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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第五章、その2の4:弔い



 白き王都は新緑の麦に囲われている。昨年はここ数年ぶりの当たり年で、穀物庫は麦によって占領されてしまった。今年は一体どれほどの豊作に恵まれるのやらと、城門から馬車で、或は水路から船で行き来する商人や農民の顔は明るいものとなっていた。
 風が吹いて緑の海がざわめいた。誰かに踏まれたのか、一把の麦が路肩で台無しとなっており、風によってはらひらと地面を滑っていく。エビぞりになりながら止まったそれを馬の蹄が踏み付け、後に続く重たい車輪がさらに踏み付けた。春の陽光に再び顔を見せた麦は無残な姿に変わってしまった。
 横並びに馬を進めているキーラと、その父ブランチャード男爵。男爵は少しわざとらしく声を掛けた。

「キーラ。あれを見ると良い。ハドソン一家が拓いた麦の大畑だ。知っているか、ハドソン一家を?数代前から続く由緒正しき農家で、去年最も多くの麦を穀物庫に収めてくれた。執政長官より功労賞を頂いたと聞いている。臣民の鑑だ。皆、あの者を模範としてほしいものだ。
 ......あー。ところでキーラ。具合は大丈夫か?さっきから無口だが。何か気に病んでいる事があるなら私に相談してくれてもーーー」
「私は大丈夫です。さぁ、王都の正門が見えて参りました。気を引き締めて参りましょう」
「あ、ああ。そうだな。本当にいいのか?」

 娘は答えず、前を行く騎士の背中を見詰める。純白のマントが靡く様は颯爽としたものだがその心中はどんなものを描いているのか。彼女はエルフの大地から旅立ったあの日からずっと黙したままである。キーラの心に不安の波が過ぎった。
 一月前、エルフ自治領より帰路へと旅立った北嶺調停団は長らく任務を補佐してくれた監察団の面々を連れ、懐かしき王都の城門を潜り抜けた。民衆の歓迎の声が彼等を迎える。色鮮やかな花吹雪が舞うほどの準備の良さは、きっと役所の人間が必死に『調停団帰還』の報せを触れ回ったからできたことに違いない。人気取りというのも為政者の辛い役目の一つであった。
 監察団を代表するかのように、ジョゼが愛想よく笑みを振りまいている。隣にいるユミルの仏頂面と比べて、何と表情の華やかな事か。

「この空気、嫌いじゃない。英雄はこうして迎えられるもんだ。そう思わないか、ユミルよ?」
「俺は英雄なんて柄じゃない。狩人だ」
「またまた。エルフ領じゃ俺よりも多く賊を殺してたくせに。後で聞かせろよ。俺はクウィス領じゃ亀になっててな、たまには鉄の臭いを嗅いでみたいし、そういう話を聞きたいんだ」
「......見ろ騎士団が迎えてくれるようだ。服の乱れを直せ」
「おっと。ありゃ昔の上司だ。いつも切れ痔だって噂のな」
「切れ痔?」
「ヤられたいお年頃なんだよ」

 調停団一同は王都の内縁部に繋がる城壁に差し掛からんとしていた。出迎えに現れた騎士ーー迎えによこされるくらいなのだから彼もまた高位の者なのだろうーーは、最大限の敬意を現した。

「よくぞ帰還された。執政長官が御待ちだ。ついてこられよ」
「イヤー、長官に掘られちゃうー」
「ジョゼっ!!」
「冗談ですよ、冗談。そんなに睨まないで下さいよ、あなたの分まで奪ったりしませんから」
「っ......ついてこい、下郎」

