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ムラサキツメクサ

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第三章


第三章

「忌まわしい朝が来ますね」
「そうですね」
 イハマは俯いてアッパの言葉に頷いた。俯くその顔には別れを惜しむ気持ちがはっきりと出ていた。それが今の彼女の心であった。
「お日様が恨めしい」
「僕もです」
 アッパも言う。
「どうしてお月様は去って行かれるのか。それを知りたいです」
「ですが」
 今度はイハマが大胆になった。
「またお月様は昇ります」
「そうですね」
 その言葉にアッパも気付いた。
「必ず。ですから」
「今夜もまたここで」
 イハマは自分から言った。
「御会いしたいです。是非共」
「僕もです」
 そしてアッパもそれを受けた。断るつもりなぞ最初からなかった。
「では明日の夜もまた」
「二人で。御願いしますね」
「はい、二人で」
 アッパはその言葉を受け止めた。こうして二人の秘密の逢瀬ははじまったのだった。それはこの日だけでなく幾日も幾日も続いた。
 そうした日が続いた。二人はいつも夜に会う。そのことを知っているのは二人の他には月だけであった。誰も知らないことだった。
 そう、誰も知らなかった。だからこそ二人は会い続けたのだ。だがその間に二人がそれぞれいる村は水を巡って関係を悪くさせていた。この湖の水を巡って。
 二人もそのことは知っていた。この夜二人は苦い顔で船の上にいた。
「親父が言っていたよ」
 最初に口を開いたのはアッパだった。
「もうすぐ戦いになるって」
「戦いに!?」
「そうさ。皆もう武器を用意している」
 アッパは忌々しげにイハマに言った。
「そっちもそうなんじゃないかな」
「ええ」
 イハマは暗い顔でアッパに答えた。その通りだったからだ。
「そうよ。皆もう血相を変えて」
「そうだろうね。じゃあもう」
「私達も。こうして会うことも」
「できなくなるかも知れない」
 アッパもまた暗い顔になっていた。湖に映る二人の顔はこれまでにない程に沈んでいた。
「どうすればいいんだ」
 先に口を開いたのはアッパであった。
「このままだと僕達は」
「ねえアッパ」
 ここでイハマが言うのだった。
「どんなになっても一緒にいたいわ、私」
「どんなになってもか」
「ええ。何があっても」
 小さいがしっかりとした声だった。
「私貴方と一緒にいたい」
「僕だってそうだよ」
 それはアッパも同じだった。だから今こうして湖の上で二人いるのだ。できることなら一緒に何時までもいたい、それは偽らざる本音だった。
「けれどもう」
「いえ、できるわ」
 イハマのその声には決意があった。
「絶対に。ここじゃなくても」
「ここじゃなくてもか」
「離れましょう。村を」
 イハマは正面を向いたままだった。アッパを見てはいない。だがその心でじっとアッパを見ていたのである。彼しか見てはいなかった。
「それで二人だけで」
「二人だけでか」
「そうよ。いいかしら」
「僕は・・・・・・」
 アッパは少し時間を置いた。それから答えるのだった。
「君さえいればいいから。他には誰も何もいらないから」
「私もよ。私もアッパが側にいてくれれば」
 二人は同じだった。心は何処までも深くつながっていたのだ。もう二人を分けることなぞ誰にもできなくなっていたのだ。例え死でもだ。
「いいから。じゃあ」
「うん」
 アッパは力強く頷いた。
「行こう、二人で」
「ええ」
 次の日二人は誰の目の前からも姿を消した。それ以降姿を見た者はいないし行方も知れなかった。二人が何処に行ったのか誰も知らなかった。
 
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