Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第2章 幻想御手事件
七月二十四日:『幻想御手』
白い、白い、白い部屋。気が触れそうな程。実際、知り得る限り、十八人が狂気に呑まれて……その後、何処かに連れられたまま、戻りはしなかった場所。
兄達も、姉達も。弟達も、妹達も。残ったのはもう、この三人だけ。
──ボクの後ろで震える、二人の■だけ……この二人だけは、何としたって。
『────クソッ、ふざけやがって』
体格の良い白衣が、顔の思い出せないのっぺらぼうの白衣が吐き捨てながら右腕を振るう。ガン、と左側から衝撃。転んだ後で、殴られたのだと知る。
それでも、立ち上がる。ここで諦めてはいけないんだ、まだ、まだ。
『何だ、その瞳は────糞忌々しい、合成物体の分際で!』
──二度目、転ぶ。流石にキツい。でも、泣いている。だから、この膝は折れない。少なくとも、殴られたくらいで。大人の拳、幾ら大きくて……強くても。
『気に入らないんだよ、結果も出せない実験動物の分際で────!』
──三度目。幾らなんでも、涙とち血が溢れる。口を切ったのだろう、悔しくて、悔しくて噛み締めた歯で。そうだ、その筈だ。間違っても、暴力に何て屈してない。
『他の科学者どもも、あんなもの程度を目指して満足してやがる……そんなモノに、多寡だか第一位にも及ばずに、“絶対能力者”になどなれるものか────貴様は、特別製の筈だ! 貴様は怪物の筈だ! そうだろう、“五月の王”!』
──打ち据えられる。狂ったように、何度も何度も。狂ったように、口角に泡を噛む白衣の男に。
……ああ、いい加減、限界も近い。いや、いっそ、此処で殴り殺された方が楽かもしれない──
『だめ────』
『────だめ』
──壊れかけの意思に、自我に。響いた声は二つ。酷く小さく、今にも消えそうな程に弱くて。
それでも、しがみ付くように。支えるように、二つの右手。小さな、震える右手の感覚。だから────やはり、屈せはしない!
『大丈夫──ボクは──大丈夫』
──にこり、と。背後に向けて。血が流れてない方の顔で、微笑みかける。それは、安心させる意志である。まだ踏ん張れる事を、確認する行動である。
『貴様────まだ笑うか!』
そして、更なる理不尽の呼び水である。
『やめたまえ、その子は、君よりも遥かに資金がかかっているのだよ』
『きょ、教授……しかし』
『少し頭を冷やしてきなさい、ほら』
──白衣の老爺に促され、白衣の男は仕方なさそうに離れていく。
それを見送り、老爺は。
『さて……では、今日の実験を始めようか?』
──揺れる名札に、『木原』と。姓を記した老爺は、吐き気がする程に朗らかに笑った。
『“合成物体01号”』
──だが、ああ。大丈夫、屈しない。知っている、そうだ、最後まで屈しはしなかった。
だって、これは……俺が、ボクが忘れたモノだ────
「───そう、君が忘れた過去だよ」
──だから、気付かない。気付けない。視界の端、映り込む……純銀に。
「やっぱり、忘れていく。君も、そうなんだね────コウジ」
──気付けない、ままで……
………………
…………
……
思い出していたモノ、覚えていない。覚えていないが、忌々しい事を思い出すのも全てはこの静寂、静寂、静寂の所為だ。
白昼夢か、まだ、昼には早過ぎるが。そんな刹那にも、夢見た伽藍は崩れて消える。
──無心だ。無心を貫け。波の無い水面、明鏡止水。無念無想、空虚、伽藍────
