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ダプニス

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ダプニス

                  ダプニス
 ギリシアの古い、気の遠くなるような過去の話である。その時代には神々もこの世にまだ降りてきていた。そうした古い時代の話である。
 その地上に降りて来る神の中にヘルメスという神がいた。俊敏で知恵の回る神であり神々の伝令や使者としてその名を知られていた。
 そのヘルメスが恋をした。相手は美しい木のニンフの娘であった。二人は深く愛し合いやがて一人の子をもうけた。
 それは美しい赤子であった。父に似た利発そうな顔に豊かな黒い髪と琥珀の様に澄んだ黒い瞳、そして透き通る様な白い肌を持っていた。彼は月桂樹の側で産まれた。
 ここから父であるヘルメスは彼の名をとった。月桂樹はかって芸術と予言の神であるアポロンの愛を拒んだ美女ダフネが変化したものである。彼はその月桂樹の側で産まれたのでそのダフネから名をとられダプニスと名付けられたのであった。
 ダプニスは成長するにつれさらに美しさを増していった。兄でもある牧神パーンに預けられ彼により育てられたのである。
 パーンは山に住み自然を愛する野生的な神であった。そして笛と音楽、自由を愛していた。ダプニスに対してもその全てのものを教えたのである。
「いいかい、ダプニス」
 彼は弟に対して言った。
「この世で最も大切なものは三つあるんだ」
「三つ?」
 ダプニスは兄の言葉に耳を傾けた。羊の角と足、そして尻尾を持つこの兄は外見こそ恐ろしげであったがその心はおおらかで非常に優しかった。彼はその心と同じ様に優しい声で弟に語り掛けていたのだ。
「まずはこの笛とね」
 パーンはここでその手に持っている笛を吹きはじめた。そうするとこの世のものとは思えない美麗な音色が辺りを支配した。
「音楽。この笛だけじゃなく声でも出せるね」
「うん」
「そしてこの二つを何時でもできる自由なんだ。その三つが最も大事なものなんだ」
「他にはないの?」
 彼は兄に尋ねた。
「大事なものはその三つだけなの?兄さん」
「その三つさえあれば他には何もいらないね」
 だが彼はこの時あることを頭の中から忘れてしまっていた。
「僕はそう思うよ」
「そうなの」
「そう。だからね、ダプニス」
「うん」
 兄は弟に対して優しい声で語りかけた。
「君はその三つをずっと大事にしていくんだ。他のことはいらないと思う」
「わかったよ、兄さん」
 彼は素直な少年であった。兄の言葉をそのまま受け入れた。しかしそれが彼の悲劇の元となることはこの時誰も知りはしなかった。神である兄でさえも。
 ダプニスはそのまま野原、野山の中で成長していった。身体つきは細身ながら均整がとれ、足はスラリとしており毛は一本もなかった。そして白い肌は日の光や山や原の緑を映し、表情は常に爽やかで笑みを忘れなかった。黒い髪は巻いており、黒い目からは強く明るい光が消えなかった。彼はいつも野原や野山を駆け回り、笛を吹き、歌を唄った。自由を愛し、その中に身を委ねていた。兄と共に常に自由を謳歌していたのであった。
 彼が歌うとそれだけで木々や花々が活気付いた。そして彼の歌声が山や原を覆うと温かくなり、そこにいる全ての生き物が心を奪われた。心優しい彼は牧童達の為にも歌った。これが牧歌となった。
 自然の中にいた彼はその自然に愛されていた。だが彼はそれには気付いてはいなかったのであった。それにある女神が気付いた。
 アプロディーテーであった。愛と美を司る女神である彼女はそれに気付くと自らの職務もあり彼にあることを思いついた。愛を教えようというのだ。その時ふと恋人と別れたばかりの美しい花のニンフのことを思い出した。そして彼女の側に向かった。
「エケナイス」
 彼女は野原で一人泣いている少女に声をかけた。
