| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第四章、その5の3:青き獣



 ソツらが消え去ったその日の昼間。大した仮眠も取れぬ内に慧卓は出立の準備を整え始めていた。昨日と今朝に晒された自分の醜態が幾度も脳裏を掠めて、心が落ち込む。自分の情けなさに恥じ入ったためかこの村に居ること事態がどうしようもなく許せなくなってしまい、連れの二人を急かして帰還の準備をしているという訳である。その最中にはミカが猪肉の余りを一心に食していた。
 屋敷の一角にある厩舎にて慧卓は腰に剣を挿しながら、ぼんやりと空を仰いだ。今朝方の大雨は幸運にも唯の通り雨だったようであり、朝食を終える頃にはすっかりと空は晴れてしまった。だがその降雨量は矢張り凄かったらしい。所々地面がぐちょりとぬかるんでおり、村の畦道には池が幾つも出来ており、無論それは屋敷の敷地内においても同様であった。慧卓が一晩を明かした厩舎の近くにおいても雨によって地面が穿たれており、その湖面に燦燦たる日光を反射させていた。
 ユミルは傍でグリーヴの緩みを直しながら慧卓を見遣って言う。

「なぁ。賢人に挨拶もろくにしなかったが、本当によかったのか」
「ええ、いいんです」
「だがそれでは此処に留めてもらった恩義に背くものではないか?今少し此処に留まり、彼らの役に立てるように働けば良いのではなかろうか?」
「キ=ジェが人間に対する差別を止めるからといって、村人が俺達を歓迎し続けるなんて在りません。その内、向こうからちょっかいを出してきます。そうなる前に俺達の方から出てった方が、領主にとっても都合が良いんですよ。要らぬ心配をかけさせないためにもね」
「・・・はぁ、また頑固になりおって」

 溜息が出るのも無理は無かった。ユミルの想像以上に、慧卓はあの醜態を引き摺っていたのである。嫌な思い出のある場所には長く留まりたくは無い。だからこそ出来るだけ早くおさらばしたいというのであろう。若々しく反射的な対応であるが、それが外交官の対応として相応しいかと言われれば、ユミルにとっては否と解答したくなるものであった。
 ユミルはちらと厩舎の中へと目を向けた。先に準備を整えていたパウリナが、ミカと名付けられたラプトルの眼前に葡萄を垂れさせていた。

「パウリナ、いつまでも遊んでいるな。もう出発するんだぞ」
「ほぉれほれほれほれっ。良い子だ、ミカちゃん。ほぉらお姉さんの葡萄を取ってみろぉ~」

 無反応である。愛らしき黄金色の瞳にパウリナは心を奪われているようであった。色合いが自らが慕う主人と似たものであるのか、初めて会った割にはかなり親愛を込めて接しているようであった。目の前で降られる青い葡萄に、ミカは釣られて頭を振っていた。その鋭利な爪が俄かに地面に食い込んでいるのを見て、ユミルはどうにも心配な念を募らせた。

「・・・」
「さぁ、そろそろ出発しましょう。もうここには用がありませんから」
「分かった。パウリナ、さっさといく・・・何してるんだ、お前」
「ご、御主人っ、助けてっ!こいつ、私の服を噛んでるっ!!」

 目を離した隙にこれである。器用にもパウリナの服の部分だけを歯で引っ掛けて、ミカはそれをぐいぐいと引っ張る。噛んでいるのは無論、脚絆である。布が身体に食い込んで要らぬ部分まで肌が露になるのを妨げるため、パウリナは必死にミカの口から服を取ろうとする。
 抵抗が激しくなるにつれて、健康な色をして引き締まった肌が段々と露になって来た。元々パウリナの服というのは大胆さに定評があり、下腹部、肘から先、太腿半ばから脛にかけて、更には肩の部分まで開けていた。それが今や腰まで露出しかかっており、異種間キャットファイトの御陰で桃色の下着が見えており、更には半ば可憐な桃尻が見えかかっていた。
 慧卓もちらりとそれを見て、あっさりと冷たい言葉を吐く。

「いいぞラプトル、もっとやれ」
「ちょっ、それは無しですよ、ケイタクさん!あっ、やだっ、それも噛んじゃ駄目だって!それ下着ぃ!!」

 ラプトルの攻勢は激しくなり、とうとう下着まで噛み付いた。腰に当たる荒い鼻息に気圧されながらパウリナは尻餅を突く。臀部の片方は完全に露出してしまい、割れ目の頂に汗が滲んでいるのが見えた。普段快活な姿を見ているだけにその反動でか、どことなく危うげで倒錯的な一場面となってしまった。このままでは全裸にすらなりかねない。ユミルはどこか名残惜しさを感じながら、その闘争の救済をせんと二人の女性の間に割って入っていく。
 闘争の終結に至るまで悲鳴は続きっぱなしであり、屋敷を取り囲む壁越しにも響いていた。

「・・・準備は出来ているか?」
「ああ。数も揃っている。いつでもいけるぞ」
「早まるな。仕掛けるのは奴等が森に入った時だ。それまで自制していろよ?勿論皆もな」
「当たり前だ。奴等を生かして返すなど、俺のプライドが許さないからな」

 幾人もの男達が、不穏な空気を醸しながら互いを見て頷く。腰に挿された剣は村内を歩くのに不要の長物であるのだが、男らは気にする様子も無い。怨恨が篭っているかのように鋭い目をしながら、忌々しげに敷地内の騒ぎが静まるのを待っているようであった。
 幾分かの格闘の後、漸くミカはパウリナから離れて、慧卓の傍で尻尾を垂らした。そのどこか清清しげな顔付きを、パウリナは正しく涙目で睨みつけていた。脚絆は破けて下着が見え隠れしており、ロープで隠さねば唯の痴女になりかねなかった。

「もうっ、本当にいけない子なんだから!御主人も直ぐに止めて下さいよっ!」
「す、すまん。ついだなーーー」
「ついなんです!?御主人を御主人と仰ぐ可愛い女の子が大変な目に遭っているのに、何なんですかぁっ!」
「いやその・・・」
「なに!?」