 民衆の声を背に騎馬と馬車は進む。夏の終わりに別れを告げた宮殿前の広場に足を踏み入れると、はためく王国の旗と管楽器の高調子が彼等を迎え、参列した多くの貴族と勇壮な騎士達の視線が向けられた。城壁や鐘楼の上からも衛兵が見守っているのが分かる。このような注目の中で、しかし平然とした者が多いのは経験を積んだからこそ出来る事だろう。
 正面奥に設けられたひな壇には、冷徹な風貌をした執政長官が今か今かと待ち構えているのが分かる。参列者の間にできた道を進み、一同は足を止めて馬から降りる。旅立ちの際にいなかったリコが姿を見せると一部の者が眉を顰めたが、リタが彼を引き寄せたことで懸念は払われたようだ。びくびくとした様子の彼を姉はしっかりと抱いている。
 かつんと、アリッサが軍靴を鳴らし敬礼をする。

「北嶺調停団、北嶺監察団。団長以下十五名、帰還いたしました」
「ご苦労であった......全員無事とはいかなかったか」

 一部の兵士はこの場には立っていない。腐敗防止の手立てがなく、骸は僻地の土に埋められている。アリッサは表情をさらに引き締めた。

「彼等は最期まで立派でした。王国の正義を全うするために、任務に忠実でありました」
「途中報告で聞いておる。盗賊の襲来が度々あり、それらからエルフを守っていたと。見事な忠誠心だ。主神の御下に旅立った彼等のために国葬を執り行おう」
「有難うございます。執政長官殿」

 それから儀礼的に訓示が述べられ、北嶺調停団、そして北嶺監察団は解散と相成った。結成の日とは対照的にやけにあっさりとした終わりであった。
 夜には任務遂行を称えるために宴が用意されているという。そこで、この場には参加しなかった国王からも言葉が下賜されるとの事だ。男爵はそれを聞いて一層身を引き締めているようであったが、アリッサは心ここにあらずという面持ちで解散早々に宮殿内へと姿を消した。
 他の面々も、仲の良い同僚らに囲われながらそれぞれの場所へと行く。ユミルとパウリナのみがその場に残された。

「さってと。どうしましょうか、御主人」
「さぁな。見当がつかん。ケイタクがこの場にいればどうにか言ってくれるもんだが」
「いないんじゃぁねぇ、どうしようもないですし」

 パウリナは声を落とし、気さくな性格に似合わず沈鬱な色を浮かべた。普段から馬鹿をして周囲を盛りたてるあの若き騎士がいないことに、今となっても動揺を覚えているのだ。

「......本当に、死んだんですか?」
「生きているかもしれん」
「連れて帰れればよかったのに」
「だから言っただろう。ここにはおらん。どこにいるかも分からん。知っているだろう、あいつは任務中に行方不明となった。あいつの捜索にいつまでも時間を使うわけにはいかない。そういうことだ」
「御主人、私やっぱり納得できません。捜索は継続するべきだったんですよ!向こう側での事情はどうあれ、そうするべきだった。私達はエルフ領で見捨てたんですよ、あいつを!」
「声が大きい!王女に聞かれたらっ......嗚呼、拙い」

 二人が仰ぎ見た一枚の窓ガラスには、ガラス越しであっても美しさが際立つ水色の髪が靡いていた。ユミルは焦る。

「何とか取り直そう。とばっちりを食らったら何をされるか」
「今は駄目ですよ!王女殿下はこれからアリッサさんとの面会の予定があるって。さっき貴族の誰かが言ってました」
「なに、アリッサと?大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないでしょ」
「くそ、何もかもあいつのせいだ」

 二人は心配を覚えながらも、豪奢な空間に立ち入るような事はしなかった。あくまで自分達は慧卓に雇われて任務に同道した身分で、任務以外の事にまで権限は及ばない。後ろ髪を引かれるような思いになりつつも其の場を去るより他なかったのだ。
 宮殿の二階の廊下をアリッサは重たそうに歩く。王女の部屋の前には妹分である、騎士トニアが控えていた。赤いサイドポニーが自分の方へ揺れるのを見る。二人は距離を開けて向き合った。
 「殿下に会わせてくれ」と絞るような声に一拍遅れ、「ごゆっくりどうぞ」と道が開けられる。アリッサは戸を開き、ベッドに優雅に座る王女を視界に捉える。王女は憂えげな面持ちで窓の外を見たままであった。
 ぎぃっと戸が閉まる。アリッサは数歩進むと、その場に跪いて首を垂れる。王女が忠義を捧ぐ騎士へ顔を向けた。