「はい」
 少女はそれを受けて顔をあげた。淡い赤の髪に緑の目を持っていた。顔立ちは幼さがまだ残っているが穏やかな表情であり、そこには無垢さとあどけなさが感じられた。そして草色の服を着てその下には透き通る様な白い肌を持っている。一目で心を奪われかねない可愛らしい姿であった。
「もう悲しむのは止めなさい」
 アプロディーテーは彼女に優しい言葉を送った。
「ですが」
 それでも彼女はまだ泣いていた。
「私にはもうあの人は戻ってきませんから」
「過ぎた恋のことは忘れてしまいなさい」
 女神はまた言った。
「これからは。新しい恋に生きるのです」
「新しい恋」
「ええ」
 女神はにこりと頷いた。
「女の子は笑っていなくては駄目なのです。悲しむことは私が許しません」
「ですが」
「ですがもこうしたもないのです。これは愛と美の女神の言葉なのですから」
 言葉は強制であったが口調そのものは穏やかであった。女神はあくまで彼女のことを思っていたのだ。
「貴女には新しい恋を用意してあります」
「それは」
「ダプニスは知っていますね」
「はい」
 彼女も野原に住む花の妖精であるのなら知らない筈はなかった。ダプニスは彼女達にとっては永遠の恋人なのであるから。彼がそのことを気付いていないにしろ、だ。
「彼の元へ行きなさい。そうすれば新しい恋がはじまります」
「新しい恋が」
「そう。そして生きるのです。いいですね」
「わかりました。それでは」
「はい」
 こうして彼女は女神の薦めに従いダプニスの下へやって来た。彼はこの時兄であるパーンと二人で笛を吹いて遊んでいた。
「また上手くなったな」
 兄は弟の笛を認めてこう声をかけていた。
「凄いものだ。日に日に上手くなっている」
「だって毎日吹いているから」
 ダプニスは屈託のない顔で兄に答えた。
「自然と上手くなるんだ。それに笛を吹くことが楽しくて仕方がないんだ」
「そうか、それはいいことだ」
 兄はそれを聞いて目を細めさせた。
「好きなもの程上手くなっていくからな」
「うん」
「どんどん吹けばいい。そして山も原も歌で埋め尽くそう」
「そうしよう、兄さんと僕で」
 そんな話をしていた。そこへエケナイスがやって来たのである。
「あの」
 彼女はおずおずとした様子で二人に声をかけてきた。
「君は?」
 最初に気付いたのはダプニスだった。彼はすぐに彼女に声をかけた。
(この人と)
 エケナイスは心の中でこう呟いた。見れば自分より年下である。まだ幼さが残る。それでも一度見たら忘れられない美しさだった。今まで何度も見ているがあらためて側で見るとその美しさが一際映えた。
「どうしたんだい、エケナイス」
 今度はパーンが声をかけてきた。気さくな物腰であった。
「パーン様」
「色々あったそうだけれど元気になったみたいだね」
「はい」
 失恋した彼女のことを気遣ったのである。
「まあ長く生きていればどんなことでもあるから。気にしないようにね」
「有り難うございます」
 やはり彼は優しい神であった。彼女にもいたわりの言葉を忘れなかったからだ。
「それでどうしてここに来たの?」
 今度はダプニスが声をかけてきた。あどけない様子の声であった。
「実は歌を唄いたいと思いまして」
「歌を」
「はい。ダプニス様と二人で。宜しいでしょうか」
「僕は構わないよ」
 ダプニスは彼女の気持ちには気付いていなかった。いつもの遊びと同じと思い何の疑いもなくこう答えた。
「それじゃあここで唄う?それとも別の場所で?」
「別の場所で」
 彼女は消え入りそうな声で答えた。
「お願いできますか?」
「うん、いいよ」
 彼はやはり疑うことなく頷いた。
「それじゃあ何処がいい?」
「野原で」
 彼女は言った。
「そこで。二人で歌いましょう」
「それじゃ僕は席を外すか」
 事情を察したパーンはこう言って立ち上がった。
「二人でね、ゆっくり楽しんだらいいよ」
「有り難うございます」
 エケナイスは彼のそうした心遣いが嬉しかった。頭を深く下げて礼を言う。