 常以上に気迫ある問い詰めであるが、紅潮した頬に涙目+上目遣いであるのがユミルから反省の意を奪っていた。あざとさのある愛らしさに、ついついと本音が毀れ出た。

「・・・その、可愛かったから、つい見詰めてしまってな」
「っっ・・・」

 パウリナの頬にさっと赤みが差す。照れ隠しなのか視線を直ぐに逸らし、左手で右手の指を握っては擦っている。

「そ、そうでしたか・・・なんか騒いでごめんなさい」
「ああ、いやいいんだっ、謝る必要など無いぞっ?俺こそ申し訳ない」
『・・・』

 どことなく気まずげで生暖かい空気が流れる。互いに気恥ずかしさを感じながら視線を逸らしている様は、中年男性と成人女性の姿とは思えない。例えるならば恋する女学生と案外初心な体育教師、そんな感じがする光景であった。
 当然出発を急いていた慧卓はその光景に苛立ち、腹いせとばかりに地面に転がっていた石ころを、直ぐ近くあった木に向かって強く蹴り付けた。石が木の幹にぱしっと当たり、雨露に濡れた木の葉っぱが揺れる。途端に、沢山の水滴が慧卓とミカに降り注いだ。

「おぶぉっ!?」

 突如として冷たい思いをした慧卓。出立前だというのに頭がずぶ濡れとなってしまう。とばっちりを受けたミカは肌をぶるぶると震わせて飛沫を払う。そして威嚇するように歯を剥き出しにして蛇のように唸った。

『rrrRaaaa・・・』
「ご、ごめん、ミカ。ほら皆。い、行きますよ?」
『・・・ぷっ』
「何笑ってんですか!!行きますよ!?」

 慧卓はそう行って屋敷の門へと我先に進んでいく。雨除けのロープを靴底で叩くようにのしのしとした様子であった。門の外には村まで付いてきたエルフの少年が待機しており、慧卓の姿を捉えるとくるりと踵を返し、タイガの森へと続く畦道を歩き始める。眩いまでの光を煌かせる池を踏みつけ、道の脇に飛沫と泥を飛ばした。ぬかるんだ地面にそれぞれ違った足跡が次々と出来ていき、土色に汚れた水がそれに流れ込んでいった。 

「ねぇ御主人、ミカも一緒なんですか?」
「ケイタクが言うにこいつは群れから離れた奴かもしれんのだが、その群れが見当たらぬ以上村に放置するわけにいかんようだ。まぁ理解できなくはない。群れが襲撃してきたら大変んだからな」
「だからってタイガの森に引っ張るってのも、問題ですけどねぇ」
「まぁ、そこは奴が何か考えているんだろう」

 のしのしと軽快に進む青い爬虫類系の背中を見ながら二人は囁き合う。元はといえば慧卓が引き取った動物であるため彼女についてどうこう言う権利は持っていない。そんな二人の疑問の中心に居た慧卓は、果たしてまともに解答を容易できているのであろうか。

(あぁーあ・・・本当に散々な目に遭ったよ・・・もう二度とこの村に来ない。うん、来ない)

 否である。女々しき心中は未だ穏やかならざるものであり、ミカの事など思考の片隅にも入っていないようであった。生真面目ゆえに、一度ショックを受けるとそれ以外考えられなくなってしまうのだろうか。先を行く少年の小さくも逞しき足取りを追いながら、慧卓は只管にこの村から脱する事だけを考えているようだ。天気のように移り変わりの多い心は、今は頭上のそれとは正反対に、厚い沈鬱の雲が掛かっているようであった。
 雨後の露に濡れた森へと向かう一行を追うように、距離を空けて追尾する集団が居た。数は十五人であり、全員が剣を携えたエルフであった。物騒な目付きをして慧卓の背中を睨みつけながら行進しており、乱暴に地面を踏み鳴らしていた。気配に敏感なユミルはその存在を直ぐに察知したのだが、村内である以上迂闊に手出しが出来ぬと考えて足を俄かに速めるだけに留めた。双方の間の距離は4,50メートルほどであろう。これが5以下となった瞬間、己の手と身体は異民族の血で穢れるだろうと、ユミルは一人覚悟を決めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 
 朝早くに村を離れたソツ一向。道なき草むらをゆっくりと歩き、足に感じる水滴の冷たさに耐えている。急な出立であったというのに臣下はおろか、その家族一同が既に準備を整えていたのはソツにとって驚愕であった。『いずれこうなるだろうと予想していた』とは臣下の言であるが、それほどまでに自らと父の対立は表面化していたのであろうか。まだまだ未熟な点が多く精進の必要有りと、ソツは改めて己の決意を固めた。彼を慕って追従するは、凡そ百人程度の大所帯の列である。ソツの想像以上に大勢の者が村から出て行ったが、村はこれで人が余る状況から一転、人手不足へと陥るであろう。しかし改革紛いの事をやって自らの反対派を一掃したのであるから、これ程度の負担など父には飲み込んで欲しい所であった。
 彼らが目指すは段々と全貌を露にする、堂々と聳え立つエルフ自治領が霊峰、白の峰。切立った崖が幾つも積み重なっているかのような険しき稜線の数々には、既に白い笠が降りて夏に似合わぬ雪の冷気を届けてくれる。あの霊峰の麓か、或いはその山中に村落があるというのだが、そこまでの道中が安全であるものか不安な所であった。

「ソツ様、今宜しいでしょうか?」
「なんだい、何か起こったのか?」

 臣下の一人が馬上の彼に近付いて言う。随分と険しき表情であった。

「アイ=リーンがおりませぬ。彼の部下、凡そ十数名もです」
「!事前にちゃんと確認しなかったのか!?」
「出立時にはおりましたっ。村の出口での点呼にも反応しておりました。おそらく、出立直後の慌しさに付け込んで行方を眩ましたとしか・・・」
「・・・確かその者達、ケイタク殿の事を・・・」
「はい、非常に憎んでおりました」

 ソツは「はっ」としたように村の方を振り返った。アイ=リーンという男は、ソツに対する忠誠心も度が過ぎたものがあって、常日頃から乱暴沙汰に介入しがちなエルフである。昨晩の晩餐会に出席した中で最も苛烈に慧卓を睨みつけていた男でもあった。その彼と彼の臣下共々が居なくなった理由など直ぐに検討がついた。主君が受けた屈辱を晴らすための仇討ちである。対象は即ち、慧卓だ。

