ローダンテとムナティウス
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第一章
第一章
ローダンテとムナティウス
コリントでの話である。そこにかってローダンテという娘がいた。
紅い香りだつ髪の毛に澄んだ緑の瞳を持っていた。スラリとした身体でその顔は細長く細い身体によく合っていた。肌は透き通る様であり太陽や月の光をよく映えていた。コリントにおいては知らない者はいない程の美しい少女であった。
この少女を射止めたいという者は多くいた。だが彼女は生真面目であり信仰するアルテミスに習い男の側にいることはなかった。アルテミスは処女神であり決して男を側に寄せないことで知られていたのである。そして彼女はそのアルテミスの巫女であった。それが為に諦めてしまう者も多かった。
だがどうしても諦められない者もいた。ムナティウスという若い猟師であった。
彼は大柄で逞しい身体を持っていた。髪は黒く、顔付きも精悍で非常に男らしかった。だがその心は繊細でどうしてもローダンテに自分の気持ちを言うことができないでいた。その為毎日思い悩んでいた。
「どうすればいいんだ」
彼はいつも心の中でこう呟いていた。
「どうしたら彼女は僕のところへ来てくれるんだろう」
その大きな身体を奇妙なまでに小さく折り曲げて呟く。だが呟くだけではどうにもならなかった。彼はずっと思い悩んでいた。その思いは日に日に強く、深いものになっていき彼を苦しめた。だがどうにもならないのもまた事実であった。何よりも彼女はアルテミスの巫女なのである。それがさらに彼の絶望を深めていた。
だがそんな彼を見て哀れに思った神がいた。他ならぬアルテミスであった。彼女はその神の性を隠し、若い女の猟師になって彼の前に姿を現わした。そして森の中でいつもの様に切り株に座り込んで悩んでいるムナティウスに声をかけたのであった。
「ムナティウス」
かん高く、響き渡る声が彼の耳にも入ってきた。
「何をそんなに悩んでいるの?」
「君は」
ムナティウスはその言葉に気付き顔をあげた。見ればそこに金色の髪を後ろで束ねた緑の瞳を持つ長身の少女がいた。
弓矢を持ち、服は少年のそれであった。
「一体誰なんだい?」
「私はミケナイの猟師よ」
身分を偽ってこう名乗った。ミケナイとはコリントの近くにある国である。
「ミケナイの」
「貴方のことは聞いているわ」
彼女は親しげにこう言葉をかけてきた。
「僕のことを?」
「そうよ。悩んでいるそうね」
「うん」
彼はそれに答えた。こくりと頷く。
「否定はしないよ。その通りさ」
「ローダンテのことね」
「そうさ。僕は彼女のことが好きだ」
彼は言った。
「けれどどうすることもできないんだ。こんなに好きなのに」
それは言葉というよりも嘆きそのものであった。
「僕にはどうすることもできない。言うこともできないし。それに」
「彼女がアルテミスの巫女だから」
「そうなんだ。アルテミスの巫女は男を近付けない。だから僕も彼女の側に寄ることができないんだ。こんなに好きなのに」
「近付きたいの?」
「勿論だよ」
彼は言った。
「そしてどうしたいの?」
「愛したい」
一言であった。だがアルテミスはそこに彼の本心を見た。
「愛したい、それだけなんだ」
「わかったわ」
神はそれを聞いて頷いた。
「純粋に彼女が好きなのね」
「うん」
その言葉に偽りはなかった。アルテミスは何よりも純粋な心を愛する神である。だからこそ嘘は見抜くことができるし許しはしなかった。潔癖症の気質を持っているのである。
「それじゃあ彼女に告白してみせなさい」
そしてこう勧めた。
「えっ、けど」
だがムナティウスはそれに対して戸惑いを見せた。
「僕が告白しても彼女は」
「そんなのわからないじゃない」
そう言って励ます。アルテミスはこの時ローダンテのことをあまり知らなかった。自分の巫女をしているのは知っているがその貞節はあくまで普通の強さだと思っていたのだ。だがこの時はまだそれを知らなかった。アルテミスでさえも。
「何度も言えば大丈夫よ」
「そうかな」
「人に必要なのは誠意だから」
純粋な彼女ならではの言葉であった。
「誠意があればきっと実るわ」
彼女がアフロディーテの様に愛を知っていれば違うことを言ったであろう。だが彼女は狩猟の神であり愛の神ではなかった。愛のことは専門外であるだけでなく神々の中でも最もそれに疎い神であった。これもまた災いした。彼女は愛とは誠意であると思っていたのだ。決してそうではないというのに。
「貴方の誠意は私が保障するわ」
「本当に?」
「ええ」
神であることを隠してこう答えてにこりと笑った。本当に愛とは誠意であると疑っていなかった。
「だから。告白しなさい」
また勧めた。
「そうしたら実るわ」
「けれど彼女は」
彼はまた引っ込み思案に入った。
「アルテミス様の」
「それも大丈夫よ」
「何でそう言えるんだい?」
「私にはわかるのよ」
彼女でなければわからないことであった。他ならぬアルテミスなのであるから。だがムナティウスはそれを知らない。だから戸惑っていたのである。
「わかるの?」
「そうよ。だから心配しないで」
ムナティウスを励ます。
「アルテミスの加護を信じてね」
「うん。それじゃあ信じてみる」
彼も猟師である。アルテミスを信仰している。だからこそこう応えたのだ。
「そして。彼女に告白してみるよ」
ようやく決意した。アルテミスはそれを見て優しく微笑んだ。日に焼けて少し間違えると少年にも見えるその顔が完全に女性のものとなっていた。
「頑張ってね」
「うん」
彼は足取りを軽くさせた。そのまま元気よくその日の狩猟に向かう。アルテミスはそれを見送った後で自分の次の仕事に向かうのであった。
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