物音一つ無い武道場の畳の上に、道着姿で正座する。キイン、と無音が耳に煩い。
まだ、明けて間もない夜の気配が残る室内。そこに、嚆矢は一人、瞑想する。
──一瞬。ホンの一瞬だ。その刹那に、全てを掛ける……。
その前方、約五メートル先の床の上に置かれた小さなモノ。嚆矢は、蜂蜜色の瞳でそれを睨み────
「────ッ!」
一閃、右腕が閃く。刹那、その異形の右腕、異境の刃金と化して。
『副魔王ヨグ=ソトース』を内包するダマスカス鋼、常人では見えない異界の色彩が一瞬だけ顕現して。
「……よし、大分ピンポイントでも使えるようになってきたな」
間違いなく掴み取った『実感』に、達成感と共に右掌を開く。そこには────
「……力加減は、まだまだ要努力だけど」
脱力してしまうくらいに握り潰され切り裂かれ、ぐちゃぐちゃになった……『ピンポン玉』があった。
『時空輪廻』の効果の応用、一種の空間移動だ。『虚空』そのものであるこの右腕により、本来ならば触れる事もしていないモノを掴み獲る。更に、『時空』を掴む魔術なので、物質の内外や硬軟は問わない。
だが、その所為か、加減が極めて難しい。こうして、軟らかいものも硬いものも粗方握り潰してしまう。
怪神の右腕は、切れ味も握力も怪神な様である。そして、朝昼はその一瞬の顕現だけでも、一キロ走を全力疾走したくらいの疲労がある。
「やっぱ、空間把握系の能力は才能だなぁ……こう言うの程、白井ちゃんのアドバイスがあれば上達早いだろうに」
通算三十回目の失敗に、伸びをしながら仰向けに倒れ込む。投げ出されたピンポン玉、過たず二十九の同じものが待つゴミ箱に。
──無いな。我ながらアレだけど、有り得ないわ。もしかしたら、着拒されてるかもなレベルだし……
思い出したのは、昨日の朝。あの、凍てついた視線は今、思い出しても震えてしまう。
「クソッ、昨日の俺の莫迦……もう少し、年上らしく落ち着いた行動しろっての」
等と、自分で自分を叱って。どうやってリカバリーしたものかと思案を巡らせる。
あれだけ有望な子はそうはいないのだから。勿論、今でも十分に魅力的だが、等と真性な事を考えて。
「ほっほ、なんじゃ、誰かと思えば対馬か。お前が朝練とは珍しいのぅ」
「あ────隠岐津先生、お早うございます」
そんな彼の真上に、いつの間にか立っていた痩躯の老爺。合気道部顧問、『隠岐津 天籟』。
起き上がり、一礼を。礼に始まり礼に終わるのは、どの武術も同じ。
「ふむ、ピンポン玉の訓練か。理合の掴み方でも忘れたのかの?」
白髪に山羊のような白髭の好好爺は、朗らかに、ぼうぼうの眉毛に隠れた眼差しでゴミ箱を見る。ピンポン玉の重なるそこを。
「いえ、まさか。先生の教え、忘れたくても、この魂に刻まれてますから」
「ほ、言いおるのう、たかだか三年で理合を窮めた気か?」
からからと笑い、咳き込む。慌てて背中を擦れば、年寄り扱いするなと叱られる。理不尽である。
「兎も角、良い機会じゃ。対馬、お主……最近、蘇峰とは会っておるか?」
「蘇峰、ですか……少し前に、瑞穂機構病院で会いましたけど」
妙な事を問われ、不可思議に思うも正直に。それに、老師は僅かに表情を曇らせて。
「実はのう、最近あやつは大能力者判定を得たのじゃが……」
それは、知っている。その病院で、彼の祖母の口から聞いた。
「ただ、のう……どうも、妙な感じがしてのう……随分と短期間で、能力の強度が飛躍的に上がった気がするんじゃ」
「飛躍的に……ですか」
その言葉に、引っ掛かるもの。そう……今、風紀委員が血眼になって追っている『幻想御手事件』を。
──まさか、あの、蘇峰が?