「っ、急ぎ行進を止めてーーー」
「ソツ様!貴方は民草を率いる長なのです!どうか御自重下さい!既に我等は魔獣の生息域にも足を踏み入れております。この場で留まるは危険であり、まして下がろうにも何処にも行けませぬぞ」
「・・・そうであった。追放された身であるからな・・・」

 村からの追放とは、即ち村の領内に立ち入る事を禁ずるという意味だ。慧卓らが入っていく森への入り口も、際どいながらも領内と認識される場所であり、ソツらが救援に行くというのは事実上不可能の事であった。彼らには彼ら自身の手で吹き荒ぶ火の手を払い除けてもらうより他が無い。

(ケイタク殿、どうか御無事で・・・)

 自分に出来るのは唯無事を祈るのみ。東の小さき森の見た目とは異なるほどの鬱蒼さに負けぬよう、そして迫り来る脅威に打ち克つようソツは慧卓らの平穏無事を思いやり、ふと近くの草むらに残る大きな足跡に気付いた。人間の掌ほどのサイズがある巨大な鉤爪が特徴の足跡だ。それが幾つも東の森の方へと続いている。
 ヴェロキラプトルの群れが此処を通ったのだ。足跡の明瞭さから、つい二・三時間ほど前に出来たものだ。更にその数を見るに、群れは少なくとも8匹は居るであろう。ソツは邂逅を免れた事に一先ずの安心を抱きながらも、慧卓らの身の安全に対して不安を募らせる。風によって右へ左へ揺れている森はその薄暗き大口を開いていて、帰還の途につく人間達を歓迎しているようにも見えた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー



 薄暗き森の絨毯は、泥濘交じりの難航の道と化していた。辺り一面に繁茂する雑草が、天からの冷たい恵みによって、天然の絨毯に滑らかさを付け加えている。枯葉や土と相混じってそれが泥濘にも似た歩き難さを演出しており、慧卓らの歩幅は自然と縮まってしまう。既に何度か転びかけているため身体の彼方此方が濡れて、落葉の破片などがこびり付いていた。なるべく困難そうな場所を避けようとするも地表にある木の根は絨毯と同様に滑りやすく、また高さがあるため跨ぐ度に疲れてしまう。歩き易さを求めて迂回をするなどは論外の行為である。となると慧卓らに残された手段としては正面突破以外に何も残されていなかった。 
 森に入ってから既に二刻ほどは経過している筈であった。枝葉の間から見える空の青々しさに、俄かに赤が差し始めているからだ。湿気溢れる森も昼間とは違った輝きを見せており、身体中に汗を掻いていなければその美しさを愉しんでいたであろう。だが慧卓ら面々においては、唯一それに気付いて感動を覚えそうなパウリナでさえ、道無き道の踏破性の無さに苦労しているようであり、輝きはただ目を疲れさせる光だけに留まっていた。
 彼女はつい様子が気になって己の主人を見る。神経を尖らせたように、しきりに後ろを見遣っていた。

「どうしました?御主人」
「・・・視られているな」
「?何にです?こいつですか?」

 傍から顔を出していた小鹿を指差すが、ユミルはそれに意を介さずパウリナに鋭く告げた。

「パウリナ。先に歩いていろ。俺が殿を務める」
「は、はぁ」
「もうじき騒ぎが起こるだろうから、それを聞いたら全速力で平原に向かって走れ。決してケイタクを一人にするな」
「わ、分かりましたっ」

 冗談が通じぬほどの真摯さにパウリナは気を引き締めて、慧卓らの方へ駆け寄った。事情を説明する彼女の背を見詰めながら、ユミルは懐にある何本かの短剣の柄をそっと撫でる。耳を澄ませれば、後ろの方で草木を踏みつける擦れた音が幾つも聞こえて来た。

(さてと・・・正念場だな)

 背後からひしひしと感じる殺意の数々に、ユミルの闘気が徐々に湧き上がってきた。後ろをちらりと見遣るその目には、追尾する男達と同様に俄かながらも殺意の光が込められている。
 連れを先に行かせて幾度も警戒の目を送る姿に、男達は尾行が悟られたと確信した。

「気付かれたか?」
「構わん、こっちが多勢なんだっ。気付かれたとて奴等の抵抗など痛くも痒くもならん」
「その通り。エルフの技と闘志をもってすれば、奴らなど一捻りよ」
「ああ。後ろから奇襲をかければそれで終わりだ。人間などその程度よ」

 残忍さを交えて男の一人が微笑む。面子と名誉を踏み躙った代償として易々とは死なせない、という魂胆である。ふと男の一人が周りを歩く仲間を見渡し、不審げに頸を捻った。

「あれ?おかしいな」
「どうした」
「・・・なぁ、俺ら全部で15人だったよな?」
「そうだが?」
「・・・一人減ってないか?」
「はぁ?」

 疑問に釣られて指を向けて数を数えてみる。十秒程度で数え終わるが、申告通り、数は14人である。不気味な感じがして背筋がびりりと震えた。 

「・・・数が合ってねぇ。どうなってやがる」
「なぁ、一応アイ=リーンの奴に知らせるべきーーー」
 
 そう言おうとした瞬間、男の背後から青い何かが覆い被さり、男を地面に組み伏せた。余りに唐突な展開に立ち竦み、直後背中に熱いものが食い込んで地面に倒れこんでしまった。立ち上がろうにも腰辺りが妙に傷んで立ち上がれず、歪んだ顔だけを振り向かせる。男の苦痛の瞳が、黄金色の猛禽の瞳と噛み合った。その瞳の持ち主は同胞を倒したそれと同じ青い肌をしており、その巨大な大口を開けて鋭く尖った犬歯を見た瞬間、男は漸く、それがラプトルと恐れられる魔獣であると悟った。

『あっ、あああああああっっっ!?!?!?』
「!!みんな走ってっ!!!」
「お、おいちょっと待て!?」

 森を走る悲鳴に呼応して、パウリナが即座に鋭い声を出して疾駆する。慌てて慧卓らがそれに追従して湿った絨毯を駆けていく。この時点において、アイ=リーンらの奇襲をかけて襲うという目論みは崩れ去った。

