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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第四章、その5の2:思い通りにいくものか



 北の雨雲というのはしつこさに定評があるらしい。二日前の大雨で濡れた地面が漸く乾いたと思ったら、西の方からまた黒い雨雲が近付いてきたのである。今宵か、一両日中にはまた雨に見舞われそうであり、山肌を滑って吹いてくる風も些か強めである。今回の黒い雲の中に、稲光の矢が見えていないのが唯一の救いだと言えよう。
 慧卓は水車小屋の壁に背をつきながら、ぼんやりと小川のせせらぎを見詰めた。小さな石橋が掛けられており、その下には浅い底が見えるほどに透き通った水が流れ、耳に癒しの音を伝えてくる。水の流れにより車輪のように水車が周り、がらがらとした音を伴って水を掻いていた。水車小屋の中には臼があり、水車の力を借りて小麦を挽いているのは既に確認済みである。自然の恩恵によって小川の近くでは、脛半ばあたりまでの高さをした草が繁茂しており、薄紫の綺麗な花が咲いている。まるで『雨の恵みによって育っています』といわんばかりの可憐な九分咲きである。風雨に負けぬ強さには正直見習いたいものだ。

『息子達は北の丘陵地帯へ狩に向かっておる。水車の所で待っておるがよい。向こうから話しかけてくれようぞ』

 慧卓は昨日聞いたキ=ジェの言葉を思い起こしながら、北の方角を見詰めた。ほんの少しといったくぐらいにうっすらと霧が立ち込めているが、薄緑でなだらかな雄大さを誇る丘そのものを隠す事は出来ない。遠くの方には雲間から太陽からの光が大地に注がれており、神の存在を露にするかのような幻想的な雰囲気を醸し出していた。地平の彼方まで届いているかのようなどこまでも広大とした平原であり、キ=ジェ曰く此処には動植物が数多く生息する地域のため、そのまま野放しにしているという。彼の言葉は最もである。こんなに自由な気分になれる場所に人の手を加えるなど、邪にも程があるというものだ。ここには一体どんな動物が住んでいるのだろうか。鹿か、馬か。或いは熊かもしれない。
 そんな空想に耽っていると、何時の間にやら足元に一匹の小さな動物が近付いてきたのだが、慧卓はそれを見てかなり戸惑う。それは犬でも無ければリスでも無かった。現代の恐竜図鑑に載っていた二足恐竜、俊敏にして獰猛である、ヴェロキラプトルのような外観をしていたのだ。ここに来て漸く異世界らしい動物に出遭えたのだ。その恐竜は慧卓の腰程度の大きさをしており、強いて言うならターコイズブルーの綺麗な肌をしており、腹の部分は白かった。鉤のような鋭い爪が地面に引っ掻き傷を残し、蜥蜴のような面構えを慧卓に寄せて鼻をひくひくと動かす。不思議と警戒心が生まれぬ慧卓であったが、上目遣いに向けられたそれの黄金色の瞳に、期待のようなものがあるのに気付いた。

「しっ!飯なんか持ってないって!あっち行けっ!」

 面倒だといわんばかりに邪険にしても、その蜥蜴のような動物は何も反応せず大きく欠伸をしたと思えば、慧卓の隣にどっかりと腰を落としてしまう。そしてそのまま気楽な格好で頸を丸め、瞳を閉じてしまった。温厚な上にマイペースである。恐竜とは実際こんな性質だったのかもしれない。

「・・・勝手にしろ」

 このまま寝るのだろうか。というよりも何故こいつがここにいるのであろうか。群れから離れてしまい、そのまま村の外れにあるこの水車小屋にまで辿り着いたのだろうか。それにしても自分も随分無用心である、これが近付いてくるのに全く気付かなかったなんて。
 などと一人感想を内心で零していると、遠方から複数の人影が見えてきた。

(!あれだよな?)

 向かってくるのは馬に乗った人影二つ、歩く人影が複数。その複数の方は何かを担いでおり、それが木の棒に括られた猪と熊であると気付くのにそう長い時間は掛からなかった。という事は、彼らがキ=ジェが言っていた息子二人とその連れであるという事だろう。
 慧卓が小屋から離れ、端の傍に立って彼らを迎えた。先頭の馬に乗っている男は猛牛のような体躯をしており、馬の歩みを止めた後、ぎりぎりとした目で睨みつけてきた。

「お前はなんだ?何故人間が此処に居る?」
「御初にお目に掛かります。私はこの度王国より参りました北嶺調停団補佐役であります、ケイタク=ミジョーに御座います。ただいまこの地の領主様の御寛大と御厚意に浴しまして、館の方にて止めさせて頂いております」
「父の・・・?俺はその領主の長男、ホツだ。こっちは弟のソツ」
「初めまして、補佐役様」

 後ろから優しさの塊と思えるような、ほんわかとした顔付きの青年が顔を出す。体躯もそれなりに引き締まっているが、兄より一回り小さく見えてしまう。もしかたしたら自分と同じ年齢なのかもしれない、そう思えるほどの若さが弟の方から感じられた。兄弟揃っての黒髪であり、既に毛根が死に絶えた父親と違ってなんとも希望溢れる姿であろうか。
 ホツは慧卓を見下ろして露骨に鼻を鳴らす。嘲りが混じった口調は父親譲りのようである。

「ふん、いよいよ王国も末期だな。お前のようなひょろい餓鬼を騎士に据えるとは。特別武に秀でているようにも見えん。イルの奴と同じように、言を弄する者だな?」
「兄上、このようにお考えになられませんか?王国は徒な武の行使を控えているのではないかと。彼の起用は即ち王国が武によってではなく、言葉によって我等と対話するという事なのではと」
「私もそのように、調停官殿から窺っております」
「話に割り込むな!兎も角、あまり調子に乗らない事だ。貴様のような人間が居るだけでこの清らかな領地が穢れてしまう。用を終えたら早々に立ち去れ。いいな?」

 兄はそう言って鼻を鳴らし、部下を引き連れて屋敷へと向かっていく。彼らが運んでいく大きな獣達は眉間に鋭い穴が開いているようであり、光の無い瞳で揺れる虚空を見詰めていた。死体から薫る血の臭いに、小さな恐竜は頭を挙げてそれを興味深そうに見遣っていた。
 ソツは彼らが立ち去っていくのを見詰めて、慧卓に向かって謝罪する。

