逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 36
戦争。
先の大戦が開かれてからおおよそ二十五年、終結してから二十年の歳月が経っている現代でさえ、その傷口は塞がることを知らない。
発端となった国や戦場となっていた各国の民は今もなお貧困に悩まされ、アリア信仰の総本山であるアリアシエルと、彼の国の教義に賛同する国々の支援が無ければ、五年と保たずに滅びるだろうと世界中で囁かれている。
では、アリア信仰を支持する国々の経済が、滅亡寸前に追い込まれている複数の国を平然と支えていられるほど好調なのか、と尋ねられれば、答えは断じて『否』だ。
彼の時代、敵も味方も年齢も性別も種族さえも一切関係なく、数多の地で本当に多くの生命が、押し寄せる凶気の波に呑まれて息絶えた。
野生動物は見境なく狩り獲られ、木々や草花は焼き払われ、田畑の実りは強奪され、土や水は血と脂と毒薬で汚され、澱んで腐り、朽ち果てた。
屍肉を喰らう虫ばかりが次々と卵を産み落とし、その身に病の核を抱えて四方八方へ飛び去った。
自然界も物資も人材も、生き残った者達の気力すらも、これ以上ないほど消費され尽くしていたのだ。戦争に勝利したからと言って、それらが急速に洗浄・正常化されるわけがない。
どの国も取り残された文化と金銭に価値を与え直す国内の財政再生法案で復興の土台を構築、一定の水準で安定させつつ国家間の経済的取引で日々の糊口を凌ぐのが精一杯だ。
そういった現状もあり。
大戦を振り返る者達の間では、近年とある『仮説』が立てられている。
曰く。
今回は元々、反アリア信仰派の降旗を待つだけの持久戦で。
勝敗など、開戦する前から決まっていた。
戦闘年数が長引いたのは、利権目当ての第三勢力が双方に絡んだせいで、そもそも後援の規模を考えれば、アリア信仰に勝てる勢力は存在しない。
アリア信仰や女神アリアに正面切って火矢を射かける者がいるとしたら、頭のネジがぶっ飛んでいる狂人か、少し先の展開も読めない真性の愚者か、やむなく自らの首を絞めてしまう哀れな無能者しかありえない……
というのが全世界共通の認識で、常識だった。
しかし、実際の結果はどうだ?
飢餓と敗戦で多くの人心と命を失った反アリア信仰派の勢力はともかく、敗戦国よりは力が残っている状態で、確定していた勝利と新たな後援を得たアリア信仰側の再興までもが芳しくない。
これはもしや
『常識に尻込みしていた反アリア信仰派の勢力が本気で戦備を整えて攻めに転じてしまえば、アリア信仰は思うより簡単に崩壊するのではないか?』
……と。
「ミートリッテ嬢!」
両腕をだらりと落とし、しゃがみ込んでうなだれているミートリッテに、ベルヘンス卿が再度声をかける。
丸くなった背中へ気遣わしげな目線を送りながらも、屈んで肩を支えたり顔を覗いたりしないのは、斬りつけられてもなお愉しそうに笑うイオーネを警戒しているからか。
「あっはは! 好い様ねぇ、仔猫ちゃん。やっと自分の立ち位置と愚かさを理解した? おめでとう。今となっては、なにもかもが手遅れだけどね!」
イオーネの高笑いが遠くに聴こえる。
脳を引っ掻くような耳鳴りが、ミートリッテの内と外を隔てていく。
何故。どうして。
イオーネ達が暗殺者だと聴いた時に、もっと疑問に思わなかったのか。
イオーネは、オレンジの香りを放つミートリッテを、アーレストの教会で見つけた。
ミートリッテが村に来てから七年間一度も足を運ばなかった教会で、だ。
その後ミートリッテを追跡した結果、アルフィンやブルーローズの存在、村の内情を何かしら知ったという。
つまり、イオーネがネアウィック入りしてシャムロックを見つけたのは、『海賊の依頼遂行初日』。
バーデルの軍人達が無断で国境を越えてきた日だ。
バーデル軍の捕縛対象は最初からイオーネ達だったと認識を改めた場合、これはおかしい。
アルスエルナ経由で入国した商人の殺人事件が発覚して以降、バーデルの上層は容疑者の割り出しに相当力を入れていた筈だ。
国の運営に関わる商人が、国土内、しかも形式上は王国軍所属の警備隊が護っている国境付近で殺害されるなど、国民の不安と経済悪化を招く要因にしかならない。
各国の商工会が適正かつ円滑な取引を目的に作った国際商会連合からも、アルスエルナと繋がる関所の安全性が欠けた影響で、相当量の苦情と叱責を喰らっただろう。
商人にとっては、時間も貴重な商品だ。
速やかに往来可能な主要道路一本の安全性も確保・維持できない国には、利益なんかもたらしてくれない。
そうした切実な政財事情を抱える長期捜査の末にようやく容疑者の拠点を突き止めたのなら、解らなくもないが。
イオーネ達がネアウィック村に入って間もなかったであろうあの時点で、商人殺しの容疑者を追ってきたバーデルの軍人達までもがネアウィック村に到着するなど、いくらなんでも速すぎる。
イオーネ達は『暗殺者』だ。
平時は一般民に溶け込み、動く時は闇に紛れて素性を隠す裏世界の住民。
彼女達の実力は、襲撃場所と標的を限定しているにも拘わらず、今日まで捕まらなかった事実が証明する。
たとえそれがバーデル王国の総力を挙げた捜査の賜物であったとしても。
移動していた暗殺者達に一日分の誤差もなく追いつけるとは考えにくい。
『バーデル軍は何故、暗殺組織がネアウィック村の周辺に居ると確信して、前触れもなく武装したまま国境を越えてきたのか』
差し迫る事情があったとはいえ、領土侵犯だと訴えられても反論できない行為を強引に押し通すだけの確信は、どこから得た?