否定したい気持ちが、まず。だって、知っている。彼がどれだけ真面目な人物か、卑怯や怠惰を嫌うか。それを知るからこそ、嚆矢は彼を、新主将に指名したのだから。
「その時、何ぞ変わった様子はなかったかのう?」
問うた声、その声色は優しく。しかし────虚偽は許さないと、確かな気迫の籠められた声。思わず戦慄するくらいに。
「────俺が」
だから、答えは────ただ、一つ。
「俺が、確かめます。曲がりなりにも、『先輩』ですからね」
「…………」
何の答えにもならない、『応え』を返す。認めたも同然だ、こんなもの。『変わった様子があった』と。
無論、それは老師にも伝わる。彼は、ふう、と溜め息を吐いて。
「────何を、当たり前の事を格好つけておる。子供の問題じゃ子供が始末をつけんでどうするのじゃて」
「あはは、流石は先生だ。話分かるー」
笑って、頭を下げる。そうと決まれば、先ずは彼に確かめねばならない。時間は、あまり無いかもしれない。
『幻想御手』を使用した者は、時間が経つと昏睡してしまう────それはもう、風紀委員では確実視されているのだから。
「気を付けい、対馬。蘇峰の『質量操作』は更に強くなっておる。今までと同じとは、思わぬ事じゃ」
「はい……」
小さく頷き、武道場を後にする。言われなくても、彼を甘く見た事など一度もないが。
あの能力は、長じれば高みに昇る能力だ。『制空権域』など、目でもないくらいに。だから────
「気の所為だったで頼むぜ、蘇峰────」
そんな、祈りのような言葉と共に。懐から携帯を取り出した。コールするのは、風紀委員の同僚。
『初春飾利』と『白井黒子』、その二人に。
………………
…………
……
そして、結局。通話に出たのは飾利だけであった。
「あ、あの……何か、用事があったのかもしれませんし」
明らかに頬を引き吊らせながらの笑顔。まさか、本当に着拒とは。幾ら嚆矢でも、想像だにしていなかった結果であった。
「ウン……ソウダネ」
よって、そんな体育座りで。辛うじて、待ち合わせ場所のバス停前に駆け付けてくれた飾利の関心を買う。
『着拒じゃなかっただけマシだ』とか、『最低からは昇るだけ』と己を慰めて。
「ところで、『幻想御手』の手懸かりを見付けた』って言ってましたけど……どんな手懸かりなんですか?」
「ああ、正確には『かもしれない』ね。実は、後輩の一人が幻想御手を使ったような能力の上昇をしてるらしいんだけどさ」
気を取り直しての説明と共に、携帯を取り出す。コールする先は『蘇峰 古都』、その人。
約五回、コール音が鳴る。駄目かと思ったその直後、やや間を置いて相手が出る。
「もしもし、古都か? 俺だ、嚆矢だ」
『……先輩ですか。何か、御用ですか?』
寝起きのような、気怠げな声。たまに、欠伸のような吃音が混じる。
「おう、ちょっと『ヤキソバパン買ってこい』よ」
唐突な物言いに、隣では飾利が呆気に取られた顔をする。あの甘ったるい声を口の中で、『ヤキソバパン……?』と転がしている。
──まぁ、要するに『仲間内の符丁』だ。因みに、『ヤキソバパン』は『今から会おう』。
息を呑んだのが、自分でも分かる。信じたい、だからこそ、明らかにしないと。だが、その結果が……黒なら?
有り得ないと、信じてはいても。人の心に迷いは尽きない。
『魔はそこに付け込み、芽吹くのだ』、と。『だから、神と。正義と言う指針、放棄した思考で楽な道を人は望むのだ』と。敬虔な切支丹の義父が言っていた。
『……はは、分かりました。何処に持っていけば良いですか?』
笑いながら、カシュ、と軽い金属音。プルタブを開けたような、或いはアルミ缶を潰したような。
それに、ほうと息を吐いて。嚆矢は『正午に駅前広場』と告げて、通話を切る。心に、安堵を浮かべて。
「これで、仕込みはよし。後は……『野となれ山となれ』」
「それを言うなら、『後は仕上げを御覧じろ』ですよぅ……」
「そうとも言うんだっけ、最近は」
「古今東西、そうとしか言・い・ま・せ・ん」
わざとらしく、誤用して。誤謬で空気、幾らか和らげて。古い映画の俳優のように、大げさに肩、竦めて見せて。