「お帰りなさい、アリッサ。無事で何よりです」
「はっ。殿下のために全力を尽くして任務にあたり、これを成し遂げて参りました」
「肩を張らずとも、ここには二人しかいません。どうか楽にして下さい」
 
 温かな声にアリッサの口元がぎゅっと引き締められた。アリッサはゆっくりと面を上げて、主神の御心を現すような慈愛の微笑みが向けられるのを見ると、急きたてるように言い放った。

「殿下。私は、騎士失格です。守るべき者達を敵の魔の手から守り通す事ができず、更には......副官を、ケイタク殿を失ってしまった。殿下に御目通り願ったのはこの失態を断罪すべきと考えたからです。
 彼はヴォレンド遺跡で重要な任務に当たっている途中、不幸にも訪れた山嵐に飲み込まれてしまいました。こちらはリコが、嵐が去った後で遺跡を探し回り、唯一見つける事ができたケイタク殿の......遺品です」

 そう言って、彼女は首にかけていたチェーン付の指輪を取り出した。王女は指輪の輝きと、アリッサの首元についた赤い鎖の跡に目を遣り、すっと立ち上がって彼女へと近づく。渦のように巻かれたチェーンをどかして指輪を取り、大事そうに持ちあげた。
 冷たい重みが掌から消えるのを機にアリッサは再び頭を垂れた。深く、気品ある絨毯に鼻を埋めんばかりに。コーデリアの声が優しく振り下ろされた。

「アリッサ....どうか顔を上げて」
「なりません。この不手際、騎士として恥ずべきものであるに留まらず、人としての欠落であります。この情けなき顔を殿下にお見せするわけには」
「顔を上げて」

 王女のたおやかな指がアリッサの頬を撫でて顎まで下ろされると、くいと掴んで無理矢理面を上げさせた。深緑の目から涙が毀れていた。

「泣かなくてもいいのに」
「ですが、私は殿下に期待に応えられず....」
「いいのよ。あなたは自分の責任を果たした。それを咎めるだなんて、私には出来ない」
「でもケイタクがっ」
「生きている。感じるの。召喚の誓いはまだ生きている。彼はこの大陸のどこかに必ず生きている」
「だったら姿を見せている筈....私が不甲斐ないから見捨てたんじゃ」
「どうしてそんな邪なことしか考えられないのですか。自嘲も大概になさい。私は誰かと違って、あなたを甘やかしてばかりじゃないのです」

 ついと顎から指を離すと王女はベッドに再び座り、ターコイズを指で弄ぶ。窓からの斜光を受けて水色の光が瞬く。静かな口調で彼女は続けた。

「私と彼は、『召喚の契約』を結んでいます。父とクマミ殿がしたように。二人は波乱に満ちた昔日において、戦場を幾度となく違えようと決して離れなかったといいます。
 この契りは、魂を結ぶ契りです。『セラム』に留まる事を受け入れる限り、決してその魂はこの大地から消えたりはしない」
「....そうだ、契約っ。殿下、クマミ殿を召喚したように彼を此処に呼ぶことはーーー」
「出来ません。期待に添えない解答となりますが、これも魔術の定めです。
 あなたが『風吹き村』の森で行った召喚は、召喚者が『セラム』、そして召喚される者が『異界』にいなければ行使できないものです。しかし契約はまだ生きているのです。糸で結びつけられた魂は、まだ『セラム』に留まっている」

