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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第五章、2の3:エルフとの離別



 湿地帯の沼地のように白濁とした視界が徐々に冴え渡ってきた。最初に目にしたのは古錆びたランタンの火と今にも崩れてきそうな木の天井。そしてその腐臭であった。
 がさがさとした目脂や寝汗によって不快感を感じる。気持ちが悪い目覚めであった。一刻も早く顔に水を浴びせてやりたい。そして新鮮な果物を齧りながら朝の陽射しを謳歌したい。健康的な肉体は、今日は何時もにもまして空腹を感じているようであった。何か激しい運動でもした後のように身体ががちがちになっていて、軽く解してやりたい気分であった。
 慧卓は身体を起こそうとして、『がしり』として全く動じない自らの身体に驚いた。全身がきつく『拘束』されている。冷たい石ーーー大理石のようであったが見たことのない外見であったーーーでできた机に寝かせられ、糸状のものが何重にも手首足首を縛っている。これは魔術によるものだ。糸に流れる魔力をどういうわけか感じてしまう。王都でもエルフ領内でも感じなかったものが、今でははっきりと感じてしまう。まるで身体に『新しい機能』が備わったかのようであり、強烈な違和感を覚えた。

「御目覚めのようだな。若造」

 しわがれた声にはっとして首をやった。慧卓のすぐそばに、格式ばった錫杖をついた醜い鳩面の老人が立っている。彼が王国高等魔術学院の校長だと思い出した時、慧卓の脳裏には激しい戦いの光景が流れていく。情熱あふれる若人に追い詰められて何かが爆ぜた。シーンは転換して、自分はどういう訳か『秘宝』とされている錫杖を扱い、雷と衝撃をもって遺跡を崩壊させていた。人知を超えた極限の魔術と、風雨を引き裂く雷。映像は鮮明に大雪の戦いを写し、その最後のシーンではマティウスが己の首をねじ切っていた。
 それが現実のものだと知ることができたのは情景が流れると共に身体の節々が鈍り返したように熱を帯びて、ひりひりとした痛みを発したからだ。滅失した細胞が蛆にのように湧き立って再生するような感触。痛みが現実を認識させる。あれは確かに自分自身が経験していたことなのだ。意識が無いだけでその肉体は傷つき、そして敗北して、ここに置かれている。
 認識は変化を齎す。慧卓は己を瀕死にまで追いやったチェスター、そして幾度となく肉体的な死を経験させたマティウスが許せなくなる。

「よぉ。あの大雪の中、爺のくせによく生きていたな」
「生きていた?お前の最後の意識は、私を勝手に亡き者としていたのか?私を誰か知っての発言か。何と身勝手な。反吐が出るぞ」
「お前の面構えも十分むかつくよ。王都で殺しておけばよかった」
「それができぬのがお前の限界だ。では質問の時間といこうか。ここは一体どこで、私は一体何をしたと思う?」

 鼻で嗤いたくなる問いであった。聞かれずとも簡単に分かる。

「お前の陰湿な研究室だろ。大方......人間を被験体にしていたって事か?」
「よくぞ鈍った脳味噌で正解に辿り着いたな。褒美として楽な姿勢に変えてやろう。少し揺れるが、吐くなよ?」

 マティウスは机の側面を弄る。すると机は、まるで理容室を思わせるような形をした椅子へと変形する。膝と腰の部分が曲がって慧卓は明りの少ない室内を見渡せるようになった。
 そこに何があるのかを見るよりも早く、マティウスが正面へと回り込む。何日も湯浴みをしてないだろう穢れた皮膚が僅かに愉悦を現しているのがつぶさに見えた。

「やぁ。目覚めの気分はどうだ」
「最悪だ。お前の顔を見たせいでもっと最悪になった。今ならステーキ食っても吐くね」
「お望みならそういう身体にしてやってもいいところだが、残念ながらそれができん。とても残念だ。最高の苦痛と苦悩を一時に味わえる機会は滅多に訪れんというのに」
「自分の身体でやってやれよ、陰険野郎。どうせそういう実験はお得意なんだろう?」
「自傷行為は好きでは無い。精神鍛錬の一環として組み込む輩もいるが、正直分からんな。痛みに慣れることがそのまま鍛錬に繋がるなど正気の沙汰だ。感性が獣以下になる」
「お前に言われたら形無しだよ、ケダモノ」
「では第二の質問だ。自分の恰好を見て、どんな感想が湧く?」