「ゆっくりとね、ダプニス」
「うん、兄さん」
「エケナイスも。楽しんだらいいよ」
「すいません、本当に」
「何、いいってことさ」
 気さくに笑うパーンだがダプニスはここで勘違いをしていた。
「二人で遊んで来るね、兄さん」
 彼は遊ぶだけだと思っていたのだ。エケナイスの本当の気持ちには気付いていなかった。そしてパーンも弟のそんな様子にはやはり気付いてはいなかったのであった。これは彼の迂闊であった。
「それじゃ行こう」
「はい」
 二人は野原に向かった。そしてそのまま飽きるまで唄い、遊ぶのであった。それは次の日も続いた。その間エケナイスは幸せであった。新しい恋に入ることができたと思えたからだ。彼女は来る日も来る日も彼と共にいた。そしてその側で歌い、踊り、遊んだ。彼女は幸せの中にいた。彼を心から愛するようになっていた。もう離れたくはないと思う程にまでなっていた。
 暫くはダプニスはいつもエケナイスと共にいた。しかし彼はここであることに気付いた。
「ねえエケナイス」
 彼はふと歌を止めて彼女に声をかけてきた。
「はい」
「僕達最近いつも一緒にいるよね」
「はい」
 さっきと同じ答えであったが顔が微かに赤くなっていた。
「何かね。いつも一緒だね」
「そうですね」
「これだとよくないんじゃないかな」
 彼は何も考えずにこう言った。
「えっ!?」
「だってさ。いつも一緒ってことは自由に動けないじゃない」
 彼は自由が好きだった。悪気は全くなかった。自分の大事なものを出しただけであった。
「それだとよくないよ。やっぱり自由に動き回らなくちゃ」
「ダプニス様」
 エケナイスはそれを聞いて悲しい顔になった。
「私と一緒にいるのがお嫌ですの?」
「そういうのじゃなくてね」
 やはり深くは思っていなかった。
「自由にいないと。唄ったり遊んだり好きにできないじゃない」
「私はずっと一緒にいたいのですが」
 その声は震えていた。見れば顔も強張っていた。
「それがよくないんだって」
 しかし彼はまだわからなかった。
「ほら、いつも一緒にいるとさ。君も僕もそれだけ一人でいられなくなるじゃない」
「私は一人は嫌」
「何で?一人でいると気楽だよ」
 これがどれだけ残酷な言葉か彼にはわかっていなかった。彼にとって一人でいるということはそれだけ自由であるということなのであるから。エケナイスの気持ちにも気付いてはいなかった。
「だから。離れたりもしようよ」
「そんな・・・・・・。酷い」
「酷くないって。全部君の為にもなるからさ」
 彼はエケナイスの涙を見た。だがそこにあるものは見えてはいなかった。
「だからさ。僕は離れるよ」
「えっ」
「また遊ぼうね。それじゃあ」
 ダプニスはそう言い残すと駆けて言った。そして何処かへと姿を消してしまったのであった。まるで風の様に軽やかな足取りで。
「・・・・・・・・・」
 エケナイスはその場に呆然と立っていた。野原の中で花に囲まれながら。
 花に囲まれながら彼女は泣いていた。涙がとりとめもなく流れる。もう彼女にはそれを止めることはできなかった。その場に崩れ落ち一人寂しく泣くのであった。
 そして彼女は姿を消した。何処に行ってしまったのか誰にもわかりはしなかった。
 彼女が姿を消して数日後ダプニスはふと一人でいることに飽きてしまった。
「そうだ」
 ここでふとエケナイスのことを思い出した。そしてエケナイスがいつもいた野原に向かった。
「あれ?」
 だがそこには彼女はいなかった。周りを探したが何処にもいなかった。
「あれ、いない」
 そしてようやく彼女がいないことに気付いた。草や花に聞いても何も知らないという。だが彼女が最後にここにいた時のことを知っている花達が彼に教えた。
「最後に泣いていましたよ」
「泣いていたの」
「はい。何か凄く悲しそうに」
「悲しそうって。何故だろう」
 ダプニスにはその理由がわからなかった。
「また会えるのに。それで彼女が何処に行ったのかは知らないんだね」