「御無礼、どうぞお許し下さい。先日に起きました些細な一件から、兄はずっとあのように不機嫌なのです」
「御話は窺っております。我が国の民の狼藉、深く謝罪いたします」
「いえいえ。その狼藉を犯した者達はひょっとしたら貴方の民ではなく、元は帝国から流れてきたものかもしれません。どうかそこまでお気になさらずに」
「ありがとう御座います。ところで、領主様からお聞きしたのですが先日から狩に行かれたとか?」
「ええ。兄弟仲良く、こうやって熊狩りを愉しんでおりました。中々かわいいでしょう?エルフ領内の熊は小ぶりなものが多くて素人でも狩り易いのです。それに身体も締まっていますから、肉を焼けば中々に美味なのです」
「凄いですねぇ・・・」

 遠くなっていく熊の背中を見ながら慧卓は率直な感想を漏らす。自分では到底あのような獣は狩れないだろう。目の前の優しげな青年は自分以上の胆力と武力の持ち主らしい。素直に感嘆の念が浮かんでしまった。

「こうやって狩を楽しめるのも、ここがタイガの森に近いからでしょうね。遠方ではそれなりに危ないと聞いております」
「件の、情勢の変化ですか?」
「ええ。私達が居た丘陵の向こうには幾つか村があるのですが、それらの村は全て父上と対立関係にあるのです。遠からず小競合いが起きるかもしれません」
「そうなのですか。つかぬ事をお伺いしますが、御父上はどちらの側に立っていらっしゃるのでしょうか?」
「紛う事無く、ニ=ベリ様です。イル=フード様の立場に立っていたら、今頃この村はもっと開放的になっていたでしょうね。私から言わせれば、あの衛兵上がりの武人が常日頃から訴える未来というのはどうにも信用が置けないのですが。おっと、今の言葉はどうか内密に」

 慧卓は驚きと共に首肯する。人目があるかもしれないのに領主たる父と意見を違えるのを憚らないとは、一体どういう事なのだろうか。このような辺鄙な村では領主が絶対君主であり、たとえ肉親であっても逆らっては命に関わるというのが慧卓の偏見であったからだ。あの御仁を思い起こすにバラしたら本当に洒落にならないと理解できたのか、慧卓は一・二も無く頷く。
 そんなこんなで話をしていると、館の方からエルフの兵士が駆け寄ってきた。

「ソツ様、兄君が御呼びです」
「分かった、直ぐに行くから。・・・ところでケイタク殿。そちらの獣は、いつ頃から?」
「ああ、こいつですか。なぜか気付いたら隣にいたんですよ。ふてぶてしい性格してますよね?」
「確かにそうですね。ですが御注意を。こちうはラプトルの子供でして、怒ると結構怖いですよ。あまり刺激しないようにお願いします。・・・考えてみればおかしいな、ラプトルは群れで行動する筈なのに」
「そ、そうなんですか。じゃぁこいつ、群れから逸れて?」
「可能性としては無視できませんが、ここに来た以上は仕方ありません。今日だけでも保護して、暫く様子を見ましょう。群れの居場所が分からぬ以上、下手にこいつを伴って野に出るのは危険ですからね」
「そうなんですか・・・分かりました。では当分はこいつの事・・・そうですねぇ、ミケにしましょうか」
「ちなみにこの子、顎が細いので女の子ですね」
「やっぱミカにしますね。ミカ、いくぞぉ」

 二人は会話を続けながら館の方へと向かっていく。後ろで寝そべっていた恐竜、もといミカはその声に反応してか目を向けて立ち上がり、一度身震いした後にまるで従者の如く慧卓の後をついて行く。黄金の瞳がきょろきょろと村の彼方此方を見て回り、その視線の先に居た村人達は慧卓を憎悪の目で見るのをやめて慄いた。少しざまぁ見ろというのが慧卓の内心であった。村を警備する私兵らしき者達には逆に反感を買ってしまったのが、気まずい所である。
 慧卓は館までの道すがらソツと雑談をし、館に辿り着くとミカを門の内側にある厩舎の近くへと置いて、領主の部屋へと赴いた。開口一番にキ=ジェが問う。

「どうであった、補佐役殿?」
「どう、とはどういう意味でしょうか」
「貴様は息子二人を見てどう思った?遠慮も礼儀もいらん、思う様いってみい」

 身を乗り出して聞いてくる。困った様子で慧卓は頬をかりかりと掻き、ぬけぬけとした態度で言う。 

「兄君のホツ様ですが、正に今のエルフを代表するような方でありました。屈強な肉体をお持ちであり、自らに大きな自信を持っている。そして人間を嫌っており、それを私の前で堂々と口外なされた。そのような姿勢を見るからに、きっと兄君はお父上の背中を追って育ってきたのだと理解しております」
「弟は?」
「非常に礼儀正しい方です。兄君とは正に正反対だ。武をもって語るを善しとせず、言葉による解決を目指す方だと思いました。正直な所、彼とは仲を違えたくありませんね」
「ふん、まったくもってふてぶてしい発言だ。だがそれで良い。俺が話しやすくなる」

 キ=ジェは猪面を得意げに歪めながら、誇りと優越心を滲ませたいやらしい口調で言う。

「昨今の情勢を貴様は知っているな?ニ=ベリ様とイル=フード様との間で半ば内乱状態だ。・・・まぁ、この付近では争いとは無縁だから内乱の空気は感じられんが、他の地域では本当に殺し合いをしているらしい。何とも馬鹿馬鹿しい事ではないか。我等の真の敵は目前に居るというのに。
 ・・・俺と俺の村がこのような幸運に恵まれるのは偏にニ=ベリ様の御蔭だ。あの方が貴重な私兵を割いて我等を御守り下さっている。近くの村は軒並みイル=フード様の隷下にあるらしいが、なに、情勢さえ変われば直ぐに我等の味方となろう。風見鶏の爺共にはそれがお似合いだ」
「すると賢人殿は此度の情勢においては、ニ=ベリ様に加担なさるというわけですか」
「いかんか?」
「いえ、私はそのようには申しておりませぬがーーー」
「話はまだある。聞け」