……そんなの、決まってる。
暗殺者本人だ。
イオーネは当初、人身売買を考えていた。
ブルーローズの時と同様にアルスエルナ国内の治安を乱しているであろうシャムロックを、アリア信仰に一矢報いたいと考えてる反アルスエルナ派の人間が多数在籍するバーデル軍へ、手早く売ろうとしてたんだ。
アルスエルナ崩壊の起爆剤となる義賊の情報は反アルスエルナ派にとって垂涎物のエサ。イオーネの交渉次第でもあるが、単純に商人殺しの容疑者を捕まえるより価値は高かろう。
最悪なことに、バーデルの上層では現代も奴隷制度が活用されている。
特に女子供は使い途が多く、それだけで付加価値が跳ね上がる。
即ち、バーデルがミートリッテの売買を断る理由は、ほとんどない。
だが、途中でイオーネの気が変わった。
エルーラン王子と元義賊が交わした賭けの詳細を知り、実態はどうであれ戦力を増強させている貴族、犯罪者を匿う王族に対する一般民と貴族の猜疑心から生じる国内の混乱、商人殺害で隣国を攻撃したアルスエルナ人、といった、反アルスエルナ派の戦備に使える口実と、関係各国の非難を防ぐ正当な牽制を入手できると踏んだから、方針を変えた。
よく考えると、この流れも少しおかしい。
アーレストは、イオーネ達もシャムロックが盗んだ品に移っていた微かなオレンジと潮の匂いから、ネアウィック村に行き着いたと言った。
しかし。
南方領を訪れ去るバーデル方面御用達の商人は基本、西方領と直接繋がる酷道を避け、中央領を介して西方領の関所へと向かう。
国外に居たイオーネがシャムロックの潜伏先を嗅ぎ分けようとするなら、候補地は南方領全土のみならず、南方領と隣接する東方領の南部にも及び、海沿いのオレンジ農園と限定しても、全部を合わせると三桁に近くなる。
自分達を追うバーデルの軍人達を誘導しつつ越境なんて危険を犯すのに、匂いだけでは確証が少なすぎやしないか?
『イオーネは何故、シャムロックの存在をネアウィック村に見出せたのか』
鍵は、王子とハウィスの賭けだ。
多くの嘘に振り回されながらもシャムロックの行動はすべて指輪に帰結、イオーネとの接点にもなっている。
この賭け、いつから始まってた?
五日前?
違う。
その前の深夜と早朝の間に、アーレスト神父がブルーローズと接触。
協力を請われ、教会と女神像の利用方法を提案してる。
六日……七日前には、既に宣告されていたとしたら。
暗殺組織がバーデル軍を誘導しながらネアウィック村へ移動してる頃に、エルーラン王子がシャムロックを動かす賭けを通じてミートリッテを伯爵の後継者に指名した理由。
イオーネが姿を見せているまさに今、王子が多くの騎士を連れて大森林に現れた理由。
それはきっと『反アルスエルナ派を釣る囮』と『釣れた獲物の回収』だ。
シャムロックの手口を把握していた王子は、出国したばかりの商人を狙うバーデルの殺人犯が、ブルーローズの被害者であり、アルスエルナに害意を持つ者であると読んだのだ。
だからネアウィック村とシャムロックの情報をイオーネ達が拾えるようにそれとなく流し、アルスエルナの王族の力が利く範囲内に招き寄せて留める罠を仕掛けた。
イオーネと最初に顔を合わせた時、『シャムロックは、お前達のエサとか盾だと言いたいわけ?』と尋いたミートリッテに対し。
イオーネは『いいえ。あいつらにとってはそうでも』と答えた。
実際その通り。
シャムロックをエサにした真の釣り人は、エルーラン王子だ。
イオーネは、自分達を捕える為の罠だと解っていてエサに噛みつき、逆に彼を釣竿ごと混乱の海へ引きずり落としただけ。
自身の背後に迫る者を知っていたから、必要な材料を一ヶ所に集めた上で賭けを成立させ、王子が言い逃れできない状況を作ったんだ。
「……ゃ、」
そう。
爵位継承の承認権を持つ神父。
殺さずに拉致した一般民の少女。
村内に残した『地図』で招いた義賊。
辺境に現れたアルスエルナの王族と、百人もの騎士。
これらはあくまでも、アルスエルナ王国を貶める為の材料。
イオーネが本当に呼んでいたのは……『バーデル軍』だ。
「ぃや」
顔の前に持ち上げた両手。