 言葉に従うのも癪であるが、慧卓は自らの身体を改めて見遣り、大いに驚いた。衣服こそ農民が着るような簡素な麻のものであったが、さらけ出された両胸の間に宝玉の輝きがあるではないか。それは、王都を旅立つ前夜にコーデリアに贈った首飾りだ。あの時はその紫紺の煌めきが美しいものに見えたが、肉を()んで胸骨を抉るように外に出ている今の様には禍々しさを感じずにはいられない。
 
「......飾る場所を間違えてるだろ、これ」
「呑気よの。学問の権威として教えてやろう。
 お前の胸に埋め込まれているのは『狂王の首飾り』だ。列記とした秘宝、それも他に比類なき力を秘めている。ヴォレンドの狂王が実際に身に着けていたものだ。文献によれば持っていると、膨大な魔力が授けられるとされている。
 なぜお前がそれを填めているのか。簡単だ。お前の生に対する執着心......いや、お前に利用価値を見出したのだ。首飾りの方がな」
「俺の才能に惹かれた、とかは?」
「それはない。王都に会った際にお前からは微塵も資質が感じられなかった。つまり、お前が今持っている魔力はすべて首飾りが生み出しているものだ。異界の人間というのは魔術とは無縁らしいな。
 狂王は即位に際して首飾りに大いなる意思を籠めて、完全なものに足らしめたのだ。魔力を生み出すだけの魔術具は自ら考え、自らの意思をもって所有者を操る狂気の道具となった。それには狂王の意思が宿っている。数百年の時を越えて、世に復活してすべてを支配するという狂王の野心がお前を利用しようとしているのだ。そうに違いない」

 マティウスの皓皓とした瞳が秘宝を睨む。歴史を語る彼の語気は強く、狂気を孕んでいた。

「彼は臣下に弑逆されて眠りにつき、恐怖の源とされた首飾りは持ち去られた。王の遺体はヴォレンド遺跡......宮廷が朽ち果てようとも無事なままでいられる奥深くに丁重に葬られた。死してなお辱められぬよう亡骸からは残った秘宝が取り外され、渾身の魔力によって亡骸には『防腐』の魔術がかけられた。数百年程度なら腐敗はせんだろう」
「なんでそんなことーーー」
「知っているのだ。今の話を記してある古い日誌を私は持っている。その著者は狂王に全てを捧げた信者なのだ。その者はもっとも大事とするものを捧げて『血の呪い』を掛けられた。信者は大いなる力を得て、狂王に魂から忠誠を誓った。
 彼は秘宝を祭壇に祀った後、遺跡から去った。日誌はその後、呪われた子孫たちによって引き継がれていった。彼の孫は小さな教会の神父となり、曾孫は王国の貴族の使用人として迎えられた。六代目は魔術学校の教師となって破壊魔法について多くの著作を残し、八代目は戦乱で将軍の地位にまで上り詰め、憐れな十代目は犯罪者として全ての肉を切り落とされた。
 そして彼の直系の子孫......その最後の一人は、地下に篭って邪悪な魔術を手にした。死者の肉体を用い、時にはその魂をも操る。マティウス=コープスは生まれながらにして......狂王のしもべだったのだよ。運命とはこういう事をいうのだろうな。認めたくはなかったが、認めざるを得ん」

 自らをしもべと自嘲した老人は、さっと背後へ杖を振った。奥の床がゆっくりと割れて左右に開かれ、下方から何かがせり上がってくるのが見えた。一見して、それは大きな石版のようなものでもあったが、僅かな光によって照らされると遂に正体を露わとした。
 慧卓はただ唖然とする。頬がびくびくと痙攣して信じられぬ思いで『それ』を見詰めた。古の狂った老人の歯牙は時代をこえて毒を齎すものであったようだ。因縁というのは恐ろしく、しかしそれからくる執着心はなお恐ろしいものだと慧卓は改めて実感した。
 恐怖の元凶が括り付けられるように石の玉座に安置されていた。痩せ細った白い手はかつて多くの者達を導き、力無く開けられた口は愉悦のままに人々を恐怖させてきたであろう。そしてその右目ーーー気のせいではないだろう、左目よりも窪みが深くまるで無理矢理押し広げられたように穴が空いているーーーは死して尚、姿無き敵を捕らえて離さぬほど強烈な無の眼光を注いでいた。
 『それ』は台座に拘束され、而して鷹揚に最良の機会を待っているように思えた。狂王は朽ちた躰から大いなる野心を放っていた。