「な、何が起こった!?」
「くそっ、なんだってんだ!?もういい、全員抜刀しろ!!あいつらを殺せぇぇっ!!!」

 つんざめく二つの断末魔の重奏を背に男達は抜刀し、鬼気迫る表情で獲物へと迫っていく。彼らの前方に居たユミルは右手に短剣を持って男らの姿を睨む。

「来たか」

 得物を隠し、森の出口へと歩きながら、真っ先に自分へと近付いていく男を見据えた。両手で剣を振り上げて蛮声を吐き捨てる様は、死兵の如き苛烈さである。男は剣の距離に背を曝しているユミルを捉えて、一気に剣を振り抜こうとする。 

「おおおおおおっ!!!」
「しっ!」

 ユミルは素早く振り向いて自分から迫る。剣を握る相手の拳を受け止めながら、その喉首へ一息に短剣を突き刺した。獲物を振れず困惑する男から血塗れた剣を引き抜き、次に来る男に向かってその剣を投げつける。円を描いて飛来するそれを敵は身を屈めて避けるが、ユミルの抵抗よりも後ろから段々と、それも俊敏に近付く幾つもの青い影に動揺しているようだ。

「おいっ、あの青いのはなんだっ!?」
「ら、ラプトルだっ!!ラプトルの群れが後ろにぃぃっ、ああああっ!?」
「くそ、ジャンがやられた!!おい、どうしてこうなってるんだよ!?なんでラプトルが後ろに!?」
「俺に聞くな!生き残りたきゃ全部殺せぇっ!!」

 意外なる前方の敵の強さと後方の青い猛禽の群れに挟まれて、半ば自棄となりながら男らは更に迫っていく。背後から次々と走っていく断末魔と血肉を裂く音に、恐怖を抱いてしまったのだ。ユミルは葉陰に身を走らせてから木陰へと身を移し、新たな短剣を逆手に持って身構える。そして素早き足音が間近まで近付いてきたのを聴いた瞬間、一気に身を乗り出してナイフを振り抜く。刃が疾駆してきた男の胸部へ深々と食い込み、男は足を滑らせるように倒れ 地面の葉が巻き上がった。
 いい具合に心臓に刺さっているようであり、間違い無く致命傷である。男から剣を奪って顔を上げた瞬間、手を伸ばせた触れれる距離で、血潮で穢れた青い獣と瞳が合う。神経が一気に張り詰め、一瞬が永遠に感じられた。その獣は疾駆しながらユミルを確りと見据え、尖った鼻をひくひくと鳴らした後、視線を逸らして横を通り過ぎていく。そしてユミルに気付かずに疾駆していった男を背後から襲撃した。余りにあっという間の出来事でありユミルは戸惑いを覚えた。

(お、俺を避けた?)

 疑問に思う彼に向かって雄叫びが降りかかる。男らが二人、それぞれ先を争うかのように迫っていた。舌打ちを鳴らしながらユミルは立ち上がり、身を退きながら相手を見据えた。たかが殺人や敵の殺意如き怯むような闘志は、この歴戦の狩人には無縁のものであった。
 ユミルが死闘に突入していく一方で、慧卓らは徐々に森の出口へと近付いていく。 
 
「早く走って!!」
「分かってる!」

 慧卓は先導する元盗賊の俊敏さに必死に追従する。彼女に続いてミカが、少年が、そして慧卓が鬱蒼とした森から脱した。紅の優美な夕焼けが草原を照らし、その青みがかった葉に黄金の光を与える。幻想的な光景ではあるが、その雰囲気を剣呑な蛮声と剣戟の音が掻き消す。ましてや泥道を駆ける幾多の足音など無粋の極みであるが、命の危機ゆえにその無粋も許されるものであった。
 慧卓はちらりと振り返って、後悔する。彼らの後を追うように幾多ものエルフがばらばらに疾走しており、一様に剣を抜いている。数はたったの五人であるが、まともに抵抗する事など夢のような話であった。慧卓が前を向こうとした瞬間、泥濘に隠れた草に足を引っ掛けて、前のめりに倒れこむ。

(やべっ!?)

 咄嗟に顔を横に向けるが泥道に真っ直ぐに倒れてしまい、左の頬と膝が強く擦れて、擦り剥けるのが痛みによって感じられた。苦悶に唸るが慧卓は直ぐに立ち上がって抜刀する。最早逃げれる状態ではなくなってしまった。
 仲間の悲鳴を聞きながらも慧卓は後ろを振り返り、自分に駆け寄る最も近き敵を睨む。そしてやけくそ紛いに下段から剣を振り抜いた。

「っっぉらあああっ!!」

 相手もまた上段から剣を振り抜くが、一瞬早く、自分の剣が相手の横腹を深く切り裂いた。ただの偶然の所業であるが男は瞠目して地面に倒れ込む。斬った瞬間に柔らかなものを裂いた感触が伝わったが、恐らくそれは臓物であろう。
 それの止めを刺す間も新たな敵が接近してくる。直ぐに剣を翳して剣閃を防ぐも後ろにたたらを踏んでしまう。踏ん張ろうとした瞬間切倒した男に足を掴まれて地面に倒れこむ。眼前に迫る男目掛け、慧卓は咄嗟に剣を投げ抜いた。
 
「ぐっ・・・おっ・・・」

 男の胸部に剣が突き刺さり、呆気なく膝を突かせて前のめりに倒した。慧卓は男の手を幾度も蹴りつけて、その指を折った末に漸く解放される。しかしその時には既に新たな敵が追い着いていた。

(こ、ここで終わりか・・・?)

