アリアドネの糸
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第三章
第三章
ラビリンスの中には何の気配もなかった。魔物がいると聞いていたがその気配も唸り声の類も全くなかった。何も感じずに聞かなかったのである。
「おかしい」
次第に彼は思うようになった。
「何の気配も感じない。これは一体」
怪訝に思いながらも先に進む。少しずつだが奥に入っていく。一番奥は玄室であった。その玄室に入る前に彼は心を身構えさせた。
「ここにいるのなら」
拳を作ってそれを胸に掲げる。本気であった。
素手でも自信があった。これまで神の血を引く悪漢達を素手で叩き潰してきた。だから今度のそれで倒すつもりだったのだ。これまでと同じように。
玄室の扉を開ける。部屋に入るとすぐに身構える。だがそこにいたのは。
「貴女は」
「はい」
何とそこにいたのはアリアドネであった。おずおずとした様子で白い玄室の中に立っているのであった。その白い服を着て。
「この迷宮には怪物なぞいなかったのです」
「では一体どうして」
「この迷宮は。試練の為の迷宮だったのです」
「試練の為!?」
「そうです」
彼女は言うのであった。
「父上がこの迷宮を突破した者を試す為にです」
「怪物を倒すのではなく」
「この迷宮を潜り抜けるのには力は必要ありません」
それは言うまでもないことであった。この迷宮は力では抜けることができないものであった。テーセウスも最初からわかっていた。
「父上は知恵を試されていたのです」
「知恵をですか」
「私は。これまでいつもこの糸を挑戦する方々にお渡ししていました」
そうだったのである。だがそれでも。
「けれど。受け取られる方はおらず」
「そうして。迷宮を潜り抜ける者はいなかったのですか」
「はい、そうだったのです。ですが貴方は」
「私は。ただ貴女のお話を聞いただけです」
テーセウスは穏やかに微笑んでアリアドネに応えたのであった。
「貴女の御好意を。それだけです」
「それこそが知恵なのです」
「それこそがですか」
「そうです。人の話を聞き分ける知恵」
アリアドネはまた言う。
「父上はそれをお試しになられていたのです」
「左様でしたか」
「そしてもう一つ」
まだあるのであった。
「父上が試されていたことがあります」
「王がもう一つ試されていたこと。それは」
アリアドネの言葉は続く。それは。
「勇気です」
「ですね」
やはりテーセウスは聡明であった。それもわかっているのであった。
「そのもう一つは」
「そうです。恐ろしい怪物がいるとわかっていても迷宮に挑戦する勇気」
それもまた試されていたのであった。試されていることは一つではなかったのだ。
「貴方にはそれもありました」
「そうでしたか。では私は」
「その両方を持っておられる方。そして」
「そして?」
ここでアリアドネの雰囲気がさらに変わった。顔がさらに赤らみ息が激しくなってきていた。
「もう一つのものを勝ち得た方」
「もう一つのもの」
テーセウスはこれはわからなかった。目に怪訝なものを帯びさせた。
「それは一体」
「愛、です」
それがアリアドネの言葉であった。
「貴方は。それも手に入れられました」
「私が。愛を」
「そうです。それは」
おずおずとだが言うのであった。静かな様子で。
「私の愛です」
「そうだったのですか。貴女は私を」
「なりませんか?」
顔を見上げてテーセウスに問うてきた。
「私では。貴方には相応しくありませんか?」
「いえ」
その言葉を拒むテーセウスではなかった。静かに首を振った後で穏やかな言葉をかけるのであった。アリアドネに対して。
「私もまた。貴女なら」
「私で。宜しいのですね」
「はい、そうです」
またアリアドネに対して告げた。
「宜しければ。このまま二人で」
「はい、二人で」
どちらが先であっただろうか。お互いの手を取り合う。そうしてその手を互いの背にやり抱き合うのであった。それで充分であった。
「そうか。見事通り抜けたのだな」
王はダイダロスから話を聞いていた。白く長い髭に頑健な身体を持った老人こそがそのダイダロスであった。ギリシアきっての賢者と謳われている。
「はい、左様です」
「アリアドネはどうしているか」
「テーセウス殿に始終付き添っておられます」
ダイダロスはそれも述べるのであった。
「迷宮を抜けてからも」
「ふむ。それではだ」
王はそれを聞いて満足気な顔になる。それまでも満足した顔であったが余計にである。
「あの若者の願いも決まっているのだな」
「アリアドネ様ですか」
「望むものを与える」
王はその満足気な顔で言うのであった。その言葉を。
「それがラビリンスを潜り抜けた者への約束だからな」
「左様ですね。それでは」
「しかも。それだけではない」
王の満足気な顔はまだそこにあった。そうして言葉を続ける。
「今度はわしからの褒美だ」
「それは一体」
「このクレタもやろう」
そう言い切ってきた。
「アリアドネの婿になるのだからな。それも当然だ」
「クレタの王位もですか」
「最初からそのつもりだった」
王はここではじめて己の考えを明らかにしたのであった。
「ラビリンスを潜り抜ける者にな。やろうと思っていたのだ」
「そうだったのですか」
「あのテーセウスならば安心だ」
彼もテーセウスのことは知っていた。ギリシアにおいてヘラクレス等と並び称される勇者である。それで知らない筈もないことであった。
「だからだ。いいことになった」
「ですね。これでクレタも安泰です」
「その通り。さて、宴の用意だ」
王は玉座から立ち上がってそれを命じた。
「よいな、盛大に行うぞ」
「御二方の為に」
「その通り。アリアドネの晴れの舞台であると共に」
「クレタにとって祝いの舞台でもありますな」
「そうじゃ。そして同時に称えようぞ」
王の満面の笑みは続く。
「見事迷宮を潜り抜けた若者をな」
「はい。それでは」
「うむ。盛大にな」
こうしてテーセウスは国と愛、そして幸福を手に入れたのであった。元は彼がラビリンスに挑戦しようと決意した勇気がはじまりであった。だが幸せになれたのはアリアドネの言葉を受け入れたのとその愛もまた受け入れたからであった。そうして彼は幸せになれた。全ては彼の心から幸せになれたことであったのだ。
アリアドネの糸 完
2008・1・18
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