「ところで、実はこちらも解決の糸口を見付けたかもしれないんです」
「へぇ、糸口を」
と、にこにこ笑う飾利の言葉に興味が移る。あの彼女が、ここまで自信を持って口にするからには、かなりのものだろう。
丁度、駅前広場行きのバスが停まる。それに乗り込みながら、先に段差を上がり、飾利の手を引いてエスコートしながら会話を。
「はい、あの、この事件に協力してくださってる学者さんが────」
と、席に座ったところでコール音が鳴る。嚆矢の飾り気の無い、購入した時の設定のままのものとは違う、最近流行りの邦楽。
「わわ、マナーモードにしてませんでした」
周りに謝りながら、衆目を集めた為に頬を染めて携帯に出た飾利。
「もしもし、佐天さん? もう、何日も連絡取れなくて心配したんですよ!」
相手は、涙子らしい。人の会話を盗み聞きする悪趣味などは持ち合わせないので、窓の外を眺めて時間を潰す事に決める。
流れていく車窓の景色を見ながら、思い返す。忘れてしまった、過去の己。
──何故、か。理由は、もう分かってる。『空白』の神刻文字、そう、飾利ちゃんに刻んだモノと同じ。
もしも、俺にも……アレが、刻まれたのなら。それすらも忘却の範疇に在ったのならば。
そんな思考、その為か、思わず飾利の方を見た。その時──
「────大丈夫ですっ!」
声、鋭く。響いた声は、飾利の。衆目を先程よりも、遥かに多く集めて。驚くほど、大きな声で。
「佐天さんは欠陥品なんかじゃありません! いつだって、私を引っ張ってくれる……わたしの、親友なんだから。だから──」
涙を、洟を流しながら。今も、今も。
救いを求めて? 否────断じて否。これは、誰かに助けを求める声ではない。
「だから────そんな悲しいこと、言わないで……」
──これは、自ら。己の意志で誰かを救おうとする、決意の声だ!
ならば、それを聞いた己が為す事は何か。全く持って、状況は読めないが。だが、だからこそ思考、早く。速く。回転する、悲劇を迎えぬ為に。
何が起きているのかと、無関係と言う免罪符をひけらかして阿呆面で見る眼差しや。痴話喧嘩かと、下衆な勘繰りで興味を向ける浅ましい眼差し。或いは、少女の涙に、訳も知らぬ癖に義憤に満ちた偽善の眼差しを向ける者達など、何するものか。
「────!」
刹那、右手が奔る。窓硝子、いや、人一人が通れる程に車体、触れた刹那で消し飛ばして。
「行こう、飾利ちゃん。佐天ちゃんの所に」
「っ……先……輩……」
差し出したのは、その右腕。俄に騒ぎになった車内で、錬金術行使の影響により、削れた命と反動により僅かに震えている。今は昼間、『正体不明の怪物』の時間ではないのだから。
それでも尚、矍鑠と。彼女に、その気高い意志に、輝きに。心からの敬愛、示すようかのように。
「……はい!」
握り返された掌、確りと掴んで飛び降りる。目の前には、舗装された路面?
否、そこには──青い、車の天井が。着地と共に、暴れ馬の如く揺れた車を走査する。問題はない、在るのは責任だけ。
分解と再構築、それは速やかに。運転手には最大配慮、安全に停車帯に寄せて。
言い訳なら、幾らでも出来る。ここは学園都市、異能の坩堝。確率、この車が『別の物だったかもしれない確率』。唯一の『確率使い』がそう言えば、他の誰に否定できるものか。
「────え?」
車の下部と、ハンドルだけを持った状態で。
「え、え? な、なんですか、これ、この状況?!」
慌てふためき、呆気に取られながら、辺りを見回す────ピンク色の髪の、幼女といっても差し支えの無さそうな見た目の女性。
「申し訳ありません、損害賠償は必ず致しますから、どうか御勘弁を。可愛いらしい淑女!」
車を再構築したバイクに跨がり、飾利を背後に乗せて。そんな言葉を残し、一秒が惜しくて走り去る。
後には、無惨なもの。
「……まだ、ローン……残ってるのに」
茫然自失で呟く、女性が残るのみだった。
………………
…………
……
「ヤキソバパン……か」
呟いた声は、愉しげに。薄暗がりの路地裏、そこにある数人の呻き声に混じって。
「そう、だな……ああ、遂に」
倒れ付した屈強な不良達、見下して立つ少年。その、女性にも見える麗らかな唇から。