 蛮声を轟かせて疾駆して来る敵と、突き立てるように構えられた凶刃を見て一瞬覚悟を決めかける。しかし慧卓を真後ろから飛び越した青い影が、男の腕に一気に喰らいつくのを見てその要らぬ覚悟は消える。

「っぐああああっ、は、離れろぉっ!!」

 青い影、即ちミカが噛み付いたのは剣を握った手である。空いた手で幾度も顔を殴るもミカは一向に離れず、男の肉肌を噛み千切ろうとする。遂にはミカの膂力に負けて地面に引き倒されて、その首筋を貪られ始めた。
 目前であっという間に三人の仲間が殺されていくのを見て、他の者達は怖気づき、互いを見合わせて徐々に集まり始める。駆けつけたパウリナと少年が慧卓を立たせた。

「ケイタクさん、何やってるんです!ほら立って!!」
「あ、ああっ!!」

 立ち上がった慧卓を守るように

「ユミルさんはどうなってるんだ!?」
「御主人は・・・居たっ、あそこっ!!」

 彼女が指差すのは慧卓らが出てきた場所は別の出口である。岩を飛び越えて俄かに小高くなった場所に陣取って振り返ると、後から続いてエルフが迫っているのに気付いたようだ。互いに鋭く剣戟を交し合いながら、徐々に慧卓らから遠ざかっていく。 
 彼の後から更に二人の男が出てきたが、一方は左腕は大きく裂けて出血している。二人は息も絶え絶えに、ユミルと対峙する男に言う。

「アイ=リーン、もう逃げよう!森でもう6人やられた!!」
「残ってるのは俺らだけだっ!早く逃げないとあいつらがっ!」

 ユミルと鍔迫り合いをしながらアイ=リンと呼ばれた男は言う。

「だ、黙れっ!一度決めたらやるんだ!そうだ、やるんだ!!皆、殺せぇっ!」
「お、俺はやらないからなっ!」
「ふざけるな!ソツ様への忠義はどこにやったぁっ!?」
「俺は給金さえ貰えればいいんだっ!今まで昔の誼でやってたが、こんな目に遭うなら初めからーーー」

 そう言おうとした瞬間、背後から二人の間を裂くように一匹のラプトルが軽く跳躍して乱入してくる。慌てて空を裂く鉤爪から逃れて、二人は互いに言い合う。
 
「お、落ち着けっ!一匹突出しただけだっ、取り囲んで殺せぇっ!」
「そ、そうだっ!こいつだって獣なんだ!剣で殺せない訳が無い!」

 森の動静を見るまでもなく二人はそう決め付けて青い獣を斬り殺さんと迫る。余裕を欠いた一撃を上段から見舞うがあっさりと避けられ、続いた刺突も避けられる。もう一方の男がタイミングを合わせて切り掛るが、青い肌を浅く裂いただけに留まる。薄く滲んだ血に獣はたじろがず、ただ男達を見据えるのみ。まるで歯牙にもかけぬ虫を見る目付きである。
 その態度は彼らの心中を更に激しきものと変じさせた。最早己の疲労を考え切れぬ危うい剣閃を見舞っていく始末であった。傍にいる仲間の事を考えたものとは思えない。闇雲な一振りは空を斬り、たまに青い皮膚を剣先でなぞるだけである。

「こ、このっ、当たれよっ!」

 ひょいひょいと、軽妙な動きを見せてラプトルは男らの怒りをかわす。一向に襲撃を仕掛けぬ事に疑問を持ったが、獣如きに舐められたという事がその疑いを怒りに塗り替えた。赤く照る草むらにラプトルは尾で軌跡を綴りながら跳ねて、茶色い水飛沫を飛ばす。その足跡は徐々に森の方向へと移っていき、男らもそれを追って行こうと振り向いて、瞬間、顔を一気に張り詰めさせた。
 青い肌と黄金の瞳。それが至る所から現れてきて、一様に男らを見詰めた。先まで対峙していた獣と同じように、或いはそれ以上に確りとした体躯である。群れの長らしき獣は口元が真っ赤に濡れており、艶かしき肉の糸を顎から垂らしていた。

「っっ、ま、待て・・・待ってくれ・・・」
『rrrrRRRRaaaalalala!!!』

 哀願を消すように長が一際高い声を出した。鷹のように鋭き一声は獣達の戦意を再び燃焼させ、俊敏な駆け足を命じさせた。目の前に釣り上げられた二人の人間に目掛け獣らは疾走し、碌な抵抗も出来ぬ彼らの肉質に爪と牙を突き立てた。
 数少なき仲間達が死んでいく光景を、慧卓らに対峙していた三人のエルフは、恐怖しながら凝視していた。猛禽と形容するに相応しき執拗さと凄惨さで、ラプトルの群れが二人の男を取り囲んで口を押し付け、引っ張り合う。この世のものとは思えぬ悲鳴がつんざめき、生々しく肉が千切れ、骨が裁たれる音が響いた。ラプトルが壁となっているため鮮血も彼らの末期も見えないが、嬲られる身の悲哀さというのが断末魔から理解できてしまう。蹂躙の重奏によって悲鳴は小さきものとなっていき、獣らの注意は次の対象に向けられるだろう。

「お、おい・・・」
「ああ、分かってる!!」

 生き残った男らは慧卓達の存在を忘れたように草原を駆けていった。只管に南に、脇目も振らずに逃げていく。ユミルと交戦していたアイ=リーンは仲間の醜態を見て思わず叫ぶ。

「き、貴様らァッ!」
「しぃっ!」
 
 唸る剣閃にアイ=リーンは意識を再び集中しようとした。だがその一瞬の油断こそが命取りであった。ユミルの渾身の一撃を咄嗟に防いで身体を引くも、うっかりと踏みしめた泥に足が深々と嵌まり込んでしまう。故に態勢が不安定になるのも仕方の無い事であり、ユミルの斬撃を防いだ格好で地面に尻を突く。足首が捩れて痛みが走り、ユミルの次の一刀で男の手から剣が弾き飛ばされる。くるくると回った剣が深紅の光を反射して、泥濘に塗れた草に剣先をめり込ませる。その音に反応して、骸を貪っていたラプトル達が一声にアイ=リーンの方を見据えて、口元から血肉や生き血を零した。
 不意に噛み合った視線にアイ=リーンは慄き、泥濘から足を引き出そうと暴れる。眼前の敵など意も介さぬ必死な様にユミルは呆れ、剣を肩に担ぎながら慧卓らの下へと歩いていく。どこか事情を理解しているかのような余裕ぶりは、アイ=リーンから見れば何と慈悲の無い態度であったか。

