逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 34
「あの子は、誰ですか?」
高熱が完全に治まり、固形物も普通に食べられるようになった頃。
もこもこに積み重なった分厚くて白い雲がゆったり流れていく青空の下、ハウィスと名乗った女性に優しく左手を引かれながらネアウィック村の中を散策していると、強めの風が吹く波打ち際で可愛らしい女の子を見かけた。
一番に目がいったのは、太陽を映した海面にも劣らずキラキラ光る金色の腰まで届く長い髪。
次に気になったのは、陽焼けを知らない真っ白な肌。
そして、靴先で海水に触れながら水平線をじいっと見つめていた彼女が、ふと住宅区を振り返った時に見えた、右目と左目で色が異なる綺麗な虹彩。
「あの子は……アルフィンというの。今はグレンデルさんのお宅の子供よ」
「今は?」
変な言い回しだ。
すごく小さな女の子なのに、保護者らしき大人が近くに一人も居ないし。
彼女と同い年くらいの子供なら数人、砂浜を所狭しと走り回ってるけど、彼女と一緒に遊んでいる感じはしない。
もしかして、どこか遠くから引っ越してきたばかりなのだろうか。
「前は、違う家の子だったんですか?」
答えてくれた声の微妙な落ち込みには気付かず、なんとなく尋いてみた。
アルフィンを見つめるハウィスさんの顔は、陽光に隠れてよく見えない。
「……ええ。グレンデルさん夫妻とアルフィンには、血の繋がりが無いの。リアメルティ領で育てられていたのも偶然が重なったからで、領内に彼女の親戚と呼べる人間は居ないわ。実のお父様については私も詳しくないけど、アルフィンの本当のお母様は……たくさんの男の人に、体を売った、後……年若くして、……亡くなって、しまったのよ……」
六年前。
自前の幌馬車で世界を渡り歩いていたアルスエルナ王国出身の行商人が、一時帰国中、南方領のとある街の人通りが少ない道端で気絶している臨月の妊婦を発見、保護した。
荷物もお金も身分証明も持ってなかった上に、一目で高級と分かる繊細な刺繍を施された衣服は土埃などで隅々まで汚れ。
痩せ細った四肢や血の気が失せた顔には、無数の切り傷やすり傷、何回も執拗に殴られた痕が残っていたという。
となれば、胎に宿った命も彼女が望んだ結果であるとは到底考えられず。
案の定、行商人の看病を受けて意識を取り戻した妊婦は、戸惑いや感謝の言葉を発するより先に、胎児を殺そうとしたらしい。
果物ナイフを見れば、自分の腹部を刺したがる。
長い紐や縄を見つけては、体中にきつく巻きつけて圧迫する。
凶器になりうる物を隠したり遠ざけたりしても、ちょっと目を離した隙に自分の手でお腹を殴ろうとする始末。
行商人は仕方なく、街の宿で部屋と女将と従業員達の手を借り。
胎児が産まれるまで、つきっきりで監視していたそうだ。
なんとか無事に出産を終えた後、時間を掛けて少しずつ親子の情を育ててあげられれば……との、行商人の願いは叶わず。
女性は、自らが産んだ赤子を、汚物かおぞましい何かを見る目で拒絶。
声を聞くことさえ、胃の内容物を残さず全部吐き出すほど嫌悪した。
いや。産まれて間もない赤子に向かって、気が狂ったように存在の消滅を強いる呪詞を喚き散らす様はもう、憎悪と表現するべきかも知れない。
この母子を無理矢理一緒に居させても、待っているのは悲惨な最後だ。
行商人は、犯罪行為になると解っていながら、女性に銀貨数枚を渡し。
半ば強引に赤子を引き取った。
やがて床上げした女性は、与えられた数枚の衣服とわずかな食料とお金を持って行商人の元を去り。
行商人に連れられて宿を出た赤子は、以前から取引を通じて親交があったグレンデルの家に託される。
しかし、グレンデルの妻ティルティアは、赤子を託されるその数ヵ月前、遠海組が漁へ出ている間に深夜の自宅で階段を踏み外し、助けが遅れた為に流産してしまったばかり。
深い喪失感と罪悪感に苛まれた不安定な精神状態で、他所から来た子供を受け入れられるのか? と、周囲は心配したものだが。
彼女は、グレンデルと二人で一緒に考えてアルフィンと名付けた赤子を、一寸の偽りもなく心の底から愛し、大切に護り育てていた。
ハウィスさんは、四年前に南方領内にある遠くの街でアルフィンの生母と顔を合わせていた。それに気付いたのは、ネアウィック村に引っ越してきてアルフィンと出会ったからだと話してくれた。
(たくさんの男の人に、体を売った……)
娼婦や売女といった、直接的な言葉こそ使わなかったけど。
ハウィスさんの説明は、すんなり理解できた。
何故なら
(あの子は、私と同じ……なんだ……)
両親と死別するまで住んでいたバーデルの町の住人達が。