 考えてみればキ=ジェという男は老人であった。老人は己の話が中断させられる事を嫌うものだ。どこかの誰かが言った陳腐な台詞を思い出しながら慧卓は聞き手に徹する。

「兄のホツは幼き頃よりニ=ベリ様の御心から武を学び、研鑽を重ねた未来あるエルフ男子よ。俺の跡を継がせるにはこれ以上無い程の逸材だ。だが弟はそうではないらしい。人間との融和を常日頃から訴えているが、それは俺の遣り方とは違う。武をもって解決せねばならんのに、なぜ言を労する必要があろうか。
 それ以上に不満なのが、弟に一定の支持があるという事だ。俺の村だというのに、血迷った奴が多い事よ」
「弟君は聡明な方でいらっしゃいます。あの御方を支持する方は、きっとそのような所を好いておられるのでしょう」
「ならん。俺がこの村に求めるのは頑固たる、エルフによる統治だ。人間共の介入が起きるというのは、たとえ可能性の段階であろうと是認できん。それを招き入れるというのも、同じだ」
(・・・たとえ肉親でも認めないし逆らえばただでは済まさない、って言いたいのかね、この人は)
「俺は今年で63歳となる。そろそろ次期後継者を決めても良い頃合だ」
「御話を御伺いするに、悩む必要は無いようですね」
「ああ。だが憂いを払うに越した事は無い。そこで貴様の出番だ」

 ぎろりと、男は剣呑な光を目に浮かべた。否応無しに慧卓の頭に嫌な予感めいたものが走る。

「明日の晩餐に後継者の名を発表し、俺の財産と土地の半分を承継させる。貴様にはそれを保障してもらいたい」
「保障といいますと?」
「なに簡単だ。俺が選出した男がいかに有能な者かを声高にうたってもらえればいい。外交官としての言葉は重きと説得力があるからな、他の奴等に一応の理解を齎してくれるだろう。
 そして貴様はそれを言った後に、選ばれなかった奴を徹底的に侮辱しろ。人間との融和を目指す愚の輩を貶し、絶望させろ。それが出来れば俺と俺の村は、まぁ少なくともお前とは表面的に対立する事は無い。確約しよう」

 こういう時に限って、なぜ嫌な予感というものは当たってしまうのだろうか。先程まで笑みを交わしていたエルフの青年に対して、この老人は『そいつの未来を断つ協力をしろ』と言っているのだ。同年代の、それも自分よりも明らかに聡明であろう青年の希望を断つ事など、普通は容易に決断できない。
 だが目の前の老人は慧卓に悩ませる暇など与えない。初めからこの要望を否定する権利など無いといわんばかりに、キ=ジェは力強い笑みを浮かべていた。

「返事を、ここで聞きたいのだが」
「・・・承知致しました。御望みの成就のために、ささやかながら一助を加えさせていただきます」
「それでいい。台詞は自分で考えておくのだな。恨みが足枷にならぬように」

 陰湿な笑みが皺がよった口元から毀れ、慧卓に罪悪感と無力感の発生を強いらせる。ほんの少し、ほんの少し勇気があれば老人の要求を断る事が出来たのかもしれない。だがこれは仕方の無い事なのだ。調停官補佐役が欲するべきは賢人との平和的で協力的な関係であり、一青年の未来は必ずしも必要ではない。これは自らの職責の成就のためである。
 慧卓が内心で言い訳を募らせる度に眉間に皺が寄せられ、口がきりっと引き締められる。彼の胸中を悟ってか、キ=ジェはにたにたとして彼を蔑視していた。己が犯すであろう事の重大さを、知った上で無視しながら、彼は人間に対する優越心に浸っていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 そしてその日が訪れた。キ=ジェ当人が主賓を務める館の晩餐会だ。大きな食卓を囲ってそれは行われており、皆が料理や酒に舌鼓を打っている。出席者は領主とその息子二人、彼らの主たる臣下、そして村の村長や一部の村民。名目上王国から来た外交官を家族一同で歓迎するための歓迎会とうたっているが、実際それは自分の権威を示すだけの会だという事は、会場に集まったほぼ全員が知っている。だからこそ出席者の大半が取ってつけたような笑みを浮かべているのは不自然ではない。
 例外も勿論存在する。料理人が一両日煮込んで作り上げたという、熊の肉を使ったスープを啜るパウリナだ。木の皿に盛られたスープには地元で収穫されたであろう根菜を一口大に刻んだもの、そして煮込まれて黒味を帯びている熊肉が入っており、此方も同様に一口大に切られている。汁からは湯気がほくほくと上がっており、早目に食べねば損であると伝えてくる。出汁がよく取れているのであろう、パウリナはさも幸せだという笑顔を浮かべる。ちなみに此処までの案内役を買って出た少年エルフは、別室にて睡眠中である。なんと自由な奴であろうか。

「ケイタクさん、どうしたんです?これ美味しいですよ、これ。熊の肉に出汁が染み込んでて、ずずず・・・あぁ、舌が蕩けるんです」
「そ、そうなんだ。でも俺はいいや、あんまりお腹減ってないし」
「駄目ですって、こんな美味しいのここで逃す理由なんてないですよっ!はい、ケイタクさんのも取っておいたんで、食べて下さいね。ユミルさん、これをケイタクさんに」
「ああ。ほら」
「う、うん。ありがとね、ゆっくり味わうよ。あ、啜るのは行儀悪いから止めた方がーーー」
「ずずず・・・」
「・・・いいと思うんだけどなぁ」

 そう言って慧卓は己の前へ回されたスープを見詰めた。余程じっくり煮込んだのであろう、透き通った湖面に木のスプーンを沈ませ、それを掬ってから口に納める。なるほど、彼女の言うとおり出汁が旨い。豚骨にも似た深みがあるのだ。二口目、今度は肉と根菜を一緒に頬張る。するとどうであろう、肉が舌の上であっさりと解れてしまい、根菜と絡まって独特のアクセントを伝えてくるのだ。旨みをぎゅっと閉じ込めていたのだろう、歯で潰した途端に肉汁と共に溢れ出す。肉質は牛肉よりも柔らかく、それでいて豚肉よりも確りとした味。肉料理というのは概して一歩間違えれば臭いがきつくなるものであるが、この熊肉スープからはそれが出てこない。それどころか調理過程に香付けでも加えたのか、深くすっきりとした香が咥内を押し広げて、食欲を掻き立てるのである。
 そう、食欲を掻き立てるというのが建前である。慧卓とてそれは同じ事であったが、今宵はどうにも匙が進まなかった。寡黙なままに眉を顰める彼を見て、隣席のユミルが問いかける。

