逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 28
ミートリッテの体は、山間の空間に対して横向きだったのに。
足場を失った瞬間には、後ろ向きになっていて。
「…………う、」
背中からふんわり浮いたかと思えば、仰け反る形で頭と足裏が上下反転。
重力の働きに則って急降下していく。
「ウソでしょおぉおお────!?!?」
ゴオオオオと唸る烈風が頭や耳を強かに叩きつけ、山を二つ越えた先にも聞こえていそうな、けたたましい自分の叫び声を掻き消した。
視界がアーレストの体で埋め尽くされ、己の状態を目視できないせいか、体の芯にどうしようもない不安定感が増す。
予告なく掴まれた襟首が突然後ろへ強く引っ張られた時の恐怖に似てる。
飛び降りたかった。確かに、飛び降りたいと思ってはいた。
『崖ドボーン』はミートリッテの憧れであり、叶えたい夢の一つだ。
だが、しかし。
それはあくまでも、死体になる要因と可能性を排除した上での話だ。
河岸や水中や風向きの確認もせず。
水温が低くなっているであろう、こんな夜中に。
準備運動も無しで、渓流かも知れない河へ飛び込むなど。
ありえない。絶対にありえない。言語道断である。
従って、絶叫しながら着実に落ち続ける彼女の思考は
(あ。ダメだ。死ぬ。私、死んだわ)
と。
極めて冷静に人生を諦めた。
(こんな結末、最低で最悪よ。アルフィンもハウィスも助けられないまま、ネアウィック村を裏切った腹黒神父と一緒に飛び降り自殺とか、情けない。情けなさすぎてもう、怒りも笑いも起きないや。どこまでバカなのかしら、私。商人達を騙して死なせて、ピッシュさんにとんでもない迷惑を掛けて。ハウィスには、最後までちゃんとお礼の言葉も謝罪の言葉も言えなかった。どこでどう育っても、私の性根とか卑怯で汚い所に変わりはなかったのね。本当、余計な荷物を増やさせてしまっただけだった。……マーシャルさん、無事……かなぁ? 結局イオーネの目的はなんだったの? 私が死んだら、全部丸く収まったり……しないかなあ……)
数秒か数十秒か、実際には分からない。
ただ、やけに長く感じた落下中の、その時間。
アーレストの暴挙で見開いた後ゆっくり細めた両目には、遺されるものを思う故の涙が浮かんでいた。
(……ごめんなさい)
胸の奥に溢れた言葉は、着水の衝撃音と重なって。
直後、水中で大量発生した泡と共に弾け飛び。
黒い闇の底へと溶けていった。
朦朧とした意識の外側で、誰かと誰かの話し声がする。
(……ここは、……どこ?)
後頭部と首筋にはもこもこな枕の、背中には滑らかなシーツの感触。
肩まで掛けられた布団はふわふわしてて、少しも重さを感じない。
どうやら、いつの間にかベッドに寝かされていたらしい。
……ちゃんとした寝床に入るのは、何ヵ月ぶりだっけ?
ぼやけた視界を木造の天井から左下へと動かせば、二つの薄黒い人影が、自分に対して背を向けている椅子に座ってた。
(……だれ?)
顔だけで向かい合う影達は、私が起きたと気付いているのかいないのか。
特別潜める気もなさそうな声量で、何かを話し続けてる。
『……は、お前自身が嫌悪してやまない の正式な になるってことだぞ?』
『承知しています』
一人は、ぞんざいな言葉遣いの男性。
もう一人は……あの人だ。
泥やら何やらで汚くなってた私を抱きしめてくれた、温かい女の人。
悲しい瞳の、優しくて綺麗な女性。
『良いだろう。お前は、 が を務めてやる。コイツはお前が、好きに見届けてやれ』
『あ……ありがとうございます、 !』
女性が、安心と喜びの色を顕わに声を弾ませる。
彼女にとって嬉しい話……なんだろうか。
『ただし。コイツには、他の 同様、 を掛けておく。もしもコイツがアルスエルナ王国にとって害悪となるなら、その時は』
『させません。私が。決して』
所々聞き取れない男性の言葉をピシャリと遮る、女性の険しい声。
男性は楽しげに喉を低く鳴らして立ち上がり。
私の枕元で、腰を屈めた。
『だそうだ。せっかくだしお前もこういう面白い女に育てよ? 間違ってもクソつまらない木偶の坊なんぞにはなるな。 が退屈する』
(わたしがおきてるの……きづいてたんだ……)
この人は誰だろう?
燭台の明かりを背負って私の顔を覗き込んだ男性の顔は、やっぱり薄黒い影に塗り潰されていて。
腕を振り上げればぶつかる距離に居るのに、髪の色すら判別できない。
『あ、……っふ……けほ! はぅっ、かふッ』
あなたは、だれ?
