーの本心を探っていた士郎は、この問題解決にはクッキー一袋で解決できると判断を下し。懐からこう言った時のための非常用のクッキーを懐から取り出すと、それをセイバーに献上した。どうやら幸いにも今回は士郎の予想が当たり、セイバーは差し出されたクッキーが入った紙袋を受け取ると、その場で食べ始めた。
一枚一枚紙袋からクッキーを取り出し口に入れ、もぐもぐと咀嚼しセイバーはあっと言う間にクッキーを食べきってしまう。空になった紙袋をセイバーから受け取った士郎は、丸めて懐に戻すと小さく安堵の溜め息を吐いた。視線を隣に向けると、飲み物がなかったため口の中にクッキーがくっついてしまったのか、口に手を当てながらセイバーが微妙に顔を顰めていた。
もごもごと口を動かしているセイバーが何となく小動物みたいで可愛らしかったのでじっと見つめていると、視線を感じ取ったのかセイバーが慌てて顔を上げ。士郎と視線が合うと、セイバーは火の出る勢いで顔を真っ赤に染め上げると、残像が残る勢いで顔を士郎から逸らした。
「てぃ、ティファニアの件ですが、そ、その、か、解決したとは言えませんが、心に溜まった毒は抜けたと、お、思います」
「根本的な解決は全然だがな」
明らかに動揺している声を指摘することはない。
指摘すればどうなるか分かっているのに、わざわざ自ら虎―――獅子の尾を踏むような真似はしない。
そういった真似が出来たのは若い頃までだ。
「え、ええ。ですがそれも心配はいらないでしょう。相談相手も出来たようですし……それに、ティファニアはああ見えて強いですから」
「ほお、名高き騎士王にそう言わせるとは大物だなティファニアは」
「彼女は強いですよ。シロウが考えている以上に」
「女性がすべからず強いことは身に染みて理解しているよ」
「……苦労したようですね」
「まあ、な」
話している内に落ち着いてきたのか、段々と何時もの様子に戻っていくセイバー。と、不意にセイバーが“オストラント号”の羽根に付いたプロペラに視線を向けた。
「そう言えば……この世界の空を飛ぶ船に乗るのは二度目ですが、この船は以前乗った船と比べて随分と速いですね」
「まあ、この船は特別製だからな。多分この世界で一番早い船だぞ」
突然の話題の変化。
勿論そこを指摘するような真似はしない。
顔を背けたまま話し掛けてくるセイバーは一見落ち着いたかのように見える。しかし、金色の髪が彩る白い首筋はまだ微かに赤く色付いる事を士郎は見抜いていた。だが、士郎はそれも指摘することなく会話を続ける。余計な一言は寿命を縮めると言う事は、身をもって体験し尽くしているからだ。
「コルベールと言う魔術師が造ったと聞きましたが……特別製とは?」
「あの人は本当に凄い人でな。初歩的なものだが、独力で水蒸気機関を作り上げてる。その水蒸気機関をこの船の推進機関にしているから、風力頼りの他の船とは比べものにならない程の速度が出ているんだ」
「魔術師が発明ですか?」
「驚いたか」
目を見開き驚きを顕にしながら後ろを振り返るセイバーを見て、士郎はニヤリとした笑みを口元に浮かべた。
「ええ、驚きました。二度程彼の授業を受けた事がありますが、その時から他の魔術師とは違うように感じてはいましたが……」
「魔術師と言うよりも錬金術師みたいな人だからなコルベール先生は。ん? いや、まてよ。この世界では錬金術師も魔術師も同じようなものみたいだから別段可笑しくはないのか?」
「しかし、彼のお陰で予定より早く着く事が出来そうです。ミスタ・コルベールには感謝しなければいけませんね」
「指令では“至急”とあったから早く着くことはいいことだからな。まあ、礼には今度ブランデーケーキでも焼こうかと思っている。この間料理長にブランデーケーキの作り方を教えたんだが、その時味見を頼んだら、随分と気に入っていたからな。まあ、本人は色々と飛行テストが出来ると喜んでいたからそこまで気にしなくてもいいとは思うが」
士郎はロマリアまで“オストラント号”で送ってくれとコルベールに頼んだ際、彼が『飛行テストが出来る』と飛び跳ねて喜んだ姿を思い出し、冷風でかじかむ頬を苦笑に歪ませた。
