| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

良縁

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第十章


第十章

「あのお嬢さんの御母堂はな。そうだったのだ」
「そしてだ。その身受けをした方はだ」
「どなたですか?」
「岩山善四郎」
 艦長がこの名前を出してきた。その名前を聞いて伊藤も思わず身体をこわばらせてしまった。そのうえで完全に動きが止まってしまったのだった。
「岩山善四郎といいますとあの」
「そうだ、あのだ」
「何度も首相や様々な閣僚を経験し公爵にもなっているな」
「あの岩山善四郎だったのですか」
 副長の言葉には何とかといった感じで応えることができた。
「あの。政界、いえ各界の首領とまで言われる」
「山縣有朋と同じだ」
 かつて陸軍や警察、内務省に権力基盤を置き日本の元老として君臨した男である。その評判は陰気な人間性と謀略を好むやり方、汚職で生前からかなり悪かった。
「俗に言えばな」
「あの山縣公爵とですか」
「そうだ。まさにな」
「確かに噂では」
 このことについては伊藤も知らないわけではなかった。
「よからぬ噂を度々聞いていますが」
「その人物の妾の娘さんだぞ」
「はい」
「わかるな」
 声も目も咎めるものになっていた。
「結婚となればだ」
「そうですか」
「心配するな。相手は幾らでもいる」
「確かに岩山公爵は海軍とも縁が深い」
 副長も言ってきた。彼の基盤はどちらかといえば陸軍よりも海軍にあるのだ。それは藩閥政治の名残で彼が薩摩出身だったからである。
「だが。それでもだ」
「止めるべきだと」
「好きか」
 ここで不意に伊藤に聞いてきた。
「あのお嬢さんが好きか」
「それは」
「まだ知り合って日が浅いのだな」
「そうです」
 それはその通りだった。
「まだそれ程」
「ならばいいな」
 これを聞いて納得した顔になる艦長であった。
「忘れるのだ。いいな」
「忘れるのですか」
「それが君の為だ」
「それにだ」
 また副長が横から言ってきた。
「我々は海軍だ」
「はい」
「相手の出も気にしなければならない」
 そういうふうになっていたのだ。海軍がエリートとされていたからでのことだ。
「だから。妾さんの娘さんは」
「そうなりますか」
「おそらくはだ」
 艦長はまた伊藤に言ってきた。
「悪い娘さんではあるまい」
「はい、そうです」
 これは伊藤が一番よくわかっていることだった。
「それに関しましては」
「それはわかる」
 伊藤のその言葉を受けて頷く。
「しかしだ。それでもだ」
「やはり駄目ですか」
「そうだ。あまりにも危険だ」
 またこう言ってきた。
「その父親がな。それも考えるのだ」
「相手だけではなく」
「そうだ。相手だけではない」
 艦長は念を押してきた。
「その出自や親も」
「よく考えなければならないのだ」
 副長もまた言うことは同じだった。
「だからだ。諦めろ」
「どうしてもですか」
「そうだ。ここは退け」
 こうまで言うのだった。
「これからは会わない方がいいな」
「彼女ともですか」
「別に会わないこともできるだろう?」
「違うか?」
 今度は二人で彼に問うてきたのだった。
「だからだ。いいな」
「諦めるのだ」
「左様ですか」
「うむ。我々は賛成しない」
「そういうことだ」
 上官からの命令であった。
「ならば。いいな」
「忘れるのだ」
「・・・・・・・・・」
 返答できなかった。海軍ならば即答するものだ。しかし今回ばかりはそれがどうしてもできないのだった。伊藤は俯いたまま沈黙していた。
 しかし艦長も副長も。その彼の心がわかっているのかあえてこう言うだけであった。
「今はいい」
「答えられなくともな」
「申し訳ありません」
「しかしだ」
「あまりにも噂の多い人物だ」
 このことを言うのである。
「しかも妾の娘さんだ」
「ならばな。忘れるしかない」
 こう言って彼を止めた。彼も答えることができなかった。それから数日彼は船から出なかった。とても出られなかった。そして出るようになってからも。彼女の通る道はあえて避けて通った。こうして自分から忘れようとしたのだ。だがある休日に。それは突如として終わってしまった。
「あっ・・・・・・」
「お久し振りです」
 あの袴ではなく白い洋服を着ていた。その服を着た祥子と横須賀の街で会ってしまったのだ。これは全くの偶然の結果であった。
「近頃どうされていたのですか」
 穏やかに彼に問うてきた。
「御会いできませんでしたが」
「それは」
 本当のことは言えなかった。つい口籠ってしまう。
「何でもありません」
「お忙しかったのですか?」
「ええ、まあ」
 そういうことにしたかった。だからその言葉に乗って頷いた。
「実は。それで」
「そうだったのですか。それでですか」
「ええ、おそらく今後も」
「それではですね」
 祥子はまた静かに彼に声をかけてきた。
「今はお休みですよね」
「はい」
 避けたかった。だがそうはいかなかった。自分でもあがらえない何かがあった。それに逆らえず彼女の言葉に応え続けていたのだ。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