 王女は更に、「たとえ世界を変えるような大魔術師でも」と言いながら騎士を見る。暗澹とした雲のような表情だ。近衛騎士が繕っていいものではない。
 彼女がこんな風に変わるとは思ってもみなかった。王女は一抹の失望を抱きながら続ける。

「魔術が奇跡を起こすとはいえないでしょう。アリッサ、あなたの思いは分かる。けれど堪えて。私達ができる事はこの王都で彼を待つ事。彼を迎える準備を整える事です。彼を信じているのならそうしなさい」
「....殿下は、楽観視していらっしゃる。殿下が信じているのは『契約』でしょう?あなただって、本心は違うはず。一人になるのが怖いから形の無い契りに縋っている。そうではありませんか?」

 乙女の青筋がひくついた。不穏なる騎士の発言に、琥珀色の瞳から慈愛の色が消えかかっていた。しかし王女は気丈にも、自分の感情を抑えつけてそれを取り戻す。主従の関係をこのような形で終わりにしたくない。
 王女は手をそっと前に出す。何もない空間に白い鱗粉のようなものが現れると、胞子のように弾けて、その中からフィブラが落ちてきた。コーデリアはそれをひしと指で握る。

「これを見なさい。私と彼の絆の証です。これが呼び出せる以上は、まだ彼は私と共にいてくれる!あなたには感じられないでしょうが、私は確信しているのです!
 ....邪悪な魔力がこれから放たれている。闇夜よりもなお暗い魔力が。なぜこうなったのかは分からない....でも、光そのものが消えた訳では無い。
 きっと大丈夫です。あの人が王都に帰れないのは、何か事情があるからでしょう。あの夏の日が最後の別れになったわけじゃない。
 それはあなたにも言える事です。あなたはエルフ領で、彼と未来永劫の別れをしてしまったと思っているのでしょうが、そうなる訳ではありません」
「....でも、いずれ問題が起きる。そういう風になっているのよ」
「どうしてそう悲観的なの、アリッサ。あなたらしくない」

 アリッサは立ち上がり、突き放すような視線で王女を見詰める。彼女自身気付いているのだろうか。背が僅かに丸み両手が前に構えられている様は、まるで大事なものを抱えそれを守るような様となっていた。

「コーデリア。あなたは知らないでしょう。私と彼との間に何があったか。彼が私に、私が彼に何を求めたかなんて」

 一瞬、コーデリアは騎士の言葉を理解し損なう。そしてそれに隠された顛末の一端を想像すると、琥珀色の瞳は信じられないように俄かに開かれた。心を惑わすための狼藉じみた放言ーーそれとて主に対する敬意を逸した看過できぬものだがーーと思えたが、碧眼に揺らぐ感情の中にコーデリアは引っ掛かるものを感じた。まるで誰も持っていない玩具を得意げに自慢する子供にも似ている。『優越心』とも呼称できた。
 国王の部屋に並んで宮廷で最も品位のある部屋に、重たい沈黙が霧のように立ち込める。無関係な第三者が部屋に入れば、その冷たさに寒気に晒された鉄を思い出すだろう。夕陽よりも瑞々しいオレンジの光と、深い森林のようなグリーンの光が視線を絡み合わせている。親愛と敬慕。疑念と不信。そして優越と嫉妬が交錯され、御互いの間に溝を作っている。
 不毛な争いに終止符を打ったのはコーデリアであった。声に出さぬよう静かに息を吐いて、冷淡な声色で言い放つ。

「....そうね。分からないわよ。二人に何があったかなんて。だから私とあなたは違うの。現実をそれぞれのやり方で受け止めなければいけない」

 王女は指を強く鳴らした。戸が開いてトニアが入ってくる。王女は反論を受け付けぬような声で言い放つ。

「アリッサ。あなたには自分自身を見つめ直す時間が必要よ。今夜の晩餐会に出席したら、二週間の休息を与えます。その間、私の護衛からも外します。都の外に王家の別荘があるからそこで静養なさい。任務、本当にご苦労様でした」
「....そう。それが決断ね。王女殿下の御采配のままに」