「ま、待て・・・助けてっ、助けてっ・・・」

 そう言いながら漸くの事で足が引っ張り出された。何とかして逃れようと立ち上がり、痛む足首を懸命に叱咤して男は茂みを歩く。赤光に照らされる顔には脂汗が浮かび、苦痛の息が漏れていた。ふと振り返ったユミルが見たものは、足を引き摺って逃げようとするエルフに近付いていく、ラプトルの群れであった。
 これは駄目だな、と思わず純粋に人の最期が予想されてしまった。ラプトルの群れはアイ=リーンに近付いていき、長と思わしき一際大きい獣が彼の背中に鉤爪を突き刺した。

「っっっっぁぁっっ!!」

 正に悶絶するかのように男は悲鳴を漏らす。肉筋を鋭利な爪はあっさりと貫いており、十中八九臓物まで達している。ラプトルは男の独特の尖った耳に爬虫類のような口を近づけて、赤く血塗れた舌をちろちろと這わせる。唾液とエルフの血肉で穢れた舌は肌を伝い、やがて男の剥き出しの首筋へと達する。太さもさる事ながら引き締まった肉筋であり、頚動脈の浮き上がりには熱篭った汗が流されている。どことなく甘美な味わいがして、ラプトルは喜色を表すように瞳孔を萎縮させる。
 息もならぬ緊張が男の背筋を走り、びりりと悪寒が彼の背を伝い、震動が爪を覆う。その瞬間、堰を切ったようにラプトルが男の首筋に一気に噛み付き、他のラプトルも男に群がっていく。悲鳴すらあげられずただただ肉体が食い千切られていく筆舌にし難き激痛と衝撃の中、男はラプトルの瞳に燃え滾る憤怒のようなものを感じ、流血の池の中に沈み込んでいく。

「パウリナさん、大丈夫?」
「・・・うぇっ・・・きっつい・・・」
「ケイタク、無事か・・・ってまた吐いてるのか」
「はぁ、斬るのと食べるのとでは違うようで」
「ぜんっぜん違いますって・・・おえぇっ」
「ちょっ、危なっ!」

 凄惨な御食事を見てパウリナが吐瀉物をぶちまけ、慧卓が慌ててその範囲から離れる。彼と入れ違いにユミルが彼女の背を優しく摩る。ミカは少年に顎辺りの痒みを摩られて上機嫌であった。
 早めの晩餐が終わったのはそれから二分くらい経った後である。草原でエルフを三人、森で数人を喰らい尽くした、或いは嬲り殺したラプトル達はミカの方を見遣る。

『rrRRaar』
『rrrraar』

 遠くからの呼び掛けに反応して、ミカは可憐とも思える高い声を出した。群れに反応した声は紛れも無く、仲間に対する思い遣りの篭った温かな声であった。

「・・・なぁ、あいつを帰すべきじゃないのか?」
「まぁ、そうですよね・・・」

 慧卓はそう言いながら立ち上がり、ミカを見詰める。仲間を見詰めて純粋に喜んでいるのだろう、瞳はきらきらとして曇りが無く、身体の血の穢れがあろうとその喜びには偽りが無いものであった。このままエルフの森に連れ帰ろうとしても、今度は自分達が彼らの餌に成りかねない。となると、矢張りここでお別れのようである。

「何か彼女に言い残す事とかあります?」
「言葉も分からん獣相手だぞ?何を言っておるのだ?」
「なんかものをあげればいいと思いますよ、形に残るものとか」
「ありがとうございます、パウリナさん」

 慧卓は直ぐに思いつくものがあったのか、ミカの方へと近付いていく。パウリナがにたりとして主人を見る。

「御主人は本当にロマンがありませんよねぇ」
「うるさい、黙れ」

 黄金色の瞳が己へと向くのが慧卓には分かった。猛禽類に相応しき鋭い目付きであるが、丸みを帯びた瞳であるがゆえに可愛らしさが窺える。彼女が纏う雰囲気もまた、危険の危の字も見られないほど穏やかであった。
 慧卓は歩きながら投擲した己の剣を回収する。地に伏せるエルフは皆息絶えており、抵抗は全く無かった。そして剣筋をそっと、自分が羽織るロープへと滑らせた。下半分をばっさりと切り裂き、その茶褐色の布切れを彼女の細く、丸い頸に巻いていく。まるでマフラーのように布が巻かれ、頸元で蝶々に結わかれる。身動ぎもせずに己の好意を受け入れてくれたミカの頬を撫でて、慧卓は言う。

「これでお別れだな。短かったけど、愉しかったよ」
「・・・・・・またね」

 どきりと、思わず心臓が脈打ってしまい慧卓は少年を見遣った。思いもよらぬほど清廉さのある声であり、消え入りそうでありつつも確りとした芯を感じさせるものである。なんと記憶に残る声であろうか、普段から出さないのが全くもって勿体無い。
 ミカは二人の若人を見遣り、背を向けてそっとその顔を尻尾で撫でた。少し硬さのあるそれはくすぐったさのある感触であり、慧卓が瞬きをした頃にはミカはゆっくりと歩を仲間の下へ向かわせていた。数歩歩いた所でミカは頸だけで振り返る。

『・・・rrRaa』
「ほら、振り向かないで。さっさと行ってやれ」

 手を振って笑みを浮かべる慧卓と、何もいわずに後ろ手に見遣ってくる少年。二人へ暫く目を置いた後、ミカは今度こそ振り返らずに走っていく。仲間らの軽やかな呼び掛けに彼女もまた言葉を返し、長と思わしき大きなラプトルの頸に、自分の首筋を摩るように当てた。煌びやかな夕景の中で睦ましく青い獣らは声を掛け合い、足を揃えて森の方へと歩んでいく。迷子になった小さき仲間を見つけ出した彼らは、これから元の塒へと戻る事であろう。そこでミカが健やかに成長する事を、慧卓は願ってやまなかった。

「あーあ。行っちゃったな。凄い短い付き合いだったけど、やっぱり別れは寂しいもんだな」
「・・・」
「お前とも余り別れたくないんだよな。結構優しくて、動物思いな奴だってのが可愛いし。それにエルフで仲良い奴って結構少ないからさ、俺。森に戻っても仲良くしてくれるか?」
「・・・・・・考える」

 慧卓は小さく笑みを浮かべて少年の頭をぽんぽんと撫でた。むずか痒そうに瞳を細めながらも少年は抵抗しない。どことなく心地良さげに漏らされた息が何とも保護欲を誘うものであり、慧卓はつい軽く声を漏らしてしまった。