「ケイタク、お前大丈夫か?そんなに眉を顰めおって。周りが不振がるだろう?」
「すみません、ちょっと考え事をしてたもので・・・」
「そうか、なら仕方ないのか?」
「全然駄目ですよ、御主人!こんな愉しい時に一人だけ法律家気取りの顔してるんですよ?無粋にも程があります」
「・・・結構真剣な考え事なんだけどなぁ」
「はっ。そんな事日常化していると、将来禿げますよ。若禿とか超幻滅ですよね」
「さ、流石に言い過ぎではないのか、パウリナ?ケイタクにとっては流石にそれは酷な未来予報だぞ。なぁ、ケイタク」
「・・・そうですね」

 慧卓は生返事で返すと、再び思考の海へと沈み込む。ユミルとパウリナがそっと目を合わせた。

「・・・少し一人にしてやろう」
「ええ?皆で愉しくやるのが御飯じゃないんですか?・・・折角元の身分とは関係無い所まで出世したんだから、せめてこういう時くらいは付き合って欲しかったんだけどなぁ」
「元盗賊に元狩人の俺達が、現役の騎士の務めを邪魔してはならん。晩餐会というのは、俺らが想像していたものとは少し気色が違うようだ。お前も今日くらいは空気を読まんか」
「はぁーい。そういう事なら仕方ないかぁ・・・。じゃぁ御主人、私あれが食べたいです!」
「あれ?・・・ああ、あの猪か。待っていろ」

 空気を読んでくれたのか、二人は食事に集中する事に方針を変えて、猪肉のステーキに手を伸ばし始めた。その間にも慧卓は頭の中にずっと浮かんでいる、用意してきた残酷な台詞を言うべきか言うまいかで悩んでいた。言うべきなのが領主と交わした建前であるが、口にする覚悟が出来ているかと問われれば否である。『言いたくない、言っては駄目だ』。偽らざる本心がこの場においては理性であるのか、或いは本能であるのか。慧卓には判断をつける勇気が無かった。
 とんとんと、誰かが己の肩を叩く。慧卓が顔を向けると、もう一方の隣席に座っていたソツが、昨日にも見せた優しき笑みを浮かべていた。

「ケイタク殿、御機嫌いかがです?」
「ソツ様・・・」

 胸がずきりと痛む。余程酷い顔を浮かべていたのであろう、ソツは心配げに眉を垂れさせた。

「あの、あまり顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?水を持ってこさせましょうか?」
「お気遣い有難う御座います。ですがそのような事をなさらずとも、この場で蹲ったりはしませんよ」
「いやいや、そういうのは溜めておくと余計に害になりますよ。おい、水を一杯彼に」
「・・・すまない、ありがとう」

 彼の指示によって給士が水を一杯運んできてくれた。慧卓はそれを一息に飲み干し、静かに息を漏らす。その息に次いでソツは慧卓を慰めるように、或いは励ますように声を掛けた。

「王国の騎士、それも調停官補佐役という大任を預かる身というのは、私が思っている以上に苦労する職のようですね」
「ええ。本心ではやりたくないのに、建前上やらなくてはならない。そんな職務がある。それを先程まで痛感していた所ですよ。お食事の最中に、申し訳ないです」
「いえいえ、何もそれは謝るような行為ではありません。寧ろそれは立派な行為ですよ。社会の礎の一角となるに相応しき御仕事です。雪も積もれば、大山となって土を固めますからね」
「願わくばそれが足元から崩れないよう祈るばかりです。・・・いや、祈るだけでは何も始まらない。崩れぬように先手先手を打たなければならない。そのための責務が私にはある」
「皆、それは同じでしょう。それぞれが属する社会のために、一粒の石となって大地を作り上げるのです。・・・私は、まだまだ若造だからその役目を負う事は出来ませんが、でもいずれはそうなりたいです!父上のように、エルフの為に己を尽くしたい」

 力強い言葉に、慧卓は知らず知らずの内に小さな笑みを零した。気力充実した彼の言葉は、何時の日か慧卓が王都で紡いだ言葉のそれと、同等の力強さを持っていたのだ。己の希望溢れる未来を信じて疑わぬ言葉であった。今の自分がそんな言葉を出す権利があるのか、慧卓の不安は募る一方であった。
 ソツはその笑みのまま、慧卓の心を更に掻き乱すような言葉を掛けた。

「何時かその日が来たら、ケイタク殿。私を友誼を契っていただけますか?人間とエルフの架け橋となる、強い友誼を」
「・・・ええ、その日が来たら、必ず」
「ありがとう、ケイタク殿」

 一転の曇りの無い晴れ晴れとした微笑であった。慧卓の心はますます締め付けられる一方であった。この青年の笑みを壊す事は、或いはエルフに対する冒涜ではないか。そんな気さえ生まれてきた。

「そういえば今日は父上が何か発表するらしいのですが、ケイタク殿は何か御存知ですか?」
「・・・いいえ」
「そうですか。・・・もしかしたら、あれかな?・・・だとしたら兄上ではなく、私の方が適任・・・いや、そうあるべきでは・・・」

 ソツは口元を隠して父親をそっと見遣る。彼の父であり、この村の領主であり、そして賢人会の一員であるキ=ジェはその視線と、兄であるホツの視線に気付いたか、椅子を引いてすっと立ち上がる。途端に列席する諸人の視線が彼に注がれる。

「皆、聞いて欲しい事がある。暫し食事の手を止めてくれんか」

 からからと、匙やフォークを置く音が聞こえる。一拍遅れて最後の音が鳴り終わるのを待ち、キ=ジェは泰然自若とした姿勢で述べた。

「今日で俺は63歳となる。この村の領主となって10年、賢人会に入会してから五年だ。長きに渡り俺はエルフ民族の為に身を尽くしてきたが、最近どうにも昔のように身体の自由が利かなくなって来た。いい加減、後継者を決めたいと思う」