 敬礼をして、騎士は王女の部屋を後にした。コーデリアは海に沈むように柔らかなベッドへと倒れこむ。寂しさと哀しさが募ったように溜息を零すと、己の下へ戻ってきてしまった指輪を手放した。 
 宮殿の廊下を歩く二人の騎士は言葉を交わそうとはしなかった。宴の準備に追われている使用人らを遠目に、アリッサは自室へと辿り着く。

「少し休むわね」
「再開したばかりというのに、また離れ離れになるとは。残念です、姉上」
「トニア。身体に気を付けなさい。風邪を引かないように。私は頭を冷やす」

 アリッサはそう残すと、戸をぎぃと開いて身体を中へ滑り込ませた。億劫そうに閉ざされた戸に向かってトニアは複雑な面持ちを浮かべ、王女の警護をすべく道を引き返した。
 その夜、国王を前に執り行われた宴は、華やかな見た目とは違ってしんみとした空気に包まれ、主役の一人であるブランチャード男爵ですら得意の詩を詠うのと躊躇ったという。



ーーーーーー



 宮殿の騒がしさから一夜明けて、王都は常の平静を取り戻していた。春の訪れとともに始まった市場開き。北から下りてきた寒気に震えた思いを吹き飛ばすかのように、外縁部の貧民街でも、内縁部の貴族の通りでも賑わいが見られている。
 飛ぶように売れているのは葡萄から搾り取ったワイン、そして冬のあいだに熟成されたチーズである。酪農家が寒さに負けずに溜め込ん半月のようなそれが人気なのは、気の早すぎる豊作の前祝といった感じなのだろうか。去年もそうなのだから今年だってそうに違いない。一見楽観的な市民性ともいえるかもしれないが、その心には豊作を祈願する必死の祈りが貴賤問わずに存在していた。こんな世の中、ワインとチーズがなければやってられないというのが本心なのだろう。
 夕刻、茜色に染まる貴族街の一角にある館。宴後の細かな事務手続きや重臣らへの任務報告によってブランチャード男爵はくたくたとなっていた。しかし家で迎えてくれた妻の笑みを見ると、つられて笑顔となり、そして妻の膨れた腹を見て感極まったように喜んでいた。主神の奇跡が彼女の子宮に宿ったのである。

「そうか!そうか!道理で宮廷で見かけないと思ったらそういう事か!」
「心配をおかけして申し訳ありません。魔術士の先生が御腹に負担を掛けてはいけないと仰せになるものですから」
「いやいや、先生は間違っておらんぞ!お前の身体を労わってのことなんだからな!いやはや、この歳になって新しい命の芽吹きに恵まれるとは!ブランチャードはますます繁栄するぞ!
 それにしても、どうして教えてくれなかったのだ。執政長官殿に頼めば手紙を送ることだってできただろうに」
「そんな事を言ったら浮かれて仕事に手が付かなりますわよ?あなたの事ですから、詩を作るのに夢中になってしまうのはすぐに想像できます」
「はははっ。良き妻は夫のすべてを理解していたか!」

 嬉しさのあまり男爵は蔵に保管していた一番の葡萄酒を開けんとしたが、愛妻のためにぐっと堪え、今はその腹に手を当てて鼓動に耳を当てていた。ミントは夫の喜びに笑みを浮かべるも、浮かぬように視線を外している。それは決まって、彼の注意が自分の表情に注がれていないのを確かめてからであった。
 夫婦水入らずの時間を邪魔しないよう、キーラは二階にある自室に入り、久しぶりの嗅いだ生活臭に懐かしさを覚えた。本棚に飾ってある書籍やフローリングが埃を被っていない事に、彼女は大きな愛情を感じる。一方で彼女に連れ添って部屋へと入っていたパウリナは、遠慮なく寝台に腰掛けて「折角なんだから二人と一緒にいなよ。いいの?」と問う。キーラは頭を振った。