「申し訳ないですが」
「それじゃあいいよ。自分で探すから」
 彼は彼女がすぐに見つかるとこの時は思っていた。
「またね。他の場所へ行ってみるよ」
「わかりました。ではお元気で」
「うん」
 こうして彼はエケナイスを探しに向かった。そして野原や野山だけでなく他の色々な場所を何日もかけて歩き回った。そして彼女を探したが結局見つからなかった。
「何処に行ってしまったんだろう」
 彼は彼女が見つからないことに次第に不安になってきた。
「いないなんて。一体何処に」
 次第に寂しくなってきた。その寂しさを感じながら尚も探し続けた。だが結局は見つかりはしなかった。
 彼女は何処にもいなかった。海の中にも孤島にもいなかった。聞いた話では天界にも冥界にもいないという。つまり彼女は彼の目の前から完全に姿を消したのであった。
「本当にいないの?」
 それが次第に彼にもわかってきた。
「僕の目の前から。いなくなってしまったの?エケナイス」
 名前を呼んでも返事はなかった。ついこの前まで名前を呼べばすぐに帰ってきた返事が今ではもうない。木霊だけが返るだけであった。
 次第に彼にもわかってきた。寂しさが。そしてその辛さが。何処を探しても彼女はいない。何処にも。いなくなってはじめて色々なことがわかってきた。
「だからあの時泣いていたんだ」
 彼はそれにも気付いた。あの時彼女が泣いたのはその別れが永遠のものに思えたからだ。別れは寂しい。そしてそれは単なる別れよりも大きなものであったのだ。
 探しているうちにわかった。エケナイスは彼氏に捨てられたばかりだったのだ。そして新しい彼氏を探していたのだ。そしてそれは他ならぬ自分であったのだ。
 彼女は彼を恋人として見ていた。だが彼は彼女を友達として見ていた。そこが最大の不幸であったのだ。彼は彼女の気持ちに気付いてはいなかった。そして恋とは何かもわかっていなかった。失ってそれが何なのかわかった。だが同時にもうそれは決して戻らないものだともわかった。
「僕が悪いんだ」
 歩き疲れた彼はある河のほとりに座り込んだ。そして一人こう呟いた。
「僕が彼女のことに気付かなかったから。それで彼女は」
 涙が出て来た。あの時の彼女と同じように。そしてそれは止まることがなかった。
 彼はそのまま泣き続けた。何日も何日も。悲しさと自分が彼女にしてしまったことに対する気持ちで。涙は止まりはしなかった。そしてそのままその場に倒れてしまった。動かなくなるまで泣き続けた。そして遂に死んでしまったのであった。
 彼が死ぬとそこに誰かがやって来た。それは兄であるパーンであった。
「済まない」
 彼はまず弟の亡骸に対してこう謝った。
「私は御前にもう一つ大切なことを言い忘れていた」
 倒れ伏し動かなくなった弟に言う。
「愛のことを。それを御前に言っていれば」
 ダプニスは一言も話しはしない。泣き疲れた目を伏せてそこに倒れていた。
「そうしたらこんなことになりはしなかっただろう。本当にすまない」
 謝ってもどうしようもないのはわかっていた。だが彼は己の愚かさと罪を償わなければならないと思っていた。
「せめて御前を忘れない為に」
 彼は弟に手を触れた。するとその身体が急に小さくなった。そして赤紫の花となった。
 小さな花弁が半球に集まり毛玉の様な花であった。棘があるが美しい花であった。
「御前を花に変えよう。そして何時までも野原に、そして私の心に留まってくれ」
 彼は泣いていた。それはエケナイスやダプニスが流した涙とはまた別の涙であった。しかし心からの涙であった。それが頬を流れていた。
 こうしてアザミの花は生まれた。今でも夏になれば野原に彼はいる。何時までも何時までも。それまで知らなかった恋というものを見守る為に。そこで遊ぶ恋人達を見守っている。

ダプニス   完


                  2006・1・25 
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