ーーーーーーーーーーーー


「お帰りなさいっ、アリッサさん!!」
「ああ。遅くなってすまない」

 夕焼けが落ちて月が顔を出す頃、アリッサは漸くといった具合にタイガの森へと戻ってきた。家屋の中へと歓迎しながらキーラはその帰還に笑みを浮かべる。予定よりも大分遅れた帰還であったため、少し心配になっていた所であったからだ。
 奥の方からリタがやってきて、アリッサから雨除けの汚れたロープを受け取る。

「お疲れ様です。今御茶を出しますね」
「ああ、すまないな。リコはどうした?」
「お隣の厩舎で兵士さんと遊んでいるようです。もう少ししたら帰ってくると思いますよ」
「そうか」

 髪や衣服の乱れを整えながら、アリッサは一息を吐きながら藁椅子にゆっくりと座る。瞳を閉じて天井を向き、目端の方に力を入れて皺を寄せていた。そういていると、奥の方から軽やかなハーブの香りが漂ってきた。鼻孔を爽やかに擽るそれはまさに癒しの香りである。
 目を開ける。キーラが目の前のテーブルにハーブティーを置いてくれた。

「どうぞ、御茶です」
「ありがとう。・・・なぁキーラ殿。一つ尋ねるが、ケイタク殿もまだなのか?」
「ええ。まったく、予定通りなら今日あたり帰ってきてもいいのにっ。本当に一体全体どこで何をしているんでしょうね?」
「あ、ああ。そうだな」
「寄り道とかしているんだったら、私あの人の事見損なうかも。・・・いやでもケイタクさんならやりかねないし・・・うーん・・・どうしたらいいんだか」

 微笑ましいかどうかは分からぬ、一人で面相を二転三転させる光景に苦笑を浮かべながら、アリッサは茶を啜る。香りと同じような爽やかな味わいに何ともいえぬ慰労の念を覚えてしまう。
 キーラは顔の変化を変えて、アリッサに謝罪した。

「あ、ごめんなさい。疲れているのにこんな話して」
「いやいいんだ。貴方がケイタク殿の事を真剣に想っているのは理解できるからな」
「は、はい・・・すみません・・・」
「・・・それにしても、短い工程の割には疲れた気がするな」
「そうなのですか?」
「ああ。向こうで寛大な歓迎会とやらを受けてな。なんとも気疲れする会だった。これが数日も続けばどうなるか、分かるだろ?」
「あ、あはは・・・本当に苦労をなされたんですね」
「老人の相手というのは疲れる。いや、本当にだ」

 多少なりとも真剣みのある表情で言われれば、キーラとしては困った感じの微苦笑を浮かべるより出来る事は無かった。己の父親よりも年上の男というのはキーラにとってみれば話す機会が無い、宮中重臣や或いは市井の老人らばかりであったからだ。何とも想像し難い話題であり、誤魔化すより何も無い。
 とんとんと、リタが彼女の肩を指で叩いて囁く。

「キーラ様。あの事は聞かれないのですか?」
「き、聞きたいけど、今はそうするべきじゃないでしょ?」

 あの事とは、即ちキーラが今調べている事であり、リタも協力して調査してくれているものだ。アリッサが囁きに反応した。

「なんだ?別に聞かれても困る事は無いぞ?」
「ほら、アリッサ様もそう仰られているのだから、何も遠慮する事はありませんよ」
「そ、そうかな・・・ではアリッサ様。一つお伺いしたい事があるのですけど」
「うむ。なんだ?」
「・・・これ、見覚えあります?」

 キーラが書棚から一冊の本を取り出して頁を開く。先日彼女が見つけて以来ずっと気に掛かっていた『ヴォレンドとは』という本の、骸骨を囲む宝具の絵である。キーラの綺麗な指先はその首飾りを差していた。

「・・・どうです?」
「見覚えもどうも、これはケイタク殿がつけていたアミュレットだぞ?」
「本当ですか?」
「ああ。いつだったかな・・・少なくとも聖鐘の事件が起きる前には、もう手に入れてた筈だ。・・・まぁケイタク殿が言うには、今は王女様にあげてしまったらしいけどな。指輪と代わりに」
「ゆ、指輪ですって!?」

 これまで冷静だったリタが目を見開いて声を荒げる。余りにも衝撃のある態度の変わりように、会話の流れが止まってしまう。キーラもまたショックを受けたような表情を浮かべ、信じられぬような口調で呟いた。

「二人とももうそんな仲に・・・」
「そんなって・・・どういう意味だ、リタ」
「女性が男性に指輪をあげる意味なんて決まってます!『貴方をお慕いしています』ですよ!いうなれば、王女は言下に求婚されたのです!」
「な、なんとっ!?」
「コーデリア様・・・意外と大胆な方だったのね。少し出遅れたのは否めないけど・・・まだまだ大丈夫よ」

 拳をぐっと握り締めて決意を改めるキーラ。唐突にして重大なる発言に自分が尋ねようとしたものを、すっかりと思考の脇へ除けてしまっている。それはアリッサとて同様の事態であり、焦燥の色を瞳に隠しきれないでいた。

(このままでは・・・拙いな)
「拙いとはどういう事です?」
「えっ?な、なんの事だ」
「口から出てましたけど」

 アリッサは唖然として口元を抑えかける。思考が駄々漏れとなっているなど、騎士としてあるまじき醜態であった。ましてそれが自分が恋に関心を持っていると推測されかねない発言であれば。慌てて言い訳を取り繕う。

「つっ、つまりだな。キーラ殿はケイタク殿が、その、好きなんだろ?異性としてだ」
「は、はい・・・好きです」
「だからだ、王女という地位的にも優れた女性が同じ人を好きになったとしたら、貴方に不都合が働いたりしないか?その、政治的なものも含めてだ」
「そうですね・・・働かないというのは、まず考えられないでしょうね。だってコーデリア様は王国の王女ですから。その方が恋愛をなさるとしたら、王国中の注目を集めちゃうでしょうね。私だって、あの人の事は応援したいです。本当ですよ?」