「ええ。何となく居辛くて」
「まぁねぇ、何となく分かるな。今日くらいは夫婦水入らずの時間を作っておかなきゃって感じでしょ?寂しくないの?久しぶりに母親に会ったのに」
「それは勿論だけど、でもお父様だってそれは同じだし。だったら私よりも断然嬉しそうにしているあの人に、今日は時間を譲ってあげなくちゃ」
「かぁっ!キーラちゃんは偉いねぇ。お姉さん感動しちゃったよぉ」

 じゃれるようにパウリナはキーラに抱き付く。「もう、だめだよ」と静止しながらもキーラは満更ではないようだ。
 パウリナはふと顔を上げて、思い出したように手荷物を漁る。

「おっと、忘れるところだった。ほらこれ、御酒持って来たよ」
「ち、ちょっと!これって六十年もののやつじゃない!貴族階級でも最高級の逸品じゃ......どこから持って来たの!」
「そんなに怒らないでよ。宮廷のワインセラーから一本拝借しただけで、他は何も盗ってーーー」
「出しなさい、全部」
「信用まるで無いのね。分かったって、もう」

 あっさりと白状してパウリナは手荷物の中に入っていた戦利品を一つずつ露わとしていく。『そういえば彼女は盗賊だった』と、宮廷で見慣れている小道具がサックから次々と出てくるのにキーラは呆れかえっていた。
 銀食器は需要に見合った価値があるのだろう、この中では一番数が多い。銀皿や銀のゴブレットは、貴族の食卓に出るものよりもワンランク格上のものだ。続いて小さな宝飾品だ。しかし言ってはなんだが、貴族お抱えの商人でも扱わないような小さなものだ。そこいらの河原で転がっていても不思議では無い程の地味さ。宮廷での盗みは神経を使っただろうに、苦労に見合った成果とはいえない。

(うーん、これってやっぱり言わなくちゃ駄目だよね。でもパウリナさんにはお世話になったし、せめてもう少し時間が経ってから言っても遅くはないような....)
 
 そうこうするうちにサックの戦利品を全て取り出された。銀食器が幾つかに、価値の無い宝石の粒が数個だ。
 だが盗賊の盗品自慢はそれに留まらない。驚いた事に、パウリナは下着の中へと手を突っ込む。ぎょっとするキーラを他所に彼女は一番の戦利品ともいえるだろう、紙に包まったルビーを取り出した。南部産の高級品である。

「そんな所まで使うなんてっ」
「女はものを隠す場所が多いからね。キーラちゃんも女子なんだから、覚えておいた方がいいよ」
「......まだ盗んだやつ、持っているでしょ」
「いやいや、これで全部ですよ?」
「まだ、あるでしょ」

 疑いが募ると際限がなくなる。キーラの真顔に観念したか、パウリナは口許を引き締めながら懐から一つの箱を取り出した。茨が絡み合った模様をした蓋を開けて中を見せる。戦死者を弔う炎を焚くための粉末が入っていた。貴族が『蒼の弔炎』と呼ぶものだ。

「これって、もしかして......」
「あの任務で亡くなった人達のために、ね。私や御主人は宮廷の人間じゃないから国葬には参加できないんだ。あとリコ君もね。だからさ、集められる人だけ集まって、勝手にやろうって事になって」
「......そっか」
「ね。キーラちゃんも良ければこない?国葬って明日の夜でしょ?それまで時間が空いてるんじゃない?」
「そうだね。特に用事もないからね。じゃぁ、参加しようかな」
「ありがと」