 突如とした宣言。だが驚きの声も表情も無い。『遂に来たか』といわんばかりに列席者は顔を引き締めるばかりだ。無論パウリナはいきなりの事態の展開に目をぱちくりさせていた。
 キ=ジェは為政者に相応しき覇気のある声で言った。

「俺の後継者となるからには相応の待遇を約束しよう。先ず俺の財産と土地を半分承継させる。俺の農村も農民も全て含めてだ。後の半分は俺が死んだら承継させよう。次に俺の兵についてだが、俺が動ける間は俺か、或いはニ=ベリ様の命令によってのみ行動できる。だが俺が前線に立てぬ状態となれば、その時は指揮権を後継者に譲る。税も村の規則も変えん。そして最後であるが、この村は今まで通りニ=ベリ様の御庇護の下に暮らすのだ。これについては何人であろうとも叛逆する事はならん。
 以上だ。ここに居る全員がこの遺言の証明者だ。それには、この王国の調停官補佐役殿も含まれている。文句はあるまいな?」

 諸人の大半が敵意の視線を慧卓に向けた。それだけに留まるのは彼らが表向きには納得しているからに他ならない。キ=ジェにもその意思が伝わったのか、うんうんと首肯し、これまで以上に張りのある声で宣言した。

「では、後継者だ。俺が後継者を選出するために必要と考えたのは、即ち勇猛果敢たる武の命!かくも乱れし情勢に敢然と立ち向かい、エルフ民族たる闘志を余す事無く発揮する勇士である!他との融和などという小細工を弄さぬ、堂々としたエルフこそが、俺を継ぐのに相応しい!
 ・・・それはお前だ、ホツ」

 矢張りな。慧卓は内心でそう呟きながらホツの顔を見た。前置きを言う前から既に確信の笑みを浮かべていた彼は、今し方初めて知ったといわんばかりに感激の表情を浮かべていた。彼は勝利の感触を味わうように、希望に満ち溢れた言葉を詠う。

「父上、今日ほど父上に感謝する日は御座いません・・・!長らく父上のお傍にて己を磨いておりましたが、その努力が他ならぬ父上に認められるとは、感無量です!」
「ホツ。俺の期待を裏切るなよ?お前にはいずれニ=ベリ様を支えてもらうべく更なる教育を施す。そして、第二のニ=ベリ様となって皆を指導するのだ。エルフが誠に求めるのは知ではなく、武であると心に刻め」
「・・・・・・違うでしょう、父上」

 冷水が流れたように空気が静まり返る。それを呟いたのは言うまでも無い、後継者に選出されなかったソツである。慧卓が聞いた事の無い、冷静で、それでいて重みのある声色で彼は言う。

「父上が仰られているのは、それは覇道ではないですか。我等の祖先は何と申していたか、お忘れですか?『勇によって立つは底無しの血の池を築き渡るが如し。友誼の花を忘れる勿れ』。父上は敢えて、この諺を無視なさるのですか」
「何が問題だ」
「我等エルフはもう充分に血を流したではないですか!三十年前も、そして今もです!これ以上の争いは我等エルフの自滅に繋がってしまいます!どうかお考え直しを。私が父上の跡を継げれば、一人でも多くのエルフを未来へ繋げる事が出来ます!」
「軟弱な発想だな、ソツ。そんな姿勢を貫くから、貴様の配下というのはどいつもこいつも弱者ばかりなのだ」

 くつくつと冷笑するホツを、弟は鋭く睨みつける。そして彼以上にホツの言葉に反応する者達が居た。ソツを信奉し、彼に忠を誓った臣下達である。

「今の言葉・・・兄君のものとはいえ見過ごす事が出来ません!」
「ホツ様、今の御言葉はたとえ弟君に対してであっても侮辱に当たります。即刻取り消して戴きたい」
「拒否する。そもそもなぜ俺が己の発言を取り消さねばならぬ?俺の発言は既に父上の発言と同じだぞ?貴様らが楯突くほど、ソツの立場はどんどんと悪くなるのだがな?」
「ホツ様っ・・・!」

 悪びれもせずに勝ち誇った笑みを見せるホツを見て、臣下達は顔に怒りの血を上らせる。隣の座席でパウリナが怯えたように身を竦ませてそれをユミルが庇っている様子を、慧卓が横目で捉えた。

「父上、何とか仰せになって下さい。私はエルフがエルフ同士で争う姿を見たくはありません!勝手な言い草ですが、はっきり申し上げます!兄上は人々を指揮する器ではありません!!」
「なんだと、貴様っ!兄に向かってその口はなんだ!」
「何度でも申し上げます!兄上の目指す道は父上と同じ、覇道の道であり、夢想の道なのです!他者を武で排斥する道は、今のエルフには不要です!今必要なのは対話による築く、平和のある未来です!それを作れるのは私だけなのです!!ですから私にこそ後継者の座が相応しいのです!融和の精神を以って、私がエルフを率いてみせます!」
「・・・それは夢物語に過ぎません、ホツ様」
「・・・ケイタク殿?」

 突如としてホツの熱帯びた口調を冷ませたのは、慧卓の冷ややかでどこか演技ぶった言葉であった。キ=ジェが愉悦の笑みを浮かべて彼を見る。

「此の度の領主様の御選出は、私は非常に理に適ったものだと思います。ホツ様の臣下の方々が口を挟んでいい問題ではありません」
「なんだと人間ごときがっ!」
「何の権利があってそのような戯言を!」
「戯言?貴方々は本来、一体誰に仕えているのですか?ホツ様ではないしょう?ここにいらっしゃるキ=ジェ様にこそ忠心を捧げるべきではないのですか?それこそが忠義の筋だと思いますがね。正直申し上げて、部下の御忠心がこの程度というならば、これを率いる棟梁の器というのが知れますね」
「貴様っ、言うに事欠いてっ!!」