 意外にも予想だにしない答えが返って来た。恋の争いとは他者を排斥する事によって勝者が決定するとばかり、アリッサの地獄耳は貴族令嬢等の話から窺っていたのだが。目を白黒させるアリッサの顔を見て、キーラは面白そうに笑みを深めた。

「でも、私だってあの人の事が好きなんです。・・・ちょっとですけど」
「ちょっと?」
「ええ。まだちょっとしかあの人の事を知らないし、ちょっとしかあの人と触れ合えてない。だからこれからどんどんあの人の事をもっと好きになって、あの人の力になりたいんです。・・・そうすれば私だって幸せだし、ブランチャードの未来も安泰です」
「・・・そうか。そういう見方もあるのか」

 親のため、家族のために恋愛を成就させる。政略結婚の去来を何度も見てきたアリッサにとっては斬新とも思える考えであり、なぜか腑に落ちてしまう考えでもあった。不意に脳裏を掠めたクウィス領土の跡継ぎ問題のためである。叔父に何度も急かされるそれを騎士の任を成就するためと固辞し続けているが、そろそろ良い年頃である。いい加減に生涯の伴侶を得ねば邪気のある他の介入を受ける危険があった。となれば己が納得出来る人物を選ばねばならない。たとえば、慧卓など。

(・・・はっ!!わ、私は何を考えているんだっ!?) 

 今度は口から漏らさず、手で口を覆い隠すだけに留まった。しかし頬に差した紅潮までは隠せず、リタの悟ったような醒めた瞳を受ける結果と相成った。顔の熱に気付かずにいる、或いは気付かない振りをしている彼女を見ずに、キーラは一人ぼそぼそと言う。

「・・・それに、もし妻になれなくておも、せめてあの人のツバメにはなって・・・」
「・・・リタ、ツバメとはなんだ」
「愛人という意味です」
「なにっ!?」
「それは言い過ぎですっ、リタさん。せめて第二婦人とか、その辺に抑えてくれないと」
「でも事実ではないのですか?」
「そ、そうかもしれないけど!でも王国家族法の8条は知ってるでしょ?『王国に過大なる功績を残した者については特別結婚委員会の公正中立なる審議を経た上で、その重婚を認可するものである』って」
「そ、そうなのか・・・知らなかった・・・」

 またしても驚きの事実である。王国の法律とはここまで放埓な事まで認めているのだろうか。というよりも自分の国がどんな法律を施行しているのかすら知らない自分を責めればいいのだろうか。アリッサの頭は一時の混乱に陥り、それを隠すかのようにハーブティーを露骨に啜った。
 その間にもキーラは目をきらきらとさせて、恋する乙女の形相となってリタと話す。

「私だって一番になりたいですよ?でもそれじゃコーデリア様が悲しい思いをされてしまいます。私の大事な方を傷つけてまで自分の思いを成就させたくありませんから、私は二番でいいんです」
「とても素晴らしいお考えだと思いますわ。でも女性の一人として言わせていただくならば、そこはもう少し欲張ってもいい所だと思いますよ、キーラ様」
「そ、そうですか?でも私、ケイタクさんと一緒に居られるなら順位なんて・・・ねぇ、リタさん?」
「まぁ、そうですわね。男性から目一杯愛されるというのは、とても幸せな事ですから。それが自分が愛する男性であれば、尚更ですわね」
「・・・ケイタクさんのって、どういう感じなんだろうな」
「とても激しいものですわ、きっと。ケイタクさんはどのような攻め方をなさるのか、少し興味がありますわね」
「うん、気になります・・・凄いんだろうなぁ」

 最早アリッサには付いていけぬ話の展開振りである。二人が何を話しているか何となく察しが付くが、それを写実的に想像してしまえば一環の終わりである。初風に寝静まる森が噴火するかもしれない。
 そんな彼女の心配を裏切るかのように、リタは実に浮き浮きとした様子であり、言葉に桃色の熱を篭めながら言う。

「あの方の言動や行動から推測する限り・・・夜の方でも情熱的なのは間違いないでしょう。最初の一度で全てを食べられてしまうかも」
『全てっ!?』
「その上、何度も求められるでしょうね。それはもう暁が黄色く見えてしまうほどに」
『何度もっ!?』

 何を想起したのだろうか、乙女二人の顔が頬から耳朶まで真っ赤となる。はわわと言葉にならぬ絶句の息を漏らすアリッサは、あわわと一風嬉しそうに頬を緩めるキーラと視線を合わせた。

「だ、だ、男性って怖いな、キーラ殿」
「・・・アリッサさんもどうですか?」
「わ、わわわ、私はっ・・・いや、今はいいっ!まだ早過ぎるっ!!」

 顔の赤みを隠すのを諦め、アリッサは怒ったように眉を顰めながら茶を啜り始めた。彼女なりの照れ隠しをリタはにやにや悠々として見下ろし、キーラは要らぬ妄想を膨らましてにやけ続けていた。経験と知識、どちらを蓄えるかによってこうも差が違ってくるとは。二者の初々しき反応を見てリタは面白おかしき声を漏らしたくなり、内心で話題の中心である慧卓に向かって喝采を鳴らし続けた。
 数分後、アリッサは漸く落ち着きを取り戻し始めた。カップの中身を空っぽとし、頬の赤みを俄かに押さえつけてからの復活である。

「・・・で、元々何の話をしていたんだ、私達は」
「・・・なんか疲れましたから、明日でいいです」
「そ、そうだな、うん。よしっ、そうと決まれば夕食だ!リタ、今晩は何だ?」
「兎肉の燻製、オリーブの香り付け。株とキノコのスープ。ベリーソース付きのワッフルですわ」
「よしっ、早速食べよう!食卓に向かおうか」

 この場の雰囲気から逃れるように早足でアリッサは家を出て行き、キーラも後に続いていく。家屋一棟を貸し切っての食堂での食事であり、これもまた慧卓の発案によるものであった。団欒の場を作り、皆の団結を深めるという点では大いに作用し、心を安らげるという点でも大いに役に立つ施設であった。
 リタは飲み干されたカップを片付けた後、己もまた給士としての任を務めんと後を追って行く。爽やかな秋が訪れた森には心地良い風が通り抜けており、薄暗き蒼い空と星空の下、人間達の営みの声が響いていた。

 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