アリアドネの糸
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第一章
第一章
アリアドネの糸
クレタの王ミノスは名君であったがそれと共にいささか奇妙なところのある王でもあった。
女好きなのは誰でもなのでそれは特筆するには及ばない。もっともそれにより嫉妬した妻に呪いをかけられてとんでもないことにもなっていたが。
この王は自分の宮殿の地下に巨大な迷宮を築いていたのだ。天才とまで謳われた職人であるダイダロスに命じて作らせたこの迷宮をラビリンスと呼んでいた。この迷宮を何事もなく抜けられた者には望むままの褒美を与えると常に豪語していたのである。
「誰でもよい」
彼はその黄金の玉座から高らかに言う。
「このラビリンスを無事抜けられた者には何でもやろうぞ」
そう言って挑戦者を集めていた。だが誰もが途中で挫折して出られなくなりダイダロスに助け出され恥をかいて逃げ帰るのが常であった。あまりにも複雑な迷宮の為まだ誰も無事に突破できてはいなかったのだ。しかもこのラビリンスにはある噂も流れていたのである。
「何でもあの迷宮にはな」
「何かいるらしいな」
人々はそう噂し合うようになった。
「ああ、化け物がいるらしい」
「化け物がか」
「一説にはだ」
ここで何故か話が飛躍した。
「頭が牛で身体が屈強な男の化け物だ」
「!?牛のか」
「ああ、牛だ」
クレタでは牛を祭事に使う。どうやらここから話が出たらしい。
「それが中にいてラビリンスの中に入った者を餌食にするらしい」
「食うのか、人を」
それを聞いて平気でいられる者はいなかった。化け物ならまだ問題はないがそれが人を食うのなら話は別だ。化け物が恐れられるのは人を襲ったり食ったりするからなのだがこれはどの時代でもどの国でも同じことである。言うまでもなくこの時代のギリシアにおいても同じである。
「ああ、そうらしい。迷路に人を迷い込ませて」
「それでか」
「今まではダイダロス先生がそれを助けていたらしい」
迷った人間をダイダロスが助け出していたからこう言われた。
「だがそれは運がいいだけで」
「下手をしたらか」
「だからあの迷宮には入らない方がいいな」
「わかった。じゃあそうするか」
自然とそれはラビリンスへの挑戦者をなくすことになっていた。
「命あっての物種だしな」
「そういうことだな。食われたら元も子もない」
「全くだ」
そんな話をしてラビリンスに近寄ることすらなくなった。だが中にはそれを聞いてかえって挑戦してやろうと思う者もいる。それがテーセウスであった。
アテネ王の嫡男であり見事な長身に逞しい身体をしている。特に手足の筋肉が見事である。金髪は巻いており顔は引き締まり贅肉がない。青い目は強い光を放ちそれはまるで夜空の中の星である。その彼が名乗り出たのである。
「ならばその化け物を私が退治してやろう」
「テーセウス、それは本気か」
「無論です」
父であるアテネ王にもそう言葉を返す。
「それにクレタ王にはこの前の敗戦で貢物を要求されています」
「うむ」
実はアテネとクレタにはそうした因縁があるのだ。だからテーセウスとしてはそれを晴らしたいという気持ちもあったのだ。この辺りは中々複雑である。
「ですから。ここは」
「わかった。それではな」
父王も彼の言葉が強いのを見てそれを認めるのであった。
「では。頼むぞ」
「はい、それでは今からすぐに」
「それでだ」
ここで父王は我が子にまた声をかけた。
「自信は。あるのだろうな」
「なければどうして言いましょうか」
彼は不敵に笑って父である彼にまた言葉を返した。
「御心配なく、それは」
「わかった。それでは期待しているぞ」
「何でしたらクレタの王にでもなってみせましょう」
彼はその陽気な顔をさらに陽気にさせて笑って言ってみせた。
「褒美は思いのままだというではありませんか」
「それはそうだが」
「だからです。少なくとも悪いようにはなりません」
そうはさせない。そういうことであった。
「では。これで」
「もう行くのか」
「送りの宴でしたら不要です」
彼はそれは望んでいなかったのである。
「父上」
「うむ」
あらためて父王に声をかけると父もそれに応えた。
「宴は帰った時に御願いします」
「その時にか」
「そうです。私は必ず帰って来ます」
これは口約束ではなく絶対な自信があった。だからこその言葉である。
「ですから」
「わかった。それでは帰りには馳走を用意しておく」
父王もそれを受けてこう約束するのだった。
「葡萄の酒とな。これでよいな」
「アテネ中で祝いましょう」
テーセウスは陽気にまた言った。
「その時にこそ」
「うむ、それではな」
こうしてテーセウスは父王と別れを告げクレタに向かった。そうしてクレタ王であるミーノスの前に現われた。クレタの宮殿はその繁栄を見せつけるかのようにかなり巨大で壮麗なものであった。
「ふむ、話は聞いている」
黄金はおろか様々な宝石が玉座に飾られている。しかも宮殿全体が白い大理石でできておりまるで鏡の様に映し出している。その宮殿の王の前にミノスがいたのである。見れば逞しい茶色の髭を生やした美丈夫である。何処となくゼウスに似ているのは彼がゼウスの息子だからでもある。血筋的にも立派と言っていい人物なのだ。
「アテネ王の息子テーセウスだったな」
「はい、そうです」
テーセウスはそのミノス王の前で片膝をついていた。そうして謁見していたのである。
「私がそのテーセウスです」
「ふむ、わかった」
ミノス王はまずは彼の言葉を受けて頷くのであった。
「アテネのだな」
「御存知でしたか」
「噂はここにも及んでいる」
王は厳かな声でテーセウスに述べた。
「幾多の悪人共を成敗してきているな」
「はい」
テーセウスも頭を垂れてそれを認めた。既に彼はアテネ王の息子としてだけでなく多くの悪人達を成敗した勇者としても知られるようになっていたのである。
「世の人はそう噂しているようで」
「噂ではない」
王は今のテーセウスの言葉は否定した。
「事実ではないか。まごうかたなきな」
「そう言って頂き恐悦至極です」
「そしてだ」
ここまで話したうえで話は本題に入った。
「今日ここに来た理由は何か」
「ここにですか」
「そうだ。ただ謁見に参っただけではあるまい」
王もそれはわかっていた。あえてそれを彼に聞くのであった。
「それは何だ。話すがよい」
「ラビリンスです」
テーセウスは片膝をついたままで顔を上げて王に答えた。
「それを見事潜り抜けてみたいと思いまして」
「ラビリンスをか」
「そうです。是非共」
「ふむ」
王はそれを聞いて考える顔になった。その顔をした後で今度は己の左手に控える美しい娘を見たのであった。
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