 臣下達が怒りに震えながら席を立ち、拳を彼に振ろうとする。しかしホツが慌てて慧卓の前に立ち塞がったため、彼らは屈辱のために歯を食いしばるしか出来なくなってしまった。
 領主と彼の長男につい先程まで注がれていた視線は、より一層の熱烈さを帯びて慧卓に注がれた。慧卓は態度を硬化させてそれを受け流し、態とらしい抑揚を伴って用意していた台詞を次々と吐き出していく。

「大体です、領主様が申された事をちゃんと聞いてましたか?この御方が今必要となさるのは、大言壮語を吐かぬ屈強な勇士、それも領主様の御考えを深く御理解している方です。ホツ殿と一度だけしか御話しておりませぬが、私にとってホツ様は非常に屈強で、且つ類稀な才幹の持ち主であると御見受けします。聞くに今宵の熊も猪も、ホツ殿がただの一矢でのみ仕留めたとか。この勇猛果敢ぶりこそが領主様がお求めになられる、エルフの指導者たる素質ではないのでしょうか?
 私には領主様がお考えになる事が、少しばかり理解できましたよ。民草はいつだって強力な指導者を求めるのです。心身ともに屈強である、本当の指導者をね。領主様にとってそれこそが、ホツ様なのです」
「ほう・・・」

 次期後継者の感心の溜息が聞こえるが、慧卓にとってそれは火に油を注ぐというもの。込み上げて来る感情を必死に抑えながら、彼は本心では思ってもみない辛辣な言葉を投げかけた。

「大してソツ様はいかがですか?先程領主様からお伺いしましたが、何でも、まだまだ見習い程度の腕前しかない、貧弱な剣士だとお聞きしましたが。そんな彼が後継者の候補にそもそも選出される方が不自然です。それならば、そこいらの衛兵を引っこ抜いた方が早い」
「・・・本当に、そんな事を?父上」
「・・・概略としてはあっているな」

 紡がれた言葉は衝撃を伴い、ホツの顔を冷静な硬直させた。その冷酷な茶番の様子を見る余裕が出来たのか、パウリナの呟きが慧卓の耳を打って彼の心を揺さぶった。

「・・・無理して言っていますね、ケイタクさん。頬が引き攣っています。私も便秘の時は同じ顔になるんですよねぇ」
「聞きたくなかったな、そういうのは」

 揺らぎかけた覚悟を直ぐに引き締めて、慧卓は必死に笑みを浮かべる。どこか遠くを見るような、まるで心中を覗くような静かな目をしているソツに向かって、慧卓は己を律するかのように言ってのけた。

「ソツ様。非常に厳しい事を申し上げるようで恐縮ではありますが、貴方は望まれた息子ではないのです。後継者たるに、父上の遺産を相続するに相応しくないエルフなのです。どうぞ部下の方々に武器を納めるよう命令していただきたく存じます。これ以上の恥は、貴方の人生をより深い闇へと追い落とすだけでありましょう」
「・・・・・・」

 ソツの瞳は揺るがず、ただただ慧卓を見下ろすのみ。怒り狂う周囲とは反対に、蔑みの当事者はどこか冷静な表情をして慧卓を、一縷の憐憫でもって眺めていた。慧卓の心が一層締め付けられ、胸が痛み始める。

「ソツ様っ、あ奴の言う事を信じてはなりませぬ!」
「そうですぞ!ソツ様の名誉を汚すだけに飽き足りず、領主殿の名誉までいいように誑かしたのですぞ!我等の手で奴と、奴の仲間を葬るべきです!」
「えっ!?私達も!?」
「不本意な結末だな、おい」

 ユミルはパウリナを胸元に引き寄せながら身構える。彼と臣下達の剣呑な光が正面から火花を散らしあい、余波を受けてかパウリナの顔色が段々と悪くなっていく。
 ソツは慧卓から目を離して父に向かう。

「・・・父上、分かりました。兄上に自分の跡を継がせる事をお望みでしたら、私は何も申しません。この上は兄上のお傍にてーーー」
「それも不要だ」
「・・・え?」
「前々から思っていたのだが、貴様は俺の息子ではないのかもしれんな。俺の息子であるならば身体つきももっと屈強であっただろうし、この程度の事で妥協するエルフではない。矢張り、貴様は別の種の息子か?まぁ俺の妻も中々に股の緩い女だったから、ありえない話ではないかも知れんなぁ」
「私はそうとは思いませんよ、父上。私の弟はよく母上に似て聡明で、優しき男であります。ですがその程度の事はエルフにとっては当然の性。それを誇られるようでは母上も嘆きましょうぞ。随分と自意識の高い愚図に成り下がったものだな、失望したぞ、ホツ」
「うむ、そちらの方が正しいな。訂正するぞ、出来損ない」

 陰険な笑みが交わされるのを見てソツは再び閉口し、明らかな失望の表情を浮かべた。自らの掲げる理想や道を誰よりも分かってくれそうな者達が、揃って己を馬鹿にし、果ては生まれまで持ち出して人格を傷つけようとする。同じ腹から生まれた男の言葉にも思えず、失望の念たるや底無しの沼のように深く暗いものであった。
 無論ソツにも怒りがあるだろう事は、その瞳の潤みから分かる事であった。だが彼は一向に怒鳴り散らしたりせず、それどころか激発寸前の部下に静止するよう気を払っている。懐に収めていた護身用の短剣を掴んでいた者達は、これによって歯をぎりぎりとさせるだけに留まっていたのだ。慧卓にとってはソツの忍耐力と自制心は、信じられぬものであった。

「そういう訳だ。この期において告げさせてもらうがな、貴様はもう俺の息子ではない。というより、俺の息子として相応しくない。明日の昼までに荷をまとめて消えるんだな。無論、貴様らの配下の者達も、家族まとめて消え失せろ。今は寧ろ、人手が余って無駄に食糧を消費する状態だから、ここいらで口減らしをしておきたかったのだ。一石二鳥だな」
「貴様・・・キ=ジェっ・・・!!」
「怒るか?ならその剣を抜いてみよ。ここで貴様を殺した後に、貴様らの家族も葬ろうぞ。赤子を斬るというのも中々に愉しいぞ。補佐役共もどうかな?エルフを殺すのは初めてか?」
「・・・私は遠慮しましょう。ここは血で染まっていい場所ではありませんから」
「補佐役殿はなんと優しい方よ。このような愚劣な者共に同情し、寛大さをお示しになられるとは。正に貴方は王国騎士の鑑だ」