 二人は淡く笑みを交し合い、約束を契った。
 その日の晩、疲れのためか両親が早めの就寝と相成ったのを確かめるとキーラはそっと外に出て、門で待機していたパウリナと共に夜の王都を歩いていく。自分達がいない間に街は変わっているのかと思ってはいたが、案外そうでもないようだ。闇を照らす衛兵の松明の明かりは昔と変わっておらず、空に瞬いている虹のような美しき星々でさえ色褪せてはいない。唯一変わった事といえば、こんな遅い時間に出歩いていても衛兵に呼び止められたりはしないという事であった。
 貴族の館が集まる西地区から外れ、二人は商人らの店が集う南地区へと廻ってきた。大通りにゆらりと伸びる影はまるで大樹のようだ。三件目の宝飾店の路地を過ぎてさらに数分ほど歩くと、やっと目的地へと着いたのだろう、ユミルが二人を迎えてくれた。彼の背後には大きな教会が構えられている。

「来たな」
「こんばんは、ユミルさん。今日は私を呼んで下さってありがとうございます」
「当然の事をしたまでだ。同じ場所で、同じ務めを果たしたのだからな。此方こそ礼を言わねばならん。君の優しさに敬意を」
「貴族の娘である前に、私も一人の人間です。立派な行いをした方はせめて自分達の手で見送ってあげたいですから。ところで、ここって教会ですけれど、ここで弔いをするのですか」
「ああ。神言教の教会だ。つい二か月前から改装が始まったばかりなんだが、此方の話を聞いたところ『是非ここを使ってほしい』と申し出があったそうだ。そうでしたね、クマミ殿」
「その通り」

 暗がりからぬらりと、逞しき壮烈な騎士が顕となる。黒衛騎士団団長に返り咲いて早数か月。今では王国の象徴ともいうべき存在となっている矢頭熊美であった。今日はいつもの頑強な鎧姿ではなく恰幅の良い茶色の麻服を着こなしていた。
 熊美の傍にはリコ、そしてリタが控えられている。どうやら向こうは向こうで、別の方向から此処へ辿り着いたようであった。
 思わず背筋をぴんと伸ばすキーラやパウリナを見て、熊美は優しく微笑む。人生経験を重ねなければ出せぬであろう、重たくも優しい声で熊美は旅の苦労を労う。

「みんな。よく帰ってきたわね。王国の名誉を守るため義務を果たした。そしてケイタク君と一緒に戦ってくれた。あなた達が帰ってきたことを心から祝福するわ」
「......本当なら、全員で帰ってきたかった」
「いい、リコ君。過去はどんな手を尽くしても変えられない。どんなに頑張ってもそれから逃げる事なんかできない。だから受け入れないといけないわ。あなたもそうするために、ここに来たんでしょう」
「......はい。いつまでも逃げてばかりじゃいけない。最後まで希望を捨てちゃいけないと、姉さんに」
「そう。切欠は何でもいい。あなたは過去の自分に向き合う事ができた。そしてそれを認めることができた。それだけでも立派だわ。他の皆もそうよ。辛かったろうに、よく頑張ったわね」

 熊美の言葉にリコは唇を噛みしめた。心中は辛いであろうに胸から込み上げるものを抑えんとして、気丈にも熊美から視線を逸らそうとはしなかった。
 キーラはその姿に敬意を覚え、パウリナと囁きあう。

「いい子だね、リコ君」
「ほんと。何も悪くないのにあんなに責任を感じてるんだから。あの子はもっと報われるべきだよ」
「もっとって、今は違うの?」
「北方の地図を製作してその報酬を貰おうとしたら、依頼主さん、約束をしらばっくれて地図だけを奪ったんだって。酷いよね」 
「その人の名前を教えて。後でそれなりの罰を下さなきゃ」
「心配しなくても、私と御主人でもうやっておいたよ。そいつが後生大事にしている南部産の宝石をね、ちょちょいとスったんだ」
「あ!あれってそういう意味なの?」