お前の母親は、戦地で父親と出会って身受けされるまで、たくさんの男に体を売ってたんだぞ……と。
尋いてもいない両親の過去を、言い逃れができない証人まで引き連れて、事細かに教えてくれていたから。
「……仲良く、なれるかな?」
繋がれてるハウィスさんの手がぴくりと震えた。
覗き込んでくる群青色の目が丸いのは多分、驚きのせいだ。
お母さんと同じ類いの肉親を持つ人間が周りにどんな目で見られるかは、身をもって知っている。
(ハウィスさんも、近寄っちゃダメって、言うのかな)
私の母もそうでしたと言ったら。
この手を振り払って、気持ち悪いと罵倒するのだろうか。
わざと足を引っ掛けて転ばしたり、肩や背中を突き飛ばしたり。
私の髪を毟り取ったり、千切ったり、ナイフで切り裂いたり。
生塵や家畜の糞尿を私の頭に被せながら、楽しそうに笑うのだろうか。
(……それは……嫌だな……)
もう、すっかり慣れていた筈なのに。
一時でも温もりをくれたハウィスさんには。
ハウィスさんにだけは、そうされたくないと思ってしまった。
せめてあと少し、太陽が目を覚ましてる間だけでも離さないで欲しい……
なんて。
帰る場所を持たない自分には、贅沢すぎる欲望か。
「…………ええ」
「!」
指先が離れた。
やっぱり、と手のひらを撫でる冷たい風にちくっと心臓を刺された瞬間。
ほのかなミントの香りが、鼻の奥をふんわり優しく擽った。
柔らかな熱と感触が、強ばった体を包み込む。
「きっと、仲良くなれるわ。貴女がアルフィンの手を取ってくれるなら……私も……すごく、すごく嬉しい……」
背中に回された腕の力が強くて、ちょっとだけ息苦しい。
でも、本当に苦しいのは呼吸じゃない。
「……はい」
お父さんとお母さんが床に臥せた直後。
自分の身に覚えがない過去で、存在を否定されていると気付いた当初は、誰かの笑い声を聞くたびに心臓が冷たくなって、痛かった。苦しかった。
だから、胸の奥が悲鳴を上げるのは悲しくて寂しい時だけだと思ってた。
けど。
(……嬉しくても、苦しくなるんだ)
優しい人がいる。熱を分けてくれる人がいる。
失くしたくないと感じるものに出会ってしまった今、この瞬間の。
なんという幸福。なんという恐怖。
たった一人で波打ち際に立ち尽くしているあの子は、心を溶かす温もりがこの世界にはあるんだと、知っているのだろうか。
(仲良く……なりたいな)
手を繋いで笑い合えたら。
お人形みたいに可愛いあの子はきっと、今よりもっとずっと可愛くなる。
寂しそうな背中も、見えなくなるよね?
「……アルフィン」
ハウィスさんと並んで、アルフィンの後ろに立つ。
ゆっくり振り向いた色違いの虹彩が私を見上げ、こてんと傾いた。
「私の名前はミートリッテ。これからハウィスさんの家でお世話になるの。ねえ……私と、友達になって……くれる?」
突然の申し出に、アルフィンはきょとんと瞬き
「……はい。よろしくお願いします」
大人もびっくりの綺麗な姿勢で、頭を下げた。
再び持ち上がった顔は無表情だけど。
よぉーく見ると、白い頬にうーっすら赤い色が付いている。
(やっぱり。すごく、可愛い)
寂しげに一人で佇む、私とそっくりな境遇の女の子。
どうかあなたも、温かな幸せに包まれますように……
「教えてください、殿下。貴方は御存知なのでしょう? アルフィンの実の母親である女性が、元々どこで、何をしていたのか」
濡れた瞳で正面の男性を見据える。
彼はゆっくりと目蓋を閉じ……一拍置いて、開いた。
「南方領東北部のシアルーン男爵家三女ウェミア=シアルーンは、同東北部子爵領の領主、マルペール子爵に仕える侍女の一人……だった。十三年前、ブルーローズが子爵の私財を盗んだその数日後に解雇処分を受け、更に後日とある豪商と政略結婚をしたが、三ヶ月と保たずに別居。十ヶ月を待たずに離婚が成立して以降、十一年前に自殺騒動を引き起こすまで、彼女がどこで何をしていたのかは、改めて詳細を話す必要を感じない」
三ヶ月。
個体差はあれど、人が人を宿したと気付くのは、大体その頃だろう。
つまり、アルフィンは…………
「…………ふ……、ふふ……っ……」
腹の底からふつふつと何かが沸いてくる、奇妙な感覚。
それは少しずつ体内を這い上がり、抑えようとする喉を震わせ。
ミートリッテの唇を笑みの形に歪ませた。
ああ……これには最近、すごく馴染みがある。
自分への 嘲笑 だ。
「あっはははははははははは! 何が幸せに……よ! バっカバカしい! 他でもない、私自身が! 私と同じ人間を作り出してたんじゃない‼︎」
気付いてみれば、逆に何を悩んでいたのか疑問に思える『当然』の罪。
盗む者がいれば、盗まれる者がいる。
盗まれたくない者は、盗みを邪魔する者に頼る。
では、盗みを邪魔する者が、盗む者を阻めなければ?