「嗚呼、声も出ないか。そうだ。これは狂王の亡骸だ。お前を倒した後で遺跡の地下から見付けたのだ。『防腐』が切れていてな、蛆がうようよと湧いていてとても目が当てられなかった。だが私の手にかかれば肉体の再現は難しくとも、骨格の再現程度ならできる。
 どうして私がこれを見付ける事ができたのか。......私は自分の血について一考せざるを得なかった。なぜ私の一族は皆、魔術に長けていたのか。なぜ誰もかれも、全うとは言えぬ汚れた嗜好を持っていたのか。きっとうそうだ。狂王に仕えていた時からその支配を受けていれていたのだ。資質や血、そして子孫を残す力に至るまで。そうに違いない」
「お前は何を望んでいる、マティウス」
「勘づいているだろう?狂王の復活だ。これまでの私はすべてが矮小だった。魔術の昇華という陳腐な望みや好奇心に翻弄されていた。だがそれらを凌駕する最高の欲求を得た!私の死霊術によって狂王を完全な形で復活させる。そのためには、すべての秘宝が必要だ。彼の復活に相応しい最高の生贄もそうだ!
 復活には儀式と、儀式のための道具が必要だ。私の手元には一つの秘宝がある。この錫杖だ。あと必要だと分かっているは義眼、首飾り、そして生贄だ。お前の協力を得られればそのうちの二つが一度に手に入る」
「二つ?首飾りだけじゃ......まさか俺か?」
「異界の人間は『セラム』の常識を覆す。狂王もかつてはそうであった。これ以上に相応しい生贄はいないだろう」

 やはりというべきか。この老人は手段にかかる善悪に拘泥することは一切無い人物だ。下手な期待は必ず裏切られるだろう。
 つかつかと台座に向かって歩いていくのを見て、慧卓はそれとなく手足の拘束を確かめる。鋼鉄が塗り固まっていると思えるくらいに頑強だ。ちょっとやそっとの力では動じないだろう。もし首飾りの魔力に身を任せた場合には、あるいはどうだろうか。
 マティウスは近くより狂王をしげしげと見ながら言う。

「私はこれから儀式の準備に取り掛からねばならん。部下に義眼を追わせてはいるがあの小僧はそう簡単には捕まらんだろう。元はと言えば死体だからな、頭もそう回るものではない。私が直接探してもいいのだが、この身は老いているゆえ時間が惜しい。
 そこで協力を申し出たい。私の新しい部下となれ。私の手としてチェスター=ザ=ソードを追い、義眼を奪ってこい。持って来た暁にはお前の胸から首飾りを外し、お前の代わりに新たな生贄を探すことにしよう」
「断る。首飾りは、もう俺の身体の一部になっちまった。外したいが、下手に弄られたら死にそうだ。それにお前に協力すること自体が気に入らない。なぜだか知らんが、覚えているんだ。遺跡から『転移』する寸前の、お前の醜悪な顔をな」
「その解答は想定の範囲内だ。そこで第三の質問だ。この少女は、誰だと思う?」

 マティウスは台座を掴んでゆっくりと横に回転させる。ずずずと石が擦れ合う。腐った肉体が闇に隠れ、その反対側から玉座の取っ手らしきものが見え、亡骸と同じように人の形をした何かが座っているのが見えてきた。またも誰かの亡骸なのかという慧卓は、その者の顔を見て大いに驚く。

「な、なんで。なんでだ!なんで『彼女』がそこにいる!」

 『セラム』に来てからの最大の衝撃であった。そこにあったのはうら若き女性であった。その衣服は慧卓の『現実』にある、学生服の恰好である。彼女が慧卓にとって特別な存在であるのは、その可憐な表情がころころと変わる事を知っていたためだ。その艶やかな黒髪と太陽のような笑みを知っていたからだ。この世界ではそれらは夢の中でしか感じられず、時には自らの郷愁を掻き立てるものがあった。だが常にその笑みは自分の生きる意思にさらなる輝きを与え、『現実』への帰還に対しての希望ともなった。彼女の笑みはまるで暗い月光のように静まり返って閉ざされていたが、払暁さえ迎えられればまた受けられるかもしれないと考えると普通なら胸が高鳴ろうもの。
 だが『現実』はそうではない。この危険に満ちた異形の世界に来るのは選ばれた人間だけ、自分と熊美だけでよかった。中世波乱の欧州を彷彿とさせる殺伐とした命のやり取りに魔術という科学に代わる最強の兵器は、異界の人間にとって脅威に他ならない。平和の時代に安住していた彼女にとっては酷過ぎる。来てしまっては駄目だったのだ。そんな冷たい玉座に座ってはならない。慧卓の胸は何時になく張り裂けそうになる。
 ふと、マティウスがその女性に近付く。手を伸ばせば触れられそうな距離。慧卓はたまらず激発した。