と、その時、苦笑を浮かべる士郎の下から低い恨みがましい声が響いた。
「……シロウ。私はその事を知らないのですが」
「は?」
「味見です」
くるりと身体を回転させて士郎に向き合ったセイバーは、士郎を仰ぎ見てずいと顔を寄せた。
「何故、その時私を呼ばなかったのですか」
「あ、い、いや。その、だなセイバー。あの時は実験みたいなものだったし、材料も少なくて量もなかったし」
「それが何か関係があるのですか」
「その、だから。味見と言っても初の完成品だ。料理長と互いの労を労わるという意味でも食べてみたいじゃない、か……」
言葉が段々と尻すぼみに消えていく。
その原因となるのは自分を見上げてくるセイバーだ。夜の闇の中、星明りに照らされ浮かび上がるセイバーは見惚れる程美しい。だが、今はその美しさが怖かった。
歴戦の勘により危機を感じ、咄嗟に後ずさろうとする士郎を、しかし事前に察知したセイバーの手が制する。手や服を掴むのではなく、胸の上にそっと添えるように手を置くことで士郎の動きを全て事前に制するセイバー。絶妙な手腕である。士郎の行動を物理的ではなく精神的に動きを制しているのだ。身動きが取れなくなった士郎の背中に粘性のある汗が染み出し、冷えた風に吹く度に背筋に寒気が走る。
『動けばヤられる』―――その本能に訴え掛ける警告に士郎が凍りついたように動けない。一分か、それとも十分か? 不意にセイバーは小さく吐息のような笑みを零すと、士郎に背中を向けた。そして、吹き寄せる風に身を押されたように身体を逸らしたセイバーは、後頭部を士郎の厚い胸板に当てると光り輝く星に埋め尽くされた夜空を見上げその目に再度映した。
「美しいですね」
「あ、ああ……?」
「……本当に、綺麗です」
揶揄われたのか? と若干の戸惑いを残しつつも、士郎はセイバーの柔らかな髪の感触を胸元に感じながらも頷く。その時、下がった視線が前髪越しにセイバーの顔をとらえ。
―――っ。
泣いている―――そう、一瞬士郎は思った。
薄い唇で緩やかな弧を描き、細めた瞳で遠い星空の彼方を見上げるセイバーが、酷く、弱々しく、儚げに見えて。
まるで……星明かりで出来た、刹那の幻想のように……。
「シロウ?」
だからだろうか、無意識の内、士郎は両手でセイバーの身体を抱きしめていた。
花に似た甘い香り。
柔らかく華奢な身体の感触。
冷えた身体の奥に感じる―――生命の熱。
幻などではない。
「どうかしましたか?」
突然抱きしめられ一瞬驚きを見せたセイバーだったが、直ぐに回された手に自分の手を添えると士郎を見上げ、優しい笑みを向けてきた。
昔に比べ、随分と柔らかくなった笑みを見た士郎は、胸の奥に湧き上がってきた黒いざわついた衝動が消えていくのを感じ、セイバーを抱きしめる手の力を弱めた。だが、直ぐに自分のやった事を思い返し、何をやっているんだと焦ってしまう。
「……いや、その……寒いかと、思ってな」
セイバーの問いに、つい咄嗟に誤魔化しの声を上げる士郎。
直ぐに『何が寒いかと思ってだ』と思い怒られるかと身を固くするが、返ってきたのは、
「ええ、そうですね。ここは確かに」
小さな声と、若干増えた胸に感じるセイバーの重さだった。
夜空を見上げていた瞳を閉じ、体重を士郎に完全に預けるセイバーは、眠っているようにも見える。しかし、士郎の腕に添えた手が時折撫でるように動く事が、彼女が起きていることを示していた。
チリッ、と胸の奥、鋭い痛みが走り。
夜風で冷え切った身体の奥に―――炎が灯った。
「とても―――冷えますね」
自然と、二人の身体が近付き始める。
月明かりに浮かぶ二つの影は、次第に近付き。
その時、一つの大きな雲が月を隠してしまい、船の甲板が闇に沈む。
数秒の後、風が吹き雲が動き、姿を現した月が空を行く船を照らし出し。
甲板に、一つの影を浮かび上がらせた。
後書き
感想ご指摘お待ちしております。
すげえ、文字数が偶然にも11111字だ……誤字とかないよな。
……ありました。
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