暗殺者に断ち切られた鎖が ヂャリ と小さく鳴る。
ミートリッテとベルヘンス卿を切り離した、銀斧の攻撃。
あの時はミートリッテがバーデル国内に居たから死んでも構わなかった。
いっそ死んだほうが、イオーネには好都合だった。
爵位継承の話をバーデル王国の人間に聴かれて困るなら、眠らされていたミートリッテは、なんらかの理由を背負う一般民として連れ出された筈。
もしかしたら後継者候補とは言ったかも知れないが、有力者の候補が村に危険を残して国外逃亡とか、政治面の弱みを他国に見せるとは思えない。
そんなミートリッテをイオーネ達が殺せば、アルスエルナの騎士が護り、一度は越境した暗殺者達が追いかけてまで殺したこの少女は何者だ? と、バーデルの軍人達に疑問を与えられる。
疑問はやがて真相への道を拓くだろう。
『反アルスエルナ派の勢力の志気発揚に最低限必要な義賊の情報は、条件が揃えば、義賊本人の生死を問わない』
シャムロックは、たまたま生き残っただけ。
生き残って、敵の口内に自ら飛び込んだだけだ。
そして今。
エサを求めるバーデル軍は、アルスエルナ国内で暗殺組織と対峙してる。
アルスエルナを荒らした義賊達と加害者を匿う権力者、義賊の被害者達が勢揃いした、この場所へ誘われながら……
「────────────っ!」
「ミー…… ⁉︎」
うずくまったまま無音で絶叫し、髪を掻き毟るミートリッテを見て。
ベルヘンス卿が硬直する。
「まさか、また」
彼は、蒼白く変色した顔をアーレスト神父へ向け。
「…………っ、リアメルティ伯爵!」
一拍置いた後、ハウィスへ振り返り、声を荒らげる。
びくりと跳ねた彼女は、不自然に揺れるミートリッテの背中を見つめ。
突然、駆け出した。
「ダメ! ちゃんと呼吸をして、ミートリッテ!」
ミートリッテの前に膝を突き、濡れた両頬を挟んで持ち上げる。
覗いた白い唇は、はくはくと忙しく開閉するのみ。
空気はまったく取り入れてない。
「ミートリッテ!」
(……声が聴こえる。自分のせいで、赤く染まった人達の声。優しい人達の悲鳴が……聴こえる……)
「た て」
ここに来ちゃ、いけなかった。
指輪は盗むべきじゃなかったんだ。
「たす て」
自分が存在する限り、アルスエルナは攻められる。
きっと眠らされてた間にバーデルの国境警備隊にも顔を見られてるから、この場所で死んでも不自然だ。
自分が今更何をどうしても、もう遅い。
ただ、ここに居ることしかできなくて、そのうちバーデル軍が合流して、何もできないまま戦争が起きて、みんなが傷付く。
傷付いて、苦しんで、ハウィスが……あの日と同じ……
赤く染まって、土気色になって、冷たくなって…………
……嫌だ…………嫌だ! 嫌だ‼︎
(誰か 誰か、お願い)
「……たす け…… てぇ……っ……」
みんなを
ハウィスを 助けて ‼︎
「『 』……か」
ふと。
指先で自身の顎を撫でるエルーラン王子がボソッと呟き、小さく頷いた。
ミートリッテ達に集まっていた視線の一部が、王子の顔へと移動する。
「ええ。『ビコロール』です」
近くに控える騎士達にも聞き取れなかった王子の言葉をなぞり。
イオーネと腕を絡めたままのアーレストも頷く。
「よしっ! 予想してた中じゃ一番面倒くさいが、気分は最良の選択肢だ。あいつもそろそろ限界だろうし、もう良いぞ、アーレスト。私が許可する」
体の正面をイオーネとアーレストに向け。
清々しい笑顔で、右手をヒラヒラと泳がせるエルーラン王子。
一方のアーレストは、眉を寄せて怪訝な表情を作った。
邪気なんか微塵もありません! と主張する満面の笑みを、しばらくの間じぃーっと見つめ。
やがて、諦め混じりのため息を溢す。
「一応、念の為に確認しますが……『女神アリアの憂愁は』?」
「『我らの罪と心得よ』。オニーチャンを信じなさい!」
エルーラン王子が、白い歯をキラリと光らせ。
親指が立った左拳を前面に突き出した、瞬間。
「…………────っ⁉︎」
イオーネの体が宙を舞った。
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