尋きたくて出した声は、自分でも驚く掠れ具合だった。
ヒュッと抜けた呼気が喉を痛め、焼けただれたようなヒリヒリした感覚に堪らず咳き込んでしまう。
苦しい。
『無理に喋るな』
不意に、大きな手が私の頬を撫でて……
あれ? すっごく甘い匂いがする。
果物みたいな、瑞々しい匂い。
(なんだろ……おちつく……)
『良い匂いだろう? これはお前を縛る枷であり、お前を護る盾でもある。さあ目を閉じろ。恭順か、独立か、断罪か。今日この時より、お前の未来はハウィスの手に預けられた。ハウィスの未来も、お前の心得次第だ』
『……わたし……しだ、い?』
『そうだ。お前の行く道に幸多くあれ。我が の娘、ミートリッテ』
重たい目蓋が、自分の意思に反して勝手に閉じていく。
男性の指が、私の前髪を丁寧に撫でて、離れた。
この人は、誰?
その疑問は、綿のように白く柔らかな夢に沈み……
(……ああ、そうだった。ハウィスが私を拾って、看病してくれた日の夜。ハウィスとは別の誰かが私の傍に居たんだ。ちょっと高めの若い声なのに、さりげない動作や態度で妙な貫禄を感じさせる、不思議な男性)
完治後すっきり目覚めた朝の家には、ハウィスと私の二人しか居なくて。
男性の存在は、今の今までケロリと忘れてた。
枷であり盾だと言われた、あの甘い匂いのことも。
(甘い……果物みたいに甘くて、瑞々しい匂い……。私はあれを知ってる。つい最近、ハウィスの家で二回も嗅がされた、あの匂いだ)
あれは……
「返事はできる?」
パチッと開いた目が、人間とは思えない美顔に占領される。
反射的に悲鳴や拳を突き上げなかった自制心の強さに関しては、我ながら全力で誉めてあげたいと思った。
いきなり何の罰なんだ、これは。
驚きのあまり、心臓が破裂寸前なのだが。
「ミートリッテさん?」
辛うじて輪郭を保つ絶妙な距離で、二つの月が傾……
いや、ちょっと待て!
「大丈夫起きました平気です、故に、即刻離れてください! 私の息の根を止めるつもりか!? 顔が近い! 近すぎるっ!」
全身ずぶ濡れのアーレストが、同じく全身ずぶ濡れで仰向けに倒れているミートリッテの頭の両横に肘を置き、正面からじぃっと見下ろしていた。
体幹部には、服が吸い取った水分の重みしか感じない。
だが、両足の外側に触れているのは、神父の足で間違いないだろう。
想定外の『崖ドボーン』のち、気絶のち、目が覚めたら拉致犯の男が女に跨がる格好で覆い被さってて、口付ける気かと疑うほどに顔が近い……
よし、今だ!
仕事しろ自警団!
未成年者拉致の上に強制猥褻の現行犯だぞ!
やったね、捕まえたらお手柄だ!
……などと、頭の中で必死に訴えてはみたものの。
答えてくれたのは、夜行性鳥類の「ほーう、ほーう」という鳴き声のみ。
のんきな鳴き方が神父の雰囲気そっくりで、非常に腹立たしい。
「離れるのは良いけど、寒いわよ?」
「自分のせいでしょうが! 私で暖を取らないでくれませんかね!?」
「私じゃなくて、貴女が」
「大きなお世話ですっ!」
動こうとしないなら、実力行使で退かすまで。
頭突きでも噛ましてやろうかと頭を上げ……ふにゃんと落ちた。
「気っ持ち、わる……っ」
ぐるぅり歪んで回る神父の顔。
悪寒で震え出した全身に、嫌な汗が滲む。
吐き気を抑えたくて、両手を持ち上げようと力を入れるが。
指先が跳ねるばかりで、体は言うことを聞かない。
「落ち着いて。大丈夫、呼吸を合わせて」
「…………っ」
アーレストの両腕が、ミートリッテの脇腹から背中へ通り。
体と腕で包み込むようにして、上半身を軽く圧迫する。
何をしやがる離せ変態!