「対馬主将を、越える日が来たんだから……喜ばないとな、■■■■■」
微かな、ほんの微さかに立ち込める腐臭と共に、金属の装丁を持つ『ソレ』を握りながら、彼はそう呟いた。
………………
…………
……
悪かったのは、誰か。自問しようと他問しようと、その答えはでない。多分、悪かったのは……運、だけだ。それで、良い筈だ。
「危ないところ、だね。まぁ、最近は随分と増えた症例だが」
目の前の、医師の言葉を聞く。臍を噛むような、苦虫を噛み潰したような顔で。ただ、一人。
「昏睡、原因は不明。他と同じ。全く、君たちは……風紀委員にせよ警備員にせよ、被害ばかり出して一体、何をしているのかな?」
「……お返しする言葉も、在りません。先生」
呟き、椅子ごと振り返った蛙顔の男性。知る人は少ないが、学園都市最高の医師。あらゆる『天国行きの予約を反故にする』────付いた渾名が、『冥土返し』。
何を隠そう、かつては自分自身が世話になった相手。だから今でも、頭の『あ』の字も上がらない。
──結局、佐天ちゃんは意識不明の状態で見つかった。勿論、幻想御手使用の影響で。友人の娘二人から聞いた話では、二十一日に使ったらしい。
飾利ちゃんに電話した直後に倒れ、駆け付けた時には、もう。
握り締めた拳、裂けんばかりに。不甲斐ない、また、この手は取り零した。
大事なもの、日常。何でもない、普通。また、それを掴み損なった。
「……後輩が来る予定なので、自分はこれで。彼女の事、宜しくお願いします、先生」
眠る彼女を一度見遣り、部屋を後に。やる事は、幾らでもある。第一────本来、ここに居るべき少女が自分から事件解決の為に、今も奔走しているのだ。
──今、飾利ちゃんはこの事件の解決に協力してくれている脳科学者『木山 春生』女史のところに行っている。昏睡した友人を、見てられなかったんだろう。
クソッタレめ、犯人の野郎……見付けたらタダじゃ置かねェ。
歯噛みし、廊下を曲がる。一刻も早く事件を解決する為に、もう怠けている暇はない。
──後悔しろよ、クソッタレ。俺の、手の届く内に手ェ出した事を……な。
刹那、『魔術使い』の顔で────左手に握っていた涙子の音楽プレーヤー、音楽ソフト『幻想御手』を見詰めた。
「対馬先輩!」
「佐天さんが倒れたって────」
「ああ……白井ちゃん、御坂」
そこに、現れた二人の常盤台の少女。即ち、白井黒子と御坂美琴の二人が。
その二人、学園都市有数の能力者二人組にして美少女二人。その二人に纏めて声を掛けられたのだから、今までの彼なら喜んで軽口の二つや三つ、いや、四つか五つくらいは叩いていた筈。
「──集中治療室に。悪ィンだけど、代わりに先生の話、聞ィといてくれるか」
「代わりに、って……あなたは、どうするんですの?! 対馬先輩、こんな時にまで自分勝手は────!」
それもなく、代わりに一言だけ口にして、擦れ違って歩き去ろうとする。誰がどう聞いても、確かに身勝手だろう。
それに、思わず黒子が手を伸ばす。華奢な右手、握り締める右拳を掴み────
「っ──?!」
逆に、その右腕を極められて。理合だけではない、所謂『柔』の技術との複合で。
制御を離れた両膝が、笑っている。なまじ合気を齧っている黒子だからこそ、それは理解できた。
「頼むよ、時間がねェンだ。俺ァ、もう一人も犠牲は出さねェって……決めちまったからさ」
瞬間、身動きの取れなくなった彼女。その掌に……データを抜き取った後の涙子の音楽プレーヤーを握らせてから、黒子を解放する。
にこりと、一応は笑っていた。しかし、確実に……その、蜂蜜色の瞳は爛々と。怒りの煌めきを宿し、決して笑ってなどいなかった。
「……分かりました、こっちは任せといてください、対馬さん」
「お姉さま、ですけれど!」
「くーろーこー、あんまりごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ。あんた自身の先輩を信じる事もできないわけ?」
そんな空気を吹き飛ばすように、笑いながら告げた美琴。黒子の反駁にも、鷹揚に。
「ただし────やるって言ったらやり遂げる人ですよね、対馬さんは」