求められた役目を果たせなければ?
『役立たずは、捨てられる』
軍事に関わる人間が誰かに雇われる際、最も重視されるのは『実績』だ。
たった一人の怪盗すら捕まえられない実力など、雇用する側にとっても、雇用される側にとっても、汚点でしかない。
経歴のどこかで付いた傷は、確実に腕を鈍らせる。
保身に重きを置く権力者達の中で、鈍った剣を求めるような変わり者が、果たしてどれだけいるのやら。
だから解雇された経歴の持ち主は、軍事世界への帰還が難しいのだ。
なんの後ろ盾も柵も無く、他と比べて切り捨てが容易な、一般上がりの騎士や兵士なら、尚更。
そして、屋敷を任されている点で言えば。
錠の役目を担うのは、軍事関係者だけじゃない。
執事や、侍女や、庭師や、御者や……気分次第で自由に切り捨てられる、
乱暴に放り出されても文句は言えない立場の人間と、その家族が。
いったいどれほど存在しているのか。想像もつかない。
想像も追いつかない人数の『被害者』と『犠牲者』が。
ピッシュや、殺された商人達の他にも、いる。
(神の騎士……国軍が護っているのは、人の世の理。生きていく為の術とそれを糧とするアルスエルナ王国の民。道理を解していないシャムロックが本当に犯した罪は、何?)
『鎧を抜け出た山猫の爪は、『誰』を引っ掻いた?』
一度は呑み込んでしまっていた疑問。
答えは
「私が……私達義賊が犯した罪は、『アルスエルナの民』から仕事を奪い、彼らと彼らの身内が、人として生きる為の環境を、乱したこと……」
いとも容易く。
ミートリッテの口から、するりと溢れ落ちた。
「やや不足だが、まあ正解だ。シャムロックの過ちは、大きく分けて四つ。一つ目は、活動開始前に、義賊が忽然と消えた理由を探らなかったこと。でかい街のド真ん中で起きた売春婦の自殺騒動も、調べようと思えば簡単に調べられた筈だ。耳に優しい話ばっかり受け入れるから、重大な判断要素を聴き逃す羽目になるんだよ」
「…………っ」
「二つ目は、出現した時期と方法。やっと義賊が消えたかって時に、正体が見えない不気味な消失現象を目の当たりにしてみろ。焦った貴族達が警戒を強めるのは、至極『当然』の結果だ」
おかげでここ数年、南方領全土の防衛費が急上昇。
傭兵への緊急報酬を含めた不足分は各種予算で補填してるから、領主達は今後も税を上げたがると考えて間違いない。
一方で、国民や領民にとっては、出世を望める場所や機会や収入が減り、国内の潜在的戦力と各職の質、当然、経済も緩やかに下降の一途だ。
「さすがにこれは国の衰退が始まる予兆めいてて、王家にとってもすんごい迷惑なワケ」
「税金は……私腹を肥やす為に上げてるんじゃ」
「そういうバカが一人も居ないとは言わんがな。本気でンなことしてたら、国としての機能はとっくに瓦解しとる。誰かの又聞きだの外面の印象だのを信じてるんだろうが、誰の目にも明らかで確かな証拠が手元に無いんなら、そいつは願望やら妄想やらと変わらない。そんな不確かなモンを根拠にした空虚な批判なんぞ軽々しく口にするな。それは他国が我が国に付け入る隙を無防備に見せびらかしてるも同然の愚行だ。誠実な試行錯誤の成果が最善に見えるとは限らない、とだけ覚えておけ」
「……頑張っても、どうにもならない時だってある?」
「似たようなもんだ。そこから来て三つ目。王候貴族もアルスエルナ王国を形作る民の一部で、国内の人材や資源は有限であると気付けなかったこと。生活を改善したいと思っているのは南方領民だけじゃない。お前達を優先に助け舟を出せば、違う場所からも不平不満が飛び出す。その要望のすべてに応えられる力なんぞ、一般民はもちろん王侯貴族にも無いんだよ。だから」
「だから、四つ目の過ちは『貴族を殺さなかったこと』よ。仔猫ちゃん」
「え⁉︎」
突然、大きな布が風を叩く。
「あ……」
物騒な女声を辿った先。
落ちていくコートの向こうに立っていたのは……
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