「てめぇっ!!『実晴』から離れろぉっ!!」
「おや、代わりに王女を連れてくればもう少し冷静でいられたか?しかし、お前も中々に性根が腐っているな。身体を重ねた女達よりも、たった一回キスをしただけの女の方が大事で、しかもそれと同じくらいこの女を好いているのだろう?近ごろの若者は好色でいかんな」
「いいから離れろっ!殺すぞ糞爺!!」

 マティウスは無視して、ぐいっと女性の顎を掴んで面を上げさせる。千川実晴の水仙のような瑞々しい顔が露わとなった。
 無遠慮に顎を使って観察する様は慧卓に怒りを齎す。渾身の力をもって手足の拘束を千切らんとするが、糸が僅かに肉に食い込んだだけでびくともしない。痛みが彼を更に憤慨させ、最後の手段を使えといわんばかりに誘惑する。
 慧卓が覚悟を決めんとしたその時、マティウスは口端を歪めて言う。「いい女だ」。

「この顔付は生娘のものではない。ゆえに美人だ。お前が好くのがよく分かるぞ。うむ......興味深いな。いっそこの娘も私の奴隷とするか。前と同じように、一度殺してから......」
「っ!!」
 
 心が一気にクリアとなる。マティウスに対する激しい敵意だけが頭を支配して、胸が噴煙のように熱くなり、首飾りが妖しい光を放つ。
 獣のごとき唸りを発しながら慧卓はさらに拘束を解かんとしていく。一度は敗北した魔術の拘束は着実に肉体にダメージを与え流血を齎していくが、それこそ上等とばかりに慧卓は気力を振り絞る。肉が引き裂かれて筋肉を千切り、さらには骨が断たれていく。慧卓の肌は真っ赤に染まりながらも止まることを知らない。どこにそのような力と意思があったのか。 
 遂に慧卓の躰は拘束から『解放』された。ほとんど千切れかけた手足からは夥しい血が流れるが、慧卓はその激痛に動じず、マティウスへ猛進していく。不意を突かれたように固まった彼に血塗れの拳を振らんとした瞬間、腹部に凄まじい衝撃ーーー返り血が実晴の足に引っ掛かってしまったーーーがぶつかり、その身体は再び椅子に吹き飛ばされる。骨が何本か折られ内臓がぐちゃりと潰れる音が身体の内側から響き、満身創痍の彼を新品の『拘束』が縛り上げていった。
 手を前に翳したマティウスは俄かに感心したように慧卓を見詰める。血反吐を吐く慧卓は皓皓とした殺意でもってマティウスを睨む。

「っ、げほっ、げほっ......」
「さぁ、誰が支配者で、誰が下僕か分かったな?お前の意思を聞かせろ」
「......彼女には、絶対に手を出すな。そして俺の仲間にも、絶対に近付くな!俺がお前を、助けてやる!!」
「素晴らしい返事だ。事が終わるまで私達は手を取り合う。そして、私は彼女に決して害を及ぼさん。約束しよう」

 仲間については手を出すかもしれないという事か。憤懣やるかたなし。こんな状況は糞食らえだ。命乞いをする羽目になるなど。しかもそれが、今最も憎い男に対してとは。自尊心が掻き壊される瘡蓋のように見えてくる。
 マティウスは錫杖で慧卓の顎を上げさせ、「一度休んでおくといい。細かい事は明日伝えよう」と残して去っていく。狂王の秘宝と、その治癒能力に対しては大いに信頼を寄せているようで、それゆえの荒々しい対応だったという事か。
 慧卓は実晴を見んとしたが視界が歪んできたせいではっきりと捉えられない。徐々に落ちてくる瞼を必死に開けんとしながら、心に誓う。必ずあの男を殺してやると。万が一、万が一でも狂王がよみがえった時には、道連れを覚悟でもう一度眠らしてやると。
 彼の首ががくりと落ちた。首飾りの光はまだ皓皓としており、徐々に彼の傷は異形の意思によって再生されていった。混濁する意識の中、慧卓はふと自分の左手の薬指から、暖かさすら感じる重みが消えていたのを感じる。「失くしてしまったのか」と思うのを最後に、彼の意識は闇に落ちた。