 にたりとほくそ笑む女盗賊。ユミルが二人へ振り返り、「中に入るぞ」。一度衣服の解れを正しながら、二人は教会へと目を向けた。
 一同は月明かりが差しこんだ教会のホールへと足を踏み入れた。改装とはなるほど、この事かと一見して理解出来た。信者が座るためのすべて長椅子は撤去され、タペストリーが外されたのか白い壁はがらんとしており代わりに脚立が掛けられていた。天井の梁の部分にも足場が組まれており、明かりがもう少しあれば置き去りにされた清掃用具などが見つかったかもしれない。足音と衣擦れの音だけが反響し、それに視線を返すかのように万物を見透かす主神の彫像が一同を見下ろしている。両腕をすっと開いている様は人間の罪なる行いを受け入れ、正すかのようであった。
 教会の壇上には既に弔いの準備が整っていた。ステンドグラスを背景に薪が段々と重ねられ、最期のその瞬間まで勇敢であった戦士の骸に見立てて三本の剣が薪に安置されている。剣の鞘に、本来されていない神聖な装飾が施されているのは教会側の計らいなのだろう。
 一同は薪を囲う。

「弔炎を」

 熊美とユミル、そしてパウリナがそれぞれ松明を持ち、三方から薪に寝かせた。火種がばちりと弾けて紅の明かりが点り、煙がくすぶり始めた。
 火が掌より大きくなったのを見ると、熊美は茨の模様が入った箱から、白い粉を一握りーー手が虎並に大きいためか、遠慮して指三本で掴んでいるーー取ると、ばちばちという薪にそれを投じた。

「異郷の地で敢然と戦った兵達に栄誉を込めて」

 仄暗い蒼い火が点る。ステンドグラスが湖面を跳ねる水の紋様のようにゆらめいた。橙色の光は鳴りを収めて薪は蒼い火を放ち、一同は光を浴びて身体を蒼く染めていた。
 人を葬り、祀り、その死を慰める。キーラは立ち上っていく炎を見ながら神言教の経典の一文を思い出した。『それのする全てのことを許し給う。イサクは右手に金の指輪を持ち、薪に蒼き炎をおこし給う』。きっと昔の人々も自分達と同じように、薪に骸を横たえて炎を燈したのだろう。そんな感慨をキーラは思わず抱いてしまう。
 箱を受け取ったユミルが、『弔炎』の粉末を握った。

「人間とエルフの架け橋となった全ての人達に」

 さっと投じられた粉は炎の勢いを更なるものとさせた。薪の内側から炎がぬらりと溢れて松明を掠めた時、手の甲が熱に煽られるのを感じた。色は変われど『火』そのものの性質は変わっていないのだろう。
 パウリナが箱に残った最後の粉末を取る。指の間から零さぬようきつく握ると、青々とした弔いの炎を睨んだ。

「私達の未来と、あいつの無事を祈って」

 生者の祈りがあたかも新たな火種となったかのように、投じられた白い粉を飲みこんで炎はさらに強いものとなった。薪全体にまで火が移り、剣の影らしきものが光の中でゆらめていた。
 ステンドグラスを通して薪の光が溢れる。夜警の任につく衛兵の松明に比べてもそれは大きなものであった。河面を跳ねる水魚のように。雲間から覗くはしごのような天の光のように。それは王都の一角からふわりと放たれ、神秘的に夜闇を彩っていた。
 宮廷の屋上にある庭園から、コーデリアはその光を見詰めていた。春の夜風にガウンが揺れて、『弔炎』のような淡い水色の髪が靡いている。

「早く帰ってこい、馬鹿」

 言葉は風に乗って、すぐに消えて行った。彼女は弔いの光が消えるまでそこに残り、寂寥を慰めんばかりに教会を見詰め続けていた。
 王都の夜は静かに更けて、宮廷は厳かに目を醒ました。宮廷に繋がるすべての道に半旗が掲げられ、死者を弔うに相応しき威厳のある葬儀が執り行われた。そしてその日の終わり、宮廷から沈黙の蒼の光が溢れるのを横目に、騎士アリッサは王都を発ち西へと向かった。

 
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