「…………あァ、済まねェ。恩に着る」
最後に、そう釘を刺してきた美琴に頭を下げて背を向ける。目指すは、警備員支部。そこで、どうあっても手懸かりを掴む為に。
先程錬金した、二人乗りが出来る最低強度の超軽量バイクを嘶かせ、時速六十キロで約二十分ほどの距離の其処を目指す────
………………
…………
……
待ち呆け、が最も適切な表現か。少年は、駅前通りの日影に身を潜めて待っていた。ただ、その『声』を。
右手に持つ音楽プレーヤーで何かを聞きながら、左手に持つ『本』のページを捲って。
『____________』
刹那、耳元に声。幽かに、しかし確かに。明らかに、忍び笑う声が。
「……そうか、見付けたか。ご苦労さん、じゃあな」
『____ギィィィィィィ!?!』
少年────古都は、そう口にして『目に見えない何か』に触れた。そう、触れただけ。
それで、大気が震えるような断末魔と生物が潰れる音と共に『忍び笑い』が消えた。
「そうか、忘れてるのか……仕方ないなァ、先輩は」
にこりと、少女のようにも見える彼は、笑いながら……
………………
…………
……
後方に流れていく車道、その勢いさえももどかしい。踏切の赤信号に引っ掛かった今などは、無視してしまおうかと思った程だ。
──結局、警備員でも幻想御手事件の核心に至るものは無かった。黄泉川さんも手を拱いているだけらしい、あれだけの女傑が。
随分とまぁ、周到らしいな、犯人は。絶対、電脳狂だな。
「チッ────もしもし」
その時、携帯が震える。誰かは分からないが、取り出さずに耳掛けのインカムで受けた。僅かに、苛立ちの為に声を荒げて。
犯人の尻尾すら掴めない不甲斐なさに、苛立って。
『もしもし、対馬先輩! 今、何処に居りますの?!』
それに返ったのは、彼の声を上回る勢いの黒子の声。かなり切迫した様子で、声を荒げて。
運悪く、目の前を電車が通る。騒音に、更に声を張り上げる。
「今、木山春生の研究所に向かってる! 飾利ちゃんと合流する予定だ!」
『そうですの……好都合ですわ!』
「『好都合』、って────うおっ!?」
切羽詰まった口調で訪ねる彼女、それに理由は聞かず手短に答える────と同時に、後部座席に衝撃。後続車にカマでも掘られたのかと思い、振り返れば。
「急いでくださいまし、初春と連絡が取れませんの!」
「飾利ちゃんに?! 何があった、いや、判ったんだ!」
「説明は道々いたしますの、早く出してくださいな!」
リボンとツインテールが、フワリと舞っていた。即ち、携帯のGPSで座標を特定して空間移動してきたのだろう、後部座席にいきなり現れて座る黒子の姿。
度肝を抜かれたが、今はそんな場合ではないらしい。何しろ、あれだけ避けられていた彼女が自分のところに来るなど、正に緊急事態以外の何物でもあるまい。
そして、アクセルを回した刹那────
「誘導は、お願いしますわ」
「────成る程、その手があったかッ!」
黒子の空間移動により、まだ電車が通行中の踏切の向こうに出た。
────流石は大能力者判定の能力者、だな。ホント、スゲェとしか言いようがねェ。
俺なんざ、右腕だけをホンの数メートル先、しかも停止した物に向けてしか成功しねェ。バカデカい蚯蚓でもなけりゃあ。
快哉を唱えてそのまま、全速力でバイクを走らせる。最早、フルスロットルだ。
前方の邪魔な車や赤信号を、次々と空間移動ですり抜けながら。クラクションが喧しい、しかし、知ったことか。
「特定の音程パターンの取り込みにより脳波ネットワークを構築、それによる並列演算で能力強度を高める……これが、『幻想御手』の正体ですの。一人では弱くても、百人集まれば、という奴ですわ」
「ハッ────仲良しこよしで傷の舐め合いをさせる装置ってかい? そんな訳ねぇよ、白井ちゃん! 零時、八メートル!」
目を離さずに携帯端末を片手に検索しながら、耳のインカムの先の美琴……別ルートで研究所に向かっている美琴へのものと合わせて、嚆矢へと語りかけてくる黒子。その彼女に、座標を伝えれば────虚空から赤信号を越えて現れる、バイクの二人。