ーーー二か月後、タイガの森にてーーー


 針葉樹の陰に積もった冬の名残も、穏やかな陽射しを受けて厚みを失っていた。厳しき季節を過ぎたあとの風は心を洗うかのように涼しく、穴籠りをやめた兎がまだ寒さを感じられる大地をてくてくと跳ねていた。
 エルフ自治領の中心であるタイガの森。その外れにある木の館で、エルフを総べる賢人らが集い、暖を取りながら会議を開いていた。職人手製の藁椅子に座り、陶器を砕いたものらしい青と赤の欠片が入った小皿を従者に用意させていた。賢人らはは冷静沈着に論議を進め、それを長老イル=フードがまるで最後の仕事を執り行っているかのように重々しく裁可していく。否。比喩ではなく、今日はまさにイル=フードが長老としての最後の職務を果たす日でもあるのだ。

「......それでは最後の投票に移る。エルフには新たな長が必要とされる。イル=フード殿の統治下ではエルフは生存すらままならぬ。食糧不足で多くの者が亡くなった。度重なる盗賊の襲来で、男だけでなく、女子供も数を減らした。現状を変えねばならん」
「ええ。あなたへの最後の敬意として、春までは待たせていただきました。この賢人会議で、職を辞していただけますか。イル=フード殿」
「是非も無し。私は道を誤り、多くの者を犠牲にしてしまった。その報いは受けるべきだ」
「賢人の掟に従って、道を誤った長老は職を辞した三日後、エルフの炎にかけられる。それでもよろしいですな」
「ああ。それでいい」

 最初からこの末路がくることを予想していたのか。議論すら不要とばかりに、イル=フードはあっさりと自らの辞職と処刑を了承した。参加者らはその覚悟に驚くことはなく、寧ろ当然とばかりに顔を見合わせ頷き合っている。
 賢人の一人が言ったように、昨年の秋の終わりには壮烈な賊徒との死闘が発生し、エルフは多大な死傷者を抱えてしまった。心無い者が「冬越しを前に口減らしができた」と零していたが、その者とて戦いの直後にきた雪嵐を前にしては閉口せざるを得ず、ボロの家屋で己の因果を呪う羽目となってしまった。
 戦火と厳冬という二つの艱難を乗り越えたエルフはまさに満身創痍。子供の泣き声が少なくなったと老人が嘆く様がちらほらと見える。で、あるからこそ、この艱難辛苦の到来を予期し得なかった、または予期しておいて他の政策に手を廻した長老は全責任を取らなければならない。イル=フードの辞職はエルフ全体の総意でもあるのだ。

「では新たな長老をここで決めましょう。といっても、候補は一人しかいませんけれど。そうでしょう?」

 誰かが「その通り」と声高に言う。「ニ=ベリ殿がもっとも相応しい」、「孫を助けてくれた恩義がある。どうして反対できようか」との声は、東の村々の賢人らだ。ニ=ベリはそれらに深く頭を下げて礼儀を示す。次のエルフの長老たるべき風格は十分に備わっていた。
 ここまで議論の音頭を取っていた女の賢人、ソ=ギィは火を見るよりも明らかな議題に笑みを浮かべつつ、言い放った。

「では、投票と参りましょう。ニ=ベリ殿を新たな長老として迎えることに賛成の方は、赤の欠片を。反対の片は青の欠片を投じて下さい」

 間髪入れずに赤の欠片がひうと飛び、からんと音を立てながら部屋の中央に落ちた。ついでまた赤色が飛ぶ。また赤が一つ、二つ、三つ......。イル=フードが情けとばかりに青の欠片を放るも、趨勢を占めた赤の軍勢に跳ね返され中央にすら入れやしなかった。
 当然の結論であった。投じられた青の欠片はたった一つ。ニ=ベリ派の賢人、そしてソ=ギィは考えるまでもなく赤の欠片を投じた。イル=フードと親睦がそれなりにあった他の賢人ですら、赤の欠片を投じている。水面下の工作を疑いたくなるほどの圧倒的な投票差に、イル=フードは頑として表情を変えず、ただ眼前の結果を受け入れていた。  