 屈辱的な賛辞である。慧卓はそっと視線を逸らして爪が食い込むほどに拳を握った。自分を強く責め、詰って欲しかったというのに、誰もそれをしない。自分の行為を正当化し罪悪感を感じないためには、そういう状況が出来てくれた方がよかったのに。まるで無理な演技を気遣われているようにも思えて、慧卓は泣きたい気持ちすら込み上げて来た。
 ソツは心中穏やかではないというのに、震えも来さぬ口調で言う。

「・・・皆、武器を納めよ」
『ソツ様っ!!』
「納めろと言っている!死にたいのか?」
「私どもは命は惜しくありません!しかし貴方の名誉がーーー」
「部下共々、志も果たせず、何も出来ずに死ぬ事の方が遥かに不名誉だ!いいから武器を納めよ!命令だ!」

 臣下の者達は苦渋の表情となり、怨念の篭った目をキ=ジェとホツに注ぎながら、諸手を静かに下ろす。ソツは優美であり、同時で寂しさの感じる笑みを浮かべて肉親に顔を向ける。

「父上・・・長きに渡りお世話になりました。兄上、どうか長生きなさって下さい。私は母上に会ってから、西へと向かわせていただきます」
「西・・・白の峰か。よかろう。霊峰の中でひっそりと暮らして、二度と山から下りてくるなよ?エルフの名誉に傷がつくからな」

 無遠慮な言葉に深々と礼を返して、ソツは口を閉ざして部屋を後にする。彼の臣下達もそれぞれに怒りと、悔しさと、或いは恨みを身体全体から発奮させながら部屋を後にした。領主と次期後継者、そして調停官補佐役に対する爛々とした恨みの視線。慧卓が生涯忘れ得ないであろう、強烈な視線であった。
 残されたのは慧卓ら一行と現領主の支持者達のみ。キ=ジェは大袈裟に手を叩きながら慧卓を賛美した。

「ふはははは・・・なんとも見事な口八丁であったな、ケイタク殿。感謝するぞ、御蔭であの出来損ないはここから消え失せる!」
「俺からも感謝を言うぞ、補佐役殿。よくぞ俺が後継者に相応しき男であるといってくれた、礼を言う!」
「・・・ありがとう、ございます」

 本心では、全く感謝する気にもなれない。だが職責を全うしなければという義務感が彼の口に礼を述べさせた。責める対象が居なくなった事で、過剰な演技で憔悴した心が表情に表れている。
 これで自分の義務は果たした。ならば相手もそれに応じた対価を支払うべきだ。慧卓は約定を思い出して賢人に問う。

「ところで賢人殿、御約束の件ですが」
「ああ、約定であったな。勿論、貴様の謝罪は受け入れてやろう。領主として誓おう。この村においてはこれ以上人間に対する差別をせん」
「・・・それだけですか?」
「何を期待している?俺は相応の対価を支払っているぞ。村の統治における、大事な問題の解決に手を貸してくれたのだ。だから俺は領主として、お前に対価を払おうと言っておるのだ。・・・矢張り人間というのは浅知恵の欲無し共の集まりか。まぁいい、今日の俺は機嫌が良いからな。嘲りはこの程度にしておこうぞ。感謝しておけ!!」

 無情なまでに哄笑が慧卓の頭を揺さぶった。人々が思い思いに慧卓を見遣り、部屋を退出していく。俯いたままの慧卓は少しばかり幸運なのかもしれない。仮に頭を挙げて彼らを見遣れば、その口端の歪みを否応無く見てしまうからだ。
 そして室内には誰も居なくなり、慧卓らと給士だけが残るだけとなった。膝の上で拳を握って悄然とした表情を浮かべた彼に掛ける言葉が見付からず、パウリナは形の良い眉を垂れさせた。ユミルもまた何とも言えぬ気持ちとなったのか、無言で慧卓の頭を撫でる。子供をあやすような優しき手付きに、慧卓は出掛かった涙が目端から毀れるのを感じた。



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 宴が終わった日、慧卓は一睡も出来ずに居た。悔恨の念が胸を締め付けたままで、眠気が一粒たりとも頭に到来しないのだ。そのままじっとしているとまた泣いてしまうと思った慧卓は、真っ黒な雲が天を覆う深夜に関わらず、厩舎に立ち寄って小さな恐竜、ミカと戯れる事とした。といっても今は彼女にとって睡眠時間中。慧卓が出来るのは厩舎の柱に寄っかかりながら、彼女の寝顔を観察する事だけである。常の己以上にぐっすりと眠りこける姿を見て、慧卓は自然と心が癒されるのを感じた。言い方を変えればただの現実逃避でもあるのだが、慧卓はそれを気にする余裕を欠いていたのだ。
 散々な晩餐会でであった。補佐役としての大任を成就しようと、一人の青年の未来を閉ざす決意を決め、それを実行しようとした。恨まれて然るべき、いや恨まれなければやってられない職務であった。しかしその青年からは憐憫の目で見詰められ、領主らからは哂われるだけ。行き場の無い激しい思いが胸を痛みつけ、誰にも告げられずに蟠っている。
 無防備な彼女の寝顔を見ながら慧卓は一つ溜息を吐く。ふと、後ろの方から足音が聞こえて来た。慧卓がそれを振り返って見ると、今一番に会いたくない人物が立っていた。

「ケイタク殿・・・」
「っ!!ソツ様・・・」

 雨除けのロープを羽織り、腰に剣を挿した格好でソツが其処に立っている。手には鐙つきの鞍が握られて、背中にはナップサックが背負われている。彼はこの暗き時間にも関わらず、村から立ち去ろうとしているのだ。

「この時間までずっとここに?」
「え、ええ。もしかして、もう御出立なさるのですか?今は夜中でしょう?」
「いえ、もう夜明け前ですよ。雨雲が厚いから夜だと思われるのも不思議ではないでしょう」
「そ、そうなんですか・・・」