だが、概要は兎も角、開発目的が不明瞭だ。能力強化の頭打ちに苦しむ学生を救う為にでも開発されたと言うのか? ならば何故、大々的に、有名機関が行わないのか。
「────クセェな、臭いすぎる。何かしらの裏がある、必ず! 二秒後、九時!」
「ええ……わたくしも同意見ですのそして、一番の問題がそこですわ。『幻想御手』のキーとなる脳波の波形、その持ち主が……!」
速度を落とす事もなく、赤信号に突っ込む。左の真横から、当たり前ながらスピードに乗った一台の車が直進してくる。
衝突するように消えたバイク、何も知らない者が見れば卒倒ものの光景だろう。しかし、無論。二人は無事。バイクは速度を微塵も落とさぬままに、有り得ぬ機動で左を向いて走行している。車、スルリと躱して。
「木山────大脳物理学者、木山春生その人のものですの。そして、彼女の元に向かった初春と連絡が取れない……今、警備員が突入したようですけれど、外れだそうですわ。初春……一体何処に──────?!?」
それも、端末から目を離さずに行った彼女が、落胆の声を上げる────のとほぼ同時に、嚆矢がバイクの車体を大きく傾けて急ブレーキ。危うく投げ出されそうになった黒子だが、嚆矢の右腕に支えられて辛うじて留まる。
「な、なんですの、いきなり……!」
「────見付けた、今の車!」
非難の言葉を遮られて、漸く黒子は嚆矢を見た。この席に座って初めて、その眼差しを前席の彼へ。
「────花飾り、飾利ちゃんの! 木山春生……目の下の隈が酷い白衣の女、あれでいいのかは少し自信無ェけど!」
獲物を狙い定命た獅子の如く天魔色の髪を風に逆立たせ、透き通るような蜂蜜酒色の瞳を燃え立たせる彼へ。
靭やかながらも、揺るぎ無い右腕。食い縛った顎からやけに鋭い剣牙を覗かせる、年上の男────対馬嚆矢を。
その剣幕に、剣呑な雰囲気に。一寸、息を呑んで。
「ええ────その特徴で間違いありませんわ、どちらに!?」
「一時上方────クソッタレ、高速に乗りやがった!」
既に、距離は数百メートル以上。例え黒子の空間移動でも追い付けはしまい、直線で時速百キロ近くを出す自動車に、男一人と超軽量とは言え、バイクを抱えては。
「ハハッ……最高時速六十キロで高架高速はキッついぜ!」
だが、迷わず高速に乗る。料金所がネック? 実に幸運な事に、機械化された学園都市の料金所なら、彼の能力で誤動作して終わりである。
或いは、黒子の空間移動で飛び越えても良い。
「ご心配には及びませんわ────既に警備員が展開済みですし、わたくしの空間移動の最高時速は、約時速二九〇キロですもの! タイムラグはありますけど!」
「そりゃあ、便りになるなッ!」
後は、なんとしても追い付くだけだ。入り口、僅かな坂道。これを駆け昇って────
「────こんにちは、先輩」
「「?!」」
そこに、いつの間にか立っていた少年。指定の学ランに身を包んだ、少女のようにも見える彼は。
「約束をほっぽり出して、デートか何かですか? 本当、僕は、先輩のそういうところが……」
右手に持つ音楽プレーヤーを、御手玉のように繰りながら。左手に持つ────
「テメェ……道理で、最近見掛けなかった訳だよなァ、『妖蛆の秘密』!」
『クク──貴様のような、物分かりの悪い莫迦には付き合っておれんと言うだけだ、コウジ』
鉄の装丁の、吐き気すら催す不快の塊。魔導書『妖蛆の秘密』に、嚆矢はうんざりした敵意を向ける。
「ほら、また僕を無視する。だから、僕は、そういうところが……」
今も、今も。悍ましい蠕動の如く煌めく表紙の魔本に。目を取られていた、嚆矢へと──右手の音楽プレーヤーを『潰すように消した』古都は、投げつけるような動作。
何も持たない筈の、徒手のその右手で。確かに、『何か』を。
「僕は、貴方のそういうところが……大嫌いだったんだ!」
「────ッ!」
紅く濁った目で、憎しみを湛えた眼差しで彼らをにらんだ。
その瞬間、世界が歪む。一瞬、光が捩れて────バイクごと、路面が球形に『蒸発した』──────!
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