と、罵る余裕もなく、されるがままでいると。
自分の物とは違う鼓動が、少しずつ体に伝わって来た。
(……あったかい……)
ズレていたアーレストとミートリッテの鼓動が重なっていく。
それに合わせるように、徐々に震えが治まり、脂汗も引いていく。
干したての布団を連想させる温もりと安心感で、喉に詰まっていた呼吸が安堵の吐息に変わった。
「軽い動揺が残ってるわね。怖かった?」
「あの高さから、後ろ向きでいきなり落下させられてなお、得意気に笑える極太神経はありません。くそぅ……せっかく生き残ったのに、ドボーンした瞬間以降の記憶が無いなんて! 勿体ない!」
伸ばした足の延長線上、大きな河を挟んで対岸に聳える絶壁を睨みつつ、口惜しさで奥歯を噛み締め、拳を握ると。
アーレストが耳元で盛大に噴き出した。
「十分図太いわよ、神経」
「曲がりなりにも一応は女相手に図太いとは失礼な! それより、さっきの『解放』ってどういう意味ですか? 単に誰かを落として「はい終わり」な演出がしたいだけなら、崖に拘る必要はまったくないですよね?」
「ええ、そうね……正直、崖以外の高い場所であっても、果たされる役割に大きな差は無いと思うわ。でも、崖先へと続く道は通常、自然界の領域で、人間世界ではありえない予測不可能な危険がたくさん待ち構えてるでしょ。そんな登り道を、落下する人物の半生に置き換えてみた場合はどうかしら。同族愛を旨とする排他的社会の掟とは違う、一種族だけでは手の打ちようが無い要素が絡む分、崖のほうが、生の複雑さや厄介さの表現に、より深みと説得力を感じられるんじゃない?
崖って要は、様々な理由で瀬戸際へ追い詰められた人物達の精神や未来に大きな変化をもたらす場所……記号なのよ。柵に囚われた人物が『さあ、ここからどうする?』と、人生の選択肢を突きつけられてるワケ。
観客は答えを選ぶ瞬間の人物に自身を重ねて興奮状態となり、結果として臨場感を得ているの。
で、作品の多くは崖から落ちた時点で終わり、人物は過去を断ち切ったと言えるから、即ち『解放』だと解釈したのよ。作品の傾向や展開によっては『現実逃避』になるけどね」
と、姿勢を変えないまま、くすくす笑う神父。
「ふぅ…… ……ん?」
なるほど。
舞台劇とは単純に誰が・いつ・どこで・何を・どうした、それで終わりか良かったね、で片付けられる物ではないらしい。
意外な奥深さに感心しかけ、はた と顔を上げる。
「答えを選ぶ瞬間、に?」
「そう」
「じゃあ、みんな、崖落ちを期待させる意図があったり、崖落ちを期待して観てるわけじゃない、の?」
「貴女が言うところの『崖ドボーン』は所詮、数ある選択肢の一つだもの。むしろ、一時期世界中で濫用された結末に、またかと落胆する観客のほうが多いくらいで」
「だからかああ!」
アーレストの言葉尻を打ち消し、頭を抱えるミートリッテ。
誰に訴えても、毎回何故か空回る『崖ドボーン』熱……
ようやく合点がいった。
どれだけ話の内容が面白かろうが奥深かろうが、同じ経過と結論ばかりをくり返し見せられれば、いい加減欠伸も活躍したくなる。
つまり
『飽きられていた』
それだけのことだ。
「人気作には大抵出て来る舞台なのに誰も興味を示さないからおかしいとは思ってたのよ! 役者の聖地って、もしかして観客側の皮肉!?」
「語源は役者の、大作や人気作に出演できるほどの実力者。当時は崖落ちが一流への関門と考えられていたの。今ではまあ、皮肉になっちゃったわね」
「なんてこと……」
それでは『崖ドボーン』熱を分け合う仲間の存在など絶望的じゃないか。
一緒に眺めたり飛び込んだりすることはおろか、崖についての歓談さえも難しい。周囲から苦笑いと生温かい視線を浴びる中、一人でぶつぶつと呟く日々を受け入れるしかないとは。
「流行り廃りが著しい、使い捨ての風潮が憎い……っ」
「どんなに好きでも同じ物《《だけ》》は体が受け付けないもの。仕方ないでしょ」
「ぐぬぅぅぅ~……飽きに寛容な贅沢者共め! 質素倹約の大切さをもっと世界に広めなさいよ、アリア信徒!」
「それ、ちょっと違う」
「解ってて八つ当たりしてるの!」
「信仰をダシにされても……。本当、困った娘ねぇ」
神父の苦笑いに、浮き気味だった後頭部がかくりと落ち……
「…………────っ!?」
顔上で鋭く光る銀色の物体と、それを持つ人物を目にして、硬直した。
「な……なん、で?」
どうしてここに。
いつから居たのか。
金色の髪を後頭部で団子状に纏めた女性が、細長い剣を右手に構え。
群青色の冴えた眼差しで、地面に転がる二人を静かに見つめていた。
「……ハウィス……」
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