良縁
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第五章
第五章
今度は久し振りの休日だった。それで借りてある宿舎に戻りに行った。一応そういうものを持ってはいるのだがあまりにも忙しく殆ど戻ることはできていなかった。これも海軍将校の生活だったのだ。
そんな中でやっと戻れて道を一人歩いている。その時にふと着飾った少女とすれ違った。淡い桜色の着物に紅の袴、それに白い日笠に黒いブーツというこの時のトップモードだった。黒く長い髪を伸ばしている。顔立ちは幼いばがら気品があり黒く大きな目がぱっちりとしている。顔は白く身体は細い。小柄でとても目立つ少女だった。
「あっ・・・・・・」
思わず振り向いて声をあげてしまった。
「あの人は」
「あの人?」
すれ違ったその時に声をあげてしまったのがきっかけだった。少女はこちらを振り向いてきた。
「あの人とはどなたですか?」
「えっ、いや」
「貴方は」
ここで少女は彼を見てしまった。ここでもやはり海軍の軍服を着ていた。
「海軍の方ですね」
「はい」
海軍ならば曖昧な返答は許されない。毅然とした言葉を返したのだった。
「そうです。海軍少尉伊藤信太郎」
「伊藤様ですか」
「そうです。只今横須賀に赴任しております」
姿勢を正し敬礼をしたうえで答える。
「以上であります」
「少尉さんですか」
「はい」
またはっきりと答えた。
「その通りです」
「そうですか。私はですね」
「貴女は」
「学生です。この横須賀の女学院に通学しています」
「左様ですか」
「名前は祥子」
にこりと笑って名乗ってきた。
「井伏祥子と申します」
「井伏祥子さんですか」
「はい」
そのにこりとした笑みをまた返してきた。
「そうです。宜しければ以後お見知りおきを」
「わかりました」
伊藤も礼儀正しく言葉を返した。
「それではそのように」
「はい。御願いします」
「ええ。それで井伏さん」
彼女を名字で呼んだ。
「今からお帰りですか」
「はい、そうですが」
「それではですね」
祥子のその言葉を聞いて海軍軍人の心を思い出した。スマートで目先が利いて几帳面というのが海軍将校であるとされていたが紳士だれとも厳しく言われていたのだ。
「お家まで送らせて頂いて宜しいですか」
「伊藤様がですか」
「いけませんか」
祥子に対して問い返す。
「それで。なりませんか」
「宜しいのですか?」
受け入れも拒みもせずこう返してきた。
「それで。伊藤様は」
「私はですか」
「はい。伊藤様の方で何か御用件でも」
「それは御心配なく」
静かに微笑んでみせて彼女に返した。
「今はただ下宿に帰るだけです」
「それだけですか」
「はい、それだけです」
その微笑みのまま祥子に答えた。
「それだけです。ですから」
「宜しいのですか」
「ですから。宜しければ」
また言う伊藤だった。
「如何でしょうか」
「御願いしても宜しいのですね」
「はい」
はっきりと答えた伊藤であった。
「是非。お任せ下さい」
「そこまで仰るのなら」
祥子は伊藤に対して何の疑いも抱いていなかった。彼の誠実な申し出を信じたということもそうだがそれと共に軍人という職業への信頼もあった。この時代軍人は悪いことはしないと信じられていたのだ。軍人は頭も身体も優秀で品行方正な者がなるものだったからだ。
「御願いします」
「はい。それでは」
「私のお家はですね」
「はい」
「あちらです」
まずは道の右手に顔を向けてきた。
「あちらの方に少し行きまして」
「どうなるのですか」
「詳しく案内させて頂きますね」
「はい、御願いします」
こうして祥子を守りそのまま彼女の家までついて行った。玄関まで辿り着いたその時彼は驚くことになった。まずはその玄関を見てだ。
「何と」
「どうされましたか?」
「ここが井伏さんのお家ですか?」
「はい、そうです」
伊藤に顔を向けて静かに答えてきた。何とその玄関は西洋風の巨大な門だったからだ。普通の玄関と言っていいものではなかった。
「ここですが」
「何と。いや」
最初は驚いたがすぐにわかった。祥子は話し方や服装を見ても育ちがいい。それならばそれなりの家にいることは当然であった。
「何でもありません」
「そうですか」
「井伏様ですか」
「母の姓です」
穏やかに笑って述べてきた。
「母の」
「お母上のですか」
「ですが。今はいません」
伊藤に対して寂しい顔を見せてきた。
「今は。もう」
「そうですか」
それがどうしてかはわかった。だからあえて問わなかった。伊藤の気遣いである。
「それでですね」
「ええ」
そのうえで祥子の話を聞く。
「今は私と」
「貴女と」
「婆やと二人の女中と一緒に暮らしています」
「こちらのお屋敷にですね」
「はい、そうです」
見れば見事な洋館だった。白い二階建ての大きな屋敷で斜になった屋根は赤い。その屋根がまた白い壁と対比になっていて実に見栄えがよかった。
「ここにです」
「そうなのですか」
伊藤は話を聞いてからまた問うた。
「それで」
「はい。何でしょうか」
「学校にはいつもお一人で」
「はい、そうです」
静かに伊藤に答えてきた。
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