「決まったな」「ああ。では早速ーーー」
「待たれよ。まだ騎士殿が投げられておらん。事はその結果だけではなく、過程もしっかりと受け止めねばならぬ。それが賢人としての義務だ......さぁ、アリッサ殿」

 賢人らの視線が、王国の美麗な女騎士に注がれた。焦げ茶色の髪に隠された深緑の瞳。どこを見詰めているのか、あるいは何を想っているのか。顔を覆う影のせいでそれが他者に窺い知れることはないだろうが、憂鬱げに唇が垂下しているところまでは隠すことができなかった。
 傍に控えていたキーラが、「アリッサさん」と優しく声を掛けた。それを聞き入れてふと自分の立場を思い直したのか、「......ああ」と沈みがちに返しながらアリッサは小皿に手を出す。からからと欠片が触れ合う。他の賢人の従者も気になるようで、幾人かは視線をそこに向かわせていた。
 アリッサは欠片を掴むと、それを力無く投じる。宙を舞う色を見て誰かが鼻を鳴らした。『まぁ、そうだろうな』と言っているのだろう。欠片の群れの真ん中に、空から新たな欠片が落ちてきた。赤の軍勢に援軍が加わった。

「賛成多数。結果は出ました。これより賢人会議は新たな長老としてニ=ベリ殿を迎えたいと存じます」
「試練を乗り越えたエルフに栄誉あれ。偉大なる巫女様に栄誉あれ」
『栄誉あれ』

 賢人は全ての議題を裁可した。会議が終わり、賢人らは従者を連れて館を出て行く。春の訪れを感じさせる柔らかな陽射しはまるで彼等の心境を現しているかのようであった。
 きしゃりと雪交じりの地面を歩む。王国を代表して会議に出席した二人も仲間の下へと歩いているが、その足取りは重い。本来ならばアリッサの隣には別の人物が立っており、キーラも会議に出席する事は無かった。だがそうならなかったのはその人物が今も行方知れずとなっているからであり、アリッサの気落ちはここから来るものが大きかった。

「アリッサさん。今、大丈夫ですか」
「......ああ」

 エルフの集落に差し掛かる手前で、二人は木立に囲まれた場所で向かい合った。アリッサが湿った切り株に遠慮なく座れたのは初めから鎧を纏っていた御蔭だろう。
 賢人会議を終えて早々ではあるが、これより北嶺調停団は王都へ帰還する予定となっていた。数日前、アリッサから突如として宣告された言葉に一同は驚いていたが、すぐにその準備に取り掛かり、後は手荷物を軽くまとめることだけを残している状態である。一刻もしないうちにエルフの森と大地から離れてしまい、王都に着くまでは行軍に専念せざるを得なくなる。落ち着いて話せるのは今を除いて他にない。
 キーラは一番に言いたい事を言わんとするも、じっと見詰めてくるアリッサから圧迫感を感じてしまい、口籠りながら別の話題を切り出す。それとて、大事なものに違いないのだが。

「その、リコ君の事なんですが」
「どうした?」
「まだ精神的に不安定だそうです。今朝だって悪夢にうなされて泣いているのをリコさんが慰めていました。ユミルさんだって、もうすこし休んでから出立した方がいいんじゃないかって言ってましたし......」
「この前、言っただろう?執政長官殿より便りがあった。私達の早期の報告を期待されているそうだ。エルフ領の最後の雪解けに付き合ってはられん」
「でも、賢人会議が終わってすぐに出立って、少しエルフに対して薄情な気がーーー」
「私は調停団の職務を正しく執行しているだけだ。キーラ。意見具申の際は、もう少し発言に気を付けるように」

 面喰ってキーラは眉を顰める。話は終いとばかりにアリッサは切り株から立ち上がり、去らんとするも、鋭く投げかけられたキーラの言葉に立ち止った。

「ケイタクさんがいなくなってから、アリッサさん、一気に変わりましたよね」

 振り返ってキーラを見る彼女は込み上げる感情を耐えんと、あえて表情が厳めしくなっているのが分かる。「変わってなどいない」と答える様は、まるで意固地になって自分の過ちを否定する子供のようでもあった。