 俄かに驚きながら空を見遣る。雲が白んだり空の青さが見えたりする事は無い。とても厚い雲が今、頭上を通過しているのだ。その内豪雨が来るのかもしれないのに、ソツは今から旅立とうとしているのだ。二度と家に帰れぬ遠き旅路へと。
 彼は自らの愛馬を起こし、その背中に鞍を掛けながら彼はいたく穏やかな口調で慧卓に告げた。

「ケイタク殿。短き間でしたが、御世話になりました。人間の方と御話できたのは初めてでしたので、とてもいい経験になりました」
「・・・怒ったり、しないのですか?あんなに酷い事を申し上げたのですよ?」
「あの時の貴方の表情は、本心から浮かべたものではないでしょう?恐らく、父上と政治的な取引をして私を追い落とそうとしたのではないですか?」
「・・・矢張り貴方はとても鋭敏な感性をお持ちでいらっしゃる。恥ずかしながら、御指摘の通りに御座います。何と申し上げたら、よいのか・・・」

 鞍の位置を調整する手を止めて、ソツは晴れやかな微笑を浮かべて彼を見た。恨んで欲しいのに、という慧卓の本心を見透かしているのだろうか、彼は善意の言葉を掛けた。

「ケイタク殿。これは貴方の言ですよ。『本心ではないのに、建前上やらなくてはならない事がある』。あの時の貴方もきっとそのように己を律されてたのではないですか?」
「・・・」
「本心を口にするのもいいでしょう。ですがそれによって導き出されるのは、貴方にとって望ましい結末ではなかった筈です。父上は怒り狂い、ひょっとしたら貴方の御同胞を殺していたかも。それをお望みでしたら本心を口にしていたが、貴方は建前を通された。理由は容易に想像できます。それを通される事で、貴方はより多くの利益を手にする事が出来るからです。賢人である父と政治的な対立を生まず、その上外交官としての勤めを全うでき、御友人に無事に帰す事が出来る。
 父上と同じです。あの人も領主であった当初から、そんな風に考えて領民や私達を守ってくれました。最も、父の場合は建前と本音が一緒というのが、可笑しな所なのですがね」

 何とも理解し難い光景であった。人格や人権を徹底的に踏み躙って自分を実家から追い出す原因を作り上げた男、しかも情勢から考えて敵対視してもいい人間に対して、このエルフの若人は一切の恨みを抱いていない。それどころか庇う様子すら見える。可愛らしき寝顔を見る事によって癒されていた慧卓のプライドに、音が伴って皹が入る。目の前の菩薩のような心を持った青年に何とも言えず、慧卓は鉄面皮にも似た神妙な顔となった。
 ソツは尚も続ける。

「貴方は御自身の職責を全うされただけです。組織に従属する人間としては、とても当たり前な事をしただけで、私だって同じような経験もあります。でもそれを後悔する事はあっても恥じたりはしません。ケイタク殿は恥じているのですか?」
「・・・俺は・・・」
「いえ、口にしなくてもいいですよ。とても簡単に下せる答えではありませんから。私は貴方が本心から言った言葉ではないという、その意思を尊重したいと思っています。
 それにしても、父上の果断即決ぶりには困りますね。宣言した直後にお前は要らないからって。まぁ父の事ですから、そのうち『家の敷居を跨ぐな』くらいは言われると思ってました。まさか配下とその家族共々出て行け、などと言われるとは思ってなかったのですが。ハハハ」
「・・・これからどうなさるのです?」
「そうですね。取りあえずは白の峰の方まで行ってみますよ。噂では、あの霊峰の近くに村があるとの事です。とても逞しい方々がお住まいのようだ。ですから私共もその村を頼りに進んでいく事になりましょう。先行きは不透明ですが、なんとかやれない事はありません、希望は、まだ手中にあります」

 この期に及んで、ソツの瞳にはまだ希望の光が輝いている。明日に続く己の理想を信じる、不屈の光である。傷心の慧卓には直視するのも辛い光であった。
 ソツは馬の綱を引いて厩舎から出ようとして、ちらりと慧卓を見遣った。

「そろそろ行かなくてはなりません。皆を待たせているものですから。すみません、ミカを親元に帰せなくて」
「いえ、私が彼女を帰しますから、どうぞ御安心を」
「分かりました。・・・またいずれ会いましょう、ケイタク殿」
「・・・御武運をお祈りしております、ソツ様」
「そちらも。今度会った時にこそ、友誼を契りましょう」

 慧卓の心にまた新たな皹が入り、顔がくっきりと歪んでしまう。下手糞で歪な笑みを見たソツは、何も言わず、温かな瞳を浮かべたまま彼を見遣り、そして背中を向けて立ち去っていく。馬と率いて闊歩する様は堂々たるものがあり、若き支配者としての片鱗を覗かせていた。
 厩舎に一人残された慧卓は、晩餐時に感じたものよりも強い無力感に支配されていた。己を律して建前を貫こうとした結果がこれである。賢人の人形のように望んでもいない侮辱を吐いた。それが逆に気遣われ、最終的に残ったのは執政官補佐役として獲得した賢人との友好関係であった。その関係の獲得も、己の未熟なプライドを自分の手で棄てた結果として出たものであり、達成感や爽快感といったものは皆無であった。ただただ己が情けなく思えて、慧卓は膝を抱えて蹲る。騎士へ叙任され、王女と恋仲となり、大任を成就しようと浮かれていたのであろうか。その様を年上の周囲は生暖かに見詰めて、都合の良い道具として利用していただけなのか。その従順ぶりが哀れに見えてソツは自分をあんな風に見ていたのか。
 ぽつん、ぽつんと、雨粒が葉や屋根を叩く音がし始める。ものの一分もしない内にその音は一気に強くなり、予想していた通りの豪雨が吹き荒れ始めた。この残響の中でなら、少しは自分を慰められるかもしれない。こんな姿は誰にも見えないし、誰にも見せられない。慧卓は膝に目元を押し当てて、声にならぬ嗚咽を零していく。ミカが耳をぴくりと動かして俄かに頸を上げるが、慧卓を見遣って直ぐに頸を丸める。誰にも邪魔されぬ大雨の中、慧卓は胸を痛ませていた。
 人生、何もかも自分の思い通り、考え通りには運んでくれない。そんな当たり前の事実を見に染みて理解した、初めての挫折であった。


 
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