「いえ、絶対にそうです。脇目も振らずに仕事に専念するようになって。その御蔭で、賢人の方々への協力がスムーズにいったり、会議自体が一か月前倒しになったのは凄い事ですけど、でもこんなに結果を急いで得ようとするなんて......騎士としての落ち着きが無いように感じます」
「ほう。たかが貴族の娘がよくもいえたものだな。私は『騎士の誇り』にかけて、自分の責任を全うしているだけだ。君も自分の責任を自覚しろ。長老より借りた書籍は全て返したか?他にも道具を借りていただろう?それはどうなんだ?」
「どうかしています!アリッサさん!悲しいのは分かりますけど、そんなに変わってしまうなんて......私だって耐えようとしているのに!」
「私はそれが赦させないんだ。上に立つ者は常に、前を向かねばならん。後ろを振り返る余裕など赦されんのだ」

 声が空々しく木立に響く。草蔭がざわざわと揺れたのは、小動物が剣呑な声に怯えたためであった。
 キーラはじっとアリッサを睨んでいたが、ふと視線を外して怒りを治めると、懐を探りながらアリッサに近付く。すっと差し出された彼女の掌には一つの指輪が置かれていた。王都を旅立つ際、王女より愛をこめて下賜されたターコイズの指輪である。

「これ。ケイタクさんがつけていた指輪です。リコ君が遺跡から持ち帰ってこれた唯一の遺品です。王女様に渡していただけますか」
「......仕事に戻れ、キーラ」
 
 最後に至って、アリッサの声は震え、視線は指輪に釘付けとなった。キーラの長い水色の髪が憂えるようにアリッサを掠め、彼女の足は仲間の下へと向かっていく。
 アリッサは指輪をぎゅっと握ると切り株に再び座り込み、膝を抱え、その中に埋まるように顔を隠す。脳裏に己を抱いた男の姿が過ぎり、瞼の奥がぐっと熱くなったのを感じた。深く吐き出された息は不意に吹きぬいた風を前に立ち消えとなり、ばたばたと揺れた髪の間からは僅かに嗚咽のような声が聞こえてきた。
 彼女が調停団の下へと戻ったのはそれからすぐ後の事であった。普段以上に気張っている彼女に一同は何も言わず、ただ最後の準備を整えるだけであった。慧卓の遺品であるターコイズの指輪はチェーンをかけた状態でアリッサの首にぶら下がってり、鎧の厚い守護の恩恵を受けている。今の彼女にとっては剣よりも重みのある存在となっているのかもしれない。
 手荷物が全て収容され、いよいよ後は馬を連れるだけとなった。苦難を共にした相方の不在に、黒き駿馬『ベル』はいたく落ち込んでいる様子であった。手綱を引かれても強く抵抗し、厩舎に篭ろうとしていた。だがユミルの、「帰ろう。ここはお前の家では無いのだ」との言葉に、ついに諦めたのか、ぶるると鼻を鳴らして彼を背中に乗せた。
 アリッサが厩舎に入って、ベルの隣に控えられていた別の馬に乗る。ユミルが声を掛けた。

「準備はいいか、アリッサ殿」
「ああ。早くここから去ろう」
「......本当に、いいのか?お前と話をしたい奴だっているだろう。話す気にはなれんのか」
「もう、いいんだ。早く帰ろう」

 つかつかと彼女の馬が蹄を鳴らして歩んでいく。気丈に振る舞っても心が平静ではないのがユミルからは丸分かりであった。
 ベルに手綱を打ってユミルは厩舎を出ようとする。しかしいつの間にか訪れていた二人のエルフを見て、彼は驚く。東の村の賢人ソ=ギィと、その娘であるチャイ=ギィであった。

「ユミル様」
「あなたは、ソ=ギィ殿?」
「ええ。直接お会いするのは初めてでしたわね。賢人ソ=ギィと申します。此方は娘のチャイ=ギィ」
「あなたにお渡ししたいものがあって、参りました。此方をお受け取り下さい」

 チャイ=ギィが砂色の髪を揺らしながら近付いて一通の手紙をユミルに渡した。蝋で封をされたそれは宛先も書いておらず、ユミルは首を傾げた。

「これは一体?」
「二人で書いたものです。ケイタク様が戻られたら彼に渡して下さい」
「っ......あなた達はあいつがまだ生きているとお考えで?」
「あなたはそうではないのですか?パウリナさんから御話を窺いましたが、御二人はとても仲が良く、信頼し合っているとのことですが」
「口が軽いのも困りものですね。確かにあいつの事は信頼しています。しかし、もう三か月も音沙汰がないのです。自力であの霊峰を降りれたかも分からないし、それに大嵐があった。もし無事だったとしても......これ以上申し上げるのは」

 ユミルの回答に、チャイ=ギィは失望を露わとする。仲間に対して不誠実な態度ではないか、そう思ったのだろう。ユミルはそれに対して、心の中で反論する。
 狩人であった経験から、ユミルは大自然には深々と敬意を払いつつ、そしてそれがどのような脅威となって襲ってくるのかよく知っていた。原住民ですら慄いたというあの大嵐をたった一人で生き抜くなど夢想すらできない。悲しくも、堅実な彼の理性は慧卓の生還を半ば諦めている節があった。
 だが目の前のエルフはそれを否定している。一体何を根拠として、異世界の人間に可能性を抱いているのだろうか。その疑問に答えのはソ=ギィであった。
 
「私達は信じております。嵐に呑まれただけで倒れるような方ではありません。きっとどこかで戦っている。そして必ず、王都に帰還されるでしょう」
「......あいつの事を深く信じているのですね」
「ええ。深く、信じています」
「エルフは一度手を結んだ相手を決して忘れませんから。ゆえに、あの人の無事を最後まで信じ、そしてあなた達の未来に希望の光あれと、心よりお祈り申し上げます。この数か月の援助、決して忘れません」
「......手紙を確かに受け取りました。あなた達と同じように彼の帰還を、私は、いえ私達は信じ続けます。そしてこの大地で、あなた方には大変お世話になりました。王国を代表して御礼申し上げます。ではこれにて」
 
 ユミルは今度こそ、馬を進めていく。擦れ違う際、ソ=ギィが信頼を込めて見詰めてきたのに、ユミルは確りと頷きを返して厩舎を去っていく。その背中が見えなくなるまでギィ母娘は見送りを止めなかった。
 ユミルを最後として、ついに北嶺調停団の面々は森の入口に集った。傍を流れる川のせせらぎが雪を解かしては煌めき、小ぶりな雪山から可憐な黄色い花が顔を出していた。長らくこの森に留まって命を費やした彼等を見送らんと、多くのエルフーー疲労を隠せぬ老人らも、戦いの傷が癒えてない者もーーがはせ参じていた。王国を代表して、キーラが子供達から花束を受け取って別れの挨拶を送る。それを聞いた子供らは眼に大粒の涙を溜めながら、気丈に振る舞わんとしていた。
 遥か南へと延びる道に向かってアリッサが先導を切って数歩進む。大きくその手を天に掲げると、グリーヴがきらりと光った。

「出立だ!!」

 馬が蹄を慣らし、ひひんと嘶いた。スレンダーとも思える身体に詰まっているとは思えないほどの膂力で、己に繋ぎとめられた馬車の重みを物ともせず前へ進んでいく。
 別れに堪え切れずに子供らが啜り泣く一方で、大人たちは感慨深げに人間の旅立ちを見送る。新たな長老となることが決まったニ=ベリも同様であり、人間らに感謝の祈りを送る一方で、その瞳は真剣さを帯びて大地を睨んでいる。これからのエルフの行く末に対して思いを馳せているようであった。
 奇しくも後者については、立場こそ違えど、先頭を行くアリッサも同じ想いを抱えていた。王都はエルフの脅威について暫くは心配しなくてもいいだろう。ゆえにこれからは内政の時代であるが、それこそが問題の種を幾つも抱えているものであった。憲兵団の悪辣な活動や、兵の減少。『王女に対してどのような顔を見せて報告をすればいいのだろう』。答えの無い想いが頭をぐるぐると巡り、馬が荒々しく雪を踏みしめてもなおそれがアリッサの思考から離れることはなかった。
 不安げに彼女の手が首元の指輪に向かい、触れる寸前にぴくりと止まって、下ろされる。前を向いた彼女の視界には、雪解け水によって湿った春の草原が広がっていた。


 ーーこの数日後、タイガの森から離れた西の丘で、イル=フードの処刑が執り行われた。処刑人より有らん限りの罵倒を受けながら炎にかけられる寸前、彼は次のように呟いたという。「私はいつ、どこで間違